身代わりに冤罪断罪を突きつけてきた王太子と実家ですが、私が「本物の竜の花嫁」だとバレた途端に這い寄ってこられました――今更遅いので、目覚めた竜王陛下にお姫様抱っこで国ごと見捨てて去りますね?
温室のガラス窓から、月明かりが差し込んでいる。
割れた隙間から吹き込む夜風はひんやり冷たいけれど、不思議と足元の土はほんのり温かかった。
湿った土の匂いに混ざって、甘い花の香りが鼻をくすぐる。
今朝植え替えたばかりの白薔薇が、もう立派な蕾をつけていた。
普通なら三日はかかるはずなのに、どう考えても成長スピードがおかしい。
「……やっぱり、育つのが早すぎるよね」
誰に言うでもなく呟いて、蕾の先を指で優しく撫でてみる。
母が生きていた頃、この温室はちょっとした研究室だったらしい。
竜脈と植物の関係を調べていたみたいで、棚には母が書いた革表紙のノートがずらりと並んでいる。
前に一冊だけこっそり開いたことがあるけれど、そこには「竜脈の密度が高い土壌では、植物の成長速度が三倍になる」なんていう驚きの記述があった。
その丸っこい懐かしい文字を見ていると、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
しかし、母が亡くなって、後妻のベアトリスがやってきてからは、ここは単なる「いらない物置」にされてしまった。
壊れた家具や使い古しの食器、季節外れの衣装箱。
それらを部屋の隅っこにぐいぐい押しやって、土を入れた植木鉢を並べた。
私が八歳の時の話だ。それから八年間、ここが私の部屋になっている。
寝床は木箱の上に敷いた毛布が一枚だけ。
冬になればガラスの隙間から隙間風が容赦なく吹き込んできて、朝には毛布の端っこが霜で白くなっている。
それでもなぜか、花だけは絶対に枯れなかった。
それどころか、寒ければ寒いほど、私の温室の花は元気に美しく咲き誇るのだ。
屋敷の本館では今頃、義妹のセラフィーナが楽しそうに夜会の支度をしているはずだ。
「この子の腕には完璧な竜紋がある!」
父が嬉々としてそう宣言したのは、セラフィーナが十歳の時だった。
腕の内側にある昔の火傷の痕を、父は「これぞ竜紋だ」と言い張り、社交界も大喜びでそれを信じた。
百年に一度現れるという「守護竜の花嫁」
その候補が自分の家にいるとなれば、伯爵家の地位は一気に跳ね上がるからだ。
セラフィーナ自身がそれを望んだのかは、私にはわからない。
ただ、その結果として、私の居場所は屋敷から完全に消え去ってしまった。
「出来損ないの姉を人前に出すな。我が家の恥だ」
父がそう吐き捨てるように言ったのを、廊下の角で聞いてしまったことがある。
後妻のベアトリスも当然のようにうなずいていた。
使用人たちの態度が変わったのは、その翌日からだった。
食事は温室に放り込まれるようになり、私の名前を呼ぶ人はいなくなった。
悲しかったか、あるいは怒りを感じたかと聞かれたら、正直よく覚えていない。
最初のうちは毎晩泣いていた気もする。
枕代わりにしていた古いクッションが涙で濡れて、翌朝には乾いていたっけ。
でも、そのうち泣かなくなった。
泣くのを我慢したわけじゃなくて、泣く理由が見つけられなくなったのだ。
毎日、花に水をやり、枯れた葉を摘んで、土を替える。
それだけの日々を淡々と繰り返しているうちに、感情の輪郭みたいなものが少しずつ溶けて消えていった。
悲しみも怒りも、触れようとすると指の間からすり抜けていく。
残ったのは「今日も花が綺麗に咲いている」という、ただそれだけの確かな事実だけだった。
その日の夜、温室の扉がガシャリと乱暴に開いたのは、日付が変わる少し前のことだった。
「リーシェ・クランヴェル。王宮からの召喚だ。今すぐ来い」
父の声だった。
後ろにはベアトリスも立っているけれど、なぜか二人とも顔が真っ青だ。
「……召喚ですか?」
「余計な口を開くな! 言われた通りに付いてくればいいんだ!」
父の大きな手が、私の腕を乱暴に掴んだ。
爪が食い込むほど強い力で、普通に痛いと思ったけれど、声には出さなかった。
温室を出る時、お気に入りの白薔薇の蕾が半分ほど開きかけているのが見えた。
あと数時間で満開になるはずだ。見届けたかったけれど、振り返る隙すら与えてもらえなかった。
揺れる馬車の中は、ベアトリスの付けていた甘ったるい香水の匂いが充満していて、少し頭が痛くなった。
窓の外を流れる夜の街灯をぼんやり眺めていると、二人の焦った会話から事情がおおよそ見えてきた。
どうやらセラフィーナが、王太子の婚約者候補として宮殿に招かれたらしい。
そこで王家秘蔵の「共鳴の鏡」による適合の儀が行われるという。
本物の「竜の花嫁」であれば、その鏡が反応して光を返す。
国中が注目する百年に一度の儀式だ。
実は、セラフィーナの竜紋はただの火傷だ。
つまり偽物である。
父もベアトリスも、本人も最初からそれを知っていた。
だから、偽装がバレた時のための「身代わり」が必要だったのだ。
「『姉が嫉妬して妹の竜紋を消そうとした』と証言しろ。セラフィーナにはそう言わせる。お前は黙って首を縦に振ればいい」
父は冷たくそう言い放ったが、私の目は一度も見なかった。
私はただ、窓の外の月を見つめていた。
(今夜は温室の薔薇に水をやれなかったな)と、そんなことばかり考えていた。
王宮の大広間は、人の熱気と蝋燭の匂いで満ちていた。
きらびやかな衣装を着た貴族たちが、値踏みするような視線で左右に並んでいる。
正面の豪華な玉座には、王太子レクトール殿下が座っていた。
漆黒の髪に、冷徹な灰色の瞳。
ピクリとも表情を変えない、彫刻のような男だ。
その隣には、妹のセラフィーナが立っていた。
淡い桃色のドレスを身にまとい、金の髪を完璧に結い上げて、頬には痛々しく涙の跡がある。
よく見ると泣いた後にしっかり化粧を直した形跡があった。
「この冷酷な姉が……私の大切な竜紋を、呪いで消そうとしたのです!」
セラフィーナの悲痛な声が広間に響き渡る。
肩を小刻みに震わせているけれど、その震え方は昔から彼女が得意としていた「計算された可愛らしい泣き方」そのものだった。
相手の同情を引くのに、これ以上ない絶妙なタイミングと揺れ幅。
相変わらず、この子は泣くのが本当に上手だ。
私は大広間の中心に引きずり出され、両脇をがっしりと騎士たちに掴まれていた。
温室で泥まみれになっていた作業着のまま、髪もボサボサ。
裸足で連れてこられたから、石畳の冷たさが足の裏から直接体に伝わってきて、正直早く帰りたい。
周囲からは「汚い」「みすぼらしい姉だ」「嫉妬で妹を呪うなんて」と、ヒソヒソとした冷たい囁きが波のように押し寄せてくる。
セラフィーナはさらに涙をこぼして訴える。
「お姉様は私を妬んでいました。自分に魔力がないことを恨んで、私の紋を消す禁呪を研究していたのです。……お姉様、どうしてこんなひどいことを?」
涙が一筋、白い頬を美しく伝い落ちる。
完璧な演技だ。拍手でも送ってあげたいくらいに。
私は何も言わなかった。
言い返す言葉も、認める言葉も、喉の奥のどこにも見当たらなかったからだ。
「——共鳴の鏡を前へ」
レクトール殿下が、低くよく通る声で命じた。
広間が一瞬で静まり返る。
運ばれてきたのは、人の背丈ほどもある巨大な鏡だった。
青銅の枠には、細密な竜の彫刻が施されている。
「適合の儀を行う。竜紋の真の持ち主が前に立てば、鏡が光を返す。セラフィーナ・クランヴェル、前へ」
促され、セラフィーナは誇らしげに胸を張り、鏡の前に立った。
……しかし、何も起きない。
鏡面は暗い影を映し出すだけで、ピクリとも光らなかった。
十秒経っても、二十秒経っても、静寂が広間を支配するだけだ。
セラフィーナの完璧な笑顔が、みるみるうちに引きつっていった。
「……お、おかしいですわ! これは姉の呪いが、私の竜紋を邪魔しているからで——」
「では、確認のため」
レクトール殿下が、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
「そこの姉を、鏡の前に立たせてみよ」
騎士たちに背中を押され、私はよろけながら巨大な鏡の前に立った。
その瞬間、大広間が真っ白な光に包まれた。
いや、白い光だけじゃない。
金と碧が混ざり合った、まるで美しい朝焼けのようなまばゆい光が、鏡面から津波のように溢れ出したのだ。
光は広間の天井へと駆け上がり、数百本の蝋燭の炎を一斉に激しく揺らした。
とても温かかった。
光に包まれた瞬間、温室の土をいじっている時と同じ、あの懐かしいぬくもりが全身に染み渡っていく。
足元の冷たさが消え去り、大地の鼓動が私の体の中を脈打つのがわかった。
驚いたことに、私が立っている冷たい石畳の隙間から、青々とした緑の芽が次々と顔を出し始めた。
芽はあっという間に成長し、冷たい王宮の床に、瑞々しい白薔薇の花を一瞬で咲かせていく。
誰かが短い悲鳴を上げ、大広間は静まり返った。
鏡に映し出された私の背中には、光り輝く複雑な紋様が浮かび上がっていた。
肩甲骨の間から腰にかけて、竜が力強く翼を広げたような見事な紋様。
作業着の下に隠れていたそれを、私は十六年間、一度も見たことがなかった。
ただ、私が触れる花が異常な早さで美しく咲き誇ることだけを、少し不思議に思っていたけれど、すべては私の体の中を流れる竜脈の魔力のせいだったのだ。
「——真の『竜の花嫁』の適合反応を確認した」
レクトール殿下の静かな声が、静寂の中に響き渡った。
広間が一気に騒がしくなる。
セラフィーナの顔からは完全に血の気が引き、父は柱の陰で幽霊でも見たかのように硬直していた。
ベアトリスは父の袖を掴んだまま、口をパクパクと開閉させている。
レクトール殿下が、私に向かってゆっくりと歩み寄ってきた。
その灰色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。
「竜紋を持っていたのは、最初からあなただったのだな。花を異常に咲かせていたのも、あなたが無意識に竜脈の魔力を大地に還元していたからだ。魔力がないのではない。強すぎて制御できていなかったのだ」
殿下は私の目の前で立ち止まり、長い指先が美しい手を、そっと差し出してきた。
「リーシェ・クランヴェル。あなたを我が王妃、竜の花嫁として王家に迎えたい」
周囲の貴族たちから、どよめきと期待の視線が集中する。
この手を取れば、私の人生は一変するのだろう。
汚い温室を出て、豪華な宮殿で暮らし、私を虐げていた父や義妹を見下ろして「ざまぁみろ」と笑うことができる。
物語なら、ここで手を取ってめでたしめでたしだ。
けれど。
私の胸の奥には、何の感情も湧いてこなかった。
嬉しいとも思わないし、復讐の快感もない。
長年の冷遇で擦り切れてしまった感情の器は、たった一瞬の逆転劇で元に戻るほど浅いものではなかったのだ。
私は差し出された綺麗な手を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……いいえ、お断りします」
レクトール殿下の手が、空中でピタリと止まった。
灰色の瞳が、驚きに大きく見開かれる。
「……私の花嫁になるのが嫌なのか?」
「はい。嫌ですわ」
広間のざわめきが完全に凍りついた。
「殿下のご厚意には感謝します。でも……ここで私が手を取ってしまったら、それは『私に竜紋があったから価値がある』ということになってしまいます」
自分でも驚くほど、言葉がするすると口から出てきた。
「もし私に竜紋がなかったら、私は今もあの薄暗い温室で、誰にも名前を呼ばれないまま這いつくばっていたはずです。……それは、おかしいと思うんです」
レクトール殿下は何も言わなかった。
差し伸べていた手を、静かに、ゆっくりと下ろした。
「母の残した温室と、研究書だけを私にください。それ以外は、王宮の富も、クランヴェル家の地位も、何も必要ありません」
私がそう告げて、くるりと背を向けた、その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ……!
地響きのような重低音が、王宮の床を激しく揺らした。
「な、何事だ! 地震か!?」
「天井を見ろ! ステンドグラスが!」
貴族たちの悲鳴が響き渡る。
大広間の天井にある、巨大な色ガラスの窓が、すさまじい風圧でバリバリと音を立てて砕け散った。
降り注ぐガラスの破片と、まばゆい黄金の光。
その中心から、大広間が狭く見えるほどの巨体を持つ、漆黒の美しい竜が舞い降りてきた。
地響きを立てて石畳に着地したその姿は、この国が代々守護神として崇め、何百年も眠りについていたはずの『守護竜の王』そのものだった。
「し、守護竜様……!目覚められたのか!」
レクトール殿下が驚愕し、その場に膝をついた。
周囲の貴族たちも、その圧倒的な神獣の魔圧に耐えかねて、一斉に石畳へひれ伏す。
しかし、黒竜は王太子たちには目もくれなかった。
ただ、まっすぐに私の前に歩み寄ると、巨体を低く沈めた。
そして、光が収まると同時に、竜の姿は銀髪に燃えるような金色の瞳を持つ、圧倒的な美男子へと変化した。
「やっと見つけた、我が愛しき花嫁よ」
竜の王は優しく微笑み、私の前に跪いた。
彼の手が私の汚れだらけの作業着の裾に触れ、愛おしそうに引き寄せる。
「守護竜様……? その女は、ただの出来損ないの……」
父が手足の冷たさに震えながら声を上げたが、竜の王は一瞥で彼を凍りつかせた。
その瞳から放たれた冷酷な魔圧のせいで、父は息をすることすらできずにその場に這いつくばった。
「ここはえらく雑音がするな。我が伴侶の前に、二度と汚らわしい顔を晒すな」
竜の王は冷たく吐き捨てると、再び私に向き直り、その表情を信じられないほど甘く歪めた。
「リーシェ、お前が毎日、温室で花を咲かせるために大地へ還していた魔力。あれこそが、地脈を通じて眠っていた私の傷を癒やし、目覚めさせてくれた光だったのだ。お前こそが、世界で唯一の、私の番なのだ」
(私が毎日、ただ花を育てるためだけに注ぎ込んでいた魔力が、この竜の王を救っていたなんて…)
私の胸の奥に、じわりと温かい何かが満ちていく。
「こんな無礼な場所に、お前を置いておく必要はない。我が竜の国へ行こう。お前が愛する花を、世界で一番美しく咲かせられる極上の楽園を用意してある」
「……あの、母の温室の研究書も、持って行っていいですか?」
私が尋ねると、竜の王は本当に嬉しそうに目を細めた。
「もちろんだ。お前が望むなら、この国ごと持って行ってやってもいいぞ?」
「いいえ、本だけで十分ですわ」
私は差し出された、彼の大きくて温かい手を取った。
「では、行こう。我が最愛の花嫁よ」
竜の王は私を優しくお姫様抱っこし、背中から巨大な漆黒の翼を広げた。
驚愕と絶望に染まった王太子や、絶叫する実家の家族たちを大広間に残したまま、私たちは割れた天井から、美しい月明かりが照らす夜空へと一気に舞い上がった。
その後、守護竜の加護と、リーシェという「唯一の竜脈調和者」を失った王都は、地脈がみるみる枯れ果てて砂漠化し、没落していったという。
竜の国にある、水晶で作られた巨大な温室。
私はそこで、毎日たくさんの美しい薔薇を咲かせながら、定時で美味しい紅茶を楽しんでいた。
隣には、私の腰に甘えるように腕を回し、首筋に顔をうずめてくる竜の王がいる。
「リーシェ、今日も君の花は美しい。だが……君自身の方が、何倍も愛おしいな」
「ありがとうございます、旦那様。でも、お仕事の邪魔になりますから、少し離れてくださいな」
「嫌だ。君から離れると、私の魔力が暴走してしまうから…もうすこしだけ」
そう言って笑う過保護な竜王に包み込まれながら、私は温かいハーブティーを口に含んだ。
誰のためでもなく、自分の幸せのために花を咲かせる私の新しい日々は、これからも極上の温もりの中で輝き続ける。
【完】




