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身代わりに冤罪断罪を突きつけてきた王太子と実家ですが、私が「本物の竜の花嫁」だとバレた途端に這い寄ってこられました――今更遅いので、目覚めた竜王陛下にお姫様抱っこで国ごと見捨てて去りますね?

作者: 桜木ひより
掲載日:2026/07/24


温室のガラス窓から、月明かりが差し込んでいる。


割れた隙間から吹き込む夜風はひんやり冷たいけれど、不思議と足元の土はほんのり温かかった。


湿った土の匂いに混ざって、甘い花の香りが鼻をくすぐる。

今朝植え替えたばかりの白薔薇が、もう立派な蕾をつけていた。


普通なら三日はかかるはずなのに、どう考えても成長スピードがおかしい。


「……やっぱり、育つのが早すぎるよね」


誰に言うでもなく呟いて、蕾の先を指で優しく撫でてみる。


母が生きていた頃、この温室はちょっとした研究室だったらしい。


竜脈と植物の関係を調べていたみたいで、棚には母が書いた革表紙のノートがずらりと並んでいる。


前に一冊だけこっそり開いたことがあるけれど、そこには「竜脈の密度が高い土壌では、植物の成長速度が三倍になる」なんていう驚きの記述があった。


その丸っこい懐かしい文字を見ていると、胸の奥がきゅっと締め付けられる。



しかし、母が亡くなって、後妻のベアトリスがやってきてからは、ここは単なる「いらない物置」にされてしまった。


壊れた家具や使い古しの食器、季節外れの衣装箱。

それらを部屋の隅っこにぐいぐい押しやって、土を入れた植木鉢を並べた。

私が八歳の時の話だ。それから八年間、ここが私の部屋になっている。


寝床は木箱の上に敷いた毛布が一枚だけ。


冬になればガラスの隙間から隙間風が容赦なく吹き込んできて、朝には毛布の端っこが霜で白くなっている。


それでもなぜか、花だけは絶対に枯れなかった。

それどころか、寒ければ寒いほど、私の温室の花は元気に美しく咲き誇るのだ。


屋敷の本館では今頃、義妹のセラフィーナが楽しそうに夜会の支度をしているはずだ。


「この子の腕には完璧な竜紋がある!」


父が嬉々としてそう宣言したのは、セラフィーナが十歳の時だった。


腕の内側にある昔の火傷の痕を、父は「これぞ竜紋だ」と言い張り、社交界も大喜びでそれを信じた。


百年に一度現れるという「守護竜の花嫁」

その候補が自分の家にいるとなれば、伯爵家の地位は一気に跳ね上がるからだ。


セラフィーナ自身がそれを望んだのかは、私にはわからない。

ただ、その結果として、私の居場所は屋敷から完全に消え去ってしまった。


「出来損ないの姉を人前に出すな。我が家の恥だ」


父がそう吐き捨てるように言ったのを、廊下の角で聞いてしまったことがある。

後妻のベアトリスも当然のようにうなずいていた。


使用人たちの態度が変わったのは、その翌日からだった。

食事は温室に放り込まれるようになり、私の名前を呼ぶ人はいなくなった。


悲しかったか、あるいは怒りを感じたかと聞かれたら、正直よく覚えていない。

最初のうちは毎晩泣いていた気もする。


枕代わりにしていた古いクッションが涙で濡れて、翌朝には乾いていたっけ。

でも、そのうち泣かなくなった。


泣くのを我慢したわけじゃなくて、泣く理由が見つけられなくなったのだ。



毎日、花に水をやり、枯れた葉を摘んで、土を替える。


それだけの日々を淡々と繰り返しているうちに、感情の輪郭みたいなものが少しずつ溶けて消えていった。


悲しみも怒りも、触れようとすると指の間からすり抜けていく。

残ったのは「今日も花が綺麗に咲いている」という、ただそれだけの確かな事実だけだった。



その日の夜、温室の扉がガシャリと乱暴に開いたのは、日付が変わる少し前のことだった。


「リーシェ・クランヴェル。王宮からの召喚だ。今すぐ来い」


父の声だった。

後ろにはベアトリスも立っているけれど、なぜか二人とも顔が真っ青だ。


「……召喚ですか?」


「余計な口を開くな! 言われた通りに付いてくればいいんだ!」


父の大きな手が、私の腕を乱暴に掴んだ。


爪が食い込むほど強い力で、普通に痛いと思ったけれど、声には出さなかった。




温室を出る時、お気に入りの白薔薇の蕾が半分ほど開きかけているのが見えた。

あと数時間で満開になるはずだ。見届けたかったけれど、振り返る隙すら与えてもらえなかった。


揺れる馬車の中は、ベアトリスの付けていた甘ったるい香水の匂いが充満していて、少し頭が痛くなった。




窓の外を流れる夜の街灯をぼんやり眺めていると、二人の焦った会話から事情がおおよそ見えてきた。



どうやらセラフィーナが、王太子の婚約者候補として宮殿に招かれたらしい。


そこで王家秘蔵の「共鳴の鏡」による適合の儀が行われるという。

本物の「竜の花嫁」であれば、その鏡が反応して光を返す。


国中が注目する百年に一度の儀式だ。


実は、セラフィーナの竜紋はただの火傷だ。

つまり偽物である。


父もベアトリスも、本人も最初からそれを知っていた。

だから、偽装がバレた時のための「身代わり」が必要だったのだ。


「『姉が嫉妬して妹の竜紋を消そうとした』と証言しろ。セラフィーナにはそう言わせる。お前は黙って首を縦に振ればいい」


父は冷たくそう言い放ったが、私の目は一度も見なかった。


私はただ、窓の外の月を見つめていた。


(今夜は温室の薔薇に水をやれなかったな)と、そんなことばかり考えていた。



王宮の大広間は、人の熱気と蝋燭の匂いで満ちていた。


きらびやかな衣装を着た貴族たちが、値踏みするような視線で左右に並んでいる。

正面の豪華な玉座には、王太子レクトール殿下が座っていた。

漆黒の髪に、冷徹な灰色の瞳。

ピクリとも表情を変えない、彫刻のような男だ。


その隣には、妹のセラフィーナが立っていた。

淡い桃色のドレスを身にまとい、金の髪を完璧に結い上げて、頬には痛々しく涙の跡がある。

よく見ると泣いた後にしっかり化粧を直した形跡があった。


「この冷酷な姉が……私の大切な竜紋を、呪いで消そうとしたのです!」


セラフィーナの悲痛な声が広間に響き渡る。

肩を小刻みに震わせているけれど、その震え方は昔から彼女が得意としていた「計算された可愛らしい泣き方」そのものだった。

相手の同情を引くのに、これ以上ない絶妙なタイミングと揺れ幅。


相変わらず、この子は泣くのが本当に上手だ。


私は大広間の中心に引きずり出され、両脇をがっしりと騎士たちに掴まれていた。


温室で泥まみれになっていた作業着のまま、髪もボサボサ。

裸足で連れてこられたから、石畳の冷たさが足の裏から直接体に伝わってきて、正直早く帰りたい。


周囲からは「汚い」「みすぼらしい姉だ」「嫉妬で妹を呪うなんて」と、ヒソヒソとした冷たい囁きが波のように押し寄せてくる。


セラフィーナはさらに涙をこぼして訴える。


「お姉様は私を妬んでいました。自分に魔力がないことを恨んで、私の紋を消す禁呪を研究していたのです。……お姉様、どうしてこんなひどいことを?」


涙が一筋、白い頬を美しく伝い落ちる。

完璧な演技だ。拍手でも送ってあげたいくらいに。


私は何も言わなかった。

言い返す言葉も、認める言葉も、喉の奥のどこにも見当たらなかったからだ。


「——共鳴の鏡を前へ」


レクトール殿下が、低くよく通る声で命じた。


広間が一瞬で静まり返る。

運ばれてきたのは、人の背丈ほどもある巨大な鏡だった。

青銅の枠には、細密な竜の彫刻が施されている。


「適合の儀を行う。竜紋の真の持ち主が前に立てば、鏡が光を返す。セラフィーナ・クランヴェル、前へ」


促され、セラフィーナは誇らしげに胸を張り、鏡の前に立った。


……しかし、何も起きない。


鏡面は暗い影を映し出すだけで、ピクリとも光らなかった。

十秒経っても、二十秒経っても、静寂が広間を支配するだけだ。

セラフィーナの完璧な笑顔が、みるみるうちに引きつっていった。


「……お、おかしいですわ! これは姉の呪いが、私の竜紋を邪魔しているからで——」


「では、確認のため」


レクトール殿下が、ゆっくりと玉座から立ち上がった。


「そこの姉を、鏡の前に立たせてみよ」


騎士たちに背中を押され、私はよろけながら巨大な鏡の前に立った。


その瞬間、大広間が真っ白な光に包まれた。


いや、白い光だけじゃない。


金と碧が混ざり合った、まるで美しい朝焼けのようなまばゆい光が、鏡面から津波のように溢れ出したのだ。

光は広間の天井へと駆け上がり、数百本の蝋燭の炎を一斉に激しく揺らした。


とても温かかった。


光に包まれた瞬間、温室の土をいじっている時と同じ、あの懐かしいぬくもりが全身に染み渡っていく。

足元の冷たさが消え去り、大地の鼓動が私の体の中を脈打つのがわかった。


驚いたことに、私が立っている冷たい石畳の隙間から、青々とした緑の芽が次々と顔を出し始めた。


芽はあっという間に成長し、冷たい王宮の床に、瑞々しい白薔薇の花を一瞬で咲かせていく。


誰かが短い悲鳴を上げ、大広間は静まり返った。


鏡に映し出された私の背中には、光り輝く複雑な紋様が浮かび上がっていた。

肩甲骨の間から腰にかけて、竜が力強く翼を広げたような見事な紋様。


作業着の下に隠れていたそれを、私は十六年間、一度も見たことがなかった。


ただ、私が触れる花が異常な早さで美しく咲き誇ることだけを、少し不思議に思っていたけれど、すべては私の体の中を流れる竜脈の魔力のせいだったのだ。


「——真の『竜の花嫁』の適合反応を確認した」


レクトール殿下の静かな声が、静寂の中に響き渡った。




広間が一気に騒がしくなる。

セラフィーナの顔からは完全に血の気が引き、父は柱の陰で幽霊でも見たかのように硬直していた。

ベアトリスは父の袖を掴んだまま、口をパクパクと開閉させている。


レクトール殿下が、私に向かってゆっくりと歩み寄ってきた。

その灰色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。


「竜紋を持っていたのは、最初からあなただったのだな。花を異常に咲かせていたのも、あなたが無意識に竜脈の魔力を大地に還元していたからだ。魔力がないのではない。強すぎて制御できていなかったのだ」


殿下は私の目の前で立ち止まり、長い指先が美しい手を、そっと差し出してきた。


「リーシェ・クランヴェル。あなたを我が王妃、竜の花嫁として王家に迎えたい」


周囲の貴族たちから、どよめきと期待の視線が集中する。


この手を取れば、私の人生は一変するのだろう。


汚い温室を出て、豪華な宮殿で暮らし、私を虐げていた父や義妹を見下ろして「ざまぁみろ」と笑うことができる。

物語なら、ここで手を取ってめでたしめでたしだ。


けれど。


私の胸の奥には、何の感情も湧いてこなかった。


嬉しいとも思わないし、復讐の快感もない。

長年の冷遇で擦り切れてしまった感情の器は、たった一瞬の逆転劇で元に戻るほど浅いものではなかったのだ。


私は差し出された綺麗な手を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「……いいえ、お断りします」


レクトール殿下の手が、空中でピタリと止まった。

灰色の瞳が、驚きに大きく見開かれる。


「……私の花嫁になるのが嫌なのか?」


「はい。嫌ですわ」


広間のざわめきが完全に凍りついた。


「殿下のご厚意には感謝します。でも……ここで私が手を取ってしまったら、それは『私に竜紋があったから価値がある』ということになってしまいます」


自分でも驚くほど、言葉がするすると口から出てきた。


「もし私に竜紋がなかったら、私は今もあの薄暗い温室で、誰にも名前を呼ばれないまま這いつくばっていたはずです。……それは、おかしいと思うんです」


レクトール殿下は何も言わなかった。

差し伸べていた手を、静かに、ゆっくりと下ろした。



「母の残した温室と、研究書だけを私にください。それ以外は、王宮の富も、クランヴェル家の地位も、何も必要ありません」


私がそう告げて、くるりと背を向けた、その瞬間だった。



ゴゴゴゴゴ……!


地響きのような重低音が、王宮の床を激しく揺らした。


「な、何事だ! 地震か!?」


「天井を見ろ! ステンドグラスが!」


貴族たちの悲鳴が響き渡る。

大広間の天井にある、巨大な色ガラスの窓が、すさまじい風圧でバリバリと音を立てて砕け散った。


降り注ぐガラスの破片と、まばゆい黄金の光。


その中心から、大広間が狭く見えるほどの巨体を持つ、漆黒の美しい竜が舞い降りてきた。



地響きを立てて石畳に着地したその姿は、この国が代々守護神として崇め、何百年も眠りについていたはずの『守護竜の王』そのものだった。


「し、守護竜様……!目覚められたのか!」


レクトール殿下が驚愕し、その場に膝をついた。

周囲の貴族たちも、その圧倒的な神獣の魔圧に耐えかねて、一斉に石畳へひれ伏す。


しかし、黒竜は王太子たちには目もくれなかった。


ただ、まっすぐに私の前に歩み寄ると、巨体を低く沈めた。


そして、光が収まると同時に、竜の姿は銀髪に燃えるような金色の瞳を持つ、圧倒的な美男子へと変化した。



「やっと見つけた、我が愛しき花嫁よ」


竜の王は優しく微笑み、私の前に跪いた。

彼の手が私の汚れだらけの作業着の裾に触れ、愛おしそうに引き寄せる。


「守護竜様……? その女は、ただの出来損ないの……」


父が手足の冷たさに震えながら声を上げたが、竜の王は一瞥で彼を凍りつかせた。

その瞳から放たれた冷酷な魔圧のせいで、父は息をすることすらできずにその場に這いつくばった。


「ここはえらく雑音がするな。我が伴侶の前に、二度と汚らわしい顔を晒すな」


竜の王は冷たく吐き捨てると、再び私に向き直り、その表情を信じられないほど甘く歪めた。


「リーシェ、お前が毎日、温室で花を咲かせるために大地へ還していた魔力。あれこそが、地脈を通じて眠っていた私の傷を癒やし、目覚めさせてくれた光だったのだ。お前こそが、世界で唯一の、私の番なのだ」


(私が毎日、ただ花を育てるためだけに注ぎ込んでいた魔力が、この竜の王を救っていたなんて…)


私の胸の奥に、じわりと温かい何かが満ちていく。


「こんな無礼な場所に、お前を置いておく必要はない。我が竜の国へ行こう。お前が愛する花を、世界で一番美しく咲かせられる極上の楽園を用意してある」


「……あの、母の温室の研究書も、持って行っていいですか?」


私が尋ねると、竜の王は本当に嬉しそうに目を細めた。


「もちろんだ。お前が望むなら、この国ごと持って行ってやってもいいぞ?」


「いいえ、本だけで十分ですわ」


私は差し出された、彼の大きくて温かい手を取った。


「では、行こう。我が最愛の花嫁よ」


竜の王は私を優しくお姫様抱っこし、背中から巨大な漆黒の翼を広げた。


驚愕と絶望に染まった王太子や、絶叫する実家の家族たちを大広間に残したまま、私たちは割れた天井から、美しい月明かりが照らす夜空へと一気に舞い上がった。



その後、守護竜の加護と、リーシェという「唯一の竜脈調和者」を失った王都は、地脈がみるみる枯れ果てて砂漠化し、没落していったという。



竜の国にある、水晶で作られた巨大な温室。


私はそこで、毎日たくさんの美しい薔薇を咲かせながら、定時で美味しい紅茶を楽しんでいた。


隣には、私の腰に甘えるように腕を回し、首筋に顔をうずめてくる竜の王がいる。


「リーシェ、今日も君の花は美しい。だが……君自身の方が、何倍も愛おしいな」


「ありがとうございます、旦那様。でも、お仕事の邪魔になりますから、少し離れてくださいな」


「嫌だ。君から離れると、私の魔力が暴走してしまうから…もうすこしだけ」


そう言って笑う過保護な竜王に包み込まれながら、私は温かいハーブティーを口に含んだ。


誰のためでもなく、自分の幸せのために花を咲かせる私の新しい日々は、これからも極上の温もりの中で輝き続ける。


【完】


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― 新着の感想 ―
X の企画から来ました。 いちばん唸ったのは、逆転の直後に一度断らせたところでした。書く側だと、ここは手を取らせて終わりたくなる場面です。 「竜紋があったから価値がある、ということになってしまう」…
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