⑧
王都にも早朝から雪が降っていた。窓の外では白い雪が静かに舞い落ちている。暖炉の火は穏やかに揺れ、屋敷の中は暖かいはずなのに、リディアの胸の奥だけは妙に冷えていた。机の前に座り、便箋を見つめる。
エリアスへ送る手紙を書こうとしていたのだが、もう随分長い時間が経っているにもかかわらず、最初の数行しか埋まっていなかった。
『元気にしていますか』
『こちらは変わりありません』
そこまでは書ける。だがその先が続かない。本当は伝えたいことが山ほどあった。
会いたい。
寂しい。
早く帰ってきてほしい。
あなたの顔が見たい。
声が聞きたい。
触れたい。
そんな言葉ばかりが浮かぶのに、結局便箋の上には当たり障りのない文章しか残らない。エリアスは戦場にいる。自分だけ弱音を吐くわけにはいかない。そう思っていた。
「奥様」
不意に扉が叩かれた。マーサだった。
「朝食の準備が出来ておりますので、ご支度をお手伝い致します」
立ち上がり、ドレッサーの前に座った。髪をまとめているとマーサが何かを探しているようだった。
「どうかしたの?」
「奥様がいつもつけていらっしゃった髪飾りが見当たらないのです」
「あれならここにしまっているでしょう?………ない」
何度もドレッサーの中を探るが見当たらない。何もない。みるみる顔色が変わる。
わたしの一番好きな花をモチーフにした銀色の小さな髪飾り。去年の誕生日にエリアスが自らデザインしてオーダーメイドで贈ってくれたものだった。一番大切にしているものだった。
「嘘でしょ…」
慌てて周囲を探す。机の下、椅子の周囲、廊下、応接室。どこにもない。
「やはりありませんか?」
マーサが駆け寄る。
「髪飾りが…エリアスからもらったものなのに」
屋敷中を探しても、庭を探してもどこにもなかった。夜になる頃には使用人たちも総出で探していた。それでも見つからない。リディアはベッドの端に座り、手のひらを握り締める。
あの髪飾りは特別だった。高価だからではない。エリアスが選んでくれたから。
「ごめんなさい…」
誰に言うでもなく呟く。帰ってきたら正直に話して謝ろう、そう思った。
扉が叩かれる。
「お客様がお見えです」
「どなた?」
「レオン様です」
リディアは僅かに表情を曇らせた。ここ最近、レオンが頻繁に訪ねてくるようになっていた。表向きは友人として、あるいは夫の留守を気遣う貴族として。しかしリディアは彼の視線が苦手だった。昔から変わらない執着の色がそこにある気がしてならなかった。
「応接室へ案内して」
「かしこまりました」
応接室へ向かう足取りは重かった。扉を開けるとレオンは既に席についていた。
「やあ、リディア」
まるで昔からの親友に会ったような笑顔だった。
「ご用件は何でしょうか」
リディアは席につきながら尋ねる。レオンは少し困ったような顔をした。
「そんなに警戒しなくてもいいだろう」
「警戒しているわけではありません」
「そうかな」
レオンは紅茶を一口飲んだ。そして沈黙する。何か言いにくいことがあるようだった。
「今日は少し気になる話があって来たんだ」
リディアの胸がざわつく。最近、気になる話といえば一つしかない。
「また噂の話ですか」
レオンは驚いたように眉を上げた。
「聞いていたのか」
「少しだけ」
レオンは深く息を吐いた。
「なら話は早い」
そう言って懐から封筒を取り出した。リディアの心臓が嫌な音を立てる。
「何ですか、それは」
「見てほしい」
机の上に置かれた封筒を見つめる。開きたくない。そんな予感があった。だが無視することもできなかった。リディアはゆっくりと封を切る。中から出てきたものを見た瞬間、全身の血が引くような感覚に襲われた。それは一枚の写真だった。描かれているのは男女二人。男はエリアスだった。誰が見てもそうだと分かる。特徴的な銀髪も、整った横顔も。間違いない。そしてその隣には若い女性がいた。以前、兵士が言っていた紫色の髪の毛。二人は向かい合っている。笑っている。親しげだった。そして、肩を寄り添い毛布を掛け合っていた。まるで恋人同士のように。
「…違う」
リディアの口から掠れた声が漏れる。心臓の鼓動が早くなるのを感じる。
「偽物です」
即座にそう言った。そう言わなければならなかった。レオンは悲しそうな顔をする。
「私も北方の商人から話を聞いたとき嘘だと思ったよ。ただこんなものを見てしまってはね。」
「こんなもの信じません」
「そうか、君が信じるならそれでいい」
それだけならまだよかった。だが彼は続けた。
「ただ、一つだけ気になっていることがある」
「何でしょう」
「最近、エリアス殿からの手紙は届いているか?」
リディアの呼吸が止まりそうになる。
「届いています」
「頻度は?」
「…」
答えられなかった。レオンは何も言わない。ただ静かに見つめてくる。確かに減っていた。最初の頃は頻繁だった。数日に一度は届いていた。それが最近では十日以上空くこともある。戦況が忙しいからだと思っていた。思おうとしていた。
「戦場ですから」
リディアはようやく言う。
「忙しいのでしょう」
レオンは少しだけ目を伏せた。
「そうだな」
そして席を立つ。
「私の勘違いならいいんだ。変な話をしてすまなかったな」
その言葉だけを残して去っていった。部屋には静寂だけが残る。リディアはしばらく動けなかった。机の上の写真を、見たくないのに視線が向いてしまう。偽物だ、こんなもの信じる必要はない。そう分かっているのに胸が苦しい。なぜだろう、レオンの言葉が頭から離れない。
手紙の頻度なんて今まで気にしたこともなかったのに。一度意識してしまうと駄目だった。リディアは自室へ戻ると引き出しを開いた。そこにはエリアスから届いた手紙が大切に保管されている。一通一通並べてみる。最初は頻繁だった。確かに。だが最近は減っている。理由などいくらでもある。戦場だから、忙しいから、危険だから。それなのに不安だけが膨らむ。
「違う…絶対に違う」
思わず呟く。疑いたくない。疑うべきではない。なのに心のどこかで考えてしまう。もし本当に誰かいるのなら、もし自分だけが知らないのなら。最低だと思った。エリアスを信じると決めたのに。あの人は自分を裏切らないと知っているのに。なのに心が揺れる。
その夜、リディアは眠れなかった。何度寝返りを打っても眠気は来ない。結局ベッドを出て机へ向かう。新しい便箋を取り出す。ペンを握る。本当は聞きたいことがあった。
噂は嘘ですよね。
あなたは大丈夫ですよね。
あなたには私だけですよね。
けれど書けなかった。もしそんな手紙を送れば、エリアスを傷付けるかもしれない。信じていないと思われるかもしれない。だから結局いつも通りの手紙を書く。何でもない日常の話。庭の花の話。雪の話。そして最後に一文だけ添えた。
『帰ってきたら、海へ行きましょう』
その文字を書いた瞬間、ぽたりと雫が落ちた。慌てて拭う。涙だとは認めたくなかった。
遠く離れた北方戦線では、その頃エリアスもまた眠れずにいた。机の上には銀色の髪飾りが置かれている。自分が贈ったはずの髪飾り。どうして差出人不明の封筒に入っていたのか分からない。分からないまま見つめている。
愛している、誰よりも。
信じたい、誰よりも。
二人の心には少しずつ、確実に、見えない亀裂が広がり始めていた。




