兄の手紙
兄から届く手紙は、いつも笑われていました。
戦地にいるはずなのに、
書かれているのは靴の失敗や鍋の話、
そして空や星のことばかり。
子どもの頃の私は、
それがただの「愉快な兄の手紙」だと思っていました。
けれど大人になったとき、
同じ言葉は、まったく違う意味で読み返されます。
この物語は、
嘘をついた人の話ではなく、
誰かが眠れるように言葉を選び続けた人の話です。
どうか、静かな夜に読んでいただけたら嬉しいです。
第一章 兄の手紙は、いつも笑われた
兄の手紙は、いつも笑われた。
笑われる、というのは悪い意味だけじゃない。
うちの教室で「笑われる」は、少なくとも「読まれる」に近い。
読まれる、というのは、回されることだ。
回される、というのは、私の手から離れることだ。
私はその日も、朝のホームルームが始まる前に、封筒をランドセルの奥から取り出した。
茶色い紙。角が少し丸くなっている。押された消印は、先生が黒板に書く漢字より難しい。
それでも私は、消印を指でなぞった。兄がそこにいた証拠みたいで。
「来た?」
前の席の子が、体を半分ひねって聞いた。
私がうなずくと、その瞬間に彼女の手が伸びてきて、封筒は私の机の上を滑っていった。
「読むよー!」
勝手に宣言して、勝手に開ける。
私は止めない。止める理由がない。
兄の手紙は、そういう役目でうちに来る。
紙の擦れる音。
誰かが椅子を引く音。
窓の外では、校庭の砂を踏む足音がして、遠くで笛が鳴った。
「じゃあ、いくよ」
その子は、やけに改まった声で読み始めた。
兄の手紙は、いつも冒頭が同じだ。
そこがまず、笑われる。
⸻
拝啓
こちらは今日も平和です。
……と言いたいところですが、昨日、私は盛大にやらかしました。
何をやらかしたかというと、靴を左右逆に履いて出てしまいました。
右足がどうにも落ち着かなくて、ずっと「今日の私は何かが違う」と悩んだ末、
原因が靴であることに気づきました。
人間、成長すると、悩みの質が落ちます。
⸻
「なにそれ!」
「悩みの質て!」
「平和すぎる!」
笑い声が弾ける。
机が少し揺れた。
私は、気づかれないように口の端を上げた。
兄は、昔からこうだった。
まっすぐな話をしない。
格好いいことも言わない。
家で転んだら、「地面に負けた」と言う。
風邪を引いたら、「体が私を休ませようとしている」と言う。
そして手紙でも、同じ調子で、わざと間の抜けた顔をしてみせる。
⸻
上官に見つかった瞬間、私は逃げることもできず、
「何をしている」と言われ、なぜか「左右対称です」と答えました。
余計に怒られました。
左右対称は、場合によっては罪です。
私は今、左右を正す修行をしています。
ところで妹よ、お前は靴をちゃんと揃えて玄関に置け。
あれは、見る者の心を削る。
⸻
「急に説教!」
「兄、うざい!」
「左右対称が罪って何!」
また笑いが起きた。
笑いが起きるたび、私は少しだけ安心した。
兄が遠い場所にいるという事実は、笑い声の中で丸くなって、転がっていく。
怖い形をしていない。
「続き、続き!」
紙がめくられる。
兄の字は丸くて、ところどころ線が太い。
力が入りすぎる癖がある。
たぶん、真面目な顔で書くときほど太くなる。
⸻
今日は炊事当番だったので、私は鍋の番をしました。
鍋というのは、放っておくとすぐに機嫌が悪くなる生き物です。
かき混ぜないと怒るし、火を強くすると暴れるし、
目を離すと「焦げ」という形で存在を主張します。
つまり鍋は、上官よりも扱いが難しい。
私は鍋に謝りました。
なお、鍋は許してくれませんでした。
⸻
「鍋に謝ったの!」
「兄、鍋に負けてる!」
「焦げが存在主張って、哲学者かよ!」
笑いながら、みんなが私のほうを見る。
「また面白いの来たね」と言う顔だ。
私はうなずく。
そう、来た。
また、兄の手紙が来た。
兄は今日も、遠くからこちらを笑わせてくる。
……そのとき、廊下側の席の男の子が言った。
「でもさ。戦地って、ほんとにこんな感じなの?」
その言い方が、空気の端を少しだけ尖らせた。
私は答えなかった。答えられなかった。
戦地を、私は知らない。
兄の手紙の中には、銃も、爆発も、血も、出てこない。
出てくるのは靴と鍋と、変な比喩だけだ。
でも兄は「平和です」と書く。
だから平和なのだと、私は思うことにしていた。
⸻
手紙は最後のほうになると、いつも空の話になる。
そこは、笑われ方が少し違う。
「ポエムだ」「やたら星が好き」と言われる。
それも私は嫌いじゃない。兄らしいから。
⸻
追伸
こっちは空が広い。
たぶん、家の上にある空より、二倍くらい広い。
だから星も多い。
星を数えようとしたが、途中でどうでもよくなった。
星は逃げないからだ。
逃げないものを数えるのは、少し失礼だと思う。
そういえば、妹よ。夜更かしをするな。
夜は、眠るためにある。
これは命令だ。
⸻
「夜は眠るためにある、だって!」
「命令って何様!」
「兄、急に兄っぽい!」
笑いが起きて、また空気が戻った。
私は、その戻り方にほっとした。
兄の手紙は、こうして教室を一周する。
最後にはくしゃっと丸まって、私の机に帰ってくる。
私はそれを伸ばして、折り目を指でならす。
折り目が増えるほど、兄がここに近づいてくる気がした。
⸻
家に帰ると、母は台所にいた。
鍋のふたが小さく震えて、煮える音がする。
湯気が窓ガラスを白く曇らせている。
「今日は?」
母は背中のまま聞いた。
それが何を指しているか、私たちは知っていた。
「来たよ」
私は封筒を軽く振って見せる。
母は一瞬だけ肩を動かし、「そう」と言った。
それきり、振り向かない。
私は前から不思議だった。
兄の手紙はこんなに面白いのに、母は一度も読まない。
封を切るところすら見たことがない。
その日、私はついに言ってしまった。
「ねえ、読まないの?」
台所の音が、少しだけ遠のいた気がした。
母の手が、鍋の柄のところで止まる。
火の音だけが残った。
「……いいの」
母はそれだけ言って、鍋のふたを持ち上げた。
湯気が立って、母の顔は見えなくなる。
私はその白い湯気の向こうで、母が何をしているのか、わからなかった。
「面白いのに」
「面白いから、いいの」
母の声は、やわらかいのに固かった。
私はそれ以上言えなかった。
⸻
夜、布団の中で、私は手紙をもう一度読む。
教室で笑われたところ。
鍋に謝ったところ。
「左右対称は罪」と書いたところ。
兄の字は、ところどころ滲んでいる。
紙も少し波打っている。
汗なのか、雨なのか、よくわからない。
私は、そこに指を置いてみる。冷たい紙。
兄は、遠い。
でも、遠いだけだ。
消えてはいない。
こんなふうに文字で、私を呼んでくる。
私は最後の追伸を読み返す。
夜は、眠るためにある。これは命令だ。
私は、ふふっと笑ってしまった。
兄が、布団の外から私を叱っているみたいで。
目を閉じる。
笑いながら眠るのは、悪いことじゃないと思った。
兄がそういうふうにしてくれるなら、なおさらだ。
ただ――眠りに落ちる直前、
「星は逃げないものだ」という一文が、なぜか胸の奥に残った。
逃げないもの。
逃げないから、数える必要がないもの。
私はそれを深く考えず、眠った。
兄の手紙はいつも、生活を守るみたいに笑わせる。
そういうものだと、信じていた。
第二章 嘘の中に混ざる、変な言葉
兄の手紙は、相変わらず笑われていた。
けれど、その頃から――
ほんの少しだけ、教室の空気が変わり始めていた気がする。
私が気づいたわけじゃない。
当時の私は、ただ次の手紙を待っているだけの妹だった。
違和感に気づいていたのは、たぶん読んでいる側だったのだと思う。
⸻
「また来たよ!」
昼休み、私は封筒を取り出した。
机の上に置いた瞬間、周りに人が集まる。
それはもう、いつもの流れだった。
封筒は前の席の子に渡り、
そのまま朗読が始まる。
⸻
拝啓
今日の私は、実に忙しかった。
忙しすぎて、何をしたのかよく覚えていない。
これはつまり、何も失敗していない証拠である。
人は、失敗したことだけよく覚えているからだ。
今日は靴も正常、鍋も正常、私も正常。
つまり、報告することがない。
これはとても困る。
⸻
「報告ないのに書いてる!」
「暇人か!」
笑いが起きる。
私は、安心する。
兄は今日も変わらない。
でも、読み進めるうちに、
誰かが小さく首をかしげた。
⸻
夜は静かです。
静かすぎて、耳が変な気分になる。
だから私は空を見ています。
空は、音を出さないから好きです。
⸻
「……また空?」
読み手の声が少しだけ遅れた。
別の子が言う。
「この人、夜の話ばっかりじゃない?」
「昼は何してるんだろ」
私は肩をすくめた。
兄は昔から夜が好きだったから。
それだけだと思った。
⸻
手紙の後半は、いつも通りの兄だった。
⸻
今日は新しい人が来ました。
とても真面目な人で、私の靴の履き方を見て、
「なぜそうなる」と真顔で聞いてきました。
私も聞きたい。
人生は、質問の連続です。
なお、私は答えを持っていません。
⸻
笑いが戻る。
教室の空気が軽くなる。
けれど、その日、
誰かがぽつりと言った。
「ねえ、この人……音の話、しなくない?」
私は、きょとんとした。
音?
「だってさ、普通さ、戦地って、ドーンとかバーンとか書きそうじゃん」
「テレビでやってるみたいなやつね」
私は首を振った。
「兄、そういうの嫌いなんだと思う」
本当に、そう思っていた。
兄は、怖い話を避ける人だったから。
その言葉で、みんなは納得したように頷いた。
そしてまた笑いながら、手紙を最後まで読み終えた。
⸻
家に帰ると、母は縫い物をしていた。
テレビはついているけれど、音量は小さい。
画面の中では、知らない国の地図が映っていた。
「今日も来たの?」
「うん」
私はランドセルから手紙を出す。
母はちらりとも見ない。
「学校で、また笑われたよ」
「……そう」
針が布を通る音だけがする。
母は、やっぱり読まない。
私は、少しだけ意地になった。
「ねえ、なんで読まないの」
母は、しばらく答えなかった。
針が止まり、糸が揺れる。
「……あの子は、優しいから」
それだけ言って、また縫い始めた。
意味はよくわからなかった。
優しいから、読まない?
優しいなら、読めばいいのに。
私は首をかしげたまま、部屋に戻った。
⸻
その夜、布団の中で手紙を開く。
昼間は笑われていた文章。
兄の丸い字。
私はふと、気づいた。
今日の手紙、
夜の話ばかりだった。
昼のことは「忙しかった」としか書いていない。
何があったのかは書かれていない。
でも、私は深く考えなかった。
考える必要がないと思っていた。
兄は、いつもそうだ。
大事なことは、わざとぼかす。
昔から、そうだった。
転んで血が出ても「赤い水が出ただけ」と言う。
怒られても「ちょっと空気が固くなった」と言う。
だから今回も、そういう言い方なんだろうと思った。
⸻
それから何通か、手紙が続いた。
星の話。
空の話。
鍋の話。
靴の話。
そして――夜の話。
⸻
夜は、やっぱり静かです。
静かすぎて、遠くの音が近くにいる気がする。
だから私は星を見ます。
星は、こちらを見ないから。
⸻
私はその一文を、少し不思議に思った。
星がこちらを見ない?
見ないのが、普通じゃないの?
でも、意味を考える前に眠くなってしまった。
子どもは、疑問より睡眠を選ぶ生き物だ。
私はそのまま眠った。
⸻
教室では、相変わらず笑いが起きていた。
兄の手紙は人気者だった。
「次はいつ来るの」と聞かれるたび、
私は少し誇らしかった。
ただ、時々、
笑いの合間に、
ほんの一瞬だけ静かになる瞬間があった。
誰かが読みながら、言葉を飲み込む。
すぐに笑いが戻る。
当時の私は、それに気づかなかった。
気づく必要がなかった。
兄は、今日も愉快だった。
兄は、今日も平和だと言っていた。
だから私は、
安心して笑っていられた。
――その安心が、どこまで本物なのかを、
まだ知らないまま。
第三章 兄は、帰ってこなかった
兄が戦死したと知らされたのは、
雨の降る午後だった。
その日、私は学校から少し早く帰ってきた。
理由は覚えていない。
テストだったのか、先生が休みだったのか、
どうでもいいことだけが先に消えて、
玄関の光景だけが残っている。
黒い靴が、並んでいた。
見たことのない革靴。
玄関に、二足。
ぬれた傘が立てかけられている。
私はランドセルを背負ったまま、立ち止まった。
何かがおかしいと、体が先に気づいた。
居間から、低い声が聞こえる。
男の人の声。
母の声は、ほとんど聞こえない。
私は靴を脱ぐのを忘れて、廊下を進んだ。
⸻
居間のテーブルの前に、二人の男性が座っていた。
制服。
帽子。
膝の上で揃えられた手。
母は正座していた。
背筋がまっすぐで、
顔はよく見えなかった。
私が入ると、二人の男性が立ち上がった。
その動きが、あまりにも揃っていて、
私は一瞬、何かの授業を思い出した。
「妹さん……ですね」
一人が言った。
私はうなずいた。声が出なかった。
言葉は、長かった気がする。
でも、耳に残っているのは、
たった一つだけだった。
――戦死。
その言葉だけが、部屋の中で浮いていた。
⸻
私は、すぐには理解できなかった。
戦死って、
どういうことだろう。
兄は手紙で、平和だって書いていた。
靴を間違えて、鍋に謝って、星を見ていた。
そんな兄が、どうして。
私は母の顔を見た。
母は、泣いていなかった。
ただ、静かに頭を下げていた。
「……ありがとうございました」
母の声は、細くて、遠かった。
⸻
二人が帰ったあと、家は急に広くなった。
音がなくなったからだと思う。
時計の針の音が、やけに大きい。
雨が窓を叩く音が、近い。
私は立ったまま、母に言った。
「……嘘だよね?」
母は答えなかった。
「だって、手紙……」
言いかけて、私はランドセルを開いた。
兄の手紙が入っている。
昨日、教室で笑われたばかりのやつ。
私はそれを取り出して、テーブルに置いた。
「ほら、平和だって書いてる。
鍋に謝ったって……
星がきれいだって……」
声がだんだん速くなる。
自分でも止められない。
「だから、嘘だよ。
間違いだよ。
だって兄ちゃん――」
言葉が途切れた。
母が、初めて顔を上げた。
その目が、少しだけ赤かった。
⸻
母は、手紙に触れなかった。
指先が、紙の手前で止まっている。
そして、小さく息を吸った。
「……あの子はね」
それだけ言って、言葉が続かなかった。
私は待った。
でも、母は何も言わなかった。
代わりに、
ぽたり、と音がした。
母の涙だった。
⸻
私は、急に腹が立った。
兄に対して。
手紙に対して。
笑っていた教室に対して。
そして、何より――
「……嘘ばっかりじゃん」
自分の声が、思ったより大きくて驚いた。
「平和って書いてたのに。
大丈夫って書いてたのに。
靴とか鍋とか、どうでもいいことばっかり書いて……」
手紙を握りしめる。
紙がぐしゃっと音を立てた。
「ほんとのこと、何も書いてないじゃん……!」
その瞬間、
母がはっきり泣き出した。
声を押し殺すような、静かな泣き方だった。
私はそれを見て、
余計に怒りが湧いた。
なんで泣くの。
なんで今さら。
なんで読まなかったの。
言いたいことが、喉の奥で詰まった。
⸻
その夜、私は手紙を全部まとめて箱に入れた。
封筒。
便箋。
折り目だらけの紙。
一枚ずつ見ていくと、
兄の字が並んでいる。
丸い字。
少し太い線。
でも私は、目をそらした。
「もういい」
誰に向けて言ったのか、わからない。
笑って読んだ手紙。
教室で回された手紙。
夜、安心して眠れた手紙。
全部、嘘だった。
そう思うしか、なかった。
⸻
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