『君にだけ、素直じゃない。』
この物語は、誰かに素直になれないふたりが、少しずつ心を通わせていく、そんな静かで甘やかな青春の記録です。
「話しかけないで」と突き放す美人でクールな女子高生。
「うん」とだけ返す地味で寡黙なメガネ男子。
交わるはずのなかったふたりの距離が、
ある日を境に、そっと近づきはじめます。
強がりと優しさ、観察と共感、すれ違いとまっすぐな想い――
すこしだけ不器用で、でも確かに育っていく恋を、
どうあなたの心の片隅で見守っていただけたら幸いです。
※登場人物
一ノ瀬 美羽
学年トップの成績を誇る美人でクールな高校2年生。剣道部門所属で負けず嫌い。周囲からの人気は高いが、本人はあまり関心がない。少しツンツンしたところがあるが、実は心の奥で誰かに寄りかかりたいと思っている。ある理由から“自分の弱さ”を見せるのが苦手。
綿貫 智
同じクラスの地味なメガネ男子。常に本を読んでいて、アニメやライトノベルが好きな典型的オタク。だが観察眼が鋭く、誰にも気づかれない形で美羽をサポートする“影の男前”。人前ではあくまで目立たず、自分のことを語るのも苦手。
第一章:ふたりの距離、1メートル
春の光が、まだ少し冷たい風に揺れる桜を透かしていた。
新学期初日、2年A組の教室。ざわめく声と椅子のこすれる音。新しいクラス、新しい顔ぶれ。どこか緊張と期待が入り混じる空気の中、静かに席に着いている男子生徒がひとり。
綿貫 智は、自分の席の上に本を一冊置くと、静かにページをめくった。
文庫本の背表紙には『人間失格』と書かれていた。
(……周りから見た印象としてどうなんだろうな)
そんなことをぼんやり思いながら、智は眼鏡をクイッと直す。
それでも彼にとって、本はこの上なく心安らぐ存在だった。
そのとき――彼の隣の席に、颯爽と現れた少女がいた。
「……ここ、隣?」
スカートの裾をふわりと揺らしながら、すらりと伸びた脚と凛とした佇まいが目を引く。長い黒髪に整った顔立ち、そしてどこか寂しさをはらんだ瞳。
――一ノ瀬 美羽。
学年トップの成績にして、剣道部の副主将。男子からの人気も高い、いわゆる“高嶺の花”だ。
智はそっと顔を上げて、静かにうなずいた。
「うん。よろしく」
それだけの返事に、美羽は一瞬まばたきをし、それから――
「……気安く話しかけないで。勉強の邪魔になるから」
ぴしゃり、と言葉が飛んできた。
知恵は怯んだ様子も見せず、ページをめくる手を止めずに小さく答える。
「わかりました」
による彼女との会話はなかった。
普通なら、ここで“気まずさ”とか“傷ついた”とか、何かしら感情が湧くはずなのに――智は不思議と、彼女の言葉をそのまま受け入れていた。
(……ストレートで、嘘がない。ちょっと面白いかも)
彼はそう思った。
───
それから数日が経ち、新しいクラスにも少しずつ慣れ始めたころ。
その日は妙に暑く、午後の授業はどこか気怠かった。
英語の授業真ん中、ふと智は視線を隣に向けた。
美羽の顔色が、明らかに悪い。額に汗をにじませ、唇の端がかすかに震えている。
「……大丈夫?」
思わず声をかけた。
彼女は驚いたようにこちらを見るが、すぐに顔をそむけた。
「……なんでもない」
しかし、その直後だった。
机に手をついたまま、彼女がわずかによろけたのを見て、智はすぐに立ち上がる。
「皆さん、すみません。一ノ瀬さん、具合が悪そうです。保健室に連れていきます」
周囲がざわめいたが、智は淡々と美羽の腕を支え、教室を出た。
驚くほど手際がよく、余計な言葉はひとつもない。ただ、確かに“支える”手だった。
保健室に着き、彼女をベッドに寝かせたあと、保健医の先生が来るまでのあいだ、智は黙って座っていた。保健医の先生は席を外していた。
「……どうして、あんなにすぐ気づけたの?」
しばらくして、美羽がぽつりと呟いた。
智は少し首をかしげる。
「君、朝から少し呼吸が浅かった。それに、今日はあんまりノートをとってなかったし」
「観察してたの?」
「いや、君は目立つから。隣だし、どうしても視界に入る」
それは嘘ではなかった。だが、彼女のちょっとした仕草や変化を、智はずっと見ていた。
美しいは少しだけ視線を伏せて、布団の端を指でつまむ。
「……ありがとう」
その言葉に、智はうなずいただけだった。
「うん」
それだけのやり取りだった。
でもその瞬間から、ふたりの“距離”は、ほんの少しだけ――確かに縮まった。
第2章:秘密のノート
春が深まり、教室の窓から見える木々が新緑に染まるころ。
一ノ瀬美羽は、自分でも気づかぬうちに、ある違和感を抱き始めていた。
たとえば――
「……あれ、これ、昨日のプリント……」
しまうのを忘れていたはずのプリントが、何故か机の中にきちんと入っている。
あるいは――
「……これ、昨日落としたリストバンド……!」
剣道の練習で外れて落としたお気に入りのリストバンドが、翌朝、きちんとバッグの上に置かれていた。
最初は偶然なのかと思っていた。
でも、それが一度や二度ではないと気づいたとき、美羽の中にひとつの疑問が生まれる。
(……誰かが、私のことを見てる?)
気味が悪いという感情はなかった。
むしろ、どこか温かいものに包まれているような、不思議な感覚。
ただ、美羽は自分の性格をよくわかっていた。
誰かに頼ることが苦手で、強がってしまう。
それを、なぜか“見透かされている”ような気がして、少しだけ怖くなった。
───
ある日の放課後。
美羽は授業中にうっかり忘れてきたノートを取りに戻ろうと、ひとり教室へと足を向けた。
誰もいないはずの教室。
だがドアを開けた瞬間、美羽は気づいた。
――誰かがいる。
静かに、教室の奥。窓際の席に座って、何かを黙々と書いている男子生徒。
光に照らされた眼鏡のレンズが、きらりと光る。
「……綿貫?」
彼女の声に、綿貫智はゆっくりと顔を上げた。
「あ、ごめん。邪魔だった?」
「いや……私がノート取りに来ただけ。っていうか、何書いてたの?」
そう言って、彼の机の上を覗き込む。
そこにあったのは、文庫本でもラノベでもなく、手書きのメモ帳だった。
表紙に、こう書かれていた。
――美羽観察記録』。
「……は?」
美羽は眉をひそめ、無言のままメモ帳を手に取る。
真ん中には、丁寧な文字で日々の出来事が記されていた。
「4月13日:剣道の練習後、右手首を少し痛めている様子。湿布が必要かも』
『4月18日:英語のプリントを机に置き忘れていたので、休み時間中に戻しておいた』
『425ヶ月目日:雨の日、傘を持ってきていなかった。体育で少し濡れていたから、タオルをそっと手元に置いたが気づいていない様子』
「……ちょ、なにこれ」
「いや、誤解しないでほしいんだけど――」
智は席を立ち、少しだけ視線を逸らしながら説明する。
「別にストーカーとか、そういうんじゃない。ただ……君、強がってることが多いから」
「……は?」
「誰が見てって、気づいた方が楽になることもあるかなって思って。僕は、ただ“見てただけ”なんだ」
美羽は言葉を失って、しばらく無言で彼を見つめていた。
不思議なことに――
怒りや嫌悪感は、まるで湧かなかった。
(この人……ほんとに、ただ黙って支えてただけなんだ)
「……そんなことして、何になるのよ」
美羽の声は、いつもより少しだけ低く、震えていた。
智はしばらく沈黙し、それから静かに答える。
「何にもならないよ。ただ……君が、君のままでいられるように。それだけ」
その言葉に、美羽は
なぜか胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「……バカじゃないの」
そう言って、そっとメモ帳を彼の手に返す。
だが、その指先はほんの少しだけ、彼の手に触れていた。
そしてその夜、美羽はひとり布団の中でつぶやいた。
「……私、見られてても、いいかも」
第三章:雨の日と図書室
午後、5時間目。空は灰色に染まり、雨粒が窓を細かくノックいていた。
放課のチャイムが鳴る頃には、教室の外はすっかり雨模様。傘を持っていなかった美羽は、鞄の中をのぞいて小さく舌打ちをした。
(……忘れた)
いつもなら、剣部の練習が終わるまでに止んでいることも多い春の雨。だが今日は、しっかりと本降りになっていた。
ため息をついて立ち上がると、横で静かに本を片づけていた智が声をかけた。
「……傘、所有ってないの?」
「別に。濡れたって死にはしないし」
「そういう強がりは、風邪をひく原因になるけど」
智はそう言って、自分の傘を差し出した。
黒くて地味な折りたたみ式の傘。ふたりが入るには、ぎりぎりのサイズだ。
「……一緒に入る?」
「は? なんでそうなるの」
「雨の中、黙って立ってるから」
美しいはしばらく黙っていたが、小さくため息をついた。
「……じゃあ、仕方ないから貸して。あんたはどうするの?」
「君を送ってから、また戻る」
「バカじゃないの?」
そう言いながらも、美羽はその傘をそっと受け取り――
だがその瞬間、智の手が彼女の肩を軽く押す。
「僕も入るよ。どうせなら、図書館まで一緒に行かない? 借りたい本があるんだ」
「……は? なんでわざわざ図書館?」
「君も、よく行ってるだろ。気に入ってた詩集、まだ置いてあるかなって思って」
その言葉に、美羽はわずかに眉を動かした。
(なんで、それ知ってるの)
図書館の奥の詩集コーナー。人目につかないように、こっそり読んでいた一冊がある。誰にも見せたことのない、彼女の“隙”。
「……まさか、また観察してた?」
「視界に入っただけ」
「ふぅん……じゃあ、図書館まで同行してあげる。どうせ、暇なんでしょ?」
そう言って、美羽は傘の中に一歩踏み出した。智も肩をすぼめながら隣に立つ。
ふたりの距離――20センチ。
狭い傘の中。互いの肩がかすかに触れ合うたび、気まずいような、くすぐったいような沈黙が落ちる。
図書館に着くと、美羽は慣れた様子で棚から一冊の本を取り出した。
「……これ」
「やっぱり、それか」
「なによ。笑えば?」
「笑わないよ。意外と繊細なんだなって思っただけ」
「……“意外と”は余計」
本を手にしたまま、美羽はぽつりと呟く。
「詩って、意味が決まってないから、好き。読むたびに、その時の気分で響き方が変わるから」
智はその言葉に、静かにうなずいた。
「……君も、そうだよね。意味が決まってない」
「は?」
「ツンとしてるけど優しかったり。冷たいようで、熱かったり。君って、そういう詩みたいな人だ」
美羽は一瞬きょとんとした顔をして、それから――
ふっと、笑った。
ほんのわずかに、口元だけ。けれどそれは、彼女にとって最大限の“緩み”だった。
「……あんたさ、私のこと、よく見すぎ。気持ち悪いくらい」
「ごめん」
「でも――嫌いじゃないかも。そういうの」
その言葉を残して、美羽は本を抱えたまま図書館を出て行った。
自動ドアが開いた瞬間に吹き抜けてくる風に、髪がふわりと揺れ、智の心をくすぐる。
図書館の静寂の中、智はそっと目を伏せて呟いた。
「……意味が決まってない”か。悪くない表現だな」
第4章:夏祭り、ふたりの距離、20センチ
蒸し暑い夏の夕暮れ。
教室の空気はいつもより軽く、窓の外から聞こえてくる蝉の声が、夏休みの足音を知らせていた。
クラスで企画された夏祭りの自由参加イベント。
参加人数は少なかったが、浴衣姿の女子や、焼きそばの屋台の香りに、校庭は思った以上に賑わっていた。
智もまた、おとなしくその場にいた。
友人に無理やり誘われた形ではあったが、どこそわそわしている自分を、内心では否定しきれなかった。
(来てるかな……)
そんな想いが通じたかのように、校舎の影からふいに現れたのは、一ノ瀬美羽だった。
紺地に朝顔の模様があしらわれた浴衣。いつもの制服姿とはまるで違う、少し大人びた印象。
普段はまとめていない髪も、今日は後ろで柔らかく結ばれている。
「……似合ってるよ」
口から出た言葉に、智自身も驚いた。
言うつもりなどなかった。だが、あまりに綺麗で、自然にこぼれてしまったのだ。
美羽はほんの一瞬、目を丸くして、それから――
「……っさい」
ぷいと視線を逸らす。けれど、その耳はかすかに赤く染まっていた。
ふたりはなんとなく連れ立って、屋台を一回りした。
焼きとうもろこしを食べたり、金魚すくいに挑戦してみたり。智が案外器用に金魚をすくい、美羽が思わず「……意外」と呟いたのは、本人もすごいと思ったらしい。
そして――夜の空に、最初の一発が打ち上がった。
「……始まった」
校庭の端、少し離れたグラウンドの草むらの辺りで、ふたりは並んで腰を下ろした。視界をさえぎるものは何もなく、夜空いっぱいに広がる花火を、正面から見ることができた。
「花火って、音が遅れてくるの、ちょっと不思議」
美羽がぽつりと呟いた。
「うん。光が早くて、音が遅い。人の気持ちも、そんな感じかもね」
「……は」
「誰かに何かを言われて、その意味が心に響くまで、時間がかかるってこと」
静かに、ふたりの間を夜風が吹き抜ける。
次の花火が、ぱあっと夜空に咲いた。
緑、青、そして赤。色とりどりの光が美羽の頬を照らす。
横顔を見た智は、言葉を失う。
ただ、見惚れていた。
やがて、美羽が視線を落とすように、ぽつりと囁いた。
「ねぇ……もし、あんたが誰かを好きになったら……その子には、どうする?」
突然の問いに、智は少しだけ考え込み、静かに答える。
「……きっと、そばにいると思う。ただそれだけでも、その子の支えになれるなら」
「……ふぅん」
美羽は少しだけ笑った。
その笑顔は、どこかはにかんでいて、けれども確かに――“甘さ”があった。
次の瞬間大きな花火が夜空を照らした。
「どんっ」と腹に響く音とともに、火の粉が幾重にも広がる。
その光の中で、美羽の手が、ふと智の手の上に触れた。
わざと、ではなかった
偶然を装っていたが、無意識に手と手が重なった瞬間彼女はすぐには離さなかった。
「あ、……ごめん。狭かったから」
小さく言い訳をする美羽に、智はゆっくりと首を振る。
「ううん。……嫌じゃないよ」
「……そ」
ふたりの手は、そのまま。
指と指が触れ合う。けれど、しっかりと握るには、まだ少し早い。
そんな距離感が、むしろ今のふたりにはちょうどよかった。
花火が終わり、拍手が遠く響く中、美羽はそっと囁いた。
「……こんな夜、また来年もあるのかな」
「あるよ。きっと」
「……なら、さ。来年も、隣にいてよ。君でいいから」
思わせぶりどころではない言葉に智の心臓が跳ねる。
それでも彼は、落ち着いた声で答えた。
「……君が隣にいてくれるなら、何度でも」
最終章:進路と未来と、私の素直
三年生の冬。
校舎の窓から見える空は高く澄んでいて、風は冷たいのに、どこかあたたかさを含んでいた。
センター試験が近づき、教室は普段より静かだった。
教科書をめくる音、ペンが走る音、そして時おり響く足音。
そんな中で、一ノ瀬美羽はずっと迷っていた。
周囲はもう進路を固めている。
美羽の成績は悪くない。むしろトップレベルだ
けれど、美羽には“なりたいもの”がなかった。
なんのために、どこへ行くのか。
答えの見つからないまま、机に向かう日々。
ある日、放課後の図書室で――
その迷いを、彼に漏らした。
「……私、何になりたいんだろうって、ずっと考えてる」
向かい合って机に座る綿貫智は、目を伏せたまま、静かに答える。
「無理に答えを出す必要はないと思うよ」
「でも、みんなは決めてる。……あんたは?」
「僕は本が好きだから、文学部に行こうかなと思ってる。将来のことは……まだ曖昧だけど」
「曖昧なのに、決めてるの?」
「うん。“何をしたいか”が決まってなくても、“どこで誰といたいか”くらいは、わかるから」
その言葉に、美羽はハッとした表情を見せる。
(どこで、誰と……)
美羽は机の上に置かれた自分の手を見つめた。
指先が、かすかに震えていた。
───
それから数日後。
大学入試の日程が決まり、願書を出すタイミングが迫っていたある朝。
美羽は教室の外で智を呼び止めた。
「ちょっと……来て」
無言で歩くふたり。
向かった先は、誰もいない中庭のベンチだった。
「……ちょっと寒いね」
「……話って?」
智の問いに、美羽は深呼吸をひとつ・・・。
そして、ポケットから一通の封筒を取り出す。
「志望校、決めた。」
「そっか。どこ?」
「……○○大学の文学部」
智は驚いたように目を見開く。
「……え、それって……」
「……あんたと、同じとこ」
視線を逸らしながら、美羽は小さく呟く。
「べ、別に。真似したとかじゃない。ただ興味ある分野があって、調べたら同じだっただけ」
「……ふふ。ありがとう」
「ちょ何笑って……!」
「ううん、嬉しいんだ。ただ、それだけ」
智の笑顔に美羽は顔を赤らめる。
だがその直後彼女はふいに一歩、近づいた。
そして――
「目、閉じて」
「え?」
「いいから。うるさい。閉じて」
半ば命令に近い声に、智は戸惑いながらも目を閉じる。
その刹那――頬に、やわらかな温もりが触れた。
唇。
けれどそれは、ほんの一瞬。
空気よりも軽く、羽のような感触。
「……っ、な、なに今の……」
目を開けた智が戸惑う中、美羽はそっぽを向いたまま、けれど小さく笑って言った。
「今のは、合格祈願。……別に、特別な意味とか、ないから」
「……そっか。じゃあ、またお願いしてもいい?」
「調子乗んな、バカ」
そう言いながらも、美羽の声はどこか楽しげだった。
冬の風がふたりの間を通り抜ける。
でもその距離は、もう“風”すら通さないほど、近かった。
───
エピローグ:ふたりの距離、ゼロ
春。桜の並木道。
制服姿のふたりはもういない。
かわりに、私服で並んで歩く大学生のふたり。
「今日さ、大学の図書館に面白い新刊入ったって聞いたんだけど」
「へぇ。じゃあ、あとで見に行こうか」
そんな何気ない会話の中で、ふいに美羽が立ち止まる。
「……ねぇ」
「ん?」
「……手、つないでいい?」
「聞くんだ」
「……うるさい。バカ」
照れたように、でも迷わず差し出された手を、智は優しく握る。
ふたりの距離は、もう――ゼロ。
★★番外編:ふたり、大学にて★★
桜が散っても、キャンパスにはまだ春の匂いが残っていた。
講義終わりの午後、カフェテリア横のベンチに座るふたり。
綿貫智と、一ノ瀬美羽。
大学生になって半年。
制服はなくなり、キャンパスも広く、世界は少しだけ開けたように思えた。
けれど、隣にいる相手だけは、相変わらず。
「……ほんっとに、あんたって変わんないよね。相変わらず地味で無口で、メガネくいくいしてて」
美羽はコーヒーを飲みながら、いつものように軽口を叩く。
「でも、そういう君も“美人でツンツンしてる”って、学部内で有名だけど」
「……え、何それ。私、目立つの苦手なんだけど」
「嘘つけ」
そんなふうに言い合いながらも、互いの表情はどこか穏やかで、心地よい緩みがあった。
大人になった――というより、
“お互いを受け入れる余裕”が、少しだけ増えたのかもしれない。
───
ある日、授業が終わった夕方。
ふたりは大学図書館の閲覧スペースにいた。
美羽は、ノートパソコンでレポートをまとめていた。
智は隣で、参考文献に目を通しながら、時おりさりげなく美羽の文章をチェックしていく。
「この文、ここの“しかし”が多いかも」
「あ、ほんとうだわ、助かる」
気づけば、並んでレポートを仕上げるのが“日常”になっていた。
「昔だったら、あんたに添削されるのとか、絶対イヤだったかも」
「昔の君だったら、『黙ってろオタク』って言ってたかもね」
「……言ってたな、それ」
ふたりはふっと微笑み、目を合わせる。
けれど、ふと沈黙が訪れた。
本のページをめくる音だけが響く静かな空間。
そんな中で、美羽がぽつりと呟いた。
「ねぇ、智。私、最近考えることがあるんだ」
「ん?」
「将来、何になりたいかって、まだはっきりしてないけど。たぶん、ずっと“自分で決めたい”んだと思う」
「……君らしいね」
「でも、決めたことに、誰かが“うんって言ってくれるのも、すごく大事だって思った。……誰かっていうのは、たとえば、あんたとか」
智はその言葉に、軽く目を伏せた。
「僕は、何があっても君の“うん”の係だよ」
「……責任重いな」
「でも、嫌じゃないでしょ?」
「……ま、嫌いじゃない」
美羽は視線を逸らしながら、そっと彼の袖を引っ張った。
──
その夜。
帰り道の並木道。
街灯がオレンジ色の光を落とす中、美羽は足を止めた。
「……ねぇ、智」
「ん?」
「付き合ってるって、今さらだけど、ちゃんと“言葉”にしたことあったっけ」
「ないかも」
「じゃあ……今、言葉に・・・」
美羽は少し戸惑ったように笑った。
どこか高校時代のまま、けれど確かに“大人びた”表情で。
「私、あんたのこと、好き。……だから、これからも一緒にいたい。いい?」
智は頷く。
少しだけ頬を赤らめながら、真剣な眼差しで。
「僕も、君が好きだよ。ずっと前から」
そして、その言葉を確かめ合うように、
美羽はそっと彼の肩に額を寄せた。
頬をすり寄せるような、静かな温もり。
それはもう、“少女”ではない彼女が選んだ、
まっすぐで、思慮深く、でも甘やかな愛情の表現だった。
ふたりの距離に、もう測るものはいらなかった。
──
小さいあとがき
ふたりはこれからもきっと“にぎやかな沈黙の中で、
何気ない日々を重ねていく。
強がりなツンデレと、静かなオタク男子。
少しずつ成長して、少しずつ歩み寄って、
それでも“変わらないふたり”の物語は、今も続いている。
・
・
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最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!
この物語は、クールでちょっと素直じゃない女の子と、地味だけど芯のあるメガネ男子が、少しずつ「心の距離」を縮めていくお話でした。
最初は1メートル離れていたふたりが、
傘を共有し、花火を見上げ、そっと手と手が触れ合い……
組み合わせるがつけば、となりにいることが“当たり前”になっていました。
恋って、いつ始まるのかも、どう進むのかもわからないけど――
きそれは「誰かのことをちゃんと見て、ちゃんとによる止めたい」って思ったときから、はじまるんだと思います。
彼女はちょっとツンとしてるけど、
彼の前では、ほんのすこしだけ素直になれる。
そんな“ふたりだけの空気”を、楽しんでいただけていたら嬉しいです。
もしよければ、この物語が終わったあとも、ふたりが大学生活を歩む姿を想像してみてください。
きっと、今日もどこかの図書館で、彼女はツンとしながらも彼の袖をそ鉛いていることでしょう。
それまたどこかのページでお会いできることを願って!
脳三級