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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

秘密

 

今でも、ふと思い出すことがある。


あの頃、それは怖いだけのものではなかった。あの頃特有の、強い憧れのようなものがあったのだと思う。

好奇心が強く、無い物ねだりな私たちは、今でこそ愚かだと思うことでも、嬉々として行動に移してしまう。

思い出は無意識に掛けられたフィルターが幾重にも重なり、とても美しいままだ。


闇が少し溶けだしたような、夕暮れ時の空を見上げるたびに、私は当時の事を思い出す。


あれは、まだ残暑の残る九月のことだった。朝、教室へやって来た担任は、昨日より幾分やつれた顔で口を開いた。


「皆さんに、お伝えしなければいけない事があります」


ゆっくりと語られたそれは、顔も知らない同級生の訃報だった。


瞬間、静かだった教室の空気が、ざわりと揺れた。みんな一様に不安そうな顔をしている。

泣き出す子、それを介抱する子、口々に驚いた声を上げるクラスメイトたち。私も例にもれず、得体の知れない強い不安感が胸を刺して、目の前がチカチカと明滅する感覚に襲われた。


自分と同い年で、同じ学校に通っている同級生の、早すぎる死。


私にとって、それらはどれも刺激の強い言葉だった。ドキドキと、心臓が早鐘のように打ち付ける。先生の声掛けで黙祷を捧げながら、私は心の底から同級生の冥福を祈った。しんと静まり返り、時折誰かが鼻をすする音だけが聞こえてくる。


じっと目を閉じていると、少しずつ気持ちが落ち着いてくるのを感じた。まるで全速力で走った直後のように息苦しかった呼吸も、心臓の痛さも。

自分の胸の内に膨らんだ不安を吐き出すように、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。何度目かの深呼吸をした時、私は気づいた。


胸に残る不安感が、じわじわと、得体のしれない黒い興奮のような感情に塗り替えられていくのを。



当時中学二年生だった私は、例にもれず、多少気を患っているところがあった。なので、これはあの頃特有の、強い死への憧れや好奇心のようなものだったのだと思う。


家庭環境も友人関係も良好であり、特に虐められていることもなければ、細かい不満はあれど、人生を終わらせたいほどの大きな不満を感じたこともない。

ごく平凡で安定した学生生活を送っていた私は、心のどこかでスリルというか、強い刺激を求めている所があった。


そんな中、今まで身内の不幸の経験もない私は、この時初めて、死を間近で感じたのだ。顔も知らない同級生の死は、喉元を過ぎてしまうと、すぐに私の中でフィクションの産物へと変換されてしまった。今まで娯楽として読んでいた小説や漫画、テレビと同じように、だ。


リアリティの抜け落ちてしまった死は、それでも十分私にとって魅力的なものだった。

娯楽に耽る中で、死はどこか儚くも美しいもののように読み取っていた私は、この興奮を誰かと共有したい衝動に駆られた。


しかし、同時にそんな事を言い合えるような友人がいないことも、十分に理解していた。

さすがに不謹慎だ。

こんなことを嬉しそうに話せば、友だちがいなくなってしまうと、私の理性ががなっている。残りのホームルームの時間を、私はもやもやとした気持ちで過ごした。



彼女に出会ったのは、訃報を聞いてから数日経った、放課後のことだった。

一緒に帰る友人たちが、みな部活や委員会で忙しいため、私は一人で家路についていた。話をする相手もおらずぼんやりと帰り道を歩いていた私は、ふと亡くなった同級生のマンションが近くにあることを思い出した。


訃報を聞いてからまだ一週間と経っていないため、クラスでは未だにその話で持ちきりだった。その際、どこから仕入れて来たのか、亡くなった現場であると、同級生の自宅のマンションの場所が話題に上がったのだ。

それを私は興味のない風を装いながら、野次馬根性でしっかり記憶していたわけだ。丁度帰り道の近くだったため、いい機会だと私は寄り道をすることにした。


路地を曲がると、目の前に年季の入ったマンションがそびえ立っていた。五階建てのマンションは日々の雨風であちこち汚れており、ここで人が亡くなったという事実も相まって、私は不気味で威圧感のある印象を受けた。


じろじろと見やっていると、先客がいることに気が付いた。同じ学校の制服を着た少女が、マンションを見上げるような形で、私に背を向けて立っている。

少女は長い髪を上品にハーフアップにしており、ひざ下より少し長めのスカートの前で、指定の手提げカバンを両手でそっと持っている。その出で立ちに、どこか真面目で、上品そうな印象を受けた。


亡くなった同級生の友人だろうか。

途端に、興味本位で覗きに来た自分が恥ずかしくなり、私は居心地の悪さを感じた。しかし、ここまで来たのだ。顔も名前も知らなくても、同じ学校の同級生として、手を合わせるべきではないか。

そう思い立った私は、少女の横に歩み出て、そっと手を合わせて目を閉じた。そして、遊び半分で来てしまった事を心の中で繰り返し謝った。


多分、三十秒程だと思う。

割とたっぷりと時間をかけていたのだが、隣の少女の気配が微動だにしないことが気になり、私は薄目を開けてチラリと顔を覗き見た。


少女は、マンションを見上げたまま、顔を紅潮させて微笑んでいた。


瞬間、ゾッと怖気が背筋を駆け抜け、私は反射的に視線を外すと、思わず一歩下がった。

同級生の死を偲んでいたのではなかったのか。何がそんなに楽しいのだろうか。

自分が興味本位で見に来たことを棚に投げ上げて、私は少女の場違いな様子に恐怖を感じた。嫌な汗が背中を伝い、胸がグッと締め付けられるような感覚が気持ち悪い。一歩下がるごとに、スニーカーがアスファルトの石を踏む音が、耳障りなくらい大きく耳に響いた。


「あら、あなた」

ドキリとして顔を上げると、先程までの恍惚とした表情は嘘のように、真面目そうに澄ました顔の少女と目が合った。今初めて私の存在に気づいたかのように、目にはうっすらと驚きの色が浮かんでいる。

いかにも文学少女と言った出で立ちの少女は、薄いフレームの眼鏡をかけており、指を挟み入れた文庫本を、身体の前でカバンと一緒に大事そうに持っていた。私がどう反応しようかと右往左往していると、少女は眼鏡の奥の目をすっと細めて、一歩こちらに踏み出してきた。


「もしかして、あなたもなの?」

「え、なにが・・・」

少女の言っている意味が分からず、詰め寄られた分後ろに下がりながら、私は答えた。もしかして、興味本位で冷やかしに来たのがバレたのだろうか。

私は冷や汗をかきながらも、とにかくその場を取り繕おうと必死だった。必要以上の笑顔を顔に張り付けて、何歩目かの後退をした時、少女が大きく一歩を踏み込んできたことで、一瞬で少女に追いつかれてしまった。


すぐ目の前に迫った、少女の顔。

私がぎょっと目を剥いたのと同時に、彼女は突然両手で私の右手を握ってきたのだ。視界の外で、少女の持っていたカバンと本が、アスファルトの地面に叩きつけられる音がする。

自分の理解が追い付かず、キャパオーバーになった私の小さな頭は、もう限界だった。真っ白になった頭の中で、少女は確かにこう言った。


「あなたも、死んでみたいの?」


私はきっと、酷く頭の悪い顔をしていたに違いない。理解が追い付かずポカンと呆けている私の顔を、少女はじっと見つめてきた。

胸に抱くように両手で握られた手の感触と、まっすぐに見つめてくる熱っぽい視線。鼻孔を突く女の子独特の甘い匂いに、なんだかドキドキとする。


死んだ同級生のマンションの前で、初めて会った同じ学校の少女と、非日常な会話をしている。

そんな特別感に、私は心をくすぐられた。


「死んでみたいというか、まあ、興味はある・・・けど」

私は気恥ずかしくなり、少女から視線を外しながら答えた。

その答えに嘘はなく、死んでみたいとまで思ったことはないが、死に興味があるのは本当だった。実際、少しでも死に触れてみたいと、こうしてわざわざここまでやって来たのだ。私の中途半端で曖昧な返答に、少女は満足した様子で、ふふっと微笑んだ。


「私たち、良いお友だちになれそうね」

最初と違い、上品な笑顔を浮かべた少女が、少しはにかみながら言った。つられて私も笑った。話の内容のおぞましさなど全く気にせずに、能天気に、雰囲気に酔ったように。

こうして、私と彼女の奇妙なお友だちの日々が始まった。


次の日から、彼女は私のいる教室へ、休み時間のたびに足げく通ってくるようになった。

本日最後の授業終了のチャイムが鳴って少しすると、やはり彼女はやって来た。開いた教室のドアから、教室の中をぐるりと見渡して私を見つけると、上品そうに小さく胸の前で手を振りながら、私の机へと駆けてくる。

彼女は授業が終わるたび、決まって私の手を取ると、「行きましょう」と微笑んで、私を教室から連れ出し、屋上へ続く暗い階段へと誘った。



屋上へ続く階段を一段上るたび、少しずつ生徒たちの喧噪が遠のいて行き、視界もどんどん暗くなっていく。

先に上っていた彼女が、階段を八割程上ったところで立ち止まり、そっと背伸びをして、屋上の扉がある上階の様子を覗き見た。

「大丈夫、誰もいないわ」

振り返って上品に笑う彼女に笑い返し、私たちは残りの階段を駆け上がった。


屋上への扉は施錠がされているため、外に出ることは叶わない。その為、私と彼女は扉の前の床に肩を寄せ合って座り込んで、声を潜めて秘密の会合を始めた。議題はもちろん、死についてだ。

 

朝から彼女とのおしゃべりを重ねる中で、分かったことがある。それは、私と彼女は似ているところが多いことだ。

彼女もまた、家庭環境や友人関係は全く問題なく、身内に不幸があったこともない。私と同じで、今回の同級生の訃報が今までで一番身近な死であったこと。そして、その同級生の死をきっかけに、死への興味が抑えきれない程に膨らんでしまった、ということだ。


彼女はスカートのポケットから携帯を取り出すと、おもむろにあるブログのサイトを開いて寄こした。

それは、いわゆる病んでいる女性のブログだった。リストカットをしてしまったこと、薬を多量に摂取してしまったこと。痛々しい内容の文章がつらつらと書き連ねられていた。それを読んでいる間、私の心には、怖さや不安、ブログの主を心配する気持ちよりも、まるで漫画や映画を観る時のような、ワクワクと心が跳ねるような気持ちが上回っていた。

それは彼女も同じだった様子で、横から画面を覗き込んでブログに目を通す彼女の顔に、先ほどまでの上品な笑顔はかけらもなかった。初めて会った時と同じ、心底嬉しそうな、蕩けたような笑顔を浮かべ、「すごいよねぇ」とうわ言の様に囁いている。


どうやら彼女は、死に異常に興味があるようで、この話題を話す時だけ、とても幸せそうに、顔を崩して笑うのだ。

それ以外の時は、いかにも真面目で澄ましたような顔をしているので、最初はそのギャップに心底驚いた。しかし、それと同時に、この顔はこの話題を共有していないと見られない、すなわち私にしか見せない顔なのだと理解してからは、この表情が愛しくて堪らなくなった。

そんな彼女の様子を横目で観察しながら、私は再びブログへと目を落とした。


「なんだか憧れるな、この世界観っていうか、なんていうか、さ」

ぽつりと、無意識にそんな言葉が私の口から零れ落ちた。憧れるというのは語弊があるかもしれないが、その時私が持ち合わせていた語彙の中で、今のこの気持ちは、憧れというものが一番しっくりと来たのだ。死というもの、精神が病むということ、薬やカッターナイフという不穏な分類にカテゴライズされるようなものに、心が強く惹かれるのを感じたからだ。


「分かる、分かるよ!」

彼女は勢いよく私の右手を握りしめると、自分の携帯が床に落ちたのも気にせずに、鼻息荒く紅潮した顔で何度も頷いた。

興奮した様子の彼女を見て、彼女も自分と同じ気持ちなのだという事実がとにかく嬉しかった。そして、今まで誰にも言えなかった黒い興奮を共有でき、尚且つ肯定され、私は自分の心がいっぱいに満たされていくのを感じた。

私は「分かってくれる?そうだよね」と、彼女の言葉に相槌を打ち続けた。


屋上へ出る扉にしつらえられた小窓から差し込む光が、空気中に舞う細かい埃を捉え、キラキラと光っている。輝くスポットライトの中で笑う彼女は、とても無邪気で、私にはとても美しく見えた。


私たちは初めて出会ってから一日と経っていないとは思えない程に、まるで貪り合うように夢中でおしゃべりに勤しんだ。

特に理由はないのに、むくむくと湧き上がる死への渇望。本当に死にたいわけではないけれど、ふっと消えたくなる時があること。死というものに触れて、ヒリヒリとしたスリルを感じたくなること。痛いのも苦しいのも嫌いだが、リストカット等の行為には興味があること。漠然とした、死への憧れがあること。確か、こんな内容だったと思う。


矛盾の多い願望をぶつけ合いながら、私たちはとても興奮していた。身内の死も経験したことのない私たちにとって、顔も名前も知らない同級生の死も、自殺未遂を繰り返す様子をブログに書き連ねる知らない女性のことも、すっかり娯楽に成り果てていた。

まるで恋愛相談をする時のような無邪気さで、おぞましい内容を話す私たちの視界の端で、開きっぱなしだった携帯のブログの画面が、静かに黒く塗りつぶされた。


次の日も、相変わらず彼女は休み時間のたびに私のクラスに現れた。そんな彼女の様子に、自分は彼女に必要されているのだと内心自惚れながら、しかし見てくれだけは一丁前に「しょうがないな」という風に小芝居を打ち、私は足元軽く、腕を引く彼女に続いて教室を後にした。


秘密の会合場所に着くと、彼女は私を振り返りながら開口一番こう言った。


「ねぇ、飛び降りてみない?」


恐ろしい言葉を、目を輝かせて彼女は言った。振り返る様が、まるでスローモーションのように流れていく。

「とび、おりる?」

一瞬、冷たい恐怖が背筋に落ちるのを感じた。文字通り目を丸くした私に、彼女は「そうよ」と微笑み返した。


「私、一度死んでみたかったの。ずっと憧れるだけでできなかったけれど。でも、あなたとならできる気がするの」

言葉に詰まる私に構わず、彼女は畳みかけるように、私の目の前に何かを突き出してきた。

「見て」

差し出されたそれは、よく見かけるような銀色のカギだった。鍵にはキーホルダー等は付いておらず、無機質な青いネームプレートだけが、カギに寄り添うようにゆらゆらと揺れている。

「それ・・・」

何の鍵?と問いかける私の言葉を遮って、彼女は悪戯な笑みを浮かべて私の右手を取った。そのままグイグイと手を引き、冷たいドアノブを握らせて囁いた。


「ここ、だよ」

ドアノブを握った私の手に、彼女の手が重なった。冷たいドアノブが、二人分の体温でじわじわと熱を帯びてくるのを感じる。埃っぽい匂いと、隣の彼女の匂いが混じり合って、頭がクラクラする。

まるで麻薬のような、甘美な匂いだ。


「ねぇ、一緒に、行こうよ」

 ゆっくりと言葉を区切りながら、甘く彼女は囁く。

「あなたと、一緒がいいの」

彼女にとって自分は特別であると自惚れていた私にとって、その一言はどんな言葉よりも心に甘く沁みた。


彼女と境遇が似ているのも、非常に死への興味が強いのも、もしかしたら運命なのかもしれない。友だちと共有できない特殊な好奇心を秘めた私たちは、特別な絆で結ばれていて、今やっと出会えたのかもしれない。


この子には、私が必要なのだ。


そう思ったのと同時に、胸が高鳴るのを感じた。彼女となら、どこまでも行ける気がしたのだ。


「うん、いいよ」

自然と、穏やかな笑顔が浮かんだのが自分でも分かった。

「一緒に行こう」

彼女はぱっと顔を輝かせると、あの恍惚とした顔で私に微笑んだ。「嬉しい、嬉しいな」と、心の底から嬉しそうに喜ぶ彼女を見て、私は心が満たされるのを感じた。

家族愛とも、恋愛とも違う、彼女に対するこの愛しい気持ちは何なのだろうか。

胸に満ちる名前の分からない充足感に浸りながら、目の前の愛しい彼女と笑い合った。


決行は明日の放課後。彼女と別れ際にそう決めた。お互いの気持ちが変わらないうちに、行動に移すためだ。


その夜、私は不思議と怖さや不安を感じなかった。布団に横になりながら思い浮かべるのは、両親や友だちの顔ではなく、彼女の事ばかりだ。たった三日前に出会ったばかりなのに、まるで昔から親友だったように。

私は、彼女に夢中だった。

飛び降りるということは死ぬことだ。頭では理解しているのだが、全く恐怖を感じることはなかった。ただ、彼女と一緒に飛び降りるという行為自体が、なぜかとても素敵な事のように感じて、私は遠足前日のようなワクワクした気持ちを抱えながら、ゆっくりと眠りに落ちて行った。



授業を受けている間、私はずっと上の空だった。頭の中は放課後の事ばかりで、それ以外の情報は何も頭に入って来ない。ただいつも通り机に向かって座り、お弁当を食べて、休み時間のたびに彼女と過ごした。


あっという間に放課後になり、私たちはスキップをしながら、人気の少ない廊下を手を繋いで進んだ。廊下の窓からは、美しい夕日が差し込んでいる。


「せーの!」

声を合わせて、カギの刺さったドアノブを回す。

二人分の力が加わった扉は、小さく抵抗を見せた後、向こう側へと難なく開いた。私たちを迎え入れるように響く、扉が重く軋む音と、目の前に広がった真っ赤な空を、私は生涯忘れることはないだろう。


初めて目にした屋上に、私たちは思わず息を飲んだ。入ってはいけない所にいる背徳感と、今から行う二人だけの特別な儀式。その場にふさわしい美しい夕焼け。

まるで私たちのために用意された舞台のようで、私の胸にはふつふつと興奮が沸き上がっていた。

「死んだらね、生まれ変わって、次の世界に行けるんだって」

彼女が、私の手を引いて、一歩、屋上へと進み出た。


「こことは違う世界だよ」


夕日の中で、彼女はあの幸せそうな顔で笑った。

何かの本で読んだのだろう、どこか宗教的な話を嬉しそうに話している。私は、どこか熱に浮かされたような高揚感の中で、ぼーっとしながら彼女の事を見つめていた。


彼女はおもむろに自分のスカーフを抜き取ると、私の右手首と自分の左手首に巻き付けた。

緩く巻き付けたスカーフの下で、指を絡ませて手を握る。

「これで、一緒」

悪戯な笑みを浮かべて、彼女は私の顔を覗き込んだ。


この時、彼女は確かに死神だった。

目の前の彼女は、とても美しく、愛らしい。生まれ変わったらまた出会おうねなんて、確証のない夢物語を、まるで本当にあることのように無邪気に笑い合った。

繋いだ手を陽気に揺らしながら、ゆっくりと、屋上の隅に向かって。


屋上は四方を金網に囲まれており、二メートル程の高さの金網の先は忍び返しになっている。一見どこからも出られないように見えたが、右側の隅の方に、一か所だけ緑色のネットが張られただけの場所があった。

同じように決行した人がいたのだろうか。金網には、人一人通れる程の小さな穴が乱暴に開けられており、それを隠すようにネットが張られていた。


私たちは喜んだ。やはり、これは私たちのために用意された舞台なのだと。


軽い力で引っ張ると、雨風を受けて脆くなっていたらしいネットは、いとも容易く地面に落ちた。

「じゃあ、行こっか」

まるで遊びにでも行くような軽さで、私は言った。

穴を抜けるためにしゃがみ込むと、繋いだ彼女の手が、わずかに震えているのを感じた。怖いのだろうか。

私はナイト気取りで手を強く握り返すと、「大丈夫だよ」と笑いかけた。安心したような彼女の顔を確認して、金網から顔を出した。細い足場の向こう側には、遥か下に小さくなったグラウンドが見えた。


瞬間、怖気が背中を突き抜けて行った。


頭が下の方に吸い込まれそうな感覚に襲われて、私は金網に頭をぶつけるのも気にせずに、勢いよく屋上の中へと頭を引っ込めた。

胸には、初めて同級生の訃報を聞いた時の、あの得体の知れない不安感が渦巻き、狂ったように打ち付ける心臓は貫かれたように痛んだ。

頭の中には、昨晩少しも浮かばなかった両親の顔が、続いて友人や先生の顔が、雪崩のように次々と浮かび上がった。


一体私は、何をしようとしていたのだろう。


取り返しのつかないことをしようとしていたと、今更ながら理解した。

怖い、震えが止まらない。

ゲームみたいに、死んだら生まれ変われるなんて、嘘だ。

死んだら、私の人生はおしまいなのだ。

そんな簡単なこと、分かっていたはずなのに。この三日間、私を支配していた熱狂的な熱い何かが、自分の中から消えていくのを感じた。


「うそつき」

気が付けば、座り込んだ彼女の顔が、すぐ側にあった。蔑むように、しかし心底ほっとしたような、そんな複雑な表情で彼女は私に言った。

それから、放心したように座り込んでいた私に勢いよく抱きつくと、私の首元に顔をうずめ、声を上げて泣いた。つられるように、私も泣いた。


命を軽く見て、馬鹿なことをしようとしていた自分の愚かさ。見下ろした時に感じた、闇のように深い恐怖。そして、一緒に飛び降りるという約束を果たせなかった、自分の不甲斐なさ。色々な気持ちがない混ぜになって、涙と嗚咽が止まらなかった。

繋いだ手と、寄せ合う身体から暖かい体温を感じ、生きていることを改めて実感する。

彼女の肩越しに見上げた空には、もうあの美しい夕焼けはなかった。闇が溶けだしたような仄暗い空が、私たちを見下ろしていた。



次の日から卒業するまで、私たちは一言も話すことはなかった。

たまに廊下で見かけることはあっても、彼女はまるで私が見えていないかのようだった。あの三日間、私の居場所だった彼女の隣には、いつも違う少女がいて、澄ました顔の彼女は、なにやら楽しそうにおしゃべりをしている。そんな彼女に最初は戸惑ったが、私も無理に話しかけるようなことはしなかった。

元の鞘に収まる形で、今まで仲の良かった友だちと共に、安定した学生生活を謳歌した。


しかし、彼女はどうして急によそよそしくなったのだろうかと考えることはままあった。

死に興味がなくなったのだろうか、なんとなく気まずくなってしまったのだろうか、いや、土壇場で日和った私に失望したのかもしれない。

きっと彼女は、自分を引っ張って向こうの世界に連れて行ってくれる人を待ち望んでいたのだろう。私はそれになれなかった。それだけのことだ。




当時の事を思い返して、今生きているのはあの時日和った自分のおかげであり、飛び降りなくて良かったと心底自分に感謝している。


しかし、あのたった三日間、私は確かにかけがえのない彼女という友人と出会い、美しい日々を送っていたのだ。

思い出補正によってあの日々が輝いて見えていることは百も承知だが、それでもあの三日間は、今まで生きてきた中で一番、他人に自分の汚い部分を曝け出し、生を痛感した美しい日々だった。

今でも、彼女と私を繋いだスカーフが、風にはためく柔らかい感触を鮮明に思い出すことが出来る。

 

十数年経った今でも、私は未だに彼女に捕らわれたままだ。名前も知らない彼女との思い出を反芻し、まだもう少し生きてみようと、口の中でぽつりと呟いた。


目の前には、闇が溶けだしたような、仄暗い夕暮れ時の空が、ミニチュアのような町を飲み込むように広がっている。


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