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私が僕だった頃へ

作者: リュウ
掲載日:2024/04/30

 私は、退院して久しぶりに自宅に戻っていた。

 左裂孔原生網膜剥離手術で入院していた。

 勤務先までの移動中、地下鉄中島駅の階段を上がって地上に出た時に眼の異常に気付いた。

 晴れ渡った青空に黒い粒粒がいっぱい散乱していた。

 眼科に行くと、直ぐに大学病院を紹介された。

「直ぐ、行け」と言う。

 大学病院で診察を受けると、直ぐ入院となった。

 それがら、二週間あまり、大学病院で過ごす事となった。

 硝子体茎顕微鏡下離断術と水晶体再健術の2時間あまりの手術を受けた。

 硝子体手術は、眼球にガスを入れ、その浮力により網膜を押し当て穴を塞ぐ。

 目の中に体液で徐々に満たされ、ガスが排出されるらしい。

 水の中から外を見る感じで、ガスとの境目が揺れて見える。

 手術後は、ガスの浮力を利用するため、顔を下向きにするうつ伏せで過ごさなければならない。

 5日目当たりから、シャワーや洗髪が出来るようになる。

 シャワーは、看護師の介助が必要となる。 

 私は、ソファに腰を掛け、久しぶりの我が家を見まわしていた。

 入院中、佐々木と言う看護師に洗髪して貰った時、看護師の指の感触で、私が僕だった頃へ瞬時に戻された。

 何もかも、輝いていたあの頃。

 スマホの連絡先一覧を表示していた。

 私が僕だった頃の彼女の電話番号を探した。

 彼女の本当の名前がわからないので、僕が勝手に付けた彼女の名前。

 個人情報は、教え合わないという彼女と約束だった。

 純粋に人を好きになるのに、個人情報なんか必要ないと彼女が言ったから。

 だから、電話番号しか知らない。

 でも、僕はそれで十分だった。

 彼女のことがわからなくて、”知りたい”と言う欲望で頭がいっぱいになる。

 僕と一緒にいる彼女は、本当の彼女だったのだろうか?

 嘘をついていたなんて、そんなこと関係ない。

 僕と一緒の時の彼女が好き、大好きだったから。

 瞬きなんかしたくない程、ずーっと見つめていたかった。

 彼女とは、会いたくなくなったら、電話に出ないという約束だった。

 それが、別れの合図だった。

 僕は、気にしなかった。

 僕は、彼女に電話しないことは考えられないからだ。

 しかし、電話出来ないことが起こってしまった。

 僕が、交通事故にあってしまったからだ。

 交差点で信号待ちしていたら、後ろからぶつけられた。

 ノンブレーキで突っ込んできたのだ。

 僕は、入院し、スマホも壊れてしまった。

 しばらく、彼女に電話できなかった。

 彼女は、僕が”会いたくなくなった”と思ったに違いない。

 あれから、電話は通じていない。

 

 その後、他の人と付き合おうとしたが、彼女を忘れきれなかった。

 結婚まで、たどり着けなかった。

 僕は、もう還暦が見えてくる歳になっていた。

 僕は、私になっていた。

 彼女に会うことを諦めていたのに、あの看護師の指の感覚が、彼女の思いを覚醒させてしまった。

 私の頭は、私から僕へと戻ってしまった。

 死ぬ前に、会いたい。一度くらい。

 彼女に会いたい。

 顔を見たい。

 匂いを嗅ぎたい。

 触りたい。

 声を聞きたい、せめて、声だけでも。

 僕は、発信した。

<鳴ってる>

 鼓動が速くなる、体温の上昇が感じられる。

 僕は、スマホを見つめ続ける。





「あっ、佐々木さん、待って」

 ナースステーションの看護師長から声がかかった。

 仕事から上がろうとしていたところだった。

 何かしらとわたしは、受付口に向かった。

「これ」と言って封筒を差し出された。

 わたしは、封筒を受け取り、何か書かれているのかと封筒を裏返してみたが、何も書かれていない。

「何ですか?」

 わたしは、看護師長を見つめた。

「1号室の田中さん、今日、退院だったの。

 それで、これをあなたに渡してくれって。

 手紙みたい、一応、中身は何ですかって訊いたの」

「へぇー、田中さんが……、手紙ねぇ……」

 何だろうと封筒を見つめる。

「ラブレターかもよ」ニヤニヤした冷やかしだ。

「ラブレター?今どきですか?」

「田中さん、還暦近くじゃなかった?あの歳ならラブレターかも」

 看護師長から、冷やかしの笑顔が消えない。

「お母さんのところ行くの?」

 母は、この病棟に入院していた。

 ここは、眼科病棟。軽い網膜剥離で入院していた。あと少しで退院する。

 そして、わたしは、この病院の眼科病棟担当の看護師をしていた。

 わたしは、「ええ」と返事をして、封筒を手提げ袋に投げ込込んで、母の病棟に向かった。


 母は、ベッドに座り、晩御飯を食べていた。

「変わりない?」わたしは、ベッドの横にあるパイプ椅子を取り出し座った。

「変わりないわ。もう、飽きてきたわね。スマホとテレビばかり見てるわ」

「もう少しよ、我慢しなさい」

「据え膳上げ膳で、有難いけど、怠け者になるわね」

「たまには、いいじゃない。ゆっくりすれば」

 私は母子家庭だ。この母が私を育ててくれた。

 父のことは知らない。もう、知りたいとも思わなくなった。

 私は、封筒を思い出して、手提げ袋から取り出した。

「なぁに、それ」母が封筒を見て言った。

「ラブレター」私は、大げさな笑顔を作って言った。

 母は、目を大きく開け、大きく頷いた。

「いい人?」

「うそ、患者さんがくれたの。

 還暦近いおじさんよ。この前、たまたま洗髪してあげたの。

 洗い終わって顔のタオルを取ったら、泣いていたの。

 私、なんかしでかしたのかなって。焦って訊いたの。

 お湯、熱かったですか?とか、力が入りすぎましたか?って」

 母は、ご飯を食べながら頷く。

「違うって、言ったんだけど。ずーっと泣いていたの。変でしょう」

 母は、横目でちらっと私を見て、食事を続けた。


 私は手紙の封を開けた。 

 綺麗な字。


 拝啓、佐々木さん。

 あなたの名前は、名札を見ました。

 先日、洗髪していただいた田中です。

 洗髪の時、泣いてしまって、いらない心配をおかけしたようなので、筆を執りました。

 あなたは、思ったでしょう。なぜ、この人は泣いているのか?

 あなたの手が、私の髪をすいた時、私の何かが敏感に反応したのです。

 それは、遠い遠い記憶だった。

 長く細い指の腹の感触。

 はるか昔の感触。

 その感触が、私を過去へ運んで行ったのです。

 それは、私の大切な人です。


 彼女との出会いは、あるスナックでした。

 結婚式の二次会の客が、流れ込んだ賑やかな店でした。

 マスターは、「ごめんね」と比較的静か目のカウンターに案内してくれた。

 そのカウンターに彼女が居ました。

「邪魔でなかったら、一緒に飲みませんか?」

 僕は、一目で気に入ってしまい、思わず声を掛けました。

 返ってきた声が、高くて澄んでいたので驚きました。

 話も面白て、あっと言う間に時間とお酒がすすんでいきました。

 話が飛んだり、主語がないとか、血液型Bそのものだと言われていた私の話にも付いてきてくれました。

 きっと、彼女は頭かよくて、私に合わせてくれたかもしれません。

 マスターからのラストオーダーで、お店を出た頃には、二人とも千鳥足に近かった。

 タクシーを捕まえに路地を歩いて広い道に出ました。

 そこには、幅5メートル程の川が流れていました。

 たしか、カモカモ川って名だったと思います。

 川の流れを見ていたら、急に彼女が橋から飛び込もうとしたのです。

 私は、慌てて彼女を止めました。

 そんな行動を見て、彼女を家に送っていくことを諦めました。

 彼女を抱えながら、(抱えられながら?)近くのホテルに入ったのです。

 言っておきますが、変な気持は、無かったです。

 私たちは、倒れ込むように部屋に入りました。

「お風呂、お風呂」と言いながら、彼女はガラス張りの風呂場に行きました。

 私は、ソファに身を預けて目を閉じていました。


「お風呂、入ろう」彼女は、両手を引いて起こそうとしていました。

 なぜ、こんな事になってるかわからなかった。

 こんな事っていうのは、初めて会った女の人とラブホにいること。

 水の音が聞こえる。

「寝ちゃだめ。ほら、お風呂、はいろう。頭、汗臭いよ。脱いで脱いで」

 彼女はそういうと僕の服を脱がしている。

「バンザーイ」笑顔がかわいい。僕は、両手を上げる。

 子どもが服を脱がされるように、身を任せていた。

 そのまま背中から倒れると、ベルトやファスナーを緩めるとジーンズの裾を引っ張った。

 なかなかジーンズが脱げず、「うーん」と力いっぱい裾を引っ張っていた彼女は、笑いながら後ろにひっくり返っていた。

 僕は、あっと言う間に丸裸になった。

 そして、背中を押され、バスルームに連れていた。

「シャンプーしてあげる」

 不思議なことに、私は、全然恥ずかしくなくて、ずーっと前から一緒に暮らしている気がしていました。

 その時のシャンプーして貰っている彼女の指の感じが、あなたとそっくりだったのです。

 目を閉じていると、彼女に洗って貰っている錯覚してしまう程の衝撃でした。

 私の皮膚が覚えていた。あなたのその長くて細い指の感触が、指の腹の感触が、彼女と同じだったのです。


 朝が来て、酔いが醒めた私たちは、少しの間、無言で過ごしました。

 何を言っていいかわからなかったから。

「昨日、何かしたならゴメン」最初に私が口を開いた。

「こちらこそ」と、彼女は下を向いて呟くように言った。   

「僕の名前は……」

「ちょっと、待って」

 彼女は、僕の言葉を止めた。

「名前は、いらない」

 彼女は、困惑した私の顔を見ると話を続けた。

「名前って、親があなたにつけたの。

 あなたに何かを託してね。

 名前は、文字とか響きとか、イメージがこうあってほしいという親の思いなの。

 名前を聞くと、本当のあなたとは違う別のイメージを私が受け取ってしまう。

 本当のあなたを理解するのに、邪魔になるのよ。そう思わない?」

 私は、「そうかな」と顎に手を当て、生えかけた髭を触った。

「年齢、住所、学校名、会社、兄弟とか親の情報は、聞きたくないの」

「いいけど、僕は、また、君に会いたいんだ」

「通話とSNSだけで充分よ」

「呼ぶときは?」

「あなたとか、君とかでいいわ」

 私は、彼女の条件を従うことにした。

 私は、既に彼女が好きで、どんな形でもいいと思ったから。

 彼女と会えるだけでも。

 連絡は、電話だけ。

 会いたくなくなったら、電話に出ない事。

 それだけが、彼女との約束だった。


 それから、彼女とのデートは続いていた。

 彼女の言う通り、名前とか、どうでも良かったし、支障は無かった。

 私はどんどん彼女にのめり込んでいった。

「会っていない時、何をしているか、気にならない?」

 突然、彼女は突然そんな意地悪なことを言う。

「他の人と会っていうかも」といたずらな笑いを浮かべる。

「そんなこと言わないで」という困った顔の私に「ウソよ」って微笑む。

 彼女のことは、知らないことばかり。

 それが、彼女を追いかけたいと思うのかも。

 私は、結婚をしたいと考えるようになっていた時、事故に会ってしまったんだ。

 ただ、交差点で信号待ちをしていたのに、後ろから来たハリヤーにノンブレーキで突っ込まれた。

 交差点に入る時に、床に落ちたスマホを拾っていたそうだ。

 全く信じられないことをするヤツだ。

 私は、二週間入院し、スマホは壊れていた。

 私は、彼女に連絡出来なかった。

「相談したいことがある」って、電話が来ていたのに。

 そう、それから、彼女に電話をしても出て貰えなかった。


 会いたくなくなったら、電話に出ない事。

 それだけが、彼女との約束だったから。

 

 私は、それから良い人に巡り合えなかった。

 と言うか、私が愛せなかったのだろう。

 彼女が忘れられずに。

 ずーっとだ。引きずってしまった。

 

 思い切って、彼女に電話してみようと思います。

 お互いに歳をとってしまったけど、「昔話だね」って話したいんだ。

 彼女は、あれから結婚しているかもしれないし、私のことなんか忘れているかもしれないけど、迷惑かもしれないけど。

 ただ、彼女の声が聞きたいんだ。

 

 佐々木さん、ありがとうございます。 

 私に彼女を思い出させてくれて、電話をする勇気を与えてもらいました。

 

 敬具




 わたしは、そっと手紙を手提げ袋に入れた。

「手紙、何の用かしら」

 母は、私の顔を覗き込んだ。

「お礼らしいわ。わたしが洗髪してあげたら、昔の恋人を思い出したんだって」

「ロマンチックだね。読んでいいい?」

 母は、手提げ袋から手紙を取り出した。

「ええ、食べ終わったの?下げるわ」

 わたしは、母の配膳を下げに行った。

 その時、同僚と会い、数分、立ち話をしてしまった。

 面会時間は20時までだ。急いで、母の病室に戻った。


 母は、ベッドの上に正座し下を向いていた。

「お母さん、具合がわるいの?」

 わたしは、母の横にしゃがみ、母の顔を覗き込む。

 母は、泣いていた。腿の上に置いた右手には、手紙が握りしめられていた。

 その手が震えている。

「どうしたの?」問いかけるわたしに母は呟いた。

「これ、私のことなの」と、ぐしゃぐしゃになった手紙をわたしに手渡した。

「彼に相談したかったのは、妊娠したこと。

 彼が電話に出なかったから、嫌われたとずーっと思っていた。

 事故にあったから、電話できなかったのね……」

 母の瞳から、ぽろぽろと丸い涙が落ちてくる。

「妊娠って」わたしは、思わず呟いた。

「あなたよ」母は、少し顔を上げ、わたしを見ると頷いた。

 わたしは、母が彼を愛している事を直観した。

 結婚しないで、私を育ててくれた母。

 父のことを聞いても、いつも笑って誤魔化していた母。

 彼に嫌われていなかったという事実を噛みしめるように肩を震わせていた。

 母は、彼の手紙で若かったあの頃へ、好きだった人と居たあの頃へ戻って行ったのだろう。

 その時、母のスマホが鳴った。

「あっ」スマホの画面を見た母の瞳は大きく開かれ、細い肩が固まった。

 スマホは、着信を繰り返し伝えている。

「彼からの電話だわ、どうしょう……」

 母は、わたしの顔を見上げた。

 わたしは、電話に出るようにと母の顔を見つめながら頷いていた。



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