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永遠

「あの子、ちゃんと名前があったのね」

 窓の残骸の中でぽつりと、シャレムはつぶやいた。それどころか、あの闇の君が名前を許していたことにも、驚かされた。

 彼の心は決して開かないのだと思っていた。石のように冷たく、硬い扉があるのだと。

 でも、自分が見てきた姿が全てではないのだと思い知る。闇の君のことも、神鳥のことも、結局自分は何も知らないままだった。

 自分はわが身を傷つけてまで、冥府に行こうとは夢にも思わなかった。あの小鳥の深い想いには、及ぶべくもない。


「あの闇の君と名前で呼び交わす仲とは……全天をカチ割りそうな衝撃を与えて去りましたね」

 ヴェリタもさすがに思考が追いつかない様子で、二人が去った空間をぼんやりと見つめている。

「あの子の片思いだと思っていたわ。なるべく早く忘れられることを祈ってた。まさか、自分がお邪魔虫だったなんて」

「邪魔なんて思ってませんよ、あの子は」

「そうかしら……」

 

 ヴェリタの言うことは、おそらく正しい。

 常に人の思惑に翻弄され、理不尽な目にも遭ってきた神鳥だが、一度も人を恨んだことはない。悲しみ傷つくことはあっても、それを他人にぶつけたことはまるでなかった。

 そういうところが似ている二人だ。


 シャレムはふと、心が泡のように軽くなるのを感じていた。遠い過去からこれまで持ち続けてきてしまった荷物を、ようやく下ろすことができたかのような。何もかも、在るべき場所へたどり着いたのだという気がした。

 かつて想っても想っても届かなかった神の幸せを、これからは心から祈ることができそうだ。


 振り向けば、巨人族と何か話している夫の姿が目に入る。何があっても、自分を愛し続けてくれた伴侶。自分が選び取った未来。

 一瞬ばかり目を合わせた至上の夫婦は、同じ表情を浮かべて微笑んだ。



「リーシュ」

 この世で最も愛しい神の腕に抱かれ、そのよく響く声に名を呼ばれて、リーシュは目覚めた。

 もう二度と会えないとも思った姿を目の前にして、涙は止めようもなかった。

「エンデ様……エンデ様」

 言いたいことが言葉にならずに、名前ばかりを幾度も呼ぶ。すると死の王は愛おしげにうなずいては、目元にそっと唇を寄せ、まだ宝石に変わる前の涙を吸い取った。

 驚いて顔をあげると、今度はその柔らかな頬、そして、ぽかんと空いたままの唇がふさがれる。


 起こった事が、しばらくまともに受け止められなかった。あまりに幸福で、脳が思考をやめてしまう。

 長い指が頬を撫で、白銀の髪を梳き、手を包み込み絡ませる。夢でも見ているようだ。あるいはこれは夢かもしれない。

 鳥の姿の時にはよく羽毛を撫でてもらったが、今こうして触れてくる唇と指先が、違う意図を持っていることくらいは理解できている。

 それは自分の中にも、いつからかくすぶっていた欲望だからだ。


 胸の苦しさに身じろぎをすると、別のところもキリと痛んで、思わず顔をしかめた。

「動くな、まだ傷は癒えておらぬ」

 言われてみると、まだ身体のあちこちに痛みがあるし、腕も思うように動かない。それでも、初めて冥府に落ちてきた時ほどのひどい気分ではない。

 何より、死の王に再び会えた喜びが、あらゆる感覚を麻痺させている。


 死の王は眉をひそめ、怒りを抑えた声で問い詰めた。

「……そなたを傷つけたのは、あの巨人か」

 大気がにわかに重みを持ち始めたのを見て取り、リーシュは慌てて首を振る。

「不用意に戦場に出た私が悪いんです。それに、胸の矢は自分で刺しました。あの場から逃げ出したくて……それと、どうしてもあなたに一目、お会いしたくて」

 死の王は痛ましげに、指先でリーシュの傷跡をやわくなぞった。それは痛みというよりも快く感じられ、締め付けられたのはなぜか心臓の方だった。


「愚かなことを。我が名を呼べば、いつでも馳せたものを」

「そうなのですか?」

 驚くリーシュに、死の王は怪訝な様子になる。

「……覚えていないのか。そなたの呼びかけに応えて参じたことも」

 まるで覚えていない。確かに気を失う直前、死の王の名を呼んだ。会いたくて、会いたくて。

 では自分は再び冥府に落ちたのではなく、恐れ多くも死の王に迎えに来てもらったのか。

 思い当たると、悔しくてならなかった。

 なぜあの時自分はもう少し意識を保っていなかっただろう。冥府を出たことがないという死の王が、天にまで来てくれたというのに。


「来てくださったのですね。私などのために」

「そなたであるがゆえに」

 思いもよらない甘い言葉に、もういっそこのまま死んでしまいたいとさえ思えてきた。これ以上幸福になど、なれそうもない気がしたのだ。

 相変わらず心の内を多くは語らない男だが、その熱を持ったまなざしから、彼が自分と同じくらい、想ってくれていたのだと分かる。

 互いに、もう二度と離れられないのだと。


「至上の君は、怒っておられないでしょうか」

 ゆっくりとからだの力を抜いて、死の王の胸に体重をあずけた。

 見れば、ここは見慣れた死の王の寝台の上だ。天宮から冥府に来てどのくらい経つのか分からないが、怪我の具合から見て、数日から数週間は過ぎているかもしれない。

 もし至上の君が怒っているとすれば、とっくに連れ戻しにきているだろう、とも思う。

「そなたをもらい受けると伝えた。異存はなかった」

 死の王は、話しながらもリーシュの怪我の様子をあちこち確かめ、まだ静かに腹を立てている様子だ。

 口ぶりからすると、かなり一方的に連れてきたのではないか……という気がする。けれど少なくとも、了承は得たということにほっとした。


「では、もう天上に戻らなくて良いのですね」

「無論」

「……怖いです、幸せすぎて」

 腕が痛くて持ち上げられないのが残念だった。いつになくそばにある死の王の顔や胸や手に、こちらからも触れたいのに。

 信じられないことに、今の王は思うまま触れることも呼ぶことも、許してくれている雰囲気がある。

「天は、そなたを愛さなかったのか」

「いいえ、良い方もたくさんいました。至上の君も、黄昏の君も優しくて……」

 話し始めると、死の王は腕を枕のようにリーシュの頭の下に置いて寝かせ、長い話を聞いてくれた。


 この数年、天で出会った人や、起こった事。毎日エンデを想い泣いていたこと。

 ソワンの結婚式の日にさらわれた話では、死の王は犯人に再び強い怒りを見せていた。

「その者の魂が冥府に落ちた暁には、存分に報いを受けさせよう」

 どうやらあの犯人たちは天でも冥府でも、二重の罰を受ける羽目になりそうだ。


「こうも傷つけられるなら、天に返すのではなかった」

 そんなことを、自分以上に怒ってくれる神がいることで、リーシュの心は癒された。

 それに、望んだ幸福を手に入れた今、過ぎ去った出来事など、もう思い出す価値もないことだ。そんなことより、こうして自分を見つめる黒曜石の瞳や、滝のようになだれ落ちている漆黒の髪や、優しくまばたく長い睫毛などを眺めるのに忙しい。

「身体の傷よりも、あなたに会えないことの方が苦しかったです、エンデ様。きっと誰かに傷つけられなくても、自分で自分を殺していたと思います。もう一度あなたに一目会うために」


 愚かな、と再びつぶやいて、死の王は二度目の口づけをした。

 温度の低い唇が、優しくリーシュの唇を開かせ、歯の隙間に柔らかいものが分け入ってきた。無我夢中で応えているうちに息が苦しくなってきて、思わず「んん」と唸ってしまった。

 ようやく解放されて、思わず大きく息をつく。

 黄昏の君に、恋の話をもっとよく聞いておくのだった、と急に後悔した。恋人同士の作法はよく分からないことが多すぎて、きっと死の王には面倒をかけるだろう。


 肩を上下するリーシュの髪を指でもてあそびながら、エンデは至極満足げに目を細めている。

「……そなたは私を一度殺した。そなたの生む花の香も、そなたの声もない冥府は、死よりも深く私を苦しめる牢獄となる」

 自分と同じ苦しみを死の王が味わっていたことに驚き、なぜだか少し嬉しかった。会えない寂しさも、触れたいと願う欲望も、自分だけのものではない。

 喜びをのせて歌を歌えば、二人の周りには花が咲き乱れて、楽園のようになった。天上よりも早く枯れてしまう花を、歌い続けることで咲かせていると、やがて死の王が抱き寄せてやめさせた。

「たとえいつかそなたの歌が嗄れても、枯れることなくそなたを愛そう」

 命の育たない死の世界にも、熱を孕み育まれてゆくものがある。それは数年の空白を経て爆発的に肥大化し、自分の全てを飲み込んでゆくかのようだった。



 神鳥の傷が完全に癒えると、二人は間もなく、冥府でひそやかに婚礼を挙げた。

 それから七日間も新婚の床に引きこもったため、その後はしばらく、溜まった仕事を二人で片づける羽目になった。

 冥府の王妃となった神鳥は、迷い苦しむ魂に世にも美しい風景を見せて宥め、死の王は邪な魂にふさわしい裁きを下した。そうして死を受け入れた魂を、行くべき道筋へ導いてゆく。

「いやあ王妃さまが来てから仕事が楽になりましたよ。結構しつこくゴネる魂が多かったんですけどねえ、もっと骨のあるド根性魂に来てほしいくらいですよ」

 使い魔の評判は上々である。かつて「鳥娘」と呼んでいたことなどおくびにも出さず、主へ対する敬意を見せてくれるので、リーシュも自然と女主人としての立場に慣れていった。


 エンデとは、もはや片時も離れる時がない。寝ても覚めても、手を伸ばせば届く距離にあることにも、じきに慣れた。

 はじめは恐れ多いという躊躇いや、夢ではないかという疑いが無かったわけではないが、その都度エンデが優しく……あるいは容赦なく正しい振る舞いを「教えて」くれるので、彼の愛を受け取り、同じだけ返すことが日常となっていった。


 冥府の女主人としての振る舞いも板についてきた頃、エンデは思いがけない提案をした。

 天上に、結婚の報告に行ってはどうかと言うのだ。友と言える神がいるのだろうと。

 確かに、よくしてくれたソワンやヴェリタのことは、時折思い出していた。挨拶もなく別れてしまった至上の夫婦や、巨人族との争いがどうなったのかも、ひそかに気になっていたことである。

 もしリーシュの些細な表情からそれを読み取っていたならすごいことだが、もっと驚くべきことに、エンデは自分もついていくという。

 リーシュの身を守るためが第一の理由で、第二の理由は半日たりとも離れがたいから、という。

 そんな甘い言葉も躊躇いなくさらりと言われるので、結婚して数か月経つ今も、胸をときめかせてばかりいる。

 ともあれ、少々わだかまりの残る別れをしてしまった神々と、このままでいるのは後味が悪い。エンデの怒りも解けたことだし、ちょうど良い頃合いかもしれなかった。


 提案通り、先触れをしてから天宮を訪れると、どうやら本当に死の王が現れる確信が持てなかったらしい面々が、驚きのあまり絶句していた。

 天変地異でも起こったかのような表情で、たっぷり一分以上挨拶を忘れている様子だったので、笑いをかみ殺してリーシュの方からお辞儀をした。

「お世話になったのに、長い間連絡もなく失礼をいたしました。ご健勝のご様子で何よりです」

 エンデに至っては、挨拶すら省き「我が妻だ」だけで結婚の報告を済ませてしまったが、ともかく友好的な雰囲気にほっとしたのか、至上の君と黄昏の君は心を込めた歓待をしてくれた。


 天界の贅を尽くした食卓で、ソワンとヴェリタも加わり、話は尽きない。

 ソワンは、二人の指にはまった揃いの指輪に目ざとく気づき、「よくお似合いですね」と褒めてくれた。

 実のところ、指輪にはまった黒ダイヤは、リーシュが一度冥府を去った時に流した涙だ。エンデは大切にしていたそれを指輪に作り替え、「不死を失う日が来ない限り、永遠に私はそなたのものだ」と告げてリーシュの指にはめた。

 それが事実上の求婚だった。

 しかも指輪には、死ぬまで何があっても外れない強力な魔術が、エンデによってかけられている。

 という話を、リーシュはロマンチックな惚気話のつもりで話したのだが、気づけば聞き手たちは、愛の重さに全員引いていた。

「浮気をしたら殺す機能とか、ついていないだろうな」

 勇気ある至上の君が茶化したところ、「妻を傷つけた者を排除する機能ならある」と恐ろしい新情報が披露され、それ以上尋ねる勇気のある者はいなくなってしまった。


 話題は巨人族との争いの話に移り、そこでリーシュは初めて、自分を迎えに来た時のエンデの、ただならぬ様子について聞くこととなった。

「正直、死を覚悟しましたね」とヴェリタが言えば、「冥府に送られると思ったわ、あそこにいた全員が」と黄昏の君もうなずく。

「そんなに怖かったんですか?」

 見たかったような、そうでもないような、複雑な心境だ。

「断言するが、天地と冥府の全てを合わせても、最も怒らせてはいけないのはそなたの夫だぞ」

 至上の君までもが、調子を合わせる。

 普通に考えて、最も怒らせてはいけないのは至上の君だと思うが、それだけの迫力があったということだろう。


「あれ以上あの場にいれば、全員冥府に送っていた」

 平然と肯定する夫に空恐ろしさを感じ、怒らせないよう気をつけねばと心に刻む。

「だからすぐにいなくなったのか」「九死に一生を得ましたね」と、至上の君たちは何か納得するふうだ。

 先ほど挨拶した時に、一同が闇の君を見て凍り付いていたのも、単に驚いたからではなかったのだ、と思い当たる。あまりに強烈な別れ方だったので、まだ怒っているのではないかと、警戒してのことだったらしい。


「お前が天上に来る日が来ようとはな。しかも二度も」

 至上の君は、あらためてまっすぐに、兄弟神を見据えた。

 光と闇を思わせる対照的な二人は、食卓を挟んで視線を合わせる。

「……必要であれば来る。それだけのことだ」

 死の王は相変わらず、感情の乗らない声で答えるばかりだ。普段食事をほとんどとらない彼だが、嫌いというわけでもないらしく、並べられた美食を黙々と口に運んでいる。

「なるほど?」

 何か言いたげに口元を歪めた至上の君は、やがてふと笑み崩れた。

「まあ、そうだな。それだけのことだ」

 二人の間にあったわずかなぎこちなさが消えるのを見て、黄昏の君も嬉しそうに口の端を持ち上げた。

「たまには必要がなくたって、リーシュに来てほしいわ。独り占めなんて心が狭くてよ」

「冥府にはなかなか会いにいけませんものね」

 ソワンとヴェリタも微笑む。


 死の王は何と言うだろう、と顔色をうかがうと、小さなうなずきが返された。

「いいのですか?」

 声をひそめて確認する。

「私に属する全てのものは、そなたに従う。冥府の門を通る許可も不要だ」

「でも……私、正しい道を知りません。死にかけることでしか、冥府の行き方も知らなくて」

「邪道すぎるでしょ」

 ついこぼれてしまったらしい、ヴェリタのつぶやきを耳にする。全くその通りだ。

 死の王は人目もはばからずにリーシュの頭を撫で、静かに言い聞かせた。

「無論一人では行かせぬ。私はそなたの剣であり盾であり影である。二度と離れることなきものと心得よ」


 そういえば、今日だって心配で付いてきてくれている。次からは一人、ということはないだろう。

 リーシュはほっとしてうなずいた。

「ありがとうございます」

「大切にされておいでなのですね」

 ソワンは二人のやりとりに感動している様子だが、残りの三人はというと、「束縛するタイプだったのね、エンデって」「見ているだけで息苦しくなるな」「でも小鳥は喜んでますよ。相性が良いんでしょう」と、完全に野次馬を決め込んでいた。


 束縛されている、とリーシュは感じたことがないし、言われてもぴんと来ない。

 しかし四人の評価からすると、死の王は愛が重すぎ、束縛が厳しく、溺愛にもほどがあるという。

 たしかに必要以上に大切にされている自覚はあるが、すこしも過剰に感じたことがなかったので、確かに相性が良いのかもしれない。と思うと、何だか嬉しくなってしまった。


◆ 


 まるで近いうちに会うかのような軽やかな別れを告げて、二人は冥府へと戻ってきた。

 本来の主たちにきちんと挨拶もできて、義理も果たせたとほっとするリーシュを、エンデは満足げに見守っている。

「天上は眩しいほどに美しいところですけど、こうして冥府に戻ってくると、安心しますね」

 薄闇に浮かび上がる夜光石の明りと、エンデの白い肌、闇よりもより深い漆黒の髪と長衣。そんな色彩に目が慣れてしまって、久しぶりの天上では目がチカチカしていた。


「……雪蛍の灯りを増やそう。あれならば、明るすぎることもない」

 エンデは高い天井やら壁を仰ぎ、灯りを取り付ける場所を考えているようだ。こちらも天上から戻ってきて、さすがに暗すぎると感じたらしい。

「無くても平気ですけど、雪蛍なら幻想的かもしれませんね」

 うなずくリーシュの腰を自然に引き寄せ、エンデは宮殿のあちこちを連れて回った。そして、ここに水晶の階段を作ろうとか、月光石の東屋を作ろうなどと言い出した。

 天宮の豪奢さに感化されたのだろうか。

「冥府も美しく整えるのですね」

 何気なく口にすると、長い指がするりと頬を撫でたので、おもわずぞくりとした。この夫ときたら、何気ない仕草にも過剰な色気を帯びるものだから、翻弄されてばかりいる。

「巣作りだ」

 彼にしては珍しい冗談にくすくす笑っていると、「ところで」と続けられる。


「そなたはいつまで敬語を通すつもりだ」

 くいとリーシュの顎を指で持ち上げ、どこか不服の表情だ。先日閨で同じ会話をしたところだが、なかなか染みついたものは直らない。

 逃げようとしても、そうは簡単にいかない。一歩下がればその分近づかれ、とうとう壁際に追い詰められてしまう。

 壮絶なまでに艶っぽくねめつけられて、こちらは息をするのも苦しくなってくる。

「夫婦となっても、あなたは私にとって一番尊い方なので……」

 か細い声で、そう言うのがやっとだ。


「当然だ。そなたも同じように尊い自覚はあるのかと聞いている」

 そういうことを真顔で言うので、到底敵わない。

 でも、無理なものは無理だと、分かってほしい。

「その……あんまりいじめないでください。あなたは自分の命よりも大切な方です。対等だなんて一生思えません」

 エンデは眉間に皺を寄せ、盛大にため息をついた。

 不興を買ったようだ。つい先ほど、世界一怒らせてはならない男だと聞いたばかりなのに。


「そなたは私を殺す気か」

 どうしてそうなるんですか、と反論しようとした口が塞がれる。深く侵入してくるあたたかいものに蹂躙されて、何も言えなくなった。

 長く濃厚な口づけに、頭が朦朧としてきたころ、夫はリーシュを抱きかかえ、寝台に運んだ。

「そなたは我が心臓。そなた失くして私が生き続けられると思うなら、試してみるが良い」

 敵うはずもない脅迫へ答えに窮するも、次第に荒くなる吐息の中で、全てはうやむやになっていった。



 天に在っては波乱の多かったリーシュの生は、冥府においては平穏そのものだった。そもそも神格、霊格の高い者しか入れぬ上に、闇の君が天上に残した(かなり尾ひれのついた)伝説のせいもある。

 妻を溺愛していることで知られる冥府の支配者から、最愛の神鳥を奪おうという勇気ある愚か者は、天地を含めても存在しなかったのだ。

 リーシュもまた、夫と過ごす静かな生活に満足しており、天上の友を訪ねるのは、数百年に一度程度のことだった。


 そういうわけで大きな事件というほどのことはなかったものの、冥府の主としての役目もあり、退屈とはほど遠い日々でもあった。

 冥府で道に迷う魂の物語は一つ一つ異なり、正しい道へ導くことは、簡単になることはなかった。つい心をうつしてしまい、死を与えるのが辛くなることもある。

 ただどんな時にも隣には死の王があり、苦悩や悲しみは分け合うことができた。そして、変わらぬ彼の優しさと冷静さ、懐深さに、幾度も新鮮に恋をした。


 天地ではしばしば大規模な争いが発生し、冥府でその後始末を頼まれることはあったが、冥府の外でまで手助けすることは、決してなかった。

 至上の君としては、強大な力を持つ兄弟神と、癒しの力を持つ神鳥の手を借りたい時もあったようだが、すでに一生分傷ついてきた妻を面倒ごとに関わらせることは、闇の君が断じて許さなかった。

 そのため、語るべきことはすでにあまりない。


 冥府の夫婦はほとんど人前に現れなかったにも関わらず、主に黄昏の君シャレムや千里眼の女神ヴェリタの功績により、多くの逸話が天上に広められた。

 幾万年経っても変わらぬ二人の関係は、理想の夫婦像や永遠の愛の象徴として語られるようになった。指輪の話などはその最たるもので、今では愛を誓いあう多くの者たちが、結婚式の日に指輪を交換しあうようになったのだという。

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