永遠
「あの子、ちゃんと名前があったのね」
窓の残骸の中でぽつりと、シャレムはつぶやいた。それどころか、あの闇の君が名前を許していたことにも、驚かされた。
彼の心は決して開かないのだと思っていた。石のように冷たく、硬い扉があるのだと。
でも、自分が見てきた姿が全てではないのだと思い知る。闇の君のことも、神鳥のことも、結局自分は何も知らないままだった。
自分はわが身を傷つけてまで、冥府に行こうとは夢にも思わなかった。あの小鳥の深い想いには、及ぶべくもない。
「あの闇の君と名前で呼び交わす仲とは……全天をカチ割りそうな衝撃を与えて去りましたね」
ヴェリタもさすがに思考が追いつかない様子で、二人が去った空間をぼんやりと見つめている。
「あの子の片思いだと思っていたわ。なるべく早く忘れられることを祈ってた。まさか、自分がお邪魔虫だったなんて」
「邪魔なんて思ってませんよ、あの子は」
「そうかしら……」
ヴェリタの言うことは、おそらく正しい。
常に人の思惑に翻弄され、理不尽な目にも遭ってきた神鳥だが、一度も人を恨んだことはない。悲しみ傷つくことはあっても、それを他人にぶつけたことはまるでなかった。
そういうところが似ている二人だ。
シャレムはふと、心が泡のように軽くなるのを感じていた。遠い過去からこれまで持ち続けてきてしまった荷物を、ようやく下ろすことができたかのような。何もかも、在るべき場所へたどり着いたのだという気がした。
かつて想っても想っても届かなかった神の幸せを、これからは心から祈ることができそうだ。
振り向けば、巨人族と何か話している夫の姿が目に入る。何があっても、自分を愛し続けてくれた伴侶。自分が選び取った未来。
一瞬ばかり目を合わせた至上の夫婦は、同じ表情を浮かべて微笑んだ。
◆
「リーシュ」
この世で最も愛しい神の腕に抱かれ、そのよく響く声に名を呼ばれて、リーシュは目覚めた。
もう二度と会えないとも思った姿を目の前にして、涙は止めようもなかった。
「エンデ様……エンデ様」
言いたいことが言葉にならずに、名前ばかりを幾度も呼ぶ。すると死の王は愛おしげにうなずいては、目元にそっと唇を寄せ、まだ宝石に変わる前の涙を吸い取った。
驚いて顔をあげると、今度はその柔らかな頬、そして、ぽかんと空いたままの唇がふさがれる。
起こった事が、しばらくまともに受け止められなかった。あまりに幸福で、脳が思考をやめてしまう。
長い指が頬を撫で、白銀の髪を梳き、手を包み込み絡ませる。夢でも見ているようだ。あるいはこれは夢かもしれない。
鳥の姿の時にはよく羽毛を撫でてもらったが、今こうして触れてくる唇と指先が、違う意図を持っていることくらいは理解できている。
それは自分の中にも、いつからかくすぶっていた欲望だからだ。
胸の苦しさに身じろぎをすると、別のところもキリと痛んで、思わず顔をしかめた。
「動くな、まだ傷は癒えておらぬ」
言われてみると、まだ身体のあちこちに痛みがあるし、腕も思うように動かない。それでも、初めて冥府に落ちてきた時ほどのひどい気分ではない。
何より、死の王に再び会えた喜びが、あらゆる感覚を麻痺させている。
死の王は眉をひそめ、怒りを抑えた声で問い詰めた。
「……そなたを傷つけたのは、あの巨人か」
大気がにわかに重みを持ち始めたのを見て取り、リーシュは慌てて首を振る。
「不用意に戦場に出た私が悪いんです。それに、胸の矢は自分で刺しました。あの場から逃げ出したくて……それと、どうしてもあなたに一目、お会いしたくて」
死の王は痛ましげに、指先でリーシュの傷跡をやわくなぞった。それは痛みというよりも快く感じられ、締め付けられたのはなぜか心臓の方だった。
「愚かなことを。我が名を呼べば、いつでも馳せたものを」
「そうなのですか?」
驚くリーシュに、死の王は怪訝な様子になる。
「……覚えていないのか。そなたの呼びかけに応えて参じたことも」
まるで覚えていない。確かに気を失う直前、死の王の名を呼んだ。会いたくて、会いたくて。
では自分は再び冥府に落ちたのではなく、恐れ多くも死の王に迎えに来てもらったのか。
思い当たると、悔しくてならなかった。
なぜあの時自分はもう少し意識を保っていなかっただろう。冥府を出たことがないという死の王が、天にまで来てくれたというのに。
「来てくださったのですね。私などのために」
「そなたであるがゆえに」
思いもよらない甘い言葉に、もういっそこのまま死んでしまいたいとさえ思えてきた。これ以上幸福になど、なれそうもない気がしたのだ。
相変わらず心の内を多くは語らない男だが、その熱を持ったまなざしから、彼が自分と同じくらい、想ってくれていたのだと分かる。
互いに、もう二度と離れられないのだと。
「至上の君は、怒っておられないでしょうか」
ゆっくりとからだの力を抜いて、死の王の胸に体重をあずけた。
見れば、ここは見慣れた死の王の寝台の上だ。天宮から冥府に来てどのくらい経つのか分からないが、怪我の具合から見て、数日から数週間は過ぎているかもしれない。
もし至上の君が怒っているとすれば、とっくに連れ戻しにきているだろう、とも思う。
「そなたをもらい受けると伝えた。異存はなかった」
死の王は、話しながらもリーシュの怪我の様子をあちこち確かめ、まだ静かに腹を立てている様子だ。
口ぶりからすると、かなり一方的に連れてきたのではないか……という気がする。けれど少なくとも、了承は得たということにほっとした。
「では、もう天上に戻らなくて良いのですね」
「無論」
「……怖いです、幸せすぎて」
腕が痛くて持ち上げられないのが残念だった。いつになくそばにある死の王の顔や胸や手に、こちらからも触れたいのに。
信じられないことに、今の王は思うまま触れることも呼ぶことも、許してくれている雰囲気がある。
「天は、そなたを愛さなかったのか」
「いいえ、良い方もたくさんいました。至上の君も、黄昏の君も優しくて……」
話し始めると、死の王は腕を枕のようにリーシュの頭の下に置いて寝かせ、長い話を聞いてくれた。
この数年、天で出会った人や、起こった事。毎日エンデを想い泣いていたこと。
ソワンの結婚式の日にさらわれた話では、死の王は犯人に再び強い怒りを見せていた。
「その者の魂が冥府に落ちた暁には、存分に報いを受けさせよう」
どうやらあの犯人たちは天でも冥府でも、二重の罰を受ける羽目になりそうだ。
「こうも傷つけられるなら、天に返すのではなかった」
そんなことを、自分以上に怒ってくれる神がいることで、リーシュの心は癒された。
それに、望んだ幸福を手に入れた今、過ぎ去った出来事など、もう思い出す価値もないことだ。そんなことより、こうして自分を見つめる黒曜石の瞳や、滝のようになだれ落ちている漆黒の髪や、優しくまばたく長い睫毛などを眺めるのに忙しい。
「身体の傷よりも、あなたに会えないことの方が苦しかったです、エンデ様。きっと誰かに傷つけられなくても、自分で自分を殺していたと思います。もう一度あなたに一目会うために」
愚かな、と再びつぶやいて、死の王は二度目の口づけをした。
温度の低い唇が、優しくリーシュの唇を開かせ、歯の隙間に柔らかいものが分け入ってきた。無我夢中で応えているうちに息が苦しくなってきて、思わず「んん」と唸ってしまった。
ようやく解放されて、思わず大きく息をつく。
黄昏の君に、恋の話をもっとよく聞いておくのだった、と急に後悔した。恋人同士の作法はよく分からないことが多すぎて、きっと死の王には面倒をかけるだろう。
肩を上下するリーシュの髪を指でもてあそびながら、エンデは至極満足げに目を細めている。
「……そなたは私を一度殺した。そなたの生む花の香も、そなたの声もない冥府は、死よりも深く私を苦しめる牢獄となる」
自分と同じ苦しみを死の王が味わっていたことに驚き、なぜだか少し嬉しかった。会えない寂しさも、触れたいと願う欲望も、自分だけのものではない。
喜びをのせて歌を歌えば、二人の周りには花が咲き乱れて、楽園のようになった。天上よりも早く枯れてしまう花を、歌い続けることで咲かせていると、やがて死の王が抱き寄せてやめさせた。
「たとえいつかそなたの歌が嗄れても、枯れることなくそなたを愛そう」
命の育たない死の世界にも、熱を孕み育まれてゆくものがある。それは数年の空白を経て爆発的に肥大化し、自分の全てを飲み込んでゆくかのようだった。
◆
神鳥の傷が完全に癒えると、二人は間もなく、冥府でひそやかに婚礼を挙げた。
それから七日間も新婚の床に引きこもったため、その後はしばらく、溜まった仕事を二人で片づける羽目になった。
冥府の王妃となった神鳥は、迷い苦しむ魂に世にも美しい風景を見せて宥め、死の王は邪な魂にふさわしい裁きを下した。そうして死を受け入れた魂を、行くべき道筋へ導いてゆく。
「いやあ王妃さまが来てから仕事が楽になりましたよ。結構しつこくゴネる魂が多かったんですけどねえ、もっと骨のあるド根性魂に来てほしいくらいですよ」
使い魔の評判は上々である。かつて「鳥娘」と呼んでいたことなどおくびにも出さず、主へ対する敬意を見せてくれるので、リーシュも自然と女主人としての立場に慣れていった。
エンデとは、もはや片時も離れる時がない。寝ても覚めても、手を伸ばせば届く距離にあることにも、じきに慣れた。
はじめは恐れ多いという躊躇いや、夢ではないかという疑いが無かったわけではないが、その都度エンデが優しく……あるいは容赦なく正しい振る舞いを「教えて」くれるので、彼の愛を受け取り、同じだけ返すことが日常となっていった。
冥府の女主人としての振る舞いも板についてきた頃、エンデは思いがけない提案をした。
天上に、結婚の報告に行ってはどうかと言うのだ。友と言える神がいるのだろうと。
確かに、よくしてくれたソワンやヴェリタのことは、時折思い出していた。挨拶もなく別れてしまった至上の夫婦や、巨人族との争いがどうなったのかも、ひそかに気になっていたことである。
もしリーシュの些細な表情からそれを読み取っていたならすごいことだが、もっと驚くべきことに、エンデは自分もついていくという。
リーシュの身を守るためが第一の理由で、第二の理由は半日たりとも離れがたいから、という。
そんな甘い言葉も躊躇いなくさらりと言われるので、結婚して数か月経つ今も、胸をときめかせてばかりいる。
ともあれ、少々わだかまりの残る別れをしてしまった神々と、このままでいるのは後味が悪い。エンデの怒りも解けたことだし、ちょうど良い頃合いかもしれなかった。
提案通り、先触れをしてから天宮を訪れると、どうやら本当に死の王が現れる確信が持てなかったらしい面々が、驚きのあまり絶句していた。
天変地異でも起こったかのような表情で、たっぷり一分以上挨拶を忘れている様子だったので、笑いをかみ殺してリーシュの方からお辞儀をした。
「お世話になったのに、長い間連絡もなく失礼をいたしました。ご健勝のご様子で何よりです」
エンデに至っては、挨拶すら省き「我が妻だ」だけで結婚の報告を済ませてしまったが、ともかく友好的な雰囲気にほっとしたのか、至上の君と黄昏の君は心を込めた歓待をしてくれた。
天界の贅を尽くした食卓で、ソワンとヴェリタも加わり、話は尽きない。
ソワンは、二人の指にはまった揃いの指輪に目ざとく気づき、「よくお似合いですね」と褒めてくれた。
実のところ、指輪にはまった黒ダイヤは、リーシュが一度冥府を去った時に流した涙だ。エンデは大切にしていたそれを指輪に作り替え、「不死を失う日が来ない限り、永遠に私はそなたのものだ」と告げてリーシュの指にはめた。
それが事実上の求婚だった。
しかも指輪には、死ぬまで何があっても外れない強力な魔術が、エンデによってかけられている。
という話を、リーシュはロマンチックな惚気話のつもりで話したのだが、気づけば聞き手たちは、愛の重さに全員引いていた。
「浮気をしたら殺す機能とか、ついていないだろうな」
勇気ある至上の君が茶化したところ、「妻を傷つけた者を排除する機能ならある」と恐ろしい新情報が披露され、それ以上尋ねる勇気のある者はいなくなってしまった。
話題は巨人族との争いの話に移り、そこでリーシュは初めて、自分を迎えに来た時のエンデの、ただならぬ様子について聞くこととなった。
「正直、死を覚悟しましたね」とヴェリタが言えば、「冥府に送られると思ったわ、あそこにいた全員が」と黄昏の君もうなずく。
「そんなに怖かったんですか?」
見たかったような、そうでもないような、複雑な心境だ。
「断言するが、天地と冥府の全てを合わせても、最も怒らせてはいけないのはそなたの夫だぞ」
至上の君までもが、調子を合わせる。
普通に考えて、最も怒らせてはいけないのは至上の君だと思うが、それだけの迫力があったということだろう。
「あれ以上あの場にいれば、全員冥府に送っていた」
平然と肯定する夫に空恐ろしさを感じ、怒らせないよう気をつけねばと心に刻む。
「だからすぐにいなくなったのか」「九死に一生を得ましたね」と、至上の君たちは何か納得するふうだ。
先ほど挨拶した時に、一同が闇の君を見て凍り付いていたのも、単に驚いたからではなかったのだ、と思い当たる。あまりに強烈な別れ方だったので、まだ怒っているのではないかと、警戒してのことだったらしい。
「お前が天上に来る日が来ようとはな。しかも二度も」
至上の君は、あらためてまっすぐに、兄弟神を見据えた。
光と闇を思わせる対照的な二人は、食卓を挟んで視線を合わせる。
「……必要であれば来る。それだけのことだ」
死の王は相変わらず、感情の乗らない声で答えるばかりだ。普段食事をほとんどとらない彼だが、嫌いというわけでもないらしく、並べられた美食を黙々と口に運んでいる。
「なるほど?」
何か言いたげに口元を歪めた至上の君は、やがてふと笑み崩れた。
「まあ、そうだな。それだけのことだ」
二人の間にあったわずかなぎこちなさが消えるのを見て、黄昏の君も嬉しそうに口の端を持ち上げた。
「たまには必要がなくたって、リーシュに来てほしいわ。独り占めなんて心が狭くてよ」
「冥府にはなかなか会いにいけませんものね」
ソワンとヴェリタも微笑む。
死の王は何と言うだろう、と顔色をうかがうと、小さなうなずきが返された。
「いいのですか?」
声をひそめて確認する。
「私に属する全てのものは、そなたに従う。冥府の門を通る許可も不要だ」
「でも……私、正しい道を知りません。死にかけることでしか、冥府の行き方も知らなくて」
「邪道すぎるでしょ」
ついこぼれてしまったらしい、ヴェリタのつぶやきを耳にする。全くその通りだ。
死の王は人目もはばからずにリーシュの頭を撫で、静かに言い聞かせた。
「無論一人では行かせぬ。私はそなたの剣であり盾であり影である。二度と離れることなきものと心得よ」
そういえば、今日だって心配で付いてきてくれている。次からは一人、ということはないだろう。
リーシュはほっとしてうなずいた。
「ありがとうございます」
「大切にされておいでなのですね」
ソワンは二人のやりとりに感動している様子だが、残りの三人はというと、「束縛するタイプだったのね、エンデって」「見ているだけで息苦しくなるな」「でも小鳥は喜んでますよ。相性が良いんでしょう」と、完全に野次馬を決め込んでいた。
束縛されている、とリーシュは感じたことがないし、言われてもぴんと来ない。
しかし四人の評価からすると、死の王は愛が重すぎ、束縛が厳しく、溺愛にもほどがあるという。
たしかに必要以上に大切にされている自覚はあるが、すこしも過剰に感じたことがなかったので、確かに相性が良いのかもしれない。と思うと、何だか嬉しくなってしまった。
◆
まるで近いうちに会うかのような軽やかな別れを告げて、二人は冥府へと戻ってきた。
本来の主たちにきちんと挨拶もできて、義理も果たせたとほっとするリーシュを、エンデは満足げに見守っている。
「天上は眩しいほどに美しいところですけど、こうして冥府に戻ってくると、安心しますね」
薄闇に浮かび上がる夜光石の明りと、エンデの白い肌、闇よりもより深い漆黒の髪と長衣。そんな色彩に目が慣れてしまって、久しぶりの天上では目がチカチカしていた。
「……雪蛍の灯りを増やそう。あれならば、明るすぎることもない」
エンデは高い天井やら壁を仰ぎ、灯りを取り付ける場所を考えているようだ。こちらも天上から戻ってきて、さすがに暗すぎると感じたらしい。
「無くても平気ですけど、雪蛍なら幻想的かもしれませんね」
うなずくリーシュの腰を自然に引き寄せ、エンデは宮殿のあちこちを連れて回った。そして、ここに水晶の階段を作ろうとか、月光石の東屋を作ろうなどと言い出した。
天宮の豪奢さに感化されたのだろうか。
「冥府も美しく整えるのですね」
何気なく口にすると、長い指がするりと頬を撫でたので、おもわずぞくりとした。この夫ときたら、何気ない仕草にも過剰な色気を帯びるものだから、翻弄されてばかりいる。
「巣作りだ」
彼にしては珍しい冗談にくすくす笑っていると、「ところで」と続けられる。
「そなたはいつまで敬語を通すつもりだ」
くいとリーシュの顎を指で持ち上げ、どこか不服の表情だ。先日閨で同じ会話をしたところだが、なかなか染みついたものは直らない。
逃げようとしても、そうは簡単にいかない。一歩下がればその分近づかれ、とうとう壁際に追い詰められてしまう。
壮絶なまでに艶っぽくねめつけられて、こちらは息をするのも苦しくなってくる。
「夫婦となっても、あなたは私にとって一番尊い方なので……」
か細い声で、そう言うのがやっとだ。
「当然だ。そなたも同じように尊い自覚はあるのかと聞いている」
そういうことを真顔で言うので、到底敵わない。
でも、無理なものは無理だと、分かってほしい。
「その……あんまりいじめないでください。あなたは自分の命よりも大切な方です。対等だなんて一生思えません」
エンデは眉間に皺を寄せ、盛大にため息をついた。
不興を買ったようだ。つい先ほど、世界一怒らせてはならない男だと聞いたばかりなのに。
「そなたは私を殺す気か」
どうしてそうなるんですか、と反論しようとした口が塞がれる。深く侵入してくるあたたかいものに蹂躙されて、何も言えなくなった。
長く濃厚な口づけに、頭が朦朧としてきたころ、夫はリーシュを抱きかかえ、寝台に運んだ。
「そなたは我が心臓。そなた失くして私が生き続けられると思うなら、試してみるが良い」
敵うはずもない脅迫へ答えに窮するも、次第に荒くなる吐息の中で、全てはうやむやになっていった。
◆
天に在っては波乱の多かったリーシュの生は、冥府においては平穏そのものだった。そもそも神格、霊格の高い者しか入れぬ上に、闇の君が天上に残した(かなり尾ひれのついた)伝説のせいもある。
妻を溺愛していることで知られる冥府の支配者から、最愛の神鳥を奪おうという勇気ある愚か者は、天地を含めても存在しなかったのだ。
リーシュもまた、夫と過ごす静かな生活に満足しており、天上の友を訪ねるのは、数百年に一度程度のことだった。
そういうわけで大きな事件というほどのことはなかったものの、冥府の主としての役目もあり、退屈とはほど遠い日々でもあった。
冥府で道に迷う魂の物語は一つ一つ異なり、正しい道へ導くことは、簡単になることはなかった。つい心をうつしてしまい、死を与えるのが辛くなることもある。
ただどんな時にも隣には死の王があり、苦悩や悲しみは分け合うことができた。そして、変わらぬ彼の優しさと冷静さ、懐深さに、幾度も新鮮に恋をした。
天地ではしばしば大規模な争いが発生し、冥府でその後始末を頼まれることはあったが、冥府の外でまで手助けすることは、決してなかった。
至上の君としては、強大な力を持つ兄弟神と、癒しの力を持つ神鳥の手を借りたい時もあったようだが、すでに一生分傷ついてきた妻を面倒ごとに関わらせることは、闇の君が断じて許さなかった。
そのため、語るべきことはすでにあまりない。
冥府の夫婦はほとんど人前に現れなかったにも関わらず、主に黄昏の君シャレムや千里眼の女神ヴェリタの功績により、多くの逸話が天上に広められた。
幾万年経っても変わらぬ二人の関係は、理想の夫婦像や永遠の愛の象徴として語られるようになった。指輪の話などはその最たるもので、今では愛を誓いあう多くの者たちが、結婚式の日に指輪を交換しあうようになったのだという。