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 冥府を下る魂は、その善性によって行き先を変える。邪悪な魂は、浄化の炎で長い年月焼かれねばならない。一方で善良な魂は、安らぎの眠りにつく。

 冥府での道筋を見つけられずに、あるいは生にしがみついて迷う魂は、善良な魂だけとは限らない。

 復讐に狂う魂もあれば、生きとし生ける全てを呪う魂もある。その全てが、死の王の前にあっては無力だ。


 かつては善き山神であったのに、次第に邪念に蝕まれ邪神と化した妖狐がいた。我を忘れ、冥府に落ちても暴れまわっていたが、王が拘束し、小鳥が風を起こすと、次第に落ち着きを取り戻した。

 神鳥の羽ばたきが起こす風には、浄化と癒しの効果がある。

「憎しみがわが身を焼き尽くした。もう何も思い出せぬ。我が領土、我が領民、我が名さえも」

 妖狐の魂は、憑き物が落ちたように弱弱しくなり、おとなしく使い魔に従って冥府を下っていった。

 そんな邪神の末路を、小鳥は他人事のように思えないでいる。

 冥府にたどり着いた頃の自分だって、そう大きく変わらなかった。長い苦しみで気力をほとんどなくしていたが、もしも余力を残していれば、恩寵の神鳥から怨念の怪鳥に変貌していてもおかしくなかった。

 生を疎み、心は荒み、不信に満ちていた。


「もし何かがかけちがえていたら、私は今頃、冥府の奥深くで報いを受けていたかもしれませんね。きっとあなたも生かしてはおかなかったはず」

 小鳥に深い考えはなく、ただ思いついたことを口にしただけのことだったが、王はわずかに眉をひそめた。

「起こらなかったことなど、考える必要はない」

 不興を買ったようだと気づいて、慌てて平伏すると、王はいつものように、小鳥の頭を優しく撫でた。

「そなたの魂は少しも穢れていない。そなたが望んだのは己の命の終焉であり、敵の命を奪うことではなかった」

「……思いつかなかったんです。そんな力も無かったし」

「復讐を望むか」

 それもまた考えたことがなかったので、小鳥は考え込んでしまった。恨みがないわけではない。ただ、今の生活に満たされていたので、半ば忘れてしまっていたというか、思いつかなかったのだ。

 今はもう、関わりになりたくないというだけだ。

「私がしなくても、きっと報いを受けるはずです」

 その考えは、まもなく成就することとなる。



 今日は隠れていなさい、と王が言うので、不可視の術をかけてもらい、彼の胸元に身を隠した日のことだ。

 いつになく物々しい人の列が、冥府にやってきた。

 先日の天使スフェルの白い軍装も美しかったが、今日の一行はその比ではない。

 服の隙間からこっそり仰ぎ見た来客たちは、明らかに神格の高い神々だった。そもそも生きたまま冥府に来られるのは、格の高い神か妖魔しかいないのだが。

 そのうち一人が、厳重に魔法で拘束された箱をささげもっている。


「お久しぶりにございます、深淵を治めし闇の君、冥府の支配者たる死の王よ」

 先頭にいた美しい女性が、うやうやしく膝を曲げて挨拶をした。後ろに続く面々も、同じように礼をとる。

「正義の女神の直参ともあれば、よほどの用件であろうな」

 対する死の王の返答はあっさりしたものだったが、おそらく小鳥への説明も兼ねていただろう。おかげで、この女性が正義の女神オルディネだと知れた。


 オルディネは、背後の面々が持つ箱を指し示した。

「こちらは恩寵の神鳥を奪い、長年に渡り監禁していた重罪人です。この魂には最も重い報いを受けさせたのち、完全に消滅させねばなりません。わたくし共は、それを見届けに参りました。至上の君のご命令です」

「……神鳥は今どこに?」

 死の王が探りを入れる。小鳥の鼓動もにわかに速くなった。自分の情報は、どの程度天上に知られているのだろう。

「残念ながら、神鳥の行方はようとして知れません。自力で逃げ出したようです。神鳥は、愚かな半妖にむごい仕打ちを受けていました。至上の君も、黄昏の君も、手を尽くして探しておられます」

 至上の君とは、全神族の頂点に立つ生命と光の神アルヒであり、黄昏の君とは、その妻である黄昏の女神シャレムのことだ。

 最高位の神々に探されていると知って、小鳥は身震いした。もしも冥府ではなく地上か天上に逃げていたら、今頃すでに至上の君の手の中にあっただろう。


 嫌なのだろうか? それが?


 至上の君がどういう神なのかは分からない。優しいのか、厳しいのか、自分に何をさせるのかも。

 少なくとも、半妖に虐げられていた頃よりもずっと良い生活だろう。それでも小鳥はなぜか、気が進まない。


「罪人の魂には、一秒が千年にも万年にも勝るほどの苦痛を与えよう」

 死の王が魂の箱に手を伸ばす。

 小鳥は目をつむった。

 天まで届くような半妖の悲鳴が、冥府中に響き渡った。魂も砕け散らんばかりの絶叫はしばらく続き、小鳥は身震いしながらそれを聞いていた。

 あの半妖に囚われていた長い年月に、自分が発した悲鳴を思い出した。どれだけ叫んでも、許しを請うても、誰も助けてはくれず、許されることもなかった。苦痛と悲鳴で声は枯れ、歌えなくなったことで余計に責められた。

 終わりのない地獄、救いのない日々。

 それらが生々しく思い出されて、耐えがたかった。


 と、ふいに、何も聞こえなくなった。

 半妖の悲鳴だけではなく、神々の話し声すらも。

 死の王が、小鳥の聴覚を塞いだのだ。完全なる静寂の中、小鳥は死の王の胸元に小さな頭を押し付けた。

 漆黒の衣の中は、暗くあたたかい。何も見えず、何も聞こえず、死の王の存在だけを感じられる。

 ここにいれば、もう何も恐れることはない。そう自分に言い聞かせる。


 再び音が聞こえるようになると、オルディネが退出の挨拶を述べるところだった。

「確かに魂の消滅を見届けました。至上の君にご報告いたします。他に何かお伝えすることはありますか」

「特には」

「承知いたしました。ご協力に感謝いたします。では、ご息災であられませ」

 事務的な物言いとともに、隊列は天上へと戻ってゆく。

 そろそろと胸元から顔を見せると、王は不可視の術を解いてくれた。


「聞かせるのではなかった」

 王は、もっと早く小鳥の耳をふさがなかったことを後悔していた。いたわるように両手で小鳥を包む。

「十分、守っていただきました」

 王は歩を進めて、宮殿の寝台に腰を下ろすと、そっと小鳥を横たえた。幼子を寝かしつけるかのように。

「私は奪うことしかできぬ」

 目の前に傷ついたものがいても、祝福することも、癒すこともできぬと、恥じるような言葉を聞いたのはこれが二回目だ。小鳥の怪我がまだ完全に癒えぬ頃にも、そんなことを呟いていた。

 小鳥が死の王に与えられてきたものがどんなに大きいか、王は気づいていないのだ。仮に王が小鳥に死を与えたとしても、それは優しい救いであったことだろう。


「実は、以前よりお願いしたいことがあったのです。申し上げることをお許しいただけますか」

 改まって申し出ると、王の表情に一筋の緊張が走る。何か良くない考えがよぎったのかもしれない。

 しかし即座に「無論」とうなずいた。厳格・冷酷な印象がありながら、実際のところ、懐の深い神だ。

 小鳥は細い脚で立ち、はるか頭上から見下ろす神に、さえずりかけた。

「どうか私に、名前をください。あなたに賜りたいと、ずっと思っていました」

 虚を突かれた様子の死の王は、しばしまじまじと小鳥を眺めていたが、次第にそのまなざしは考え込む風になり、何かを思いめぐらすふうだ。


「……リーシュ」

 やがてその唇からこぼれた言葉を聞くや、小鳥の胸に、いや全身に、喜びが駆け巡った。

 リーシュ、リーシュ、リーシュ!

 初めてにして唯一の名を、この世で最も慕わしい人に呼ばれることの喜びに、小鳥は打ち震えた。またその瞳から宝石がいくつもこぼれ落ちる。

「リーシュです……私はリーシュです!」

 翼を広げてぱたぱたと浮き上がりながら繰り返すと、王は口の端をなごませた。

「気に入ったか」

「はい、あなたにいただけるなら、何でも!」

 王は興奮するリーシュをなだめるように両手に包むと、寝台に寝そべってその羽毛を撫でた。


「我ら神力を持つ者にとって、名前は魔法となる。これから名乗る時には気をつけなさい。簡単に自分を明け渡さぬように」

「他の人に名乗ることはありませんから、大丈夫です。私の名を呼ぶのはあなただけです」

「その意味を分かっているのか?」

 何やら意味深につぶやいた王は、しかしその意味とやらを教えてはくれなかった。

「まあ良い。ならばそなたにも、我が名を呼ぶことを許そう」

「えっ……」

 リーシュは驚いて、たっぷり数十秒は言葉を失った。


 神族は、特に高位の存在ほど、名前では呼び合わない。「冥府の支配者」「闇の君」「夜の王」など、死の王の呼称がやたらと多いのもそのせいだ。

 名を呼ぶのは自分よりも位が低い者に向けてか、親しい間柄だけである。つまり、至上の君とほぼ同等の神である死の王は、基本的に名を呼ばれることはない。

 リーシュは恩寵の神鳥という、神族に愛されるべき存在ではあるが、死の王とははるかに格の差がある。本来は名を許される立場ではないはずだ。

「でも、良いのでしょうか……」

 普段から距離が近すぎる不敬を自覚しているリーシュも、さすがにすんなりと受け入れられる提案ではなかった。おそるおそる、確認せずにはいられない。

「私を差し置いて誰がそなたを罰するとでも?」

 そもそもこの冥府には、使い魔と死せる魂しかほとんど来ないので、誰にも罰せられることはない。リーシュが戸惑ったのも、それを恐れてのことではなかった。

 神鳥として生まれながらに持っている感覚に、反するものだったからだ。


「エンデ……様」

 震える声で、その名を呼んだ。

 名前は魔法だと、死の王は言った。存在を明け渡すことになると。その上で彼は、リーシュに名前を許した。

 こんなことが、あって良いのだろうか。

「そのような名であったか」

 死の王のごく珍しい冗談は、実は冗談ではなかったかもしれない。

 彼はどれだけの期間を、この暗く不毛な地で一人過ごしてきただろう。リーシュが半妖に痛めぬかれた数百年の何倍、いや何百倍、あるいは何千倍の年月を、彼は死に囲まれて生きている。苦しみ、悲しみ、怨嗟、後悔、そんな言葉だけを聞き続けて。

 彼自身のことを、誰が気にかけただろう。苦しくはないか、寂しくはないかと、問いかけた者がいただろうか。


 生は苦しみだ。それなのになぜ死が許されないのか。

 かつての自分と同じ問いを、人知れず幾度も繰り返したであろう死の王を、リーシュは深く愛してしまった。

 この人を、決してもう一人にしたくない。例え彼が、リーシュを求めていないとしても。決して、未来永劫結ばれないことが分かっていたとしても。


「エンデ様、名を呼ばれるのは、こんなにも嬉しいことなのですね」

 高揚した声で話しかけると、死の王は笑って、もう一度小鳥の名前を呼んでくれた。この世でただ一人しか知らぬ名を、かみしめるように、ゆっくりと。

 王も、喜んでくれているのだろうか。それともほんの気まぐれに、小さな存在に名前を許しただけなのだろうか。

 どちらにしても、今は嬉しくていてもたってもいられず、死の王の手の中から抜け出して、部屋中を飛び回らずにいられなかった。

 胸に湧き上がる歌を歌うと、部屋は間もなく花と緑に覆われ、エンデとリーシュはその甘い香の中で、寄り添うようにして眠りに落ちた。

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