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冥府の春

「王様、王様、ちょっとタダ者じゃない魂がいましたよ」

 冥府の使い魔は、空虚な宮殿に唯一にぎやかさを運んでくる存在だ。

 その生態系は謎に満ちていて、彼らによると「一にして全、全にして一」らしいが、名前を呼びならわす習慣がなく、毎日出会う使い魔が昨日と同じ個体なのかどうかも分からない。

 それでいて、彼らの中では情報共有が行き届いており、一度も「お前は誰だ」などと誰何されたことはない。


 その日使い魔が連れてきたのは、珍しく肉体を伴う魂だった。

 小鳥自身がその状態で運ばれてきたわけだが、それは例外中の例外らしく、基本的には神族か上級妖怪に限られるのだという。

「死に損ない」は、遠目にも美しく若い男の姿をしていた。まばゆい金髪に、すらりと均整の取れたからだつき。白と金の華やかな軍装には明らかに装飾が多く、高い地位にあったと知れる。

(なんて綺麗な人かしら。王様には負けるけど)

 小鳥は死の王の肩にとまって、まじまじと「死に損ない」を見下ろした。かつての自分ほどではないが、体中傷だらけだ。服装からして、戦場で生死をさまよっているのだろう。


「……しばらく、隠れていなさい」

 珍しいことに、死の王は小鳥を肩から降ろすと、胸元に隠してしまったので、それきり「死に損ない」の姿は見えなくなった。

 死の王の懐は、ほのかに心の落ち着く、不思議な香りがする。甘さのない、涼しげでひそやかな香り。小鳥は知られないようにこっそりと、息を吸い込んだ。

「天上で何が起こっている、スフェル」

 王が声をかけると、「死に損ない」と思しき男の声がした。

「あなたは……私は死んだのですか」

 理解が早い。死の王の顔は、知れ渡っているらしい。

「何ということだ、使命も果たせずに冥府に下るとは」

 スフェルと呼ばれた死に損ないの声は苦々しい。自責の念に満ちている。

「使命とは?」

「至上の君より直々に拝命したのです、何としても『恩寵の神鳥』を取り戻すようにと。悪しき半妖が隠し持っていたことが分かったのです。しかし駆けつけた時には神鳥の姿はなく、狂乱した半妖と争いとなりました」

「それほど大きな勢力が?」

「半妖は富を蓄え、強力な妖魔から成る大規模な私兵を有していました。しかも神鳥が逃げ出したことで、怒りのあまり暴走状態にありました。誰かに裏切られたに違いない、とわめいていました」

「誰かの密告があったのか?」

「いいえ。ただ、ほんの一瞬、神鳥の輝きが感じられたと仰っていました。至上の君ほどの方でなければ気づかぬほど、微かであったそうですが」


 小鳥は死の王の懐で、じっと身をすくめていた。

『恩寵の神鳥』とは自分のことだ。遠い遠い昔、そう呼ばれていたことがあった……もう、おとぎ話のようにおぼろげな記憶だが。

 恩寵の神鳥は、歌えば生命を育み、羽ばたきは浄化と癒しをもたらし、その涙は宝石となる。無限の繁栄と祝福をその持ち主に与える存在だと言われている。

 遥か昔、誰か神族の結婚祝いとして贈られるはずだった。だが途中で誰かに奪われ、拘束され、涙を流すことを強要されるようになった。うまく泣けないと拷問を受け、やがてそれが日常となった。

 死にたくとも、不死である小鳥は死ねなかった。終わりのない苦しみに耐えて、耐えて、耐え抜くしかなかった。

 数百年を経て、喜びを忘れた小鳥の涙は枯れはて、泣いても粗悪な宝石しか生まなくなった。半妖の主はますます怒り狂い、思いつく限りの残忍なやり方で小鳥を責め立てた。

 生は苦しみであり、死は甘き憧れだった。

 だからほんの一瞬の隙をついて、逃げ出したのだ……冥府へと。結局、死ぬことはまだ許されていないけれど。


「戦はまだ続いているのだな」

 問いかける死の王の声は沈んでいた。悲しんでいるのだと知れた。

 無感情に見えるこの神が実は心優しいのだと、最近少しずつ感じ始めている。

「ええ、他にも犠牲者はいましたか」

「天使ではそなただけだ」

「そうですか……ですが、まだ増えるかもしれません。神鳥はまだ見つかっていませんから」

 それからも死の王とスフェルはこまごまとした話をしていた。天上の誰それはどうしているとか、神鳥はどこへ逃げたのかなど。

 そして最後には、スフェルの魂を肉体ごと天上へ送り返した。

「そなたに死はまだ早い、罪人を必ず捕えなさい」と告げて。


 全ての魂を死へ導くわけではないらしい。中には例外もあるのだ。スフェルと呼ばれた天使や、自分のように……。

 思いにふけっていると、懐から取り出され、大きな手のひらに乗せられた。

 死の王の深遠なる瞳がこちらを向いている。

「聞いていたな」

「はい」

 王はやはり、小鳥の正体に最初から気づいていたようだ。それでいて、何一つ問い詰めるようなことをしなかった。

「あの者に身柄を渡すこともできたが、そなたは望まぬと思った。間違っているか」

「いいえ」

 小鳥は翼を広げて、頭を垂れた。お辞儀のつもりだった。

「私の願いは死のみです。天上へ戻りたくはありません」

「そうか」


 王の感情は、相変わらず見て取れない。

 だが指の腹で撫でられた頭部が心地よく、自分からも少しすり寄せた。

 何も求められず、かといって捨てられもせず、ただ存在を許されている。

 死への憧れは消えていない。もうどこへも行きたくはないし、誰かに祝福を与えたいとも思わない。

 けれど実際のところ、冥府に落ちた時ほど強く、死を願っているわけではない。そんな不確かな感情を、もしかするとこの聡い神には見透かされているのかもしれない。

 


 小鳥にとってどうにも不思議に思えるのは、死にたくないとすがる魂のことだった。

 強い力を持たない人の子でありながら、思念の力だけで生にしがみつく魂が、時折現れる。

 その日はとある国の侯爵令嬢の魂が、どうしても地上へ戻ると言ってきかなかった。

「私にはまだやるべきことがあるのです。父と兄に変わって領地を守り、裏切者を討たなくては死ねません。でなければ、誰が母を守るのです。領民は、幼い弟はどうなりますか。どうか私を戻してください、あと一年猶予をいただければ、必ずこの命はお返ししますから」


 令嬢の魂は必死に言い募り、死の王の慈悲を請うていた。

 小鳥は王の肩にとまり、ひたすら首をかしげていた。

 せっかくの死のチャンスをふいにするなんて、信じられなかった。地上に戻れば、まだ波乱と戦いの日々が待っているのに、わざわざ苦労しに行くなんて。

 自分以外のもののために命をかける、という感覚が、小鳥には理解できない。そうまでして生きねばならないのだろうか、どうせ短い人生なのに。


 王は考慮の末に、三か月の猶予を与え、令嬢の魂を地上へ戻した。そして三か月が経つと、使い魔は約束通りその魂を携え、冥府を下って行った。

「感謝します」とその魂は礼を述べていた。

 完全ではないにしろ、望みを果たすことができたからと。

「あなたはどうやって、命を選別するのですか」

 例えば哀れに思うかどうかですか、と小鳥は尋ねた。

 王はもしかして、小鳥のことも同情したのだろうか? だからこうして、手元に置いているのだろうか?


 しかし王は、ゆるりと首を振った。寝台に優雅に横たわりながら、腹に寄り添う小鳥をやわく撫ぜている。

「生まれ持った命数はある程度決まっているが、予定よりも早く冥府に落ちてくることもある。命数に余剰があるならば、その分だけ戻してやっても良い。だが、悪しき魂は別だ」

「逆はどうですか。死を望むのは、悪いことではないはずです」

「生死そのものに善悪の別はない。だが、そなたに元々命数は存在しない」

「それでも、あなたになら可能なはずです、私に死を与えることが」

「可能ではある」

 死の王は静かに肯定した。


 数多くの神族の中でも、死の王は抜きんでた存在だ。現存する中で最も原始の神に近い、二柱の高位神が一人。生命と光を司る最高神アルヒと、同等の力があるとされている。

 死と宵闇の神エンデに奪えぬ命はない。

「私は、誰かを祝福するために生まれてきましたが、私がいることで、人は欲望を抑えられなくなります。私を奪い合って、争いが生まれる……けれど、私は自分のためには何一つ持っていません。自分を癒すこともできず、祝福することもできない。なぜ死さえも許されないのですか」

 王は生かした理由を見つけろと言ったが、小鳥にはどうしても、その答えが見つからない。冥府の暮らしはそう悪くはないが、迷宮をさまよい歩いているような居心地の悪さは消えない。


 王はそっと瞼を閉じた。長い睫毛が雪のような肌にあわく影を落とす。

「同じ問いならば、我が胸の内にもある」

「あなたにも?」

 思いがけない返答に、小鳥はまばたきをした。

 この王が一度も笑ったことがないことに、気づいていないわけではない。だが、考えたことがなかった。死の王が幸せなのかなどということは。この世の誰も考えたことはないだろう。

 闇のうちにあり、死を与えるだけの永遠なる存在。彼もまた不死であり、孤独であり、答えのない問いを抱えている。役割を強いられたまま、是も否もなく生きねばならない。その楔は、小鳥よりも遥かに深く重い。


 そうか、自分だけではなかったのだ。

 ふいに耐えきれないほどの悲しみに襲われて、小鳥は涙をこぼした。その涙は寝台に落ちる前に真珠やダイヤやルビーに変わり、ちりちりと音を立てて重なった。

 あの強欲な半妖がいれば大喜びしそうな、大粒の宝石だ。これほど質の良い宝石ができたのは、久しぶりだった。涙は枯れ果てたと思っていたが、まだこうしていくらでもあふれ出る。

「これはあなたのものです」

 小鳥は宝石を死の王に渡そうとしたが、王は受け取らなかった。

「そなたの生み出したものを、誰かにささげる必要はない。持っていなさい」

 この神は何一つ自分から奪おうとはしない。死という願い以外は。


 小鳥は人の形に姿を変えると、自分の目からこぼれる宝石を一つ一つ拾い上げた。

 こんなもののために、長い年月を苦しみぬいてきた。こんな、色のついた石くれのために。

 涙は次から次へと出てくるので、宝石は両手にあふれ、やがてはこぼれてしまった。

 震える肩を、死の王が引き寄せる。温度の低い手が、白銀の髪を優しく梳いた。華奢な背や足をあたたかな闇が包み込む。

 慰めの言葉もなければ、説き伏せるわけでもない。言葉なき言葉で、二人は分かちあった。乗り超えてきた数多の苦しみと、これから迎える悲しみを。

 その日を最後に、小鳥は死なせてほしいと訴えることがなくなった。



「お願いです、この子だけは戻してください。この子はまだ何も知らないんです。この世の美しさも、楽しさも、誰かを愛する喜びも、何一つ知らずに死ぬなんて、あんまりです」

 ある日使い魔が連れてきた「ド根性魂」は、小さな娘を連れた母親だった。不運な事故により、二人とも命を落としたのだという。

 我が子の魂を抱きしめて嘆く母親の魂に、王は黙って首を振る。

「そなたらの命数は尽きている」

 王の口数はいつも少ない。

 言葉を重ねたところで、何も変えられないからだ。苦しませるだけの言葉を、彼は口にしない。


「慈悲はないのですか。この子は辛い目だけ遭うために生まれたのですか。この子がどんな思いをしてきたかご存じですか。不当な境遇に文句ひとつ言わなかったのに、こんな死に方だなんて、私は神を呪います。天を呪います。何もかも呪います……!」

 叫ぶような声は、小鳥の胸に突き刺さる。

 小鳥はまだ、死に慣れていない。強い感情からくる言葉の一つ一つに、否応なく揺り動かされてしまう。

 自分もかつては、こんな風だったろうか。願い自体はまるきり逆だが。

 生きるにしても死ぬにしても、心足りて受け入れることはこんなにも難しい。


 ぎこちなく唇を動かして、歌を歌った。

 唐突なことに、あっけにとられる母親の周りに、突如として花が咲き、水が噴き出し、楽園のような風景が広がった。一面の花園に甘やかな風が吹き、色とりどりの花弁が舞う。

 わあっと、声を上げたのは幼子の魂だ。

「きれい、きれいだね、お母さん! お母さんがお話してくれた、お姫様のお庭みたい!」

 子供の魂はかりそめの楽園に飛び出し、駆けまわるかのように動き回り、笑い声をあげた。

「ねえ、あっちに行こうよお母さん。わたし、戻りたくなんてないよ。だってこっちはこんなに綺麗だし、意地悪を言う人はいないんだよ」

 生という楔から解き放たれた魂は、いっぱいに笑い転げながら少しずつ遠ざかる。本来、死んだ魂は安らぎを求め、自然と行くべき場所へ向かうことになっている。

「お待ち、マノン! お母さんと一緒に行くのよ」

 慌てた様子の母親の声は、子供の魂を追って遠ざかった。いつしか笑い、歌いあいながら。

「……ありがとう、ございます……」

 遠くから、穏やかな声が微かに届いて、消える。二つの魂は、無事に正しい道を下って行った。


「へえ、すごいじゃないか、鳥娘。これなら使い魔としてでもやっていけるぜ」

 二つの魂が見えなくなると、使い魔が褒めてくれて、死の王もそっと頭を撫でてくれた。

 導くつもりで歌ったわけではなかった。ただ、少しでも不遇な魂の慰めになればと思ったのだ。

 思いがけず良い結果になったので、小鳥は嬉しくてそわそわした。褒めてもらうのなんて、初めてのことだ。

「冥府にも花は咲くのだな」

 王はどこか懐かしげな目で、花園を眺めている。そのまなざしに胸が苦しくなって、小鳥は再び、高らかに歌った。

 勢いよく咲き乱れる花を、人の姿になって摘んで回る。人の手足は、小鳥の翼よりもずっと重くて遅いけれど、ずっと色々なことができる。花を摘むだけじゃなく、冠にすることも、それを主に手渡すことも。

 花冠を差し出すと、王は静かに微笑み、長身を折り曲げてくれた。それでようやく、頭に手が届く。


 見たこともない死の王の微笑に、使い魔は呆気にとられていた。絶え間ないおしゃべりが途絶えて、沈黙が訪れる。

 もちろん小鳥もまた、空になった手で心臓を押さえていた。

 見たことのない表情を、誰でもない自分が引き出せたことが、嬉しく誇らしくて泣きたくなった。

 花冠の死神は美しかった。闇をまとう漆黒の衣装に、こぼれるほどの花が鮮やかに映えている。それにこの際立つ美貌だ。一目見れば心が奪われる。


「おいで」

 おずおずと、言われるがまま傍に寄る。

 足元の花を一輪摘み取った死の王は、それを小鳥の耳元に挿した。

「そなたは美しいな」

 自分の思っていたのと同じことを、死の王が口にしたので、しばし混乱した。心を読まれたのかと思った。

「そなたがいれば、冥府でさえ春を知る」

 そうか、美しいのは自分自身ではなく、祝福の力のことだ。そう理解できると、得心がいった。


「これから毎日、春を連れてきます」

 あなたの笑顔が見られるのなら。

 そんな本当の気持ちは、おいそれと口には出せない。

「歌いたいときだけで構わぬ」

 祝福を義務としてはならぬ。そう言ってくれるからこそ、なおさら歌いたいと願ってしまう。歌が自然に唇からこぼれ出る。

 王が迷える魂を導くときに、歌を歌うのが習慣になった。死せる魂が、せめて少しでも安らぎを得るように。そして王が、死を与えることに苦しまないように。

 毎日歌って喉が嗄れないのかと王は心配してくれたが、不思議にも全くそんなことは起こらなかった。

 もう二度と誰のためにも歌わず、泣くまいと決めていたことが、嘘のようだ。


 今となっては、王がなぜ自分を死なせなかったのかが、分かるような気がしている。

「私は生きるとはどういうことか、少しも知りませんでした」

 それが答えですね。

 尋ねると、王は黙ってうなずいた。

「もう一度選びたいか」

 答えが分かっていて、王は尋ねている。

 小鳥は笑って首を振った。

「選ぶとしても、あの頃とは違います」

 王もまた、口の端に柔らかな表情を浮かべた。

 出会った頃、石像のようだった死の王は、このところ随分変わったように見える。もしかすると、二人は同時に学んでいるのかもしれない。生きるということの意味を。

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