死を願う
見るからに無惨な、ほとんど原型もとどめていない「何か」が、冥府の端っこに落ちていた。
両手に乗るほどの大きさで、ごわごわとかたい手触りは、どこが顔なのか、そもそも生き物なのかも分からない。
誰が見ても生きているようには見えない代物だったが、冥府を巡回する使い魔の目には、確かな生命のしるしがはっきりと見えていた。
「へえ、こんな状態で死んでないなんて、すごい生命力だ。こんなにちっこいのにな。どんなド根性野郎なんだ?」
本来は死後の魂だけが行きつく冥府に生きたままたどり着くのは、強い力を持つ高位の神か、よほど強い思念を持つ者だけだ。
目の前の「何か」はそのどちらにも見えないのがまた訝しいところだが、少なくとも、悪霊となって襲いかかってくる様子はなさそうだ。となると、使い魔の仕事は簡単だ。
憐れむでも怪しむでもなく無造作に抱え上げると、深い闇の奥、彼らの主の座す宮殿へと運んでゆくのだった。
「王様、ずいぶんと根性のある死にぞこないがいましたよ」
王に対するにしては気軽な呼びかけとともに、使い魔は持ち上げた時と同じくらい無造作に転がしたので、「何か」は鈍く半回転してから、止まった。
血と焼け焦げにまみれたそれが、わずかにまぶたをあげる。低位の神や妖魔なら、生きたまま足を踏み入れるだけで魂が損なわれる冥府で、なぜかいまだに生きていた。見えてもいなさそうな濁った眼を、力なく中空に向けている。
王様と呼ばれた男が、闇の中から滑るように姿を現した。
ただでさえ薄暗い中で、その人はいっそう深い闇色の髪を長く垂らしている。よく磨いた黒瑪瑙のような瞳は、一目見ればどこまでも吸い込まれるよう。身につけた衣服も装飾品も徹底して黒ずくめの中で、白い肌だけが月光のように淡く浮かび上がっている。
幽艶なまでに美しい男だった。
それでいてあたりを圧するような存在感があり、彼を見慣れている使い魔でもなければ、同じ空間にいることも躊躇われただろう。その力の膨大さは、計り知れない。
冥府の王は、ちらりと「何か」の方を見た。そして、滅多に表情の変わることのない端麗な面に、わずかな驚きを浮かべた。
「この者は不死だ」
「へえ? こう見えて、格の高い神様なんです?」
神も妖魔も基本的には不死ではなく、肉体と魂の死は連動している。不死の特性を持つのは、神族の中でも数えるほどしかいない。
「……いや」
王は考え込む顔つきになり、しばらく黙って「何か」を見下ろしていた。
こんなことは、初めてだ。使い魔の方も、どうして良いのか分からずに主の様子をうかがうしかない。
そこへ、枯れ葉のこすれるような微かな声がした。老婆よりもひびわれた、消え入るように乾いた声。
「……て」
使い魔でも死の王でもないとすれば、その声の主は「何か」でしかない。
王と使い魔は、自然と体を傾け、耳を澄ませた。
「……死なせて。死なせて、ください」
かろうじて聞き取れた声は、どうやら繰り返しそう呟き続けていた。
どういう事情か分からないが、不死の肉体を持ちながら死を願うとしたら、死の王の慈悲にすがるしかなかったのだろう。
生き物と呼ぶのもはばかられるような惨めな姿だ、きっと幸せな生を送ってこなかったのだろう。死は救いにも等しいに違いない。
迷える魂を導く死の使いは、ひとつひとつの死に胸を痛めることなどない。が、一応良心らしきものは持ち合わせている。
この哀れな生き物を死なせてやるのがせめてもの温情だろうと思い、主は必ず慈悲をかけるものとばかり思っていた。
ところが、だ。死の王は手を伸ばし、長い指で「何か」をすくいあげると、ためらいがちに呟いた。
「……連れて行く」
長年死の王に仕える使い魔は、主の声に含まれる微妙な感情をただちにくみとった。
主は、本当に驚天動地と言っても良いほど珍しいことながら、すっかり途方に暮れているのだ!
無理もない。王が「何か」を生かすことにした理由は分からないにせよ、こうなると使い魔も一緒になって途方に暮れるしかなかった。
冥府に治療が必要な生命体が訪れたことはいまだかつてなく、薬や治療道具があるはずもない。当然、癒し手が控えているわけでもない。
神界においてほとんど並び立つ者のない死の王にも、できないことはある。
そっと両手に乗せた小さな「何か」を癒す術など、冥府中どこを探しても、ありはしないのだった。
◆
……息が、苦しくない。
おぼろげに意識が浮上した時、まずはそんな違和感がよぎった。
それだけじゃない。全身、痛みの服を着ているようだったのが、今ではところどころ、鈍い痛みがある程度だ。
ずきずきするのはどこだろう。骨の内側、肉のはざま、あるいは胸の奥。特定できない痛みが静かに脈を打っている。お前はまだ生きているのだと、残酷な現実を知らしめて来る。
おそるおそる、瞼を開いた。
あたりは一面、薄暗くてよく見えなかった。ぼんやりとした夜光石の灯りがところどころに落ちているものの、眠りを妨げるほどの明るさではない。
おかげで周りの風景はよく見えなかったが、自分がずいぶんと柔らかな寝床に寝かされていることはすぐに分かった。自分のように軽い身体でも、ふんわりと沈み込むほどの柔らかさだ。滑らかな手触りといい、とてつもなく高価な寝具に違いない。
記憶が亡くなる前、確かに冥府にたどり着いたと思ったのに……死の王に会えなかったのだろうか。それとも?
訝しげに首を傾げながら、今度はおずおずと羽を伸ばしてみた。
血と焼け焦げにまみれていたはずが、わずかながらふんわりとした羽毛が生えつつある。折れていた骨も、丁寧に添え木がされて、力を込めれば飛べそうだ。
自分の羽根はこんなふうだったか、と初めて見るような気がした。長らく、血の下にある色を見ていない。
白銀の光沢ある羽は、陽の下でならもっと明るく輝くのかもしれない。銀糸を織り込んだ絹のように、あるいは夜空の星のように。
ここではどんなに目をこらしても、何もかもがぼんやりとしか見えない。
「目覚めたか」
低く穏やかな声に、びくりと羽をすぼめた。
誰かがすぐそばにいたことに、少しも気づかなかった。
目をあげることも恐ろしく、がたがたとからだが震え始める。
「寒いか」
不思議そうに声の主がつぶやいている。低く静かで、天鵞絨のように滑らかな声だ。いつまでも聞いていたくなるような。
「怖いんじゃないですか? 王様は真っ黒だから」
もう一人の声がする。何人もが側にいることにも気づかぬほど気を抜いていたなんて、信じられない。
「背中に目があるようには見えぬが」
静かな声の言う通り、入ってきた二人の姿はまだ見てもいない。
恐いのは、姿のせいではなかった。生きとし生けるもの全てが恐ろしいのだ。言葉の全てが、刃物のように思えてしまう。
声が恐い。存在が恐い。命あるものが、すべて恐い。
「もうちょっとこう、感動のご対面みたいなのを想像してたんですがね。そりゃあ薬も何もないから、せいぜい洗って寝かせただけですけど。それでも王様は、この二か月間朝も夜もずっと気にかけておられたっていうのに」
背後の声が、勝手にペラペラと喋ってくれたおかげで、おおまかな状況は理解できた。何と、二か月も眠り続けていたとは。
こびりついた血を洗って、ふかふかの巨大ベッドに寝かせてくれたのはこの人たちらしい。
そして、二人いるうちの片方は「王様」だという。もしも自分が冥府にたどり着けていたとしたら、探し求めていた「死の王」に違いない。
でもそうだとしたら、どうして自分はまだ生きているのだろう?
死なせてほしいと、自分は力を振り絞って伝えなかったか?
「死を望む者は、生を喜ばぬ」
落ち着いた声の方は、小鳥の心境をよく理解している。ということは、分かっていて、あえて生かしたのだ。
なんて残酷な仕打ちだろう!
ようやくこの苦しみが終わることだけを願っていたのに。
「そうですか? だって口では死ぬだの殺せだの言っても、いざって時には、殺すなとわめき始める奴はいくらでもいるじゃないですか」
「真に死を願う者もいる」
「そりゃあそうですけど。こいつは……というか、名前は何ですかね? なあ、それくらい、教えたっていいだろう? 呼ぶのに困るんだよ」
後半は、こちらへ向かっての問いかけだった。
けれど、あまりに恐ろしくて声も出せないし、出せたとしても、その答えは持っていない。
「名がないのか」
黙り込んでいると、今度も「王様」は言い当ててみせた。察しの良い人らしい。
「へえ? 名のある神鳥かと思いましたけどね。こんな珍しい羽の色、見た事ないですよ。それに、そんじょそこらの鳥が、不死の肉体を持っているわけがない」
もう片方は、本当によく喋る。
苦手なタイプだ。まくしたてるような話し方、遠慮のない声音。聞いていると、息が苦しくなる。
「何にしても、名がないのは不便ですね。鳥って呼ぶのもなんですし、せっかく助けたなら名付け親になったらどうです?」
「その話はまたにしよう」
「そうですか? じゃあしょうがない、当面は鳥娘って呼びます。おい鳥娘、王様にごあいさつでもするべきじゃないのか? もう怪我が痛くて動けないってわけでもないんだろう」
一人で三人分くらい喋るやつの顔など見たくもなかったが、自分を死なせてくれない死神のことは、さすがに気になっている。
じりじりと頭を傾けて、目線を背後に滑らせた。
漆黒の闇そのもののような長身の男が一人と、背を老人のようにかがめた、年齢不詳の使い魔がいた。使い魔はふわふわと空中に浮いている。
「王様」の方は同じ寝台に座っていて、なんと自分が寝具だと思っていたものは、彼の衣服の裾らしかった。
なんということだ。
あまりの現実に、再び意識が遠のきかける。
「なぜ生かしたかと聞きたいのだろう」
使い魔のやかましさと違って、死の王の声は快い。
何も言わなくとも、こちらの気持ちなど見透かしているようだ。
「理由は自分で探しなさい。理解できた時、もう一度そなたに選ばせよう」
探すも何も、答えはあなたの中にあるでしょうに。
うらめしい気持ちになるも、なぜだか怒る気持ちになれなかった。あまりに心地よい声のせいだろうか、それとも愁いを帯びた漆黒の瞳のせいだろうか。
こちらが何も言わないことを咎めることなく、死の王は長い指を伸ばし、伸びかけの羽毛をひと撫でした。
「夜よ……」
囁きと同時に、目の前が一層暗くなり、何も見えなくなる。
「眠りなさい、時がそなたを癒すだろう」
誘われるように、眠気に包まれる。
死の王は、夜と闇を司る神でもある。その力に包まれて、小鳥は再び長い眠りについた。
◆
再び小鳥が目を覚ますと、羽毛はすっかり生え変わり、醜い火傷や傷跡はすっかりなくなっていた。骨も折れていないし、どこも痛くない。
痛みはずっと小鳥の一部だったので、どうにも奇妙な感じがした。怪我一つない自分の身体も見慣れなくて、何だか生まれ変わったような心持ちだ。
ゆうに半年もの間、小鳥は眠り続けていたのだという。おしゃべりな使い魔が勝手にまくしたてたところによると、だ。
「怪我自体はとっくに治ってるのに、ちっとも目覚めないもんだから、もう二度と起きないのかと思ったくらいだ。その間ずっと、王様がずっと懐に入れていたんだぞ、世にも高貴な鳥娘サマサマだ」
冷やかしとも妬みともとれる調子で使い魔が述べるのを、小鳥は怪訝に聞いていた。
死の王の行動の理由は、こちらが知りたいくらいだ。
一体何の気まぐれで、そこまで面倒を見たのだろう。もしや小鳥の素性を察して、また利用しようというのだろうか……。
しかしそれにしては、王は何も要求してこない。涙を流せ、とも、歌え、とも。
何も言われないものだから、「何かお礼をすべきですか」とこちらから尋ねたものの、「必要ない」と断られてしまった。
「冥府を出てゆきたいなら送らせる。ここにいたいのなら、いれば良い」
そんなことを言われても、こちらだって困ってしまう。
「私は死にに来たんです。行きたい場所も、やりたいこともありません」
「そうか」
「でも、頼んでも死なせてくれないんですよね」
「今は、そうだ」
いつだったらいいのかも分からないし、答えてもくれない。
途方に暮れて、小鳥は白銀の翼をはばたかせ、冥府をあちこち飛んで回った。
冥府には何もなかった。緑あふれる山や丘も、湖や川や海も、美味しい食べ物も、動物も、何もかも。
あるのは薄暗く平たいばかりの空間と、不気味に光る夜光石と、王の住まう漆黒の宮殿ばかり。その宮殿も立派な寝台を除けばこれといって装飾もなく、がらんと寂しいだけの建物だ。
一日も経たずに、やることが無くなってしまった。
宮殿にやってくるのは、使い魔たちだけだ。
彼らが見つけてくる死に損ないの魂に、死の王は正しい道筋を教えてやる。強い思念を残した魂があれば、話を聞いてやる。
なかなかに多忙な仕事をこなし、時折寝台で横になる。
神々の中でも最も力ある一人であるはずの死の王が、こんなにも空虚な日々を送っているとは夢にも思わなかった。死の王の妖しいまでの美貌にはほとんど何の感情も浮かばず、まるで動く石像かなにかのようにも見える。
小鳥は退屈していたが、かといって地上に戻りたいわけでもなかった。
小鳥は人も神も信じない。あの苦しみの日々を繰り返すくらいなら、誰にも知られぬ冥府でぼんやりしている方がまだマシだ。
死の王はどうやら、まるで欲がないようだし……他の神族に言いつける気配もなさそうだ。
そう知れると、次第に緊張も解けていった。
何もない冥府を飛び回り、使い魔のいないところを見計らって、歌を歌った。かつて別人のようにしわがれていた声は、ハープのような甘い響きを取り戻している。
すると小鳥の周りには色とりどりの花が咲き乱れ、かぐわしい香りを放った。見る見るうちに木が育ち、甘く熟れた実をつける。
小鳥の姿から人の形をとり、その実をもいで食べてみた。果実の味は毎回違い、毎回美味しかった。歌うのをやめると、じきに枯れてしまうので、邪魔になることもない。
歌い疲れると、宮殿に戻り死の王の長い衣服の裾に包まって眠った。夜の神でもある彼の力のためなのか、そばにいるとぐっすり眠れるのだ。
死の王は、ほとんど話しかけてはこなかった。
小鳥が裾に包まりに来るとき、そっと羽毛を撫でるばかりだ。
死の王の愛玩動物というのも、案外悪くないかもしれない。
可愛がられているというほどの実感はなかったものの、小鳥は次第に冥府を居心地よく感じ始めていた。