今ここに差す光
『レストア大陸記』シリーズの番外編ですが、短編としてもお読みいただけるかと思います。
足が僅かに浮く程度の高さの木の枝に、両手で掴まりぶら下がる茶髪の少年。通りかかった銀髪の少年が怪訝そうにその藍色の瞳を向ける。
「何やってるの?」
かけられた声に、茶髪の少年はびくりと身動ぎした。ゆっくりと自分を見上げる銀髪の少年を見やり、ぶらさがったままもごもごと小さく呟く。
「…ちょっと」
ばつの悪そうなその様子に、銀髪の少年はそう、と一言だけ返し、その場を離れた。
(何やってんだろ)
振り返りはせず歩きながら、アーキスは心中少し呆れて呟く。
昼食後、ふらりと出た宿舎の外。木々の間に何か見えたような気がして行ってみたところ、枝にぶら下がる同期生のリーに遭遇した。
ほんの少し跳べば掴める程度の高さ。身体をほぐそうとしているのか、もしかすると身長を伸ばそうとでもしているのか。
同期の男の中では一番小柄なリー、彼が己の体格を気にしていることは気付いていた。
共同生活が始まるなりほかの同期生とケンカをした理由もそれ。同期の中ではすっかり孤立してしまい、一時期よりはマシになったとはいえ今もまだギクシャクしている。
あどけなさを感じるくらいの童顔で小柄。しかしその姿にそぐわぬ負けん気と力の強さで、からかう相手に真っ向から向かっていく。
そんな、色々な意味で目立つ存在。
近付かないのが一番だとわかってはいたが、あまり波風を立ててほしくないので少しだけ皆との間に入ったこともある。
別に助けようと思ったわけではない。
自分は穏やかに養成所生活を過ごしたいだけ。誰とも当たり障りなくつきあえればそれでよかった。
翌日の昼食時。早々に食堂の隅の席に座っていたリーの姿が、皆が半分食べたかどうかの頃には既に消えていることに気付いたアーキス。
そういえばあまりお昼に見かけた覚えがないのは、こうしてすぐに食堂を出ていたからなのだろうと気付く。
いつもあの場所にいるのか、それとも違う場所なのか。
ふとそんなことを考えてから、どうでもいいかと独りごちた。
ここにいる間も、ここを出てからも、誰にも深入りする気はない。いてもいなくても同じ、そのうち顔も思い出せなくなるような。自分はそんな存在でいい。
孤立はしてなくともひとりの自分。
誰にも媚びず、ひとりのリー。
どちらも同じひとりではあるが、間違いなく、誰の記憶にも残るのは後者だろう。
そしてそれはおそらく、自分の記憶にも。
それ以来どうにもリーのことが気にかかるようになってしまって、つい姿を追うようになった。
夕食時もすぐに姿を消し、逆に朝食は時間ギリギリに現れる。
できるだけ同期生との接点を持たないようにしているとも取れる行動。
授業中も訓練中も必要最低限しか喋らず、黙々と言われたことをこなす。
ほかに関心を示さないリー。直接突っかかられた時以外は歯牙にもかけないその態度が癇に障り、ますます苛立ちを向けられているのだろうに。気付いているのかいないのか、リーは一向に変わる様子はなかった。
見れば見るほど、本当にまっすぐな性格なのだとわかる。
共同生活はたかが二年なのだから、もうちょっと上手くやればいいのに。
そう思うことで、なんとなく感じたモヤモヤとした気持ちに蓋をした。
そんなある日のこと。
読んだ手紙を封筒にしまって引き出しに突っ込んだアーキスは、溜息をついて立ち上がった。
そろそろ昼休憩も終わり。教室に戻らねばならない。
沈む気持ちを振り払うようにもう一度息をつき、アーキスは部屋を出て教室に向かう。
部屋に誰もいなくなるのを待っていたせいで手紙を読み始めるのが遅くなり、結局教室に入ったのは授業直前。だというのに、教室に揃う同期生たちの中にリーの姿がなかった。
いつも間際ではあるが、ここまで遅いことはないのにと怪訝に思う。
もちろん同期生たちはリーがいないことを気付いている様子もなく。自分も気にする必要はないと思いはするが、どうにも割り切れない。
暫くの逡巡のあと、アーキスはそっと教室を出た。
部屋を訪ねるがおらず。そのまま外へと向かう。
(なんで探してるんだ…)
内心ぼやくが足は止まらない。
建物を出てからどこを探せばと一瞬考え、走りだす。
向かった先は、以前リーを見かけたあの場所。
見上げる木の上、身長よりもいくらか高い位置の枝にリーの姿を見つけ、少しほっとすると同時に苛立ちを覚えた。
「何やってるの?」
かける声がついきつめになってしまう。
「もう授業始まるんだけど」
重ねて問うが、リーは木の幹を向いたまま身動きひとつしない。
暫く見上げて待ってみるが、返事も動く様子もなく。そのうちアーキスは見上げるのをやめて溜息をついた。
(…ホントに。なんで……)
反応のないリーにも、放っておけばいいのに探しに来てしまった自分にも、なんともいえずイライラする。
同じようなものが雑多に散らばる中、たったひとつの『それ』を探すような。
見つけられないもどかしさと、見つからない苛立ちと。そして、その奥にもうひとつ―――。
「……だよ…」
ぽつりと聞こえた声に、掴みかけた感情が霧散する。
もう一度見上げてみても、リーは同じ姿勢のままであったが。
「…下りらんねぇんだよっ…」
口調だけはいつも通りでも、絞り出すようなその声。
意味を取りかねリーを凝視すると、幹を向いているのではなく、幹にしがみついているのだとわかった。
リーの座る枝の高さは、跳べば掴める程度。
「……え?」
真っ白になった頭の片隅で、自分の発したなんとも間の抜けた声がちょっと恥ずかしいと思った。
その後、悪戦苦闘の末になんとかリーを下ろすことができた。
もう遅刻は確定だった。それでも少しでも早くと急かすが、リーはへたり込んだまま動けない様子で。
「……先、行って…」
青白い顔で息も絶え絶えにそう言われるが、どうにもわかりましたと頷きづらい。
迷ったのはほんの一瞬。張り詰めていたものを緩めるように息をつき、アーキスはリーの隣に座った。
「いいよ。どうせ遅刻だし。動けるまで待つよ」
リーはそれきり何も言わず、アーキスも黙ったまま空を仰ぐ。
誰とも当たり障りのないつきあいでいいと思っていたのに、どうしてこんなに気になってしまうのだろうか。
先程手放した感情を再び手繰り寄せながら自問するが、結局は掴めず諦めた。
葉を揺らしながら抜ける風が頬を掠め、揺れる葉の隙間から時折きらりと光が洩れる。枝葉の合間の空は青く、この先の暑さを思わせた。聞こえるのはただ葉擦れの音と、隣の少々荒い息。
こうしてぼんやりと座るのはいつ以来だろうかとふと思う。
―――ずっと懸命にやってきた。
自分にできることを、自分にできるだけ。望まれるままに。それでいいと思っていた。それで周りに喜んでもらえれば、自分だって嬉しいのだと思っていた。
なのに。気付けば自分には何もなかった。
何かをする喜びも、先の望みも、己への期待も、何もなく。
ただただ息苦しくて、動けなくなってしまった。
そんな自分がすべてと引き換えに得た『今』なのだから。もう自分は自由なのだから。
これからは人に煩わされずにいようと思っていたのに。
誰に対しても毒にも薬にもならない存在でいるつもりだったのに。
どうしてこんなにリーのことが気になるのだろうかと息をつく。
そんな、間違いなく己に対する嘆息に。
隣のリーが、申し訳なさそうに顔を上げた。
「また助けてくれてありがとな。…あと、ごめん」
聞こえた声に隣を見ると、リーが眉を下げこちらを見ていた。
「アーキスまで遅刻だよな。俺のせいって言ってくれたらいいから」
「別に気にしてないよ」
これは紛れもなく本心だが、リーはそうとは取らなかったようで。もう一度ごめんと謝られる。
「それよりさ、何やってたの?」
平行線を辿りそうだったので話題を変えると、うん、と歯切れの悪い呟きが帰ってきた。
「…俺、高いとこ苦手でさ……」
「それはわかってるけど。だからなんでって」
あの様子を見れば一目瞭然。聞いているのはどうしてそれをしていたのか。
間髪入れぬその声に、リーは視線を泳がせた。その先で溜息をつき、再びアーキスへと向き直る。
そこにはもう戸惑いはなく。ただ覚悟を決めた瞳があった。
「…あいつに知られたらバカにしてくるのわかってたから。それでケンカになったらまた迷惑かけそうで。先になんとかしたかったんだ」
結局巻き込んでごめん。
もう一度謝り、視線を逸らすリー。
その顔を見つめ、告げられた言葉を心中で反芻し。
ようやくその真意に気付いたアーキスは、ただ驚いてリーを見返した。
視線の先には小柄な身体で更に縮こまる同期生。どこか落ち込むその姿からは、とてもケンカを吹っ掛けるようには見えない。
ふっと、吐息をつく。
「…ケンカしないで済まそうとは思わないんだ?」
自分のためかとは聞けなかったのでそう言うと、リーは渋面でアーキスを見た。
「無理。腹立つから」
「聞き流しとけばいいのに」
「それも無理。誰だって仕方ないことあるってのに、いちいち突っかかるヤツのが悪い」
不貞腐れた声に思わず笑い。
そして同時に理解する。
リーのことが気になった理由がそこにはあった。
たとえ孤立しようとも譲れないことは譲らないリーの強さ。
自分にはそれが眩しく。羨ましかったのだと―――。
暫く休んだリーが、もう大丈夫と立ち上がった。
「俺を助けてくれてたからだって、先生には言っとくから」
手を差し出しながらのリーの言葉に、アーキスは首を振る。
「それだと説明しないとだろ? ふたりで話すのに夢中になってて気付かなかったってごまかしておいたらいいよ」
「でもっ…」
「あと、俺にも手伝わせて」
反論を遮るようにそう告げ、リーの手を取るアーキス。
「また下りられなくなったら困るだろうし」
上がるその口角を目にしたリーは、瞠目したあと溜息とともにアーキスを引っ張った。
「……一言多いんだよっ」
「リーは少なすぎると思うけどね」
立ち上がったアーキスはそう笑い、ぐっと手に力を入れ返す。
「じゃあそういうことで。怒られに行こうか?」
覗き込む金茶の瞳に揺れるのは、戸惑いと―――。
「……物好きな奴だよな」
ふっと、リーが辞色を和らげる。
―――どこか嬉しそうな、そんな輝き。
「多分リーほどじゃないよ」
明るい声でそう返すアーキス。
どちらからともなく手を放したふたりは笑い合い、並んで歩き出した。
誰にも深入りするつもりはなかったのに。
心中そう呟き、アーキスは苦笑する。
リーの傍にいれば自分もこんな風になれるだなんて思ったわけでもなく。
そつなく養成所生活を終えたいと思っているのも変わらないのだが。
なのにどうして自分から手伝わせてと言い出してしまったのかは、自分自身にもまだわからない。
それでも、なんとなく。
自分のこの選択は間違っていないのだと。そんな気がしていた。
お読みいただきありがとうございます。
少しのきっかけで気付くこと。
知ることでわかること。
自覚することで変わること。
ほんの些細な出来事が、後に大きく関わることもあるのだと思います。
ふたりにとってのそんな出来事のお話でした。
レストアからお越しの皆様へ。
初投稿から二周年ということで、番外編を書きました。
養成所に入ってすぐ、十六歳のふたり。まだアーキスが少々毒を含む頃です。
筋金入りの高所恐怖症(笑)。運動神経はいいので、実は下を見なければ登れるのです。でも一旦足を離してしまうと、下を見られずに下りるための取っ掛かりの位置を探せない(笑)。この先のアーキスの苦労が偲ばれます。
まだ初々しいふたりを書くのは楽しかったです!
ありがとうございました。