国を蝕み弱める五つの害虫
聖人のまねをしても、昔と事情が違う今の世の中で上手くいくはずがない。野良仕事を止め、以前に兎が打つかって転んだ木の根っこを見守り続けて、次に兎が打つかるのを待つ男の二の舞になる。
⦅興国四具[韓非]から続く⦆
[国を滅ぼす害虫]は、次の五つ。王様が駆除せず放置していたら、遠からず国は滅びる。
1_学者:今になっても昔の聖人をたたえて[仁義]を看板に使い、もっともらしい服装や態度、飾り立てた言葉によって、現行の法に異議をとなえ、王様の心を乱している。
〖仁徳者の意味〗
王様の個人的仁徳に頼る儒家の「教え]は、国を保つ上で、有害無益(因みに、「焚書坑儒」は、韓非の思想を実行したものだと言われている)。
孟子は「幼児が深い井戸の側を歩いていて、その中に落っこちそうになるのを見れば誰もが手を伸ばして助けようとする。これは、幼児の親に恩を売ろうとか、他人に褒めてもらいたいとかではなく純粋に善意から出た行い。人には無償の善意がある」と言ったが、明らかに間違っている。「人は性悪。偏った考えで不正をし、無秩序になれば困るので、王様を尊敬させ、礼儀を教えたり、法律を作って犯罪を取り締まったりして、社会の安全を守れば、[善]となる」と説く聖人も居た。
糠さえ腹いっぱい食べられない者が白米や肉を食べたいと思うだろうか。
粗末な木綿も着られない者が色鮮やかな絹を着たいと思うだろうか。
政治を行う場合にも、火急の問題が解決しないうちに、不急のことに力を用いるべきではない。
高尚で難しい言葉を使う者は賢者と言われ、人をだまさない[貞信]な人物は仁者と呼ばれているが、広く国民に知らせるべき法を、難しい言葉で書いても、国民が理解することはできない。高尚で難しい言葉など無用だ。
無位無官の者なら、人を利益で動かす財力も押さえつける権力もなく、人をだまさない人物に頼りたくなるかもしれないが、王様は、人を統率し、国の財力を使うことができる。賞罰を加える権限を使い、[術]によって家来の正体を見抜こうとすれば、たとえ相手が田常や子罕のような姦臣だろうとも、だまされるわけがない。
数少ない[貞信]な人物だけでは何千何百とある官職を充たすことはできず、官吏が少なくなれば、犯罪の取締りが行き届かなくなって、治安が悪化する。
[法・術]に長けた王様に必要なのは、法の確実な執行であって、人徳者を求めたり、人の誠実さに頼ったりすることではない。
〖天網恢恢〗
子産(孔子に評価されている人物)が外出したときのこと、彼の馬車が東匠の村の入口を通りかかると、死者を悼む女の泣き声が聞こえてきた。
子産は御者の手をおさえて車をとめ、しばらくの間聞きいっていたが、役人をさし向けると、女をとらえて尋問した。
女は自分の夫を絞殺したことを白状した。
後日、御者はこう尋ねた。「どうしておわかりになったのですか」。
子産はこう答えた。
「あの泣き声におそれがあったからだ。人は自分と親しい者が病気になると、まず心配し、死ぬときはおそれ、死んでからは悲しむ。ところがあの女は、死んだ者を悲しんで泣いているはずなのに、泣き声には悲しみがなくおそれがあった。さては何かがあるなと思ったのだ」。
ある人が言った、「子産の政治のやり方は、ご苦労なこと。自分の耳や目に頼らなければ悪事がわからないようでは、鄭の国では捕まる悪者はさぞ少なかろう。刑吏にまかせず、比較検討の方法によらず、法の基準を明らかにせず、ただ自分一人の耳と目を使い、知恵をしぼって、悪人を見つけようというのだ。策のない話ではないか。それに、対象としなければならない物は数多いのに対し、自分一人の知恵はわずかなものだ。少ないもので多いものに勝つことはできない。人間の知恵では、物を知りつくすことはできないのだ。だから、物は物によって治めねばならない。同様に、下にいるものは多いが、上にいるものは少ない。少ないものは多いものに勝てない。すなわち、王様は家来を知りつくすことはできないのだ。だから家来のことは家来自身によって知らねばならない。こうしてこそ、体を使わなくても万事は治まり、頭を使わなくても悪者を捕まえることができる。宋の国にこういう言葉がある『雀が一羽空を飛ぶ それを必ず落とすのは いくら羿(弓の名人)でも無理なこと天下に網をめぐらせば 逃げる雀はいなくなる』。悪人を見つけるにも、天下に張りむぐらした網があれば、一人として逃がすものではない。この理を知らず、自分の推察を弓矢として使うのでは、いくら子産でも必中は無理だ。『知恵で国を治める者は国に害を及ぼす』という老子の言葉は、子産にあてはまるだろう」と。
〖恥を雪ぐ〗
斉の桓公が酒に酔って、冠をなくした。
それを恥じてひきこもり、三日たっても朝廷に姿を見せなかった。
宰相の管仲が桓公をこう諭した。
「こんなことは、王様としての恥とは言えない。善政をもってつぐなえばよろしいのです」。
「なるほど」。と言って、倉を開いて貧しい国民に施しをし、囚人を調査して、罪の軽い者を釈放した。
三日たつと、国民はこんな歌を歌った。
「お殿様、お殿様、どうか、もう一度冠をなくしてくださいな」。
ある人が言った、「管仲は小人に対しては桓公の恥を雪いだが、君子に対して新たに恥をかかせたのだ。桓公が貧困者のために倉を開いて食料を与え、囚人を調査して罪の軽い者を釈放したことが[義]でないとすれば、それで恥を雪ぐことはできない。ところがそれが[義]であるとすれば、桓公は[義]を行わずに保留しておき、冠をなくすのを待っていたことになる。つまり、桓公は冠をなくしたから、[義]を行ったのだ。すなわち、小人に対しては冠をなくしたという恥を雪いだが、君子に対して、新しく、[義]をおろそかにしていたという恥をかかせたわけだ。そればかりではない。倉を開いて貧乏人に食料を与えることは、功績のない者に賞を与えること。囚人を調査して罪の軽い者を釈放するのは、悪人に罰を加えぬこと。功績のない者に賞を与えれば、国民はつけあがって高い望みを持つ。悪人に罰を加えなければ、国民は平気で悪事をはたらく。これは世を乱す本だ。恥を雪ぐなどと言えたものではない」と。
〖矛盾〗
歴山で農民が田地の境界を争っていた。
舜が出かけてともに農耕にしたがったところ、一年にして境界のあぜは正しく定まった。
黄河の漁師が釣場を奪いあっていた。舜が出かけて漁師の仲間に加わると、一年で釣場は年長者に譲られるようになった。
東夷の陶工が作る陶器は粗悪だった。ところが舜が出かけて一緒に作るようになると、一年で陶器は立派になった。
この話を聞いて孔子は感嘆した。
「農業といい、漁業といい、陶器作りといい、本来の職分ではないのに、舜自ら赴いたのは、間違いをなおすためだ。これは何と立派な[仁]だろうか。自ら労働を実践することによって、国民を習わせたのだ。これこそ聖人の徳の力というものだろう」。
ある人が儒者に尋ねた。
「このとき、堯は何をしていたのか」。
「堯は天子だった」と、儒者は答えた。
そこで、ある人が反論する、「それならば、孔子が堯のことを聖人というのは、どんなものだろうか。すべてを見とおす聖人が天子の位にあれば、天下からすべての悪を追い払えるはずだ。もし天子として堯がそうしていたのなら、農民も漁師も争うわけがないし、陶器が粗悪なはずもない。そうなれば、舜は徳を施すすべがない。だから、舜が間違いを正したことは、堯に失政があったことを意味する。舜を賢人というならば、堯がすべてを見とおす聖人だったということはできない。堯を聖人というならば、舜が徳を施したということはできない。両立は不可能である」と。
楚の国に盾と矛とを売る男がいた。
男はまず自分の売る盾の宣伝をした。
「この盾の丈夫さときたら、たいしたものだ。何で突いたって、突き通せるものではない」。
次に、男は矛の宣伝をした。
「この矛の鋭さときたら、たいしたものだ。どんなものだって、突き通せないものはない」。
ある人が尋ねた。
「その矛でその盾を突いたら、どうなる」。
男は返答できなかった。
何よっても突き通すことのできない盾と、何でも突き通すことのできる矛とが、同時に存在することはできない。
堯と舜とを同時に誉めたたえることができないのは、この盾と矛の例えと同じだ。
また、舜がなおした間違いは一年にひとつ、三年で三つだ。
舜は一人しかいないし、その寿命には限りがある。ところが、世の中の間違いには限りがない。限りがあるもので、限りのないものを追求したところで、いくらも防げるものではない。なおせる間違いはものの数ではない。
ところが、賞罰によるならば、世の中の間違いは必ず防ぐことができる。
「法にかなう者には賞を与え、はずれる者には罰を加える」と、命令を出せばその日のうちに、国民はこれに従うようになる。
十日も経てば、命令は国中に行き渡るだろう。一年もかけることはないのだ。
舜は、堯に賞罰をつかわせようとせず、わざわざ自分で出かけた。
知恵のない話ではないか。
それに、自ら労働を実践して国民を導くことは、堯や舜にとってさえ難事業だった。
だが、権威の力によって国民を正すことなら、[法・術]に長けた王様でなくともできる。
政治を行うのに、どんな王様にでもできる方法をとらず、堯や舜でさえ難しい方法を使おうというのだ。
〖昔と今の違い〗
大昔の世、まだ人間は少なく、獣や蛇の方が数多くいたから、人間はそれらに対抗することはできなかった。そこに一人の聖人が現れた。彼は木の上に鳥の巣のような家をこしらえて、人間が獣や蛇の害を避けるようにしてやった。
国民は喜んで、彼を王として迎え、有巣氏と呼んだ。
また、人間はそのころ草木の実や貝類を生のままで食べていた。
食べ物は生臭く、悪臭をはなち、胃腸をこわして病気になる者が多かった。
そこに一人の聖人が現れ、木をこすりあわせて火をおこし、生の食べ物に火を加えるようにした。
国民は喜んで、彼を王として迎え、燧人氏と呼んだ。
時代はくだり、天下に大洪水が起きたことがあった。
そのとき、鯀と禹が排水路を切り開いた。
もし、禹の時代になってから、木の上に家をこしらえたり、木をこすりあわせて火をおこしたりする者がいたら、鯀と禹に笑われたに違いない。
さらに時代はくだって、夏の桀と殷の紂が暴政をしいたときのこと、殷の湯と周の武がそれぞれ彼らを倒した。
殷・周の時代になってから、排水路を切り開く者がいたら、湯と武に笑われたに違いない。
とすれば、昔の聖人である堯・舜・湯・武のとった方法を、現在世の中でそのまま手本にする者が、新しい時代の新しい聖人に笑われることも、またたしかだ。聖人とは、昔にとらわれ一定不変の基準に固執する者ではない。現在を問題とし、その解決をはかる者をいうのだ。
宋の国で、ある男が畑を耕していた。そこへウサギがとびだし、畑の中の切り株にぶつかり、首を折って死んだ。それからというもの、彼は畑仕事をやめにして、毎日切り株を見張っていた。もう一度ウサギを手に入れようと思ったのだ。でも、ウサギはそれっきり出てこない。彼は国中の笑い者になったという。
昔の聖人のやり方のまねで、現在の政治ができると思っている者は、この切り株を見張った男の同類だ。
昔は男が畑仕事をしなくても、食べ物は草木の実で足りた。女が布を織らなくとも、着る物は鳥の羽根や獣の皮が十分あった。働かなくても生活にこと欠かず、人口は少なく、財物はありあまっていたので、国民の争いはなかった。だから、厚賞重罰を用いるまでもなく、国民は自然に治まっていたのだ。
ところが今は違う。一人で五人の子持ちはめずらしくないから、子供の子供がまた五人ずつとして、祖父の在世中に孫が二十五人もいることになる。こうして人口が増加する割りに物資が増えないから、いくら働いても生活は楽にならない。そのため、国民の間に争いが起こる。どんなに賞罰を強化しても、世の中は乱れずにはすまない。
かって堯が王だったときには、王のすみかは、屋根切りそろえないままの茅で、たる木は丸太のままの櫟という粗末な家だった。また、王の食べ物は、粗末な粥とアカザや豆の葉の煮汁であり、王の衣服は、冬は鹿の皮、夏は葛だった。
今なら門番の暮らしでさえこれほど質素ではない。
禹が王のときには、みずからすきくわを手にして国民の先頭に立ち、ふくらはぎの肉がなくなり、すねの毛がすり切れるほど働いた。
現在の奴隷の労働でさえこれほど苦しくはない。
こうしてみると、昔、天子の位を譲ることは、門番の暮らし、奴隷の労働を捨てることにほかならなかった。天下を譲るとはいっても、たいしたことではなかったわけだ。
ところが今では、県知事ともなると、自分が死んだ後も子孫が馬車を乗りまわすほどだ。今の県知事が重視されるのはこのためだ。
つまり、人が地位を退く場合、昔の王は簡単にやめ、今の県知事がなかなかやめないのは、位の実益があるからだ。
水を谷まで汲みに行かねばならない山の住民は、髏臘の祭に水を贈り物にするという。
ところが、水害に苦しむ低地の住民は、反対に人をやとって排水路をつくっている。
また、不作の年があけた春には、いとけない弟にさえ食べ物を分けてやらないのに、豊作の秋ならば、通りすがりの旅人でも必ずもてなすが、これもけっして肉親を粗末にし、旅人を大切にするわけではない。現実に食べ物の量が違うからだ。
これと同じく、昔、財物を軽んじていたのも、[仁]という徳目のためではなく、財物そのものがありあまっていたからだ。現在、財物を奪いあうのは、道徳が低下したのではなく、財物そのものが少なくなったからだ。
王位をやすやすと譲ったのも、人格が高潔なのではなく、王位そのものの権威が低かったからだ。
現在、県知事の座を争うのは、争う人の人格が下等なのではなく、県知事そのものの実権が大きいからだ。
量・実益の多少こそが、今、新しい聖人が政治を行うにあたっての基準だ。
昔、罰が軽かったのは、治める者が慈悲深かったからではない。今、罰が重いのは、治める者が残虐だからではない。世の中の変化に応じて、そう変わったのだ。だから、「時代とともに、物事は変わり、物事に応じて、対処の仕方もかわる」ことを知らなければならない。
[仁]は、儒家の説く最高徳目。慈愛、博愛の意味に近い。それは堯・舜など古代の天子が実現していたとされる。儒家は、堯・舜の時代の[仁]にならうことを主張した。
昔、周の文王は、豊・鎬の間に百里平方の領土を持ち、[仁義]による政治を行って野蛮な西戎をてなづけ、天下を統一した。
その後、徐の偃王は、漢水の東に五百里平方の領土を持ち、[仁義]の政治を行い、その結果、領土を献上して徐に朝貢する国は三十六を数えた。自国を攻められるのを恐れた楚の文王が、先手を打って徐を滅ぼした。
つまり、周の文王は[仁義]の政治によって天下を統一したが、徐の偃王は[仁義]の政治によって、国を失ったのだ。
昔役に立った[仁義]が、今では役立たないということが、これでわかる。
舜の時代、有苗という蛮族が反乱をおこした。
禹が征伐しようとすると、舜はこう言った。
「それはいけない。こちらの道徳ができていないのに武力を使うのは、正しいやり方ではない」。
それから三年というもの、修養に努めてから、舜が盾と斧をとって舞楽を舞うと、それだけで有苗は帰順したのだった。
ところが、その後、共工(伝説中の舜の対立者)との戦いでは、鉄の槍は敵陣に届くほど長くなり、堅固でない甲冑では、体を傷つけられたという。盾や斧の舞いは昔は役に立ったが、今では役に立たないというのがわかる。
古くは、国は道徳を競いあい、次に智謀を競いあい、今や、競いあうのは力だ。
斉が魯を攻めようとしたときのこと、魯では子貢(孔子の弟子)を使者として斉に送り、魯を攻めることの不利益を説かせた。斉の答えはこうだった。「あなたの言葉はごもっともだが、我々が欲しいのは領土であって、あなたの言葉ではない」。そして、斉は魯にむけて兵を起こし、魯の城門から十里の所まで領土を拡げた。
[仁義]の政治を行った徐は滅ぼされ、子貢の雄弁に関わらず魯の領土は削られたことからも、[仁義]や雄弁は、国を保持する力ではないことがわかる。徐や魯が[仁義]や雄弁を使わず、力によって立ち向かったとしたら、相手がいかに大国の斉や楚でも、この二国を思いのままにはできなかっただろう。
儒家や墨家の学者どもは、「昔の聖人は天下の国民すべてを愛し、わが子を見る親のようだった…刑吏が刑を執行するとき、王は音楽を慎んだ。死刑の判決を知ると、涙を流した」と言って、昔の聖人をたたえている。
しかし、王様の国民への愛で政治が行えるというのは幻想にすぎない。
刑をのぞまず涙を流したのは、[仁]によったからだが、それにもかかわらず、刑を執行したのは、法によったからだ。昔の聖人でさえ、涙を流しながらも結局は法に従ったではないか。
天下にかくれのない聖人である孔子でさえ、自らの体得した学問道徳を天下に説いたとき、彼の説く[仁義]に感服して弟子となった者はわずか七十人、[仁義]を身につけたのは孔子一人だった。
一方、[法・術]に長けた王様とはいえない魯の哀公でさえ、ひとたび王位につくや、領民のうち誰一人としてその支配を拒む者はなかった。
国民はもともと権力のままになびくもの。権力はたやすく国民を服従させるものだ。
だからこそ、孔子が家来、哀公が王様という関係ができあがった。
孔子は哀公の[義]にひかれたのではない。その権力に服従したのだ。
つまり、[義]という点では、哀公は孔子に及びもつかないが、権力を使えばその哀公でさえ孔子を家来とすることができるのだ。
今の学者どもは、王様に、権力を使うことを薦めず、[仁義]に努めるよう説いている。
王様という平凡な人間に孔子の弟子のようになれと言ってもムリな話だ。
スープを用意できないのに、餓えた人に食事を進めるのでは、餓えた人を生かすことにならない。草地を切り開き穀物を作ることもできないのに、民に物を貸し、施し、また褒美をあたえることを勧めるのは、民衆を豊かにさせることにならない。今の学者の言葉は、根本を論じないで、末端にこだわり、空虚な聖人のことばを唱えて民衆を悦ばすことしか知らない。これは絵に描いた餅と同じである。このような議論を、[法・術]に長けた王様は決して受け入れたりしない。
墨子の博愛主義は絵空事、深遠広大な論は実用できない。墨翟は、天下に明察と認められたが、世の乱れを解決できなかった。
墨子が雄弁ではない理由を問われて田鳩は答えた、「昔、秦伯がその娘を晋の公子に嫁がせたとき、行列を飾り立て、美しい刺繍を施した衣を着た腰元七十人を従えて晋に行かせました。晋の人々はその腰元の中の妾を大切にして公女を大切にしませんでした。これでは妾を立派に嫁がせたと言えるのであって、公女を立派に嫁がせたとは言えません。楚の人で宝玉を鄭へ売る者がおりました。木蘭の櫃を作って入れ、桂椒の香で香りづけし、真珠を綴ったものをかけ、玫瑰で飾り、翡翠を連ねました。鄭の人はその櫃を買い、中の宝玉を返しました。これは立派に櫃を売ったと言えるのであって、立派に宝玉を売ったとは言えません。今の世の論説を見ますに、皆言葉巧みに飾り立てたものばかりです。世の君主はその飾られた文ばかりに気を取られ有用かどうかは考えません。墨子の言説は先王の道を伝え、聖人の言葉を論じ、人々に告げ知らしめるものです。もしその言葉を巧みにしますと、恐らく人々はその飾られた文に気を取られ、その本質を考えないでしょう。飾られた文によってその有用性が損なわれてしまいます。これは楚の人が宝玉を売り、秦伯が娘を嫁がせるのと同じことです。ですから言葉数は多くても雄弁には致しません」と。
墨子が木鳶を作ったとき、三年かかって完成したが、飛ばしたところ一日で壊れた。
弟子が言った、「先生の技巧は木で作った鳶を飛ばせてしまうほどです」と。
墨子は言った、「私は車の梶棒を作る者の技巧には及ばない。八寸か一尺の木材を用いて、ひと朝ほどの時間もかけずに作り、しかも三十石の荷を引き、遠くへ運べるほど力が強く、長い年月保つことができる。今、私は鳶を作ったが三年もかかって作り、飛ばしたところ一日で壊れたのだ」と。
恵子がこれを聞いて言った、墨子は技巧というものを心得ている。梶棒を作ることを技巧であると言い、鳶を作ることを拙いと言ったのだ」と。
郢(楚の都)の人が、夜、燕の宰相にあてて手紙を書いていた。
灯りが暗いので、燭台を掲げている係りに、「灯りを挙げよ」と命じた。
その時つい間違って手紙の中に、‘灯りを挙げよ’と書きこんでしまった。
燕の宰相は手紙を受けとると、「灯りを挙げよとは、明をたっとべということだ。つまり賢人を任用せよということだな」。
よろこんで国王に上奏した。
国王も感心して賢人を用いたので、国はよく治まった。
治まることは治まったが、それは手紙の言わんとすることではなかった。
くつを買おうとした鄭の男の話。
この男は、足の寸法を計ってひかえておいたのに、くつを買いに行くとき、持っていくのを忘れてしまった。
くつを買う段になってこの男、「寸法書きを忘れてきたから」といって、家に取りに戻った。
寸法書きを持ってきたときには、店はもう閉まっていて、くつは買えなかった。
誰かが、「その場で、足に合わせてみればいいのに」と言うと、男の答えるには、「足なんか信用できない。寸法書きの方が確かだよ」。
子供たちがままごと遊びをしているときには、土が飯であり、ドロが汁であり、木片が肉だ。
しかし、夕方、家に帰って食べるのは、本当の食べ物だ。
土やドロは玩具であって、実際に食べることはできないからだ。
大昔の伝説を誉めたたえる者は、言葉はりっぱだが実際の役には立たない。
昔の聖人の[仁義]を口にしても、国を治めることはできない。
これも玩具であって、実際の役に立たないのだ。
伯楽(伝説的な馬の鑑定・調教名人)は嫌いな相手に名馬の鑑定法を教え、気に入った相手には駄馬の鑑定法を教えた。
名馬は、そうめったに現れるものではないから、鑑定人の利益も少ない。
ところが駄馬となると毎日のように売買されるから、利益が大きいというわけだ。
周書に「程度の低い言葉が、ときとして高度の役に立つ」というが、これもその一例だろう。
桓赫がこう言った。
彫刻をするときには、鼻は大きいほどよく、眼は小さいほどよい。
大きすぎる鼻は小さくできるが、小さすぎる鼻は大きくはできない。
小さすぎる眼は大きくできるが、大きすぎる眼は小さくはできない。
[仁義]に惹かれて国を弱めたのが、三晋(韓・魏・趙)だ。
[仁義]に惹かれることなく、国を強大にしたのが、秦だ。
その秦が今になっても天下を統一できないのは、まだ政治が完全でないからだ。
鄭県の卜子という者が、妻にズボンをつくらせた。
妻が尋ねた。
「今度は、どんなのがよろしいでしょう」。
「前のと同じにしてくれ」。
妻は新しいズボンを破って、はきふるしたズボンと同じにした。
卜子の妻は町に行って、スッポンを買った。
帰り道、潁水まで来た。
スッポンも喉が渇いているだろう、水を飲ませてやろうと思って、水の中に放した。
スッポンは逃げてしまった。
ある男が、年寄りの相手をして酒を飲んだ。年寄りが一杯飲むと自分も一杯飲んだ。
また、魯の国に、行儀を気にする男がいた。年寄りが酒を口に含んだが飲めずに吐き出した。それを見て、男もまねをして吐き出した。
また、宋の国に行儀よく見せようとする男がいた。年寄りが飲みっぷりよく盃を干すのを見て、飲めないくせに自分も干そうとした。
2_遊説家:うそ八百を並べ立て、外国の力を借りて私欲をとげんとし、国の利益を忘れている。
外交について意見を述べる家来は、合従派か連衡派か、さもなければ個人的うらみを国の力を借りて晴らそうとする者。
合従とは、六つの弱国を連合して秦に対抗しようとする策。「小国を救ってともに秦を討たなければ、天下すべてを失う。天下が秦のものになれば、自国を保つことも難しくなり、王様の権威は失われる」と言うが、秦に小国が連合してむかう場合、小国間の連合がくずれないとはかぎらない。連合がくずれれば、秦に乗ぜられ、兵を進めて戦えば敗れ、退いて守れば城は落ちる。
連衡とは、秦に従属して、他の弱国を攻撃しようとする策。「秦に従属しなければ、諸国から攻撃を受け、国の安全はおびやかされるだろう」と言うが、秦に従属すれば、版図(戸籍と地図)を献上して領土をまかせ、印璽を献上して保護を乞わなければならない。版図を献上すれば領土は削られ、印璽を献上すれば国の名誉は地に落ちる。領土が削られれば国は弱まり、名誉が地に落ちれば、政治は乱れる。
連衡策をとって秦に従属すれば、この策を進言した者は、秦の力を借りて国内の官職を手に入れるだろう。
合従策をとって小国を救えば、この策を進言した者は、国の威を借りて小国に対して自己の利益を求めるだろう。国家の利益は未確定でも、彼らは領地をもらい厚い俸禄を手に入れる。
進言した結果が成功すれば権力を握っていつまでも重んじられるし、たとえ失敗に終わっても、財産を蓄えて引退するだけのことだ。
このように、王様が家来の進言を受けたあと、成功しないうちに進言した者の爵禄をあげ、失敗しても罰を加えないとしたら、遊説家たちがあてずっぽうの説をたてて、まぐれ当たりを期待しないわけがない。
国を滅ぼし、身を破滅させながら、王様が遊説家のでたらめに乗せられてしまうのは、王様が公益と私利の区別を知らず、遊説家の言葉の当否を察することができない上に、失敗しても罰を加えないからだ。
「外交こそは、大きくは天下に王たるの道、さらには内政を安定させる道である」という遊説は偽りだ。
他国を攻める力を持っている国でも、内政が安定し、治安が保たれている国を攻めることはできない。
国内の政治で[法・術]を用いなければ、富国強兵は不可能、外交に頭を使っても意味がないのだ。
「袖が長けりゃ舞はじょうず、銭が多けりゃ商売繁昌」という諺がある。
何か計画を立てた場合でも、国がよく治まり兵力が強大であれば簡単に成功するが、政治が乱れ兵力が弱い国では失敗し易い。
同じ計画を立てても、秦のような強国では、十回躓いても失敗に終わることはまれだが、燕のような弱国では、一回躓いただけで成功ののぞみはほとんどなくなる。差は、家来の力量ではなく、内政という元手にあるのだ。
周は秦から離れて合従策をとたことがあったが、一年にして秦に滅ばされてしまった。衛は魏と離れ秦と結ぶ連衡策をとったが、半年で滅んでしまった。
もし、周と衛が、合従・連衡といった外交策に頼らず、内政の強化に努めていたら…法を明確に示し、賞罰を確実に行い、土地を開発して経済を豊かにし、国民に死力をつくして国を守らせていたとすれば、どんな強国でも、この堅城の下に兵を疲れさせ、乗ぜられ反撃をくうような愚挙を試みるはずがない。侵略しても利益少なく、戦えば大きな損害を被っただろうから。
楚の王が呉を攻めたとき、呉は沮衛と厥融を慰問の使者として、楚軍の陣に送った。
ところが楚の将軍は、こう言った。
「こいつらを縛れ。出陣の儀式だ。犠牲として血を太鼓に塗ろう」。
二人を縛りあげて尋ねた。
「呉は占いをしてから、お前たちをよこしたのか」。
「その通りだ、吉と出た」。
「殺されて、血を太鼓に塗られるのだ。それでも吉か」。
「だからこそ吉なのだ。呉が我々をよこしたのは、もともと将軍の出方を見るためなのだ。
将軍が怒れば、呉は堀を深くし、砦を高くして備える。
怒らなければ、あわてることもない。
だから、わたしが殺されれば、呉は守りを堅くするはずだ。
また、国が占いをするのは、一臣のためではない。
一臣が殺されることによって一国が救われるなら、まさしく吉ではないか。
またもうひとつ。死人に魂がないとしたら、血を太鼓に塗ったところで何になる。もし魂があるとしたら、いざ戦いというときに、我々は太鼓が鳴らないようにして見せよう」。
楚の将軍は、これを聞くと二人を殺すのをやめた。
宋の雄弁家である児説は、「白馬は馬でない」という詭弁によって、斉の稷下に集まった学者たちを屈服させていた。
その彼が、白馬に乗って関所を通ったことがあった。
ところが、やはり馬として通行税を取りたてられた。
すなわち空論によって国中の学者を屈服させることはできても、実物に当たって点検すれば、関所の役人一人だますことさえできないのだ。
「白馬は馬でない」…「馬」という概念には、白馬も栗毛も黒馬も含まれている。ところが、「白馬」という概念には、栗毛や黒馬は含まれない。故に、「白馬は馬でない」。このような論法は名家という学派の公孫竜が唱えた。
鋭い矢じりをさらに砥ぎ、弩にかけて射れば、眼をつぶってでたらめに矢を放っても、矢の先端は必ずひとつの点に突き刺さる。
だが、直径五寸の的を設置し十歩離れて狙うとすれば、羿や逢蒙のような弓の名人でなければ必中させることはできない。
基準がなければやさしく基準があれば難しいのだ。
だから、王様が基準を持たずに聴けば、進言する者はでまかせ放題に、長広舌をふるうが、基準を持った上で聴けば、どんな知恵者でも失言をおそれ、でたらめは言わない。
王様が、進言に対して基準を持たず、ただ言葉の巧みさに感心するようであれば、口先の巧みな者が甘い汁を吸い続けることになる。
斉王の食客の一人に、絵描きがいた。
あるとき、斉王が彼に尋ねた。
「いったい何を描くのが難しいか」。
「犬や馬でございます」。
「では何がやさしいか」。
「化物でございます」。
誰でも犬や馬は知っていて、毎日その物を目にしている。
だから、いい加減には描けないのだ。
一方、化物の類は、もともと形がなく、誰も見たことがない。
どう描いてもいいからやさしいというわけだ。
3_遊侠:徒党を組んで義侠を結び、暴力による抗争をして名をあげようする。
犯罪者として処罰されながら、兄弟に危害を加えた相手に復讐すれば廉として賞讃され、友人を辱めた相手に友人と一緒に報復すれば貞として賞讃される。世間の評判を気にして「廉」や「貞」を処罰の対象としなければ、国民が力を競って争い、役人の手にあまるようになる。
暴力によって国法を蔑ろにする遊侠の徒を赦してはならない。
4_側近:私財を蓄え、賄賂によって有力者にとりいり、戦士の功労を握りつぶしている。
衛のある男が、娘を嫁にやるとき、こう教えた、「できるだけへそくりをためることだ。嫁に行っても追い出されるのはごく当たり前のこと、ずっと居られる方がまれだからな」と。
娘は嫁入り先で、こっそりへそくりをためていったが、やがてそれがばれて、姑に追い出されてしまった。しかし、娘が家に帰ったとき、持ち物は嫁に行ったときの倍となっていた。
親父は娘に教えたことが間違っていたと悟るどころか、財産を増やしたのは、賢明だった、と自慢した。近ごろの官僚連中も、みなこれと同じ穴のムジナだ。
楊朱は宋国の東を通ったとき、宿屋に泊まった。そこには召し使いの女が二人いたが、同じ召し使いでも醜い方が格上、美しい方が格下だった。
不思議に思った楊朱がわけを尋ねると、宿屋の主人がこう答えた、「美しい女は、自分でも自分のことを美しいと思うておるもの。わしにはそんな女、美しいとは思えなんだ。一方醜い女は、自分でも自分は見にくいと思うておる。わしにはこんな女を醜いとは思えなんだ」と。
これを聞いた楊朱は弟子に言った、「行いがりっぱであり、しかも決して自分のことを立派だと思わぬような人は、どこへ行っても必ずその真価が認められようぞ」と。
5_商人:ろくでもない容器や贅沢品を買いだめし、時期をみてはそれを売って、農民が苦労して得るのと同じ利益を、労せずしてむさぼっている。
国民は、危険を避けるため有力者を頼って兵役を逃れようとし、要職者に賄賂を贈って便宜を図ってもらおうとする。その思惑が叶えられるなら、利己をはかる者がはびこり、国に尽くす者はいなくなる。
側近を通して請願すれば爵位が金で買えるようでは、商人らの身分を下げることはできない。
不正に儲けた金が市場で通用すれば、商人の数は減らない。
儲けが農業の倍あって農民や兵士よりも身分が高いとなれば、節操ある人物が減り、商人が増えるのは、当然だろう。
[法・術]に長けた王様は、商人や無為徒食する者の身分を低くして、その数を減らそうとする。
⦅洞察六兆[韓非]に続く⦆