試合で勝つ方法
古人の知恵:不断に実戦的な鍛錬をし実戦では鍛錬通りに動く
市営住宅集会所へ講演会を聞きに行った。
演題は「兵法書を読んで『生き方』を考える」。
2004年8月、アジアサッカー連盟が中国の重慶で主催したサッカー大会の決勝戦で日本が中国に勝って優勝したが、[試合で勝つ方法]を今から400年ほど前に宮本武蔵が指南書五輪書の中で書いていたのだ。
01)神仏を尊びて、神仏を頼らず。自分の努力で解決する。
02)剣術一遍の利までにては、剣術も知り難し。稽古の為の稽古は無意味。初めの少しの歪みが、あとには大きく歪む。不断に実戦的な鍛錬をし、実戦では鍛錬通りに動く。
03)平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とする。
04)実戦では、勝つとか負けるとか余分なことを考えず、不断の鍛錬通りの動きに集中する。
05)物ごとに勝つといふ事、道理無くしては勝つ事能わず。
06)空を道とし、道を空とみる。目の前の事象から推察して、見えない処をも見ぬく眼をもてるように努力する。
在る所を見て無き所を知る、是則空。
07)拍子は、特に大切だが、鍛練無しでは身につかない。合う拍子と合わない拍子を会得する。大きい・小さい・遅い・速い 拍子のうちでも、当たる拍子を知り、間の拍子を知り、外す拍子、相手の意図を外す拍子を知る。
08)間合いの取り方については、不断から、太刀を人に当てられる間合いは相手の太刀もまた自分に当たる間合いだと意識しながら、適切な間合いをとれるよう鍛錬を積む。
09)イト(直線も曲線も描けるもの)とカネ(矩=矩尺、直角に曲がった金属製のものさし・常に直線であり曲がらないもの)をこころの中に持つ。相手の心に糸をつけてみれば(相手の心と相手の五体を糸でつなぎ、その糸を見れば)、その糸の突っ張り方が強いところ弱いところ、糸がまっすぐなところ歪んでいるところ、糸が張っているところたるんだところがある。自分の心の中の矩尺をまっすぐにしてその糸に当ててみれば相手の心が分かる。不断にイトとカネの活用に習熟するよう鍛錬を積む。
10)其道上手になりては、速く見えざるもの也。熟達ドライバーの運転は、スピードを出しているように見えないけれども早く着く。
11)[観][見]二つのこと、[観の目]強く、[見の目]弱く、遠き所を近く見、近き所を遠く見る。熟達ドライバーの視線は、視界全体を見渡し飛び出しにも咄嗟の判断で対処できる動きをしている。
12)場の位置を見極める。陽を後ろに背負って対峙する。陽を後ろにできないときは、右の脇へ陽を持ってくる。座敷では、明かりを後ろ、又は右脇に。夜なども、敵の見える場においては、火を後ろに負ひ、または明かりを右わきにする。少しでも高いところに位置して敵を見下ろす。戦いでは、敵を難所に追いやる。座敷では、敷居、鴨居、障子、縁、柱などに適を追い詰める。兵法の道を鍛錬する者は、不断から、座敷に居ても構造物の利や、位置の利を考え、野山に出ても、山の地の利を考え、川でも、沼でも、いつも地の利を考える心構えが肝要。
13)兵法勝負においては、常に先手を心がけるべき。先手を取るためには、相手の出方を察知することが必要。敵を先手、先手と打ち負かしていくべきなのに、構えるのは敵の先手を待つ事で[勝負]の基本に反する。[構えあって構えなし]と心得よ。
兵法には三つの先がある。
一つ目は、自分が先に相手に打ちかかるときの先。体は太刀ととともに打ちかかるが、足と心は残して、ゆるむことなく、緊張しすぎることなく、敵の心を動かす。
二つ目は、敵が先に打ちかかるときの先。自分の体に心をのこして、敵との間合いのちょうどいいとき、心をはなして、敵の動きにしたがって、そのまま先手を取る。
三つ目は、自分も敵も同時に打ちかかるときの先である。わが身を強くして、太刀でも体でも足でも心でも、先手を取る。
14)[枕の押さえ]は、敵が太刀を打ち出そうとする兆しを受けて、敵の打とうとする「う」の字の頭を押さえるということ。敵がかかろうとすれば『か』の字で、飛ぼうとうすれば『と』の字で、切ろうとすれば『き』の字で押さえる。押さえ方は、心でも体でも太刀でも押さえる。敵の動きの兆しを知れば、敵を打つにも、敵に入るにも、敵の攻撃をはずすにも、先に打ちかかるにも、役立つ。敵がどのように仕掛けてきても、役に立たないことは敵のするままに任せて、肝心の事をおさえて、敵にさせない様にする。実戦で出来るよう不断から鍛錬を積む。
15)兵具をも嗜まず、其具々々の利を覚えざる事、武家は少々嗜みの浅きものか。各武器の特性を研究し其々に応じた使い方に習熟する。
16)道具以下にも、偏わけて好く事あるべからず。余りたる事は足らぬと同じ事也。太刀は広き所にて振り、脇差は狭き所にて振る事、先ず道の本意也。武器等はTPOに応じて使い分ける。
17)先ず片手にて太刀をふりならはせん為に、二刀として、太刀を片手にて振覚ゆる道也。二刀流は、片手で太刀を使いこなせるよう鍛錬するための流儀。
18)太刀は、速く振れば良いというものではない。其々の道具に適したスピードに合わさなければならない。道具の適性に応じた使い方が身につくよう鍛錬を積む。
19)太刀は、親指、人差し指を浮かし、中指、薬指、小指を締めて持つ。相手を切ろうとする意志無く太刀に居付き固まるのは、死んだ手。太刀と手が出合いやすく、硬くならずに切りやすいよう自然体で持つのを「生きている」手と言う。手首が絡むことなく、肘が伸び過ぎず、屈み過ぎず、腕の上筋は弱く、下筋を強く持つ。
20)目の向け方はほぼ相手の顔に向ける、目の治めどころは普段よりも少し細めるようにして、うらやかに見る。目玉は動かさず、敵がどれほど近くにいようとも、またどれほどの間があろうとも、遠くを見るような目をする。[観の目]強く、[見の目]弱く、遠き所を近く見、近き所を遠く見る。
21)心の持ち様は、めらず、駆らず、たくまず、おそれず、「直」に、広く持つ。「意」のこころは軽く、「心」のこころは重く、こころを水のように、敵と対峙しながら、こころの変化に対応する。
22)二つ足とは、不断から歩くような足の運びで、太刀を一つ打つうちに、足は二つ歩むということである。太刀に乗り、はずし、継ぐも引くも、足は二つ運ぶ。太刀を一つ打つのに、足を一つずつ運んでいては、体の動きが止まって自由が効かなくなる。
23)敵の内心を探り、心が強く備え十分な処と、心が弱く備え不十分な処を見極め、心が弱い処を攻める。
24)敵が太刀を見せないよう体を前に出して構えるときは、我が心で見えない敵の太刀を抑え、体は自然体にして、敵の動きの兆しがある処を、我が太刀で打つ。
25)戦いの場で、敵の立場になって心中を察すれば、動きを予測するのに役立つ。
26)敵の打ちかかる太刀のいきつく先を、我が左の足で踏みつける心を持てば、怯むことなく、敵と対峙することができる。
27)敵を軍隊の一兵卒であるとみなし、自分を将軍だと思えば、敵が太刀を振り、身を躱すのも、自分の命令に従っているように見える。自分の体を伸ばし、敵の丈よりも自分の丈が高くなるようにすれば、敵が小さく見える。敵を呑んでかかれば、怯むことなく、敵と対峙することができる。
28)どんな太刀を使おうとも、「打とう」とするところをしっかりと定め、ためし物等を切るように思い切り振ることが重要。何とはなしに当たってしまっても、敵を倒すことはできない。
29)打ち込む態勢をつくれば、太刀はそれに従う。太刀を打ち出すとき、体は後からついてくる。
30)体が密着していないと、敵はさまざまな技を仕掛けることができる。
漆や膠が物にくっつくように、敵に自分の体(足や腰、顔、左肩、腕)を密着させる。手を先に出せば体が引いてしまうので、秋猴(手の短い猿)のように左右の手はないと思って、敵の体につくべきである。敵につく拍子は敵の打とうとする「う」の字の頭を押さえる拍子である。
31)敵も自分も互いに太刀が当たるほどの間合いのとき、自分の太刀を打ちかけて、渡(海上の難所)を越す心算で体も足も一緒に敵の体に密着する。渡を越せば、あれこれ心配することはなくなる。
32)敵も我も互いに強く引っ張り合っているとき、弦を外すように離れる。敵にとっては想定外の動きになるので、うまくはずすことができる。
敵と繋がり、くっつきあっている状態を解くときは、我が心に櫛をもって、解く。
33)戦いで、同じことを二度繰り返すのは仕方ないが、三度繰り返してはならない。成功しなかった技を再度仕掛けても効果は無い。全く違ったやり方を、敵の意表をついて仕掛け、それでもうまくいかなければ、さらにまた別の方法を仕掛ける。
敵が山と思えば海、海と思えば山と意表をついて仕掛け、緩急自在に変化を付けて惑わす。
34)鼠頭牛首とは、戦いの中で、互いに細かい処ばかりに気を取られて縺れる状況になったとき、細かな処から大きな処へ発想転換して局面を打開する方法。不断に発想転換の鍛錬を積む。
35)崩れるということは何事についてもあるものである。家が崩れるのも、身が崩れるのも敵が崩れることもみな、その時にあたって、拍子が狂ってしまって崩れるのである。敵が崩れる拍子を捉まえて、その間を取り逃さないように討つことが肝心。崩れるのを外してしまえば、盛り返す場合もある。敵の崩れ目を突き、立ち直ることができないように、討ちはなす。
36)[底を抜く]は、中途半端で終わらせず、徹底的に勝利するということ。
37)剣の道が志すべきは、敵と戦って勝つ事。剣の長短、振りの強弱や太刀筋の多さ、極意秘伝などに拘るのは、見当違い。[無用の技]習得に時間を使うのは、人生の無駄。[死の覚悟]も武士特有の徳目ではない。敵を倒す技術を磨くこと以外に、武士が剣の道を目指す意味は無い。




