DAY DREAM -DEAR-
雲ひとつない、眩しい、暑い夏。どこかから聞こえてくるホイッスルと掛け声。
電気屋からの帰り道、遠回りして並木道を通った。抜けると、ホイッスルに合わせて一斉に飛び出す男女たちが見えてくる。僕にはない時間を過ごす男女たち。
自転車を降りて歩いてみた。走る、飛ぶ、球を追う。砂埃が巻き上がる運動場。フェンスに囲まれたプール。水面は、目が痛いほど乱反射させている。泳ぎ終えたのか、次々とプールサイドに生徒が上がってくる。
その中の一人と目が合ってしまった。険しさと力強さと爽快感を携えた、瞳の大きい女の子。僕は生唾を飲み込まずにいられなかった。
次の週、また自転車を降りて高校の側を歩いた。運動場とプールを越えたところ、正門を出る彼女を見つけた。
「あれっ、こないだの人。」
「えっ。」
「見てたでしょ、こないだ。先週くらいかな。そこで。」
彼女の指すフェンスの向こうでは、掛け声が聞こえる。まだ練習が続いている。
「あっ、すいません。あの、別に、悪事を働いてたわけでは・・・」
「あははっ!そんなこと言ってないのに。」
「ああ・・・すいません。」
「さっきから謝ってばっかり。後ろめたいことあるの?」
「い、いや。そういうわけでは、ない、です。」
生ぬるい風が二人の間をすり抜ける。揺れるスカートから覗く脚が艶かしい。
「お兄さん、こっちなの?」
「へっ?」
「ヤダ、もう。ボーッとして。」
思いがけない呼び掛けに、聞いたことない自分の声に、身体中が沸騰する。
「ちょっと付き合って。」
そう言って彼女は歩き出した。
体育館からもホイッスルと、掛け声と、床と靴の擦れる音と、甲高く、激しくせめぎ合う音が聞こえる。
「今日ね、練習サボっちゃったんだ。昨日のタイムが良くなくて、朝からコーチが怒鳴るの。『そんなことで勝てるのか!』ってさ。勝ちたいけど、勝つことばっかり考えて速くなるわけじゃないし。何に勝ちたいのかよく分からない。去年のタイムで100分の1秒って言われてもさ、相手だって速くなってるはずだし、何をどうすればいいか、ぜーんぜん、分からないよ。ねえ?」
くるっと振り向く彼女に面を食らった。可愛い、と思うこと以外何も考えていなかった。
「ふふ・・・ごめんなさい。こんな話されても困るよね。ところで、話は聞いてくれてた?」
「えっ?あー、」
じっとり、目を見られている。僕の小さい黒目が、その大きな瞳に吸い取られるんじゃないかと思った。
「えっと、すいません。」
「・・・うん、よしっ。嘘は良くないからね。」
踵を返し、歩き出したかと思ったらまた、振り向かれて思わず、体が後退りする。
「お兄さん、何歳?お兄さんでいいの?もっとちゃんと敬語使った方がいい?」
なんだ、そんなことか。顔が綻ぶ。
「今のままでいいよ。」
「そっ。」
はにかむ彼女も可愛かった。
「お兄さん、大学生?」
「いや、フリーター。」
「今からバイト?」
「いや、散歩。」
少し前を歩いていたはずの彼女が、いつの間にか肩を並べるほど近くなり、小声で話し始めた。
「突っ込まない方がいい?」
「何を?」
「えっ・・・」
彼女はひどく驚いた顔をして、うつ向いた。突っ込まれるようなことを言っただろうか。当たり障りのない話をしたつもりだった。
まだ学生の声も、車の走る音も鳴っているのに、僕には何も聞こえなかった。
彼女が立ち止まった。僕の顔を見て、目尻を下げて、フフッと微笑んで、また歩き始めた。
それから交差点が見えてくるまで、会話はなかった。
「お兄さん、どっち行くの?」
哀しそうな、寂しそうな顔に思った。だけど、高校が見えないところへ、高校から離れたかった。
「僕は、右に。」
「そっか。私はこっちだから、ここでお別れね。」
『お別れ』と言われて、急に胸が騒がしくなった。何か言わないと・・・
「ありがとう、お兄さん。」
「いや、感謝されるような・・・」
ダーン
4トントラックが通り過ぎた。
目の前の彼女は真っ直ぐに僕を見て、指を僕の指に絡め、そして去っていった。
次の火曜日、ラジオからインターハイの様子を耳にする。
―――今スタートしました、女子100m自由形。注目はやはり昨年の覇者、朝露原高校三年、千草蛍と、一昨年の勝者、燕口高校三年、菖蒲虹花であります。
さあ、前半50mを折り返して、トップは千草、菖蒲は二位。その差は頭一つ分。菖蒲がひと掻き、ひと掻き、昨年の雪辱を胸に追いかける。
ラスト10m!もう、どちらが一着か読めません!ああ!今、揃ってフィニッシュ!
さあ、タイムは・・・菖蒲53秒89、千草53秒90。昨年100分の1秒に泣いた戦士が、100分の1秒に打ち勝ちました。―――
「ワシは千草ちゃんに賭けてたんだがねえ。まあ二人ともよく頑張ったなあ。」
「そうですね。すいません、わがまま聞いてもらって。」
「いやあ、こんぐらいどうってことないよ。気をつけていってらっしゃい。」
「ありがとうございました。」
タクシーを降り、僕は港へと向かう。倉庫の合間に男を見つける。奥にはあの日と同じ、青く澄んだ空が見える。
「おめでとう。」
唇の記憶を確かめる。あの時、彼女は何を思って、『ありがとう』と言ったのだろう。叶うなら、確認したい。
こんな場所ではもう分からないが、また会えることを願って・・・。
僕は男の元へ行く、この腎臓を売るために。




