深海
僕は覗き窓から景色を眺めた。
視界いっぱいに海が広がっている。揺らめく澄み切った青。光の加減と水の揺らぎによって、色は無尽に変化する。細かな水泡が立ち上り、小魚の群れが横切っていく。その隣を大型の魚が一匹、優雅な動作で通り過ぎる。銀の姿が日光を反射して輝くことで、更に海を魅力的なものにしていた。
暫く見ていると、青の深さが徐々に変化してきた。
煌めいていた光は力を弱め、海の明るいイメージは暗く静粛なイメージへと変貌していく。魚の泳ぎも、どこかしめやかに見える。僕は背筋を伸ばし、深くなっていく海の様相を見つめ続けた。これからのことを思うと気分が高揚し、微かな眩暈と緊張感が全身を覆う。
僕は今、有人深海調査艇に乗っていた。
地点はマリアナ海溝。世界一深いと言われている海だ。現在確認されている深さは約10911m。果てしない深さだ。1960年にピカール氏とウォルシュ氏がトリエステ号に乗り、初めて最深部に到達した。その時は10919mと記録されたが、後の他国の調査で11mと改められた。それから有人調査艇で最深に到達した例は、殆ど無い。
僕は昇りゆく泡に逆らう景色を眺めた。光と闇が拮抗しているトワイライトゾーンは、既にディープブルーと呼んでも良い色合いになっている。最深部に向けて、調査艇は徐々に下降していく。記録を破ろうという野心は全く持っていない。
ただ、僕は深海に行きたかったのだ。
僕は海洋生物学者だ。主に深海魚の研究を行なっている。幼い頃から海に惹かれ、海中の神秘に魅せられた。僕は、海沿いの小さな街に生まれた。人と関わることが好きでは無かった僕にとって、海が最高の遊び相手だった。毎日飽きもせず海に潜っては、海中の生物と触れ合っていた。特に魚類には特別な思い入れがあり、いつも隣には魚たちがいた。
ある日、図鑑で深海魚を知った。
海のもっと深い部分にいる、不思議な生物たち。本は写真ではなく挿絵だったものの、充分に彼等の魅力を僕に伝えた。全身に走ったあの衝撃は、今でも鮮明に思い出せる。夢物語でしかありえないような姿の生物達が、実際に存在している。そう考えただけで、僕の胸は弾んだ。
僕の想像の中で、深海魚達は各々の特徴を活かしながら暗闇の世界で、ひっそりとだが力強く泳いでいた。それから僕は深海魚を求め続けた。海に潜っては深海魚を探した。自力で潜れる距離や深さは、限られているというのに。
何年も、未知の生物に思いを馳せ続けていた。
そして、初めて深海魚に出会ったのは、都市部の水族館だった。想像ではなく本物に会えるということで、僕の心は喜びに高鳴っていた。しかし。
僕が抱いた期待とは裏腹に、そこにいたのは、標本に成り果てた深海魚だった。ホルマリンに浸けられ、二度と動くことのない姿。僕は愕然とした。見たかったのは抜け殻などではない。過酷な環境でも悠然と泳いでいる、生きた姿だった。
僕は本当の海に立ち帰り、深海魚を求め続けた。
それから年月が進んで進路を考える年齢になり、勉学に励んだ結果、僕は海洋生物学者になることができた。
けれど、そこでも僕は理想との錯誤に悩むことになった。人種による問題や、性格上などの人間関係はさることながら、僕が研究チームに配属された時、有人深海調査艇は無人探査艇に呑み込まれつつあった。無人はリスクが少ないうえに、コストが十分の一程に抑えられる。有人調査艇の必要性を解いている一部の者がいるが、今後、有人のものが製造される確率はゼロに等しかった。今では有人調査艇に乗れる者は、より上方にいる一部の学者のみだった。
夢見ていた深海魚に会えると思ったのに、僕達学者は機械から送られてきた映像や、捕獲された深海魚を研究するだけだった。地上に揚げられた彼らは、環境変化によって数時間後か、どんなに長くても数日で息絶えてしまう。その姿は残酷で、見るに耐えない。現在機関では、水圧の差によって彼らが死亡しないように、水槽の研究が行なわれている。将来は人間が行かずとも機械が全てを行ない、深海魚が地上に運ばれてくるのかもしれない。
深海魚に会いたくて一心不乱に此処まで来たけれど、僕は職場に絶望を抱き始めていた。僕は小さく息を付いた。不本意だった。それは、魚達の真実の姿ではなかった。
深海魚をこちらの世界に連れ出したかったのではない。
僕が、深海魚のいる世界へ行きたかったのだ。
しかし、今ではそんな悩みなど吹き飛んでいた。全身を幸福感が満たす。僕の念願がやっと叶ったのだ。これから、真実の深海魚に出会える。今乗っているのは唯一の有人深海調査艇で、最高10000mを潜水することができる。
考え事を振り払い、僕は海に意識を集中した。
深度は128m。モロの大群が視界を通り過ぎていく。反対側の窓からは、数十匹の小魚を従えたオニイトマキエイが姿を現した。長らく様相を見つめていると、海は闇に溶け込み、数十m先も見渡せなくなってきた。僕は少しの間、暗い世界を堪能した後、ライトを付けた。光で照らしても、視界はあまり良くない。
少しすると、暗い中に白い粉雪のようなものが舞い始めた。
これはマリンスノーと呼ばれており、プランクトンの遺骸や老廃物だ。これが緩慢に、だが確実に下降していくことで、深海の貴重な栄養源になっている。探査艇の方が下降が速い為、ゆらゆらと雪が立ち昇って行くように見える。海中で踊る、幻想的なマリンスノーに見惚れていると、いつの間にか深度は200mを越えていた。
一般的に、此処からが深海と呼ばれている。
人間が直接潜水できる記録は214mであり、これ以上は特殊な装備をしたり、潜水艦に乗ったりしないといけない境地である。圧力計を見ると、水圧は24を示していた。
ライトで照らしながら下降をしていると、眼前に5㎝程の深海魚が現れた。僕の眼は光り輝いた。
眼球は上方を向いており、平べったく四角い身体をしている。腹部には発光器がずらりと並んでいた。テンガンムネエソだ。この魚には、深海世界で生き抜く工夫がなされている。腹部の十二の発光器を光らせることによって、天敵が下から見た時に、シルエットを見にくくしているのだ。カウンターイルミネーションと呼ばれているその方法は、多くの深海魚が用いている。
すぐ近くでは、テンガイハタが赤い背鰭を靡かせながら悠然と泳いでいた。体長3mにもなる細長い姿は、圧巻だった。
探査艇は止まる事無く沈んで行く。観察できる時間は僅かな間だった。それでも僕は満足だった。遊泳系の深海魚は貴重な食料を探して絶えず移動する為、発見しにくい。なのに、降るにつれて、次々に深海魚に出会えたからだ。
アカナマダ、ナンヨウミツマタヤリウオ、アカチョッキクジラウオ。彼らの生きた姿に、僕は筆舌し難い喜びを感じた。
気付けば、深度は1760mだった。この深さまでの深海魚は、人間の眼では捉えられない微弱の日光が辛うじて届く為、発達した眼球を有していることが多い。
調査艇の右の覗き窓から、細長い体型の魚を発見した。デメエソだ。この深海魚は僅かな光を捉える為に、眼球が上方を向いている。知った時は、前方にぶつからないか心配になったものだが、彼は網膜が二枚あり、更に真珠の器官と呼ばれる側面の光を感知する器官がある。よって、全ての範囲をカバー出来るのだ。運良く、探査艇間近まで彼はやって来た。僕は夢中で深海魚を観察した。
デメエソが闇の向こう側に行った頃、今度はウリクラゲを発見した。勿論、深海には魚以外も生息している。名前通りウリのような形をしており、色は無色透明。身体に八列の筋があり、それが移動に合わせながら虹色に発光している。青白い光の筋がとても美しい。その隣には、特徴的な鰭を持ったコウモリダコが漂っていた。彼らも深海を形作る上で、重要な役割を果たしている。
僕はそんな生物たちも大好きだった。
深度2000mを過ぎた地点で、ホウライエソが左方から現れた。肉食性の深海魚で、目の近くまで伸びた鋭い牙が一番に目に付く。また、この深海魚は顎の関節を外し、口を大きく開けることができる。食料の乏しい深海を生き延びる為、自らの三倍近くの獲物を捕食できるように牙と顎が発達したのだ。どうやら彼は食事に成功したようだ。彼の腹は、異様に膨らんでいた。
僕は遠ざかっていくその姿を見つめ続けた。腹部の発光器が明滅し、銀の鱗に反射して綺麗だった。
その他にも何匹かエソの仲間や、クラゲの一種に遭遇し、僕の興味は尽きることは無かった。
3390mに達するという頃、海底が見えてきた。
僕は覗き窓から視線を外し、調査艇を注意深く前進させた。此処からは、海底付近を詮索しながら最深地まで下って行く。この時の為に、僕はパイロットの技術も学んでいた。
視界が悪い中ライトで照らしつつ、ゆっくりと調査艇は深淵の底を移動していく。海底は軟泥からできているので、起伏には富んでいない。
時間の感覚は既に無くなっていた。いや、今の僕にとって時間すら必要なかった。
消えそうになっていた夢が眼前にある。身体は水中にいるように軽くなり、夢心地の気分で僕は調査艇を進ませ続けた。
すると、巨大な白い物体が視界に映った。
鯨骨だった。マッコウクジラだろうか、上方で力尽きた鯨は、随分深くまで沈んでしまったようだ。今までに色々な生物に食べられ、既に見る影はない。それでも鯨骨は、様々な生物に取り囲まれていた。栄養源の少ない深海では、このような豊富な栄養供給場は生物のオアシスになり、鯨骨生物群集と呼ばれる一つの生態系ができる。この鯨の死骸が分解されるまで、後数十年かかることだろう。
僕は調査艇をゆっくり進ませながら、鯨骨を観察した。オセダックスが肋骨の周りをびっしりと覆っている。鯨の骨に寄生して、養分を得ている海洋虫だ。他にもカニの類や二枚貝、エビの仲間も姿を見せていた。コトクラゲと呼ばれる珍しいクラゲも鯨骨に付着している。
深海魚もその付近に集まっていた。まず一番初めに見付けたのは、クロアンコウだ。
僕は海底付近位に漂うその魚を眺めた。10㎝程の黒い身体で、緩慢に泳いでいる。目は小さく、裂けた口は半分開いている。そして、イリシウムと呼ばれるルアーのようなものを靡かせている。それに誘われてきた生物を捕食するのだ。
アンコウは深海魚の中で有名な存在だが、驚くべき現象の一つに寄生雄がある。雌雄が出会って世代を繋げていくことは、過酷な環境の中で難しい。その対策として、巨大な雌の身体に小さな雄が寄生をするのだ。このクロアンコウは一時的に寄生して離れてしまうが、アンコウの中には、雄は雌の身体に付着し、最終的には完全に癒着して雌の一部になるものもいる。知った時は驚いたが、今では深海の神秘の一つとして、魅力的に感じる。
僕は艇を一旦止め、周囲を見渡した。少し向こうでは、オニキンメが泳いでいた。顔は全体の三分の一を占め、身体の脇には側線と呼ばれる線が走っている。長く鋭利な歯を持ち、その性で構造上、口を閉じることができない。恐ろしげな風貌だが、泳ぐ姿を見ると愛嬌が感じられる。
海底を見ると、じっとしている魚がいた。タウマティクテュスだ。彼はチョウチンアンコウの仲間だが、底生性である。イリシウムを揺らし、獲物が掛かるのを只管に待っている。
僕は長い間、彼らの行動を見つめていた。
すっかり満足してから、再び調査艇を発進させた。その後も、ユメナマコという生物を観察することができた。ワインレッドの体色をした、綺麗な泳ぐナマコである。
僕は多様な生物を眺めながら、更に進んで行った。ひたすらに緩やかな起伏が続いている。しかし、次々に現れた生物も、徐々に数を見せなくなってきた。
深度は、既に6614mを指していた。
6000mを超えると余りにも水圧が高く、生物の細胞に変化をきたしてしまう。分子自体が変形をしてしまうのだ。分子が歪んでしまうと、勿論生きてはいられない。しかし、分子が存在することが困難な世界でも、生物は自らの防衛策でひっそりと生きている。僕は少し気を引き締めて、高水圧の深海に臨んだ。
数分後、僕は左手側に細長の深海魚を見つけた。
上方から沈んできた生物の亡骸にヨコエビが群がり、それを摂食している。シンカイクサウオだ。
確か、太平洋北西部でしか発見されていなかったはずだ。南部に当たる此処に何故いるのだろうか、と疑問に思いながらも、僕は深海魚を眺めた。柔らかく半透明の身体で、頭部が大きく尾が細くなっている。形状はまるでオタマジャクシのようだ。退化した目は小さい。20㎝程の身体をくねらせて這いながら、彼らはヨコエビを活発に食べている。
僕は名残惜しげに彼らから離れ、海底を進み続けた。超深海底を生きる魚には、他にもヨミノアシロやカイコウビクニンがいるが、分布場所が違う為に出会えないようだ。そのことだけが、僕にとって寂しかった。
海底に鮮やかな色のウミユリが咲いていた。とは言っても、ウミユリは植物ではなく、ウニやヒトデの仲間である。茎と花弁のように見える支持体と腕を揺らしている。この生物は岩に接着して、殆ど動くことは無い。遥か上方から獲物が来るのをずっと待っているのだ。
その後も、ちらほらと生物を発見した。僕は観察を続け、遂に、深度10786mに辿り付いた。
ここ辺りが、最深だ。
探査艇から発せられる光が無ければ、真っ暗闇の世界。深海魚は想像通り、めっきりと姿を現さなくなっていた。以前は、生物が存在しない死の世界だと考えられていた。確かに、高水圧で分子が崩壊する世界だ。進んでみても、軟泥の底が続くばかり。生きている証を探すのは至難の業だった。
しかし、そのような世界でも、命が根付いていることを僕は知っている。生命を探しながらしばらく操縦に専念していると、軟泥にふわふわと動くものがいた。
目を凝らすと、5㎝程のエビだった。これはヨコエビの仲間で、カイコウオオソコエビと呼ばれている。色素が抜けて淡い茶色をしており、体内には大量の脂肪を貯め込んでいる。このエビは6000m以降の深海にのみ生息し、高水圧でも生き延びられる数少ない生物だ。身体の脂肪が高水圧に耐えられる理由と言われているが、詳しい事は分かっていない。
それから長らく進むと、クセノフィオフォラという大型の生物に出会った。見た目は海綿のようだが、実際はアメーバに近い原生生物である。単細胞なのに体長は10㎝程で、大きさは驚異としか言い様がない。クセノフィオフォラと別れ、僕は世界の底を進んでいった。
今では緊張の小波は落ち着き、心には過去から此処にいたような馴染みがあった。暗闇と静寂に穏やかな時間が過ぎていく。僕はそっと瞳を閉じてみた。地上から深海へ降り、実に沢山の生物に出くわした。僕は今までに会った魚達を思い出した。皆それぞれ独自の生態系を歩み、今に至っている。
僕にとっての永遠は深海だ。
深海こそ帰る場所だと感じる。それは、もう直感だった。
ふと気が付くと、海底沿いに進んでいた筈なのに、地面が無くなっていた。訝しげに思ってライトを更に下げると、底は斜めに下っていた。
泥の起伏がまだ続いていたのだ。
地震などがあって地盤に変化が起こり、深海が成長をしたのだろう。僕は躊躇うこと無く斜面を下って行った。深度は緩やかに目盛りを刻み、遂に記録を越えた。数十分進んだところで、僕は驚きに目を見張ることになった。
底に、大きな穴が開いていたのだ。
調査艇が三つほど入りそうな巨大な穴だ。静かに窪みに近付いて行く。ライトで奥を照らしてみても、底へは至らない。かなりの深さがあるようだ。僕は胸が高鳴るのを感じた。身体中が心臓になってしまったようだ。
深度は11262m。調査艇が高気圧に耐えられるかどうかという疑問が過ったけれど、気にしなかった。僕はゆっくりと前進させて、穴の中へ入った。
窪みにはまること無く、調査艇は沈んで行く。
僕は三方向の覗き穴から生物を探したが、何もいなかった。6000m以降では海底辺りの生物しか確認されていないから、遊泳性を探すのは無駄かもしれない。けれど諦めきれずに、僕は暗闇の世界を眺め続けた。どれくらい眺めていただろうか。揺らめくものが、目の端に留まった。
僕は息を呑んだ。
眼前には、未知の深海魚がいた。
遊泳性の深海魚だ。大きさは9㎝程。身体に比べ、頭部が大きい。必要の無い眼球は完全に消失しており、微かな黒点が確認できる程度。色素は完全に抜け、半透明の身体から内容物が透けて見える。胸鰭と尾鰭を優雅に動かし、水圧をもろともせずに泳いでいる。
そして、最も奇異に映る部分は、腹部にクラゲの触手のようなものがあることだった。透明な長い数本の帯が、ゆらゆらと揺れている。その先端が、淡く発光していた。それは、どのような用途で用いているのだろうか。一見クサウオ科のように見えるが、どの種類にも属していないようにも見える。また、どのようにして高水圧を克服しているのだろう。細胞が崩壊する強さだというのに。
僕は窓に顔を張り付けて、その未知なる深海魚の背を追った。遠ざかり行く姿を脳裏に焼き付ける。呼吸数が多くなり、もっと近くで見たい、触れたいという意識が溢れる。
突然、辺りが暗闇に包まれた。
モーター音が途切れ、代わりに調査艇は軋みを上げ始めた。けたたましい警報音が響く。電池は充分にあるのに、蓄電池が切れてしまった。半ば想定していたことだったが、僕は小さく嘆息をした。
この調査艇は10000m以上に耐久できるようには造られていない。今まで知られていた最深部分における水圧は、実に1㎝²に1086㎏の重さになる。それ以上の重さが調査艇には掛っている。
高水圧に耐えきれず、その機能を麻痺してしまったのだ。
覗き窓を見ると、青白い光がたゆたっていた。未知の深海魚が、まだ近くを揺らめいていたのだ。まるで、僕を底へ誘っているようだった。
僕は警報を切った。一瞬、辺りは死んだように静まり返った。耳を澄ますと、機械の軋みや自らの心臓音、呼吸音が聞こえる。深海が鳴動する音も。
僕は覗き窓に戻り、未知の深海魚に魅入った。透明で華奢な彼は、高水圧でもその姿を失わず優雅に泳いでいる。この青白い発光は、相互連絡手段として用いているのだろうか。そもそも、仲間がいるのだろうか。
そうこう考えていると、少し息苦しくなってきた。酸素濃度が低くなっているみたいだ。調査艇はあらゆる機能を停止させてしまったらしい。深度は12089mを示したところで、止まっていた。まだ底には至っていない。奥は続いているようだ。半壊の調査艇は、更に奥へ潜っていった。
僕は神秘的な光景を眺め続けた。心は昂ぶりから醒めない。夢なのか現実なのか曖昧で、判断が付かない。だが、胸の苦しさは、紛れもなく現実だった。
このような素晴らしい結果になると思っていなかった。
僕は、ちらりと警報に目をやった。
本来なら電池が切れて警報が鳴ると、自動的に電磁石に付いている重りが外れ、調査艇は浮上する。そのような救急手段があるのだ。僕は、それを自ら取り除いた。
僕が深海にいる事は誰も知らない。通信手段は自ら絶った。地上に繋がるものは、全て取り払った。
地上に戻っては、困ってしまうからだ。
僕はこの為に、たった一人で有人調査艇に乗ったのだから。
覗き窓からは、深海魚が唯一の光を放っていた。いや、淡い光は二つ三つと、数を増していった。深淵の中に光る僅かな生命たち。誰も知りえない深い場所で、永遠の命は根付いている。生きた永遠。
その中の一つは、僕。
暗闇に漂う仄かな光。
深海の永遠が、僕を包み込んでいく。
僕は微笑んだ。
調査艇は沈んでいく。
僕は、深海の世界に溶け込んだ。