そして野良猫
とある野良猫の独白、回想。
妻の沙耶香との二人暮らしが再び始まったのはおよそ一年前であった。そこには再び相見えた嬉しさもあったが、やはり、独りになった沙耶香を間近で見るのは辛いものがあった。俺がもっと健康体であったならば、沙耶香に寂しい思いをさせずに済んだのに。俺は沙耶香の小さくなった背中を見つめながら、大いに悔やんだ。その背中をさすってやろうと思っても、人間だった頃と比べて思うように身体が動かないし、そもそも沙耶香の背中まで行くと、反対に抱き抱えられてしまう。そうして抱き抱えられると、俺は悔しさのあまりに「にゃー」と鳴くのだ。すると沙耶香はそれを可愛がるから、まったく、人間に猫の心は理解できない。
「ねぇ沙耶香。再婚を考えたらどう? まだ、二十五歳なんだし、これから先、ずうっと独りは寂しいよ?」
ある日、沙耶香の母、つまりは俺の義理の母に当たる裕子さんが俺たちのアパートにやって来て、こんなことを言った。すると沙耶香は笑って、
「ヒロくんとの思い出があるから……寂しくないよ」
なんて、答えていた。嘘つきだった。俺の写真に向かって、しょっちゅう「寂しい、寂しい」と嘆いているのに、沙耶香は嘘をついた。
「ヒロくんはクソだなー。なんで先に死んじゃうのかなー。マジで結婚失敗したよ」
仏壇の前でしばしば妻は俺に悪態をつく。初めて聞いた時は少しショックを受けたが、
「もっと色んなところ連れって欲しかったよ! 甲斐性なし……! うぅ……」
悪態をつくのは泣き出す前兆だと知ってから、俺はこの瞬間だけ、沙耶香から離れることにした。俺を責めながら泣く沙耶香は見るに堪えなかった。
沙耶香は快活で、社内でも目立つ存在だった。顔立ちは別段美人というわけでなかったが、その愛嬌の良さから、俺は強く惹かれてしまって、何度も何度も、隙を見ては声を掛けた。そして、二人きりで食事に行くような仲になってから、告白した。
付き合い始めてから気付いたのだが、俺と沙耶香はこの上ない程に相性が良かった。心も、あはは、身体もな。今まで付き合ったどんな女性よりも順調に日々は進み、そして、俺は俺の生涯を捧げる女性をこの人に決めたのだった。
新婚生活はますます楽しく、まさしく人生の絶頂という具合であった。「結婚は人生の墓場」だなんてとんでもない。寝て起きて、その隣にこんなにも愛すべき女性がいること。これがどんなに幸せなことか。しかし、その幸せの代償なのだろうか。俺の身体は故障を起こした。
「あー、疲れた。ただいま」
ある平日、いつも通りの声が玄関からした。沙耶香のご帰宅である。時計を見れば時刻は夜の九時半であった。猫になってからというもの、やけに時間の立ち方が早い。
「ポン介! ただいまー」
リビングに入ってきた沙耶香に抱きかかえられる。あ、こら。スーツに毛がつくだろ、ばか。
ピロリン。とスマートフォンに通知が鳴ったので沙耶香は俺を床に降ろしてポケットからスマホを取り出した。妙に素早い反応であった。
ソファーに座って画面を見つめている沙耶香が気になって、俺はその膝に飛び乗り、「こらー、見えないよー」と喚く沙耶香を無視して首を精一杯に伸ばした。スマホにはメッセージアプリ『ENIL』のトーク画面が表示されていて、そこには相手の名前が示されていた。名前は……「皆口 卓」男だ。しかも俺の知らない、新入社員か。
『お疲れ様。最近どう?仕事は順調?』
というメッセージが届いている。タメ口ということは、大卒新入社員というわけではなさそうだ。転勤してきた即戦力の、ヘッドハンティングされてきた逸材、つまりはエリートだろう。仕事の調子を聞いてくるところを見るに、同じ部署ではなさそうだ。俺はメッセージから情報を必死に読み取り、それから胸の真ん中に騒めきを感じた。その騒めきはモワモワっと気体が広がるが如く胸の真ん中から全身に渡り、毛が逆立つ。
『はい!頑張ってますよ!』
『それならよし!今度の食事、楽しみにしてるよ』
『私もです』
二、三のメッセージが行き来する。その内容と交わしている間の沙耶香の表情から、この皆口卓と沙耶香がそこそこに親密であることが窺えた。片手でメッセージのやり取りをしつつ、沙耶香はもう一方の手で俺の頭を撫でる。夫の頭を撫でながら他の男と会話をするとか、なんだ、この悪女は。
しばらく会話して一段落したのだろう、沙耶香はスマートフォンをソファーの上に置き去りにし、風呂に行ってしまった。俺は置き去りのスマホを見やる。このスマホには、いや、それだけでない、あの俺も務めていた会社には俺の知るよしもない沙耶香とあの男の交流がある。俺の孕んだ騒めきはとうとう確信めいた悪夢に変わった。
いや、本当に悪夢か? 俺は思いとどまり、ふとソファーから飛び降りる。これは悪夢なんかではない。何で自分本位に考えているんだ、俺は。所詮、俺は死んだ身。しかし妻は生きた身だ。これは何を意味する? 俺は何を見てきた? 妻は独りだ。俺が死んだばかりに、妻に寂しい思いをさせている。これは、悪夢などではない。むしろ救いなのかもしれない。
さて、次の日曜日、どうやら約束の日と見える。いつもよりも多くの時間を鏡の前で費やし、何やら神妙そうな顔をしている。もっと楽しそうな顔をすればいいのに。せっかくのデートなんだから。鏡の隣で沙耶香を見上げ、しかし、そんなアドバイスを思う俺自身、正直気持ちを整理し切れてはいなかった。沙耶香、行くな。そう思う自分を殺し切れていなかった。殺さなければならない、そう思っても、しぶとく生き残るコイツは、逆に、楽しんでこいよと微笑む俺の命を奪おうと虎視眈々としている。
沙耶香は化粧台から立ち上がり、俺を撫でた。「行ってくるね、おとなしくしててね」と笑いかけてきた。先ほどから香っていた香水が殊更強く香った。俺の嗅いだことのない匂いだった。
沙耶香の出かけている間中、俺は沙耶香との思い出に浸っていた。我ながら女々しい。笑いたければ笑え。しかし、浸っているうちに、その思い出のアルバムはもう終わっているんだ、ということに気がついた。これ以上ページが更新されることはないのだと気づいてしまった。これは致命的であった。途端、俺はこのアルバムが価値のないものに思えて仕方なかった。沙耶香を束縛し、未来を奪うこの存在を忌々しいとさえ思った。
沙耶香が帰ってきたのは夜の九時頃であった。「ポン介、急いでご飯にするね!」差し出されたキャットフード(何故か美味しく感じる)を食べていると、目の前で沙耶香が突然に、涙を流した。
「このまま卓さんと一緒にいたら、ヒロくんが消えちゃうよ」
…………消したらいい。
「でもね、卓さん、好きだなぁ……」
…………いい人に巡り会えたみたいで何よりだ。
「あぁ、消えて欲しくない、忘れたくない」
…………あぁ、消えたい。一切、忘れて欲しい。
沙耶香はポケットから二つ、指輪を取り出した。婚約指輪である。そんなもの、持って行ったのか、と驚いた。バカだとさえ思った。沙耶香は涙を流しながら、その指輪を握りしめ、その拳を額に当てていた。
それから程なくして、卓さんが家にやってきた。感じの良い人だった。話も面白く、人生経験も豊富そうで俺は大いに感心した。
二人で談笑して、一緒に料理をして、そうして、そういう雰囲気になった。だから俺は二人の寝転がる布団から離れたところで寝たふりをしていた。妻の嬌声が聞こえるのに、俺はやけに冷静だった。そうして、二人の間に交わされる言葉のみに集中していた。細々と小さい息遣いの連続。その間に、一言、妻が喘ぎとともに、
「卓さん、忘れさせて…………つらいの」
今でも俺は、この言葉を聞いた瞬間の絶望と歓喜を忘れない。
二人が寝静まった後、俺は仏壇の前に置いてある婚約指輪を二つとも掻っ攫って、家を出て行った。沙耶香が着けてくれた赤い色の首輪を外して、口と両足を懸命に使いながら首輪で婚約指輪を強く、強く、決して離れ離れにないように結びつけた。そして、誰にも見つからないように、近くの川まで行って、投げ捨てた。
二人は今、幸せにやっているだろうか。星が満点の夜空を見上げながら、野良猫は今日も夜の街を徘徊するのである。
ありがとうございました
回想型の小説書くの初めてでキツかったです笑
http://ncode.syosetu.com/n4539dl/42/
こちら、【共同企画 お題「猫」】を行った俺の友人です。
よろしくです。