転職をたくらむ魔王の話
そしてそれに巻き込まれた勇者の話。
「ついにっ!」
歓喜を声に満ちさせて、燃え上がる炎のような赤い髪と瞳を沸き起こる激情でさらに紅に染め上げながら、彼女は玉座から立ち上がった。
「ついに、我が下まで辿り着いたかっ!」
ピシリと、何かが割れるような音が謁見の間に響く。直後、黒曜石から削り出したかのような黒く輝く玉座が砕け散る。磨き抜かれた黒大理石の床もまた、彼女の足下より放射状に、蜘蛛の巣のようにひび割れていった。
立つ。たったそれだけの動作に、玉座も床も耐えきれなかったのだ。心が滾るあまりに、溢れ出す膨大な魔力を制御しきれなかったのだ。
どうやら、噂通りの化け物のようだ。彼女の視線の先にある男は、それをひしひしと感じていた。
目の前に立つ美しい女性は、淑女の形をした暴力だ。その視線の前に晒されるだけで、常人ならば恐れのあまり息をすることすらも困難になるだろう。
しかし男に、怯えの色は見られない。たった一人でこの城に乗り込んできた剛毅な男は、臆した様子など微塵も見せない。
「……ああ、来たさ。会いたかったぜ、魔王」
そして勇者は、口元を片側だけ釣り上げるような、不敵な笑みを浮かべてみせた。
「会いたかった、か。随分と嬉しいことを言ってくれる。ドレスを着て待っていた甲斐があるというものよ」
「……なめてくれたもんだ。ご自慢の剣と鎧はどうした? 質にでも入れちまったのか?」
「無粋よ。まったくもって無粋だな、勇者よ。我を倒せるだけの力を持つ者が、ついに我が前に立ったのだぞ。歓待くらいさせてくれても良かろう?」
魔王は、孤独だった。
あまりにも強大に過ぎる魔力を持って生まれてしまったため、気付けば魔王という役割を押しつけられていた彼女。
心を通わせる相手もなく。信頼を分かち合う友もなく。忠誠を誓う部下すらもなく。彼女は、ただ孤独だった。
故に、彼女は望んだのだ。自分を、この役割から解放してくれる相手を。
そして魔王は笑う。くつくつと、右手の甲で口元を隠すようにして、心から楽しそうに笑う。
その様子は、人族と魔族の最高戦力同士が相対しているこの場には、とても似つかわしくないものだった。
「単なる酒場の小倅に過ぎなかった貴様が女神の加護を受け、困難な旅を経て、ついにこの場に辿り着いたのだ。この奇跡、少しは噛みしめても良かろう?」
「……随分と詳しいな。調べたのか?」
「ああ、我を討つ相手のことだ。当然、調べるともさ」
魔王の口元が、悪戯気な笑みをつくる。
そして彼女は勇者に告げた。
「例えば、貴様の家の斜向かいに住む奥さんは言っていたぞ。『あの子が勇者だなんてねー。大きくなったらお姉さんのお婿さんになるんだ何て、言ってくれてたあの子がねー』となっ!」
「何しゃべってくれてんの、おばちゃんっ!!」
魔王による、子供時代の黒歴史をほじくり返す攻撃。ダメージは深刻だ。
さらに魔王の連続攻撃。彼女はナイフを投げるかのように勢いよく、ズビリと勇者を指し示す。ドレスの裾がふわりと翻る程に勢いよく、そのたおやかな指を突きつける。
「だが勇者よっ! ……貴様、少々年上趣味に過ぎるのではないか?」
「俺がガキの頃はまだ若かったんだよっ! 綺麗なお姉さんにあこがれてたんだよっ!」
「ちなみに、こう見えて我は、貴様よりも随分と年上だぞ?」
「何のアピールだよっ!!」
魔族の寿命はとても長く、若々しいままの姿をずっと保ち続けるのだ。
ちなみに魔王は、人間で言うなら20歳前後くらいに見える。実年齢は秘密。
「まったく……見てきたように、しょうもねえこと言いやがって」
「実際、見てきたからな。変装して人の街に潜り込むのも、結構楽しかったぞ」
「魔王が何やってんだよっ! 部下にやらせろよそういうのっ!」
「部下などおらぬわっ!」
「いねーのかよっ!!」
何でいねーんだよ。魔王だろ? 王なんだろ?
けど、確かに。この魔王城、それなりに立派な建物であるにもかかわらず、人の気配というか魔族の気配というか、そういうものが全くないのだ。正門から入ってきたけど、門番すらもいなかった。謁見の間で魔王に会うまでは、無人なのかと思ったほどだ。
「王と呼ばれてはいるがな、そもそも魔王とは魔族を率いる者を指す言葉ではないのだ」
「マジかよ」
「マジだ」
知らなかった。というか多分、人族の王様も宰相も将軍も、誰もそんな事実を知らないと思う。
「……なら、魔王ってのは何なんだよ?」
「魔王というのはだな、勇者を討つための存在だ。勇者が魔王を討つための存在なのと同じくな」
そんなの、当たり前のことじゃねえの? 訝しげな表情を浮かべる勇者。
「ならば問うがな、勇者よ。貴様は人族の王なのか?」
「そんな訳ねえだろ」
「ああ、そうだ。女神よりの神命という鎖で縛られ、単身で魔王を討つことを強要される。それが勇者という存在だ」
勇者の眉に皺が寄り、顔に不快気な表情が浮かぶ。けれど、それだけ。否定の言葉は出てこない。彼自身も感じていたのだ。女神に選ばれるという名誉とは裏腹に、理不尽を押しつけられる存在。それが、勇者だと。
自分は将来、料理人になりたかったはずなのに。なのに今、右手に握られているのは、包丁ではなく聖剣だ。そんなもの、望んでなどいなかったというのに。
「この世界はな、貴様達の言う女神と邪神の遊技場なのだよ。互いに駒を動かし、相手の陣地を占領した方が勝ちというルールのな」
魔王が告げる。彼女が知り得た世界の真の理を、訥々と勇者に語って聞かせる。
「その中でも非常に強力であり、そして強力であるが故に使い勝手が悪い駒。それを持ち出したならば、対抗するために相手側も同じく持ち出してくる、対となる駒」
じっと、勇者の瞳を魔王が見つめる。
「それが、勇者と魔王。貴様と、我だ」
そう告げる魔王の顔からは、一切の笑みが消えていた。
「勇者の使命とは、その聖剣を魔王の前で使うこと。魔王を倒して、お前も死ねということだ。そしてそれと同様に、勇者を討つための捨て駒が魔王。故に、我には部下などいない訳だ。理解してもらえたかな?」
問いかけに返事を返すことなく、肺の中身を全て吐きださんとばかりに大きなため息をつく勇者。
魔王の言葉を鵜呑みにする訳ではないけれど。ないのだ、けれど。でも、それが正しいのだとするならば、色々と腑に落ちてしまうのだ。
「勇者よ。貴様が旅立ってからの足跡の全てを、我は見てきた。辛い、旅であったな」
「……また、街に潜り込んで聞き込みでもしてたのか?」
「いや、流石に面倒だったのでな、遠見の水晶を使って眺めていた。貴様の旅の様子をつまみに飲む手酌酒は美味であったぞ」
「……」
「飲み交わす相手などおらぬからなっ!」
「知ってたよっ!」
察して突っ込まなかった俺の優しさを無碍にするなよっ!
真面目な話してるんだから、ぶっこんでくるなよっ!
おかしい。なんだか、空気が色々とおかしい。何ていうかさ、勇者と魔王っていうのはもっとこうさ、殺伐とした関係なんじゃないかと思うんだ、俺。
勇者はふうっと息を吐いて頭を振り、気持ちを戦いへと切り替える。右手に持った聖剣を振りかざそうとする。魔王の話には、思うところが確かにある。けれど、自分は勇者なのだから。
だがその前に、魔王の次の攻撃が放たれた。まだ魔王のターン。
「しかし、最初の街での貴様の協力者だが、あれは災難だったな。だが、貴様も悪いのだぞ? 下心に負けてあんな若いだけのふしだらな女を頼るから、旅の資金を持ち逃げされるのだ」
「ほんっと良く見てるなお前っ! 下心とか、そういうの気付いてても言わないのが優しさだろっ!」
「その点、年上は良いぞ? 包容力が違う」
「だから、何のアピールだよっ!」
魔王の精神攻撃。勇者は混乱した。
そしてまだまだ魔王のターン。むしろずっと魔王のターン。
「それから、次の街で貴様に親切にしてくれた女がいたろう? ほら、宿屋の娘だ」
「……ああ。もしも、お前を倒す使命がなかったなら。俺は、あの街で暮らすことになったかもしれないな……」
「感傷に浸っているところを悪いがな。その後に盗賊に襲われたのは、あの娘の手引きだぞ」
「知りたくなかったっ!」
膝から崩れ落ち、天を仰いで。勇者、心からの慟哭。
けれど、これで終わりではない。嗜虐的な笑みを浮かべた魔王による、連続波状攻撃が繰り出される。
「貴様は本当に女運が悪い。だがな、それだけじゃないのだぞ。海辺の街で貴様に突っかかってきた奴がいたろう?」
「あの性悪か。何かにつけて罵倒してきやがって、むかついたわ」
「あいつな、貴様に惚れてたぞ」
へっ?
いや、何言ってんの、この人。人というか、魔王。
「どうにかして貴様の気を引こうとした結果の行動だな、あれは。可愛いものではないか」
「いやいやいやいや……マジで?」
「マジだ」
彼女が投げかけてきた数々の暴言を、頭の中に思い返す勇者。
『そんなことも知らないの、使えない勇者ね。面倒だけど教えてあげるわよ』
『あんたに魔王なんて倒せる訳ないじゃない。諦めて、大人しくこの街で暮らしたらどうなのよ』
『感謝しなさいよね。あんたみたいな能なしに付き合ってやれるのなんて、私くらいしかいないんだから』
……あれって、照れ隠し?
えっ? ホントに?
「貴様は女運が悪い。しかしだな、それ以上に女を見る目がない。……よし、お姉さんが色々教えてやろう」
「だから、そのアピールいらねえよっ!」
あいつ、見た目だけならすっごい好みだったのに。逃した魚は大きかった。
そして魔王。偉そうだけど、お前だってボッチじゃねーか。
「そのようなことが続いてからの貴様は、実に良かったぞ」
ぺろりと舌で下唇を舐め、妖艶な笑みを浮かべる魔王。肉食獣の視線が獲物を狙う。
「もう誰も信じないと言わんばかりのあの目っ! 野良犬のような目っ! 良いっ! 良いぞっ! 実にそそるっ!!」
「よーし、そろそろ決着つけようかー」
何処か投げやり気味に青筋を立てる勇者。無駄に器用である。
もういい、とっとと終わらせよう。これ以上、旅の話に付き合ってやる必要はない。というか多分、これ以上は死ぬ。心が死んでしまう。
勇者が聖剣を正眼に構え、魔王へと向ける。これは逃避ではない、使命と向き合っただけなのだ。そうなのだ。
勇者の手に握られる、白銀に輝くその刀身。これこそが勇者の証である聖剣。女神から託されし、魔王を討つための剣。
憧れや期待、人であるならばそういった正の感情を向けるであろう、まばゆいばかりに美しいその剣。しかし、それを見据える魔王の瞳に浮かぶのは別のもの。勇者に話しかけていた楽し気な様子から一転して、紅の瞳には暗い光が灯っていた。
単に自分を滅するための剣だからというだけではなく、それ以上の。いや、それ以下の。まるで蔑むかのような、汚らわしいものを見るかのような、そんな色が浮かんでいた。
「これほどに己の運命を狂わされておいて、それでも。それでも貴様は、その剣を使うのか」
「……勇者、だからな」
魔王を屠るための聖剣。それを使う時、勇者もまた、命を落とす。魔王と共に死んでこい。勇者に選ばれるというのは、女神からそう言われているに等しい。
最早、魔王の顔には愉悦も嗜虐も、浮かんでいない。全ての表情が抜け落ちた魔王が、感情のこもらぬ声で言う。
「自分が神の駒に過ぎないとしてもか?」
「例え駒だとしても、だ」
諭すような、魔王の言葉。
噛みしめるように返す、勇者の言葉。
「その剣を振るうのがどういう意味か、わかっているのだろう?」
「全て承知の上だ」
不当に扱われているという自覚はある。理不尽さに怒りを感じてもいる。それでも、彼は勇者だった。
例え神々の遊びに巻き込まれているだけだとしても。現在、魔族に苦しめられている人々の希望を、裏切ることは出来ない。彼は、どこまでも勇者なのだった。
魔王は勇者の瞳を、じっと見つめる。全てを悟った上で、それでも穏やかに凪いでいる青い瞳が、彼の気持ちを雄弁に語っていた。
「……良かろう。ならば我も、貴様と共にこの世界から消えてやるとしよう」
だから魔王に言えるのは。
ただ、その言葉だけだった。
「……変な奴だな、あんたは。魔王がそれでいいのか?」
「構わんさ。所詮、押しつけられただけの役割だ。それに、これでも勇者を討つという役目を果たしたことにはなる」
そして魔王がにやりと笑う。
悪戯っ子のような、楽しげな笑みを浮かべてみせる。
「貴様だって、似たようなものだろう?」
「……違いない」
勇者の口から、小さな笑いがこぼれ落ちた。そして、魔王の口からも、また。
他に観客などおらず、ただ二人きりの世界の中で。彼らは互いを求めるかのように、微笑み合っていた。
「魔族は敵だ。例えこの戦いが神様の遊びだとしても、それは変わらない。……けど、どうも俺はな、あんた個人のことは、嫌いじゃないようだぜ」
「嬉しいな。ならば、いつかまた出会うことがあったなら。その時には、惚れてくれても良いのだぞ?」
「年上は良いものだってか?」
「ああ、その通りだ」
見つめ合う二人。交わし合う視線。赤く、青く。炎のような、海のような、瞳。
やがて思いを断ち切るように、勇者は聖剣を振りかざす。
「さようならだ、魔王」
「勇者よ。また、会おう」
「……ああ。また、な」
聖剣をかかげたままに、勇者はしばし瞳を閉じて。
再びその目が開かれた時、迷いの全ては断ち切られていた。
そして、聖剣が振るわれる。
その間合いの内に、魔王はいない。虚空へと向けて振り下ろされる刃。勇者が最後の最後で躊躇った訳ではない。目測を誤った訳でもない。これが、聖剣の正しい使い方。
聖剣が描いた軌跡をなぞるように、空間が切り裂かれる。その向こうには、虚無が広がっていた。この世界そのものの壁に、ほんの僅かばかりの亀裂が入れられたのだ。
これこそが、聖剣の持つ力。
魔族とは、人族よりも強大な力を持つ存在だ。まして魔王ともなれば、それはいかほどのものか。例え女神の加護を受けし勇者といえども、差は歴然。単純に能力を比べるならば、魔王の影を踏むことすら出来ないだろう。
その差を埋めるための武器が、聖剣である。いかに敵が強大であろうと、いかに担い手が矮小であろうと関係なく、滅する力。世界の壁を切り裂き、その向こうの虚無の海へと追放し、この世界から消滅させる。それが、聖剣の能力。
世界が切り裂かれた刹那、轟という音を立て、周囲の大気が亀裂へと飲み込まれていく。更には、周囲の全てのものが。
黒曜石の玉座も、黒大理石の床も。豪奢な壁も天井も。魔王城そのものすらも。
……そして、魔王も。勇者も、また。
この日、魔王城はこの世界から消滅した。その跡地には、半円状にくりぬかれた巨大なクレーターが残されるばかり。
そして、最早何代目なのかもわからぬ勇者と魔王、その二人もそれぞれの役目を果たし、世界から消え去った。
女神と邪神の終わらぬ遊戯は、これからも続いていく。
深い水の底から浮かび上がるように意識が覚醒していき、うっすらと目を開く。
光が、まぶしい。無意識のうちに手をかざし、目に当たる光を遮ろうとする。
その手が、視界に入った。
……手だ。俺の、手だ。包丁を握り、鍋を振り続け、すっかりと皮が厚くなってしまった、俺の手だ。
あれ? どうして? 俺は魔王と一緒に消滅したはず……じゃ?
そこまで考えたとき、ぼやけていた思考に急速に焦点が合わさった。
跳ねるように上体を起こす。目に飛び込んできたのは、一面に草原の広がる穏やかな景色。
「気付いたようだな」
頭の後ろから、そう声がかけられた。振り返ってみれば、そこには草の上に座り込んでいる魔王の姿が。
というか、あれ? この位置ってもしかして、膝枕されてた?
何で魔王が? どうして俺に? というかそもそも、ここは何処だ?
「まずは落ち着け。私に戦う意思はない」
そして穏やかに魔王が笑う。
「というかだな、最早その必要もない」
じっと勇者の瞳を見つめながら、彼女が笑う。
「……ここは?」
「どうやら、別の世界のようだ」
眉をひそめて訝しげな顔の勇者。
そんな彼に、魔王はゆっくりと。優しく言い聞かせるように、伝える。
「聖剣が世界に穴を開けた際にだな、その余波で隣にあった世界の壁まで切り裂いてしまったのだな。そして我々は、こちらの世界に流されてきてしまったという訳だ」
別の、世界?
歴史の始まりより、永きにわたって人族と魔族が争い続けてきたあそことは、別の世界?
「この世界には、女神も邪神もいない。もう、我々が戦う必要などないのだ」
その言葉に勇者はゆっくりと、周囲を見渡す。
暖かな日差しに、一面の緑。遠くには森が見え、鳥のさえずりが風に乗って伝わってくる。言葉もなく、ただその風景を眺め続ける勇者。
しばし、無言のままに時が過ぎ。やがて、勇者が魔王に尋ねた。
「……なあ。あの世界はどうなるんだ?」
「何も変わらず、続いていくのだろう。神々が遊戯に飽きるまで、な」
「……そうか」
勇者は一言、そう呟いて。そして彼の瞳から、ひとすじの雫が流れ落ちた。
使命を果たすことが出来て嬉しいのか。世界の有り様を変えられずに悲しいのか。涙の理由は、自分自身にも判然としない。
ただ、全てが終わったのだと。勇者は、それだけを強く感じていた。
「さて、これからどうするか」
パンパンと服に付いた土を払って立ち上がった勇者。吹っ切れたように、その顔には活力が宿っている。
けれどそれはそれとして、いささか途方に暮れているのも事実。
「ここがどんな世界なのかもわからないし、生きていくためには稼がないといけないしな」
人が住んでいるようなら、何処かの街で住み込みで雇ってもらえたらありがたいのだが。
頭を悩ます勇者だけれど、対する魔王といえば、何処か余裕の表情だ。
「案ずるな。当座の食料と、換金の出来そうな貴金属ならここにある」
「……何でそんなものがあるんだよ?」
「私個人の財産だ。玉座の裏に隠しておいたのだがな、運の良いことに一緒に流れ着いていたようだ」
傍らに置いておいた背負い鞄を引き寄せて、そう告げる魔王の顔に浮かぶのはとても良い笑顔。
ちなみにこれは、ただの鞄などではなく、実は魔族自慢の魔法袋。その収納力は見た目通りのものではない。馬車一台分くらいなら軽く入ったりする。当然、中に入っている物は、時間の流れが遅くなります。
「一緒に流れ着いたのも何かの縁だ。しばらくは養ってやろう」
「……感謝する」
何だか男として非常に情けなく感じるのは事実だが、見栄を張って突っぱねるほどの余裕などない。現に、既に腹の虫が抗議の声など上げている。
その音を聞いた魔王は一つ笑うと、鞄からパンを取り出して差し出してきた。勇者は面白くなさそうな顔をしてそれを受け取って、がぶりと大きく噛みちぎる。
「確かに食料はありがたいけどよ、貴金属の換金なんて出来るのか? そもそも、人が住んでる世界なのかどうかもわからないだろ?」
「案ずるな、あの向こう側に街がある。随分と活気があるようだから、換金にも職探しにも困ることはないだろう」
魔王が指し示すのは、遠くに見えている森。その向こう側なんて、勇者にはとても見えはしない。というか、生い茂る木で物理的に視界が遮られている。
なのに、まるで見てきたように確信に満ちた物言いの魔王。
「……何でそんなことわかるんだよ?」
「それは、あれだ。魔族の秘密の感知魔法だ、うん。さて、向かうとするか」
表情を見せないように勇者に背を向けて歩き出しながら、微妙に早口でそう言う魔王。
勇者はその背中にじっとりとした視線を向けて、考え込む。
なんだか、ごまかされたような?
……と、いうよりも。この状況になるのが予定通り……いや、まさかね?
「……ま、別にそれでも構わないか」
しばし悩んだ末に出した結論。考えても仕方がない。今更どうこう言ったところで、過去は変わらない。
それに、まあ。この魔王のことは、嫌いじゃないし、な。
それよりも今は、これから先のことの方が重要だ。
勇者は一つ頷くと、先を歩く魔王へと声をかける。
「なあ、あんた。名前は何て言うんだ?」
「名前?」
後ろを振り返り、小首を傾げる魔王。
「ああ。魔王って肩書きじゃない、あんたの名前だ」
「……魔王に名はない。この地位に就く時に、過去は捨てる習わしだ。今の私に、固有の名前など存在しないよ」
悲しそうに、そう答える。
しかし、直後に表情が一転。あごに手を当ててしばし考え、うんと頷く。何か名案を思いついたようだ。
「良ければ、君が私に名前をつけてはくれないか?」
口の両脇を上げた笑顔で、とても楽しそうな顔をして、ちょっと上目遣いで。大切な頼み事をしてくる魔王。
そんな様子が、勇者の心にクリティカルヒット。
ちくしょう、ちょっと可愛いじゃねえかよ、この野郎。
呼び方も、我から私になってるし。貴様から君に変わってるし。あざといよ、さっきから妙にあざといんだよ。だけど男って馬鹿なんだよ、こんちくしょう。
「あー、なんだー。……じゃあ、元魔王だから、マオってのはどうだ?」
「捻りがないな」
うるせーよ。急に無茶降りするのが悪いんだよ。切って捨ててきた魔王の言葉に、不貞腐れた顔を見せる勇者。
魔王はその顔を見て、ころころと可愛らしく笑って。そして口の中で、たった今つけられた名前を転がしてみる。
マオ。マオ、か。うん。
「捻りはないが、悪くはない。いや、気に入ったよ」
そして茶目っ気たっぷりに、こう続けた。
「それに習うなら、君の名はユウだな」
勇者には、きちんと自分の名前がある。けれど、それも良いと思えた。
文字通りに新しい世界で、過去は捨てて生きていくのだ。なら、そういうのも悪くない。
「いいな、それ。勇者はもう死んだ。なら、これからの俺はユウだ」
そして二人は笑い合うと、共に並んで歩き始める。
新しい人生の始まる、一歩目を踏み出す……その前に。
「そうだ、ユウ」
「何だ、マオ?」
大切なことを忘れていた。
これはきちんと、言っておかないと。
「また、会えたな」
そしてマオは、にっこりと。ユウの顔が赤く染まる程に魅力的に、笑って見せた。
それはまるで、ひまわりの花のような。大輪の、笑顔だった。
その街には、いつの頃からか流れ着いた夫婦の営む料理屋がある。
調理場を取り仕切る夫と、接客担当の妻。仲睦まじい二人が提供する、異国風の美味なる料理の数々。
下は庶民から、果ては領主様までもがお忍びで、足繁く通い詰めるそのお店。そこは店主夫婦も客たちも、店にいるすべての者が笑顔で過ごせる。そんな、場所だった。