12-5
≫翌年 4月7日(水) AM10:35 静岡県 浜松基地≪
――その後、年を跨いで、桜が散る季節になった。北方の雪国を除いて、日本の関東以南の平地から雪はほぼ消え去り、今まで埋もれていた色とりどりの世界が日の光を受け始める。桜の木々がある公園や学校の近くは、風を受けて散り始めた桜の花びらが、無機質なコンクリートの道路の一部を桜色に染めていく光景が、日本の至るところで見受けられ始めていた。
世間は新学期である。入学したり、進級したり、進学したり、就職したり……各々新しい環境に身を置き、新たな一年を抱く傍ら、「友達作らなきゃ……」と、一部の人たちにとっては憂鬱な日々の始まりに、頭を悶々と悩ませることになる。
何れにせよ、平和な日々がまた今日も始まる。空は全国的な快晴。新しい気持ちで新しい一年を始めるにはうってつけの日となった。静岡の至るところで入学式が晴れやかに執り行われ、新たな門出を祝う親御さんたちで体育館の半分は埋まっている。
――そんな学校の空の上を、大型機特有の轟音を響かせた飛行機が、とある基地からゆったりと飛び立っていった――
「――あれ、訓練組って今から上がるんですか?」
閑散とした事務室の中。デスクワークが中心の会社の部署のように机とパソコンが並べられた部屋で、自分の席で今日の任務の情報を書類で確認していると、外から響くつんざくような爆音が窓と部屋の中の空気を揺らしていく。「あれ、今日の訓練組って朝っぱらから飛んでなかったっけ?」と首をかしげた羽浦は、その灰色の機体を窓越しに見ながら二つ隣の席にいる重本に聞いた。マグカップを片手に、デスクトップPCに昨日の分の訓練記録を打ち込んでいる様は、濃緑色の航空服を着た、コーヒーの見ながら仕事しているだけのただのサラリーマンのようでもある。
「んー……? 朝の飛行前点検の段階で、一部のSDCコンソールのパネルの表示がおかしくなって遅れたって話だぞ。結局、ただのソフトウェアのエラーだったらしいが」
「改修明けで飛実がチェックしたはずですけど、漏れてたんですか?」
「たぶんな。……ん、ぷへぇ。ま、ドでかいバグでなかっただけマシってこった」
「確かに」
そう返してまた書類に目を落とす。今日は昼頃からの哨戒任務。東シナ海に出て、いつもの洋上と周辺空域の警戒監視。やることはさして変わらない、通常通りの任務内容だ。ただ強いて違いがあるとすれば、兵器管制任務が、一部入ることである。
この日もまた、定期的に行っている那覇DCの設備の修繕が入っていたが、業者の都合で予定より遅れてしまっているらしく、今日一杯かかる見込みとなってしまった。そのため、別のDCに代替させようと考えたが、何を思ったか、上の判断で自分らが受け持つことになった。書類には、「戦闘機部隊との連携強化を副次目的とした業務補完」という、本当にとりあえずとってつけておいたような理由が書かれている。「訓練でやらせろよ」とは、その指示を受け取った重本の弁。
とはいえ、命令は命令である。さして難しい注文でもないため、羽浦もさして不満があるわけではなかった。時として、本物のパイロットと交信して感覚を慣らすのもいいだろう。バインダーに挟んだ任務工程の中に自分の担当時間をメモしながら、そんなことを頭の片隅で考えていた。
「そういや聞いたぞ。例のサブコマンダーの件、断ったそうじゃないか。せっかく二尉に昇進したんだから、将来一尉になった時に備えて話ぐらいは受けてもいいと思っていたが」
「お話はありがたいんですが、自分はまだこの部隊じゃ新米の類ですよ。もう少しだけお時間ください」
「勿体無くないか? せっかくの上からのお誘いなのに」
「身の丈に合わない肩書きはないに限りますよ」
そうひらひらと手を動かしながら、重本の要望を退けた。
羽浦は去年の末頃に、二等空尉に昇進した。それを受けて、今の新代が受け持っているようなサブコマンダーになるための訓練を受けてみないかと警戒航空団からのお誘いがあったのだが、羽浦はそれを辞退していた。今はまだ経験不足である感は否めず、もう少し時間を経てからでも遅くはないという判断だ。
この早い時期からこのような打診があるのは名誉な事でもあるので、重本としてはなんとも勿体無い話にしか思えなかったのだが、羽浦は階段を二段飛ばしするような急ぐタイプではない。経験と実績相応の肩書きであるべきと考え、今回は丁重にお断りすることにしたのだ。
「正直、今の立場が気に入っている節はありますしね。上に立つよりは、もう少しだけ直接指示出す立場でありたいものです」
「そのほうが、彼女の声も聞けるからか?」
「……」
「いや、否定しないのかよ」
「否定したらアイツに申し訳ないというか」
「バカップルだなぁ、やっぱり……」
そう面白がるような笑みを浮かべる重本。すると一転して、思い出したように部屋の出入り口のほうを見ていった。
「というか、百瀬はどうした? もうそろそろ着く時間だったはずだが」
「もうすぐ着くって電話ありましたよ。シゲさんトイレいってる間に」
そう言いながらメモし終えた書類を挟んだバインダーを机に置く羽浦。……と、
「――すいませぇぇええええん! 遅れましtぁぁぁぁぁあああああああああ!!!!」
相当なスピードで走ってきたのだろう。体力があるわけでもないのに全力疾走してきた百瀬だが、出入り口付近で足を滑らせて盛大に仰向けにすっ転んでしまい、慣性の法則に従いそのまま扉の前を通過する。室内にいた数人の管制員は思わず吹き出してしまう中、数秒後、百瀬は肩を極端に上下させて荒い呼吸を繰り返しながら、まるで熊から逃げてきたばかりの登山客のような、汗だらだらの疲労困憊といった表情を浮かべて事務室に入ってきた。
いつもの航空服を着て、肩からは自分の荷物が入った大きなショルダーバッグを下げている様は、それだけを見ればいつもどおりの出勤姿。出入口の隣にあった出勤札をひっくり返すと、マラソン走った後のランナーのようなふら付き様を見せながら、呆然とする羽浦の隣の自分の席に勢いよく座って荷物を横に置きつつ、机に突っ伏して動かなくなった。
「……おはよう、ございます」
その声は、普段の明るく清涼なものとは違う。どこから出しているのかわからないほどの暗く濁ったボイスである。
「お、おはようございます……といっても、もうこんにちわの時間帯ですけど……」
「随分急いだなぁ。今日は昼からのフライトだから、まだブリーフィングまでは時間あるってのに」
「き、昨日の書類仕事、まだやっつけてないんで、早めにと、思ったんですけど……」
「あぁ、それ。松がもうやっちゃったぞ」
「ッえ゛え゛!?」
「あぁ、松野さんやってたのそれか」
突っ伏していた顔を勢いよくあげると、目の前の棚から一つのファイルを取り出して中身を確認する。昨日の訓練の際に出た飛行記録をデータベースに入力する作業があったはずだが、すでにその書類には「入力済み」を示すチェックマークが付けられていた。恐る恐るその実行者を見やると、松野と呼ばれた一人の管制官がドヤ顔で百瀬のほうを見ていた。
「手が空いたから片手間にやっちゃっといたZE☆ これで俺の好感度も上がるやんな?」
と、一発膝蹴りを喰らわしたくなるような憎たらしい声を室内に響かせる。当然、本人としては女性からの好感度アップを狙った作戦だったに違いない。しかし、今の百瀬にとっては、感謝の念より、落胆による脱力感のほうが強かった。再び突っ伏して、彼女は思いのたけを包み隠さず口にした。
「……急いできたのにぃ~~」
「あれッ? 喜ばれてないッ? ここは完全に「きゃ~まっちゃんありがとぉ~やっさしぃ~」って返ってくる流れじゃないのッ?」
「松野、計画がいつも計画通りにいくと考えるのは愚者のすることだ。ほら、BX行くから付き合え」
「山ちゃんちょっと待ってッ? この後彼女がかっこいい俺をデートに誘う流れに持っていくまでの計画がまだあんだけどッ? そしてそのままねとr」
「元アグレッサーを敵に回すんじゃねえってんだこのスケベ。パン買いに行くからさっさと付き合えってんだオラッ」
……と、山ちゃんなるあだ名で呼ばれた別の管制官が、百瀬の空気を読んでさっさと彼を連れて行く。今このまま彼を置いておくのは確かにマズイ。不満の捌け口になってしまうまえに退避させるその判断、さすが管制官である。
ただ、百瀬が気の毒なのに変わりはない。早いところ出勤して仕事を終わらせようと全力疾走してきた結果がこれである。それならもう少し遅くても大した差は無かったという不満はどうしても残った。
「病院に行かせてからくればよかった……」
「共働きマザーは大変ですね。娘さん、38度でしたっけ?」
「昨日雨だったのに友達と遅くまで遊ぶからぁ……」
「まあ、遊びたい盛りでしょうし大目に見てやりましょうや。インフルじゃなかっただけマシなんですし」
「それはそうですけどぉ……」
百瀬は「参ったなぁ」といった様子で深いため息をついた。お母さんは大変だ。しかも、これでいつもどおり働いているというのだからすごいものである。育児休業は多少は取ったらしいが、すでに娘さんも5歳児。今は自分の両親などに預けながら、夜は即行で帰って子供の相手をする日々のようである。
「女の子のクセに、やんちゃな男の子のように雨でも構わず遊びまくるとは。この調子じゃ娘さん、絶対夫みたいな人間になるな」
「子は親に似るって言いますしね」
「ちょっとは私に似ててもよかったのに……」
そんな不満を口にしながら、百瀬はかばんの中から今日の任務に使う書類の入ったファイルを取り出してパソコンを立ち上げる。今日の任務に入る前に飛行前の記録を入力していくが、そのタイピングの速度も遅い遅い。やはり親は大変だ。ましてや、娘さんが彼のようなタイプになるとなれば、母親の頭痛の種も増えるかもしれない。
――その彼とは、第309飛行隊にいる“近藤三佐”のことである。
「今でも不思議に思うわな。お前の夫が、あの近藤三佐だったとは」
「別に隠してたわけじゃないんですけどね」
「まあ、こっちもわざわざ聞いたりしなかったから知らずにいたのも当たり前の話だが……、ご近所だったんだっけ?」
「生まれた時からずっと。ほとんど後追いで空自に入ったようなものです」
「世間ってのは狭いなぁ。なあ、羽浦?」
そうですね。と、暇になったのでイヤホンを方耳に差してスマホからラジオを聴き始める羽浦。
――百瀬は確かに結婚していたが、その相手は、誰でもない近藤だった。これが発覚したのは、去年、帝国ホテルにおいて警戒航空団主催で催した、309飛行隊の人間も招いて行われた『生還祝賀会』という名の、ただの打ち上げ会でのこと。近藤と百瀬が、小さな女の子と共に妙に親しげにしていたので聞いてみれば、臆面も無く「家族です」と言いのけるではないか。部隊を問わず、周りにいた誰もが「えええええええ!!??」と、驚嘆の声を上げて唖然とした。
「か、家族!? じゃあ夫婦なのか!?」
「あ、そういえば言ってませんでしたね」
「聞いてないっすよ! 全然聞いてないっすよ!」
「ちょっと待って近藤さん! お二人苗字違いますよね!? こちらの方は百瀬と名乗られてますけど!?」
「蒼波よ、世の中には通称夫婦別姓ってものがあるじゃんか。戸籍上はどっちも近藤だぞ」
「え、うそォ!?」
というわけで、百瀬の運転免許証を見せてもらった。確かに、そこに百瀬の苗字はなく、代わりに、近藤の文字が書かれている。戸籍上は、百瀬は百瀬ではなく、近藤だった。
つまり、職場では旧姓を用いているだけに過ぎなかったというわけである。数年前、当時の内閣が旧姓使用に関する統一基準を発表し、それを受けて防衛省から出された通知に基づいて、百瀬が申し出ていたものだった。羽浦たちが目にする内部文書では当たり前のように旧姓が使われていたので、今の今まで全く気づかなかったのだ。
「あれ? じゃあ子供どうしてるの?」という話であるが、夫婦で遠距離になってしまったので家族の時間の確保に難儀してはいるが、スカイプを使ってほぼ毎日親子で会話する時間を設けているのでさほど問題は無いという。二人の両親が自衛官職と育児の両立に協力的であり、不測の事態に際しては百瀬の自宅にまで駆け込んでくれているのが何よりありがたい話であった。尤も、目の前にいる娘さんの近藤に対する懐き様を見れば、家族関係についてはそこまで心配することが無さそうなのは一目瞭然といえる。
羽浦としても、これである意味合点がいった気分であった。去年、近藤と電話した時に聞いた嫁自慢話の中で、10年も歳が離れていると言っていた。向こうは30台で、こっちは20台半ば。なるほど、確かに10年も離れている。つまり、あの時出てきた幼気な当時小学生の少女は、将来の夫を追って今では立派な女性自衛官としてここに……。
「(……これもこれで十分すげえじゃん……)」
いつだったか、自分と蒼波の出会いから今までを話した時、何だかんだで驚いて涙すらしていた百瀬だったが、こっちも十分どっこいどっこいであろう。ちなみに、その娘さんとも触れあう機会があったのだが、これがまた女の子であるせいか可愛らしいことこの上なく、即座にWAFたちの心を鷲づかみにした。あの蒼波が、完全に母親モードになって高い高いしているを見た羽浦は、その急変振りに再び肩を抜かして呆然とするしかなかったのである。
――そんな娘さん。最近はどうも近藤に性格が似てきたらしく、女の子のくせに外で近所の男の子に混じって遊びまくっては泥だらけになって帰ってくるのがザラらしい。百瀬譲りの美少女のはずなのに、すでに近所ではガキ大将に近い立ち位置を確保したようで、娘さんの将来像が今からでも透けて見えるようである。転んで汚しても笑いながら泣き叫ぶぐらいには元気なのは結構なことだが、百瀬の頭と胃はじりじりと痛む一方だ。「将来は、娘さんの相手は近藤さんに任せたほうがいいだろう」と羽浦が他人事のように考えていると、ニヤついた重本がコーヒーを飲みながら言葉でつついてくる。
「お前も、将来は子供持つんだからな。今のうちに将来設計しておけよ」
「余計なお世話ですよ。まだ子供持つ予定ないですって」
「でも遠い未来じゃあるまい。“彼女”とは近いうちに結婚することはほぼ確定じゃないか。何ならお勧めの“ホテル”紹介してやろうか? あ、それともどっちかの自宅でやるんか?」
「それ以上言ったらセクハラ容疑でお隣から拳飛んでいきますよ」
「育児相談なら任せてください! これでも親としては先輩ですから!」
「お願いですから百瀬さん一発ぐらい飛ばしてください」
期待した反応でないことに冷静にツッコむ羽浦だったが、方や子供のようなニヤケ面をかます上官。方や「先輩振りを発揮できる!」と目を輝かせている若き自衛官マザー。周囲を見ても、「自分は何も聞いちゃいません」とばかりに目線をそらして仕事をしている。案の定、この話になると自分の味方はいなくなる。もはや、見慣れた光景だ。
――羽浦が蒼波と正式に付き合い始めた、という話はすぐに警戒航空団内にも広がった。去年の慰霊式典後の墓参りの際の会話を聞かれた二人は、即行で全員をとっ捕まえて締め上げたものの、人づての噂までは止められなかったらしい。誰かが流したか、はたまた、二人の間にある大体の空気で察したのかはわからないが、少なくとも羽浦の周囲では、彼と蒼波は付き合い始めたという話はもはや公然の秘密のような扱いを受けていた。
ただ、だからといってさしたる変化があったわけではない。帝国ホテルでの仲睦まじい様子を見れば、一見様は間違いなく「あぁ、カップルか」と確信を得るに違いないわけで、正式に付き合い始めたという話が流れ始めても、「あ、そう。知ってた」といったクールな反応しかしてこない。一時期神野と付き合ってた的な話はあっても、そもそもあれ自体、色々とこじれた末の複雑な事情があるらしいことを悟る程度の頭はあったので、図々しく触れることもしなかった。
……代わりに、「うらめしや~」といった目線を一部の独身男性隊員から受けることになったが。
「付き合い始めたって言ったって、大して変わりませんよ。しばらくはいつもどおりです。それに遠距離ですし」
「恋に距離なんて関係ないって言うじゃん。結婚式は俺も読んでくれよな。お祝いの言葉も任せてくれたらお前のことべた褒めにする準備はあるから」
「結構ですのでご勘弁を」
「あ、良い式場知ってますけど聞きますッ?」
「百瀬さんお願いですから俺の味方に戻ってください」
「この際だしまた帝国ホテルでいいんじゃね?」
「シゲさんそろそろ自重しないと俺の拳が飛びますよ?」
と、苦笑しつつも鋭い目線を放つ羽浦を見た重本は、さすがにヤバイと思ったか「あ、そろそろブリーフィングだわ急げ急げ~」と、わかりやすい棒読みを口にしながら荷物をまとめてそそくさと退散する。小さくため息をつきながら、羽浦もスマホのラジオアプリを閉じた。去年の紛争の復興処理のニュースに混じって、芸能人のスキャンダルや新しい法案の採決、遠い国で行われたスポーツの結果などを伝えるアナウンサーの声は途切れ、ホーム画面が表示される。あと20分ぐらいでブリーフィングが始まる時間を表示しており、羽浦も、スマホを置いて手元の書類をバインダーから取ってファイルに綴じ始めた。
「……でも、よかったですね」
「何がです?」
「いえ、何とか解決して」
と、目線をクイッと羽浦のスマホの画面に向ける。ホーム画面の写真。羽浦と蒼波が、炬燵に包まりながら並んで、若干照れくさそうな表情を浮かべている様子が写されている。今年の新年早々、恋人になりました報告ついでに、蒼波家の元に挨拶に行ったときに蒼波父が喜んで撮ったものだ。本当はただの記念撮影程度で済ますつもりが、彼の「恋人同士ならおそろいのホーム画面を持っていてなんぼ」という言葉に、当の娘が「わかる」と同意してしまったがためにホーム画面に設定する羽目になったものだ。
――確かに。彼女との関係が何とか解決したのは幸いだ。あれ以降、変に拗れることもなく、すれ違うこともなくなった。すっきりした気分で、彼女と時を過ごすことができるのは幸せなことだ。百瀬も、二人のみを案じていた一人として、心底安心していた。ブリーフィングに向かうべく荷物をまとめる傍ら、母親のように(実際母親だが……)優しい表情を羽浦に向ける。
「シゲさんはあんな感じでしたけど、実際、お二人は役所のお世話になるんですから、今のうちにイメトレはしておきましょうね」
「イメージねぇ……子供持った後とかも考えたほうがいいんですかね」
「そりゃあもちろん。何なら名前も今のうちに」
「さすがにそれは気が早すぎでしょう。まだ予定すら立ててないのに」
苦笑しながら荷物を持って席を立つ羽浦。その横から、小悪魔のような含み笑いを浮かべた百瀬が顔を覗かせて、同じく荷物をまとめながら言う。
「考えるだけでも楽しいですよ? 将来設計を楽しむ余裕なんて、若い時しかないんですから」
「それ、まだ若い百瀬さんが言います?」
「そりゃもちろん。私だって、結婚する前は色々と将来を考えるのを楽しんでましたから」
「さいで」
「そのうちわかる時がきますよ。あと……」
「?」
荷物をまとめて立ち上がった時、少しだけ真剣な表情を浮かべ、
「……一度、一生を共にする覚悟を決めたなら、絶対にそれを手放さないでくださいね。お互いに」
「何を今更。当たり前じゃないですか」
「ふふっ、それを当たり前といえる度胸が羽浦さんにあるから、彼女も応えてくれたんですよ。大切にしてあげてくださいね」
こうした分野の先輩として、かっこよくアドバイスして部屋を後にしようとした。その後ろ姿は、人妻としての風格が確かに宿っている。
――それだけに、
「百瀬さん」
羽浦は、申し訳なさを感じた。
「……シフト表、忘れてますよ」
この良い感じに締まった空気を、台無しにしてしまうことを。
「決まった……!」といった様子でドヤ顔をかましながら振り返る彼女を見つめて、気まずそうに言った羽浦が次に見たのは、「……、あれ?」と、いつものようなあたふたとかばんの中を探して、「ああッ!!」と自分がまたドジをしてしまったことを理解した百瀬の慌てふためく表情である。
「い、入れたと思ったのに!」
「ほんと、かっこよく決めたと思ったら締まらないですよね」
「うえぇ……たまには恋の先輩らしく締めさせてよぉ……」
「はぁ……」と、最後がうまく決まらないことに深くため息をつく百瀬。そのままトボトボと部屋を出て行く姿は、やはりいつもの彼女の後ろ姿。威厳もクソもないが、そのほうが彼女らしいと、逆に安心した羽浦だった。
――この日もいつものブリーフィング。気象班から現場空域の気象情報を共有してもらい、担当空域の飛行コース、民間機のトラフィックの情報、重要飛行対象の有無、前任機からの引継ぎ事項等々、空に上がった後に必要となる情報を全員で共有する。
今日の天気は快晴。多少の雲はあれど、当然ながら自分たちの任務には何ら影響を与えない。また、今日は那覇DCに代わってスクランブル機の管制も担当することになっている。自分らのシフトを確認し、担当となったならば即座に手順どおりの措置を執る。もはや手馴れたもの。今年から入った数名の新人以外は、リラックスした表情でその定型文のようなブリーフィングの内容を聞いていた。
外に出ると、すでに自分らの乗る機体は綺麗に掃除された状態でエプロンに駐機されていた。青空の中に混じる、灰色のどっしりとした図体。周りでは、整備士が飛行前の最終チェックを行っており、時折パイロットと機体の調子についてやり取りしている様子が見て取れた。
中に入ってもいつもと同じ。自分の割り当てられた座席に座り、管制卓や無線機、酸素マスクの作動チェックを実施していく。羽浦も自分の座席に座った時、ふと、スマホをまだ機内モードにしていなかったことを思い出し、ポケットから取り出す。
「……、ん?」
LINEのアイコンに2の数字がついている。誰かからのメッセージが来ている証拠だ。開いてみると、差出人は蒼波。時間は今日の朝。通知欄を開くと、なにやらソファでぐったりした蒼波の写真と、一言のメッセージ。
『初めて5分スクランブルのリーダーやることになった……やっべえ、不安しかねぇ。助けて雄ちゃぁん(チラッチラッ』
……そんなこと言われても。というか、本当に不安に思っているのか。どうとも言葉が出てこない羽浦は、とりあえず適当に考え付いた返信をさっさと送信して機内モードに切り替えた。
「……惚気話ならあとでゆっくり聞くぞ?」
「盗み見は感心しませんよ、シゲさん」
左手後ろから、重本が羽浦のスマホを覗いて見ていた。すぐにスマホをポケットにしまうが、しかし、彼は臆面もなく、
「いいのか? そんな適当な返信で。もっと気の利いたこと言えるだろう」
「今のアイツにはこれで十分ですよ。というか、向こうもそれ期待してるような文章ですから」
「流石、彼氏は考えることが違う」
「いい加減パワハラでチクりますよ?」
「あ、そろそろ卓のチェックしないとな……」
と、重本はそそくさと退散。「冗談なのに……」と呟きながらも、また自分の周りの機器類をチェックしていく。いつしか、その光景すら、日常になっていた。
――全ての準備を整えたE-767は、エンジンをゆっくりと回し始め、回転数を上げていく。管制塔から移動許可を貰い、全長48mの巨躯は、重量感溢れるのっしりとした動きで滑走路へと向かい始めた。
旅客機のそれに相違ないエンジン音を周囲に響かせると、E-767の出発を察知したスポッターやマニアらが、各々のお気に入りの撮影場所から、一眼レフやビデオカメラなどを雁首そろえて彼女に向ける。ファッションショーのランウェイを歩くモデルを見るかのような大衆の視線を受けながら、機体は滑走路へと進入。端で一旦止まり、管制から離陸の許可を貰った。
『ASTER 0-1, runway 27, cleared tale-off.(アスター0-1、滑走路27からの離陸を許可する)』
「Runway 27, cleared take-off. ASTER 0-1.(アスター0-1、滑走路27から離陸する)」
キャプテンは、離陸の宣言と共にスラストを奥に押し込む。両主翼に吊り下げられたCF6-80C2エンジンは、今日も今日とて元気にファンブレードを回転させて空気を取り込み、推進力に換えて後方に押し出す。速度を上げていくその巨躯を、“観客たち”は逃がすまいとカメラを向け続ける。
「ローテート」
機首から徐々に上に向き始め、すぐに、胴体全体が宙に浮いた。豪快な音を周囲に撒き散らしながら、桜が舞い散る浜松の空へと飛び立っていく。一通り撮影し終えた観客たちは、カメラのレンズをE-767から下ろして、たった今撮影した画像や映像を確認し始める。
『ASTER 0-1, contact channel 3. GOOD LUCK.(アスター0-1、周波数チャンネル3にコンタクトせよ。いってらっしゃい)』
「Contact channel 3, ASTER 0-1. Thank you.(アスター0-1、チャンネル3にコンタクトする。行ってきます)」
しかし、そんな中でも彼らはそのまま飛び続けていく。もっと遥か遠くの空、鳥すらも届かないような、遠い遠い空の上へ。
桜の花びらを散らせる風は、彼女に空を飛ぶ力を与え、
その綺麗な灰色の巨躯を、青い空の彼方へと誘っていく……




