2-2
≫AM11:15 東シナ海東方空域 高度31,000ft上空≪
現地の地上は豪雨になっているであろうが、高高度は当然のように光る青空が広がっている。
予報通り低気圧が接近したことにより、眼下は白い雲海が広がっているが、上から見るだけならば非常に見ごたえある光景である。その下がどうなっているかまで考えたら、少々複雑になるが。
羽浦は今、後方の待機スペースで睡眠をとっていた。現場空域についてからは、自分の担当時間が来るまでは自由時間となっていたことを使い、早めの昼飯を食べ、朝のうちに排除しきれなかった眠気を今のうちに取り払っていたのだ。背もたれを少しだけ倒し、アイマスクを付けつつ腕を組んで、スマホに繋げたイヤホンから小さい音量で音楽を聴きながら寝ている。軽い睡眠を取る時は何時もこのスタイルだ。
「……んー?」
ふと、室内で一人の男性の声が聞こえてきたため、思わずアイマスクを取った。よく聞くと、それは重本の声であった。
「――ああ、じゃああっちは中空SOCが担当するんだな? うちらは? ……そうか、わかった。じゃあそのまま監視続けててくれ。……ああ。んじゃ、俺休憩入るから。あとは頼む」
廊下に繋がる出入口で別の幹部と一言二言を交わすと、重本は手元にある数枚のA4サイズの紙を見ながら、羽浦の隣にドカッと座った。「ん~……」と、喉を唸らせている。
「どうしたんすか、難しい顔してますけど」
スマホを見て、もうそろそろ時間であることもあり、羽浦はイヤホンを取って音楽を止め、睡眠休憩を終了させた。羽浦が起きたのに気づいた重本は、「ちょうどいい」として、彼に説明した。
「いや、どうも日本海で、またロシアの電子偵察機が護衛付きで飛んできたらしい。そっちは小松と築城からスクランブルが上がって、中空SOCと隷下のDCが対応したみたいでな」
「ロシアの電子偵察機って、数ヶ月前にもありましたよね。あれですか?」
「ああ。どうもあれと同じらしい。前回と同じ飛行目的だと思われるが、もしかしたらこっちに来るかもしれないってことで、事前に中空SOCから言われてきてな」
「あーら、また地味に面倒なことを」
数ヶ月前のそれと同じということは、Tu-214Rが1機にSu-35Sが2機の組み合わせであろうか。前回は、やはり北朝鮮方面の電子情報の解析を行っているらしいことが、後の防衛省の調査で判明した。
北朝鮮軍の動静を、電波情報を使って調査を行おうという試みであったが、今回も同じ目的であろうか。航空機の組み合わせに変わりがないとなれば、目的も極端な変化はないことが予測されるが、前回は日本海側だったので、今回は黄海側……、ということもあり得る。中空SOCが、羽浦たちの乗るE-767にもこの件を知らせてきたのは、そうした動きに対し警戒を促す目的もあった。
「とりあえず、そっちに何か映ったら知らせてこいだと。今はまだレーダーで探知はしてないが、仮に黄海にも来るなら、間違いなくこっちにも映るからな」
「ただの偵察ならいいんですが……しかし、ロシアもビビってますねぇ」
「しょうがないさ。余り意識してる奴って少ないが、ロシアと北朝鮮って、一応国境繋がってるんだからな」
時たま知らない人もいるのだが、ロシアと北朝鮮は、ほんのわずかにではあるが国境が繋がっている。北朝鮮北東部と、ロシアの極東地域の南東部を、16㎞に渡っての国境線である。
たったの16㎞であるが、そうでなくても両地域は豆満江を挟んで互いが目と鼻の先にあるような地理条件であるため、手が届きやすい。
国内の混乱の状況変化によっては、この国境付近にも悪影響が及ばないとも限らず、どうしても敏感になってしまうのだろう。中国ですら、北朝鮮の国内状況を鑑みて、中朝国境の警備を厳重にしているぐらいである。
……そう考えると、日本はかの国との間に、日本海という“天然の壁”があってよかったのかもしれない。
「まあ、ロシアだけならいつも通りなんだが……」
「なんです? 韓国あたりにも動きが?」
「いや、そっちじゃなくてな……」
重本は、手に持っていた数枚の紙のうち一枚を羽浦に渡して見せた。それは、今回のロシア機とは別の機に関する情報が写真付きで書かれたものだった。
「南西SOC経由で、横田の航空総隊作戦指揮所から送られてきたものだ。……そいつ、飛んだんだとよ」
「これ、“リベットジョイント”ですか?」
重本が頷いて肯定した。
RC-135V/W“リベットジョイント”は、米空軍で運用中の電波情報収集機である。C-135輸送機か、KC-135空中給油機を改造したもので、各種電子情報を収集する電子偵察機の役割を持つ。
この用紙は、事前に在日米軍が、空自の航空総隊に飛行計画を提出した際に渡されたもののコピーだが、それによれば、今回飛んだのは、嘉手納に所在する米空軍第55航空団第82偵察隊に所属するもののようだ。ただ、羽浦は訝しげに首をかしげる。
「リベットジョイントなんて、今時よく飛んでるじゃないですか。これがどうしたんです?」
「まあ、それはそうなんだが……護衛、よく見ろ」
「護衛?」
その護衛機を見てみた。普段なら嘉手納に所在する第18航空団のF-15Cあたりが付くが……。
「……え、F-22ッ?」
今回は世代からして違った。F-22“ラプター”といえば、世界最強とも言われている第5世代ステルス戦闘機であり、その性能故、米議会が海外輸出を却下したほどのものを持っている。事前に提出されたフライトプランによれば、RC-135Vが1機に、F-22が2機護衛に就くことになっている。そういえば、2日前にグアムのアンダーセン空軍基地にF-22が進駐していたことを、羽浦は思い出した。それも、事前の報告が無い、いきなりの飛来であったと。
「これ、予定されてる飛行経路が黄海行きな所からして、たぶん対北朝鮮なんでしょうけど……、幾らなんでも性能過剰過ぎません?」
「それなんだよ。普段ならF-15Cで十分だ。現状、向こうは最新鋭のでさえMiG-29SEを使ってるが、それだって別にF-15Cで十分対応できるだろ」
「練度の面で見ても、圧倒的にアメリカが上でしょうしね」
「ああ。だが、それでもラプターを護衛につけてきた。明らかに過剰だ。……それに」
「?」
重本は、眉をひそめて人差し指で頭をかきながら、
「……実は、フライトプランにある通り、少し前の時間帯にうちらの近く通るんだよ」
「ええ、みたいですね」
「でな、さっきレーダーで捉えたんだが……。ラプターが、映ってない」
「映ってないッ?」
羽浦は少しだけ声を張った。
もちろん、F-22は高性能なステルス機であるからして、レーダーに映らないのは当然といえば当然である。正確には、“映りにくい”であるが、しかし、その事実こそが重要だと、重本は重い口調で言った。
「AWACSの高出力レーダー波すら誑かすほどのステルス性能を、わざわざ北朝鮮相手に発揮させないといけない護衛ってなんだって話だ。単純な空戦性能だけでも過剰なのに、ステルス性すらフルに発揮させた」
「レーダーリフレクター付けてないってことですよね?」
「ああ。間違いなく付けてない」
重本は自信満々に断言した。レーダーリフレクターとは、その名の通りレーダー波を反射させるために付ける“突起物”である。非戦闘空域での飛行など、ステルス性を発揮させる必要のない場面では、性能秘匿のために、ステルス機はごく小さな突起物を機体のどこかに付けることがある。両手で持てるサイズの本当に小さな突起物であるが、これがあるだけでも、レーダーの反応は大きく違う。
……が、レーダーでほとんど反応がなかったということは、このレーダーリフレクターを突けていないという事でもある。
「まあ、実任務だから当たり前なんだろうが、にしたって北朝鮮相手にステルス性をフルに使うってのはやっぱりやりすぎだと思わねえか? レーダーじゃリベットジョイントしか映ってなかったし、ラプターも、本当にたまにしか映らなかった。しかも、ごくごく小さな反応だ」
「それだけ警戒してるって事でしょうか?」
「いや、警戒してるだけならやっぱりラプターは持ってこないだろう。そもそも、ラプターはグアムに常駐しているわけじゃない。事前通知もなかったしな」
「このリベットジョイントの偵察任務は?」
「それも、今朝向こうからいきなり出されたのを急いでこっちに渡したんだと。余程急いでたのかどうなのかは知らんが、米軍の動きが少し妙でな……」
重本が難しい顔を浮かべた。RC-135Vをいきなり対北朝鮮の偵察任務に派遣させたまでは理解できるものの、本来ならばF-15Cで事足りるはずの護衛任務にF-22を当てたばかりか、ステルス性能をフルに発揮させ、「本格的な空中戦闘が起きても圧倒“でき過ぎる”」体勢を整えている。しかも、余りに過剰な形で。
どれほどビビったのかはわからないが、それにしても、なぜこのタイミングなのか。確かに中国では党大会が開かれている最中ではあるが、それと北朝鮮の動きがどこまで関係あるのか、そこまで過剰に守りに入る必要があるほどなのか、等々……。重本の疑問は尽きなかった。
「今までにもラプターを向こうに飛ばしたことはあるが、それにしたってある程度は政府やメディアに知らせてたりしたろ。今回はそれが一切なしの完全隠密任務みたいなもんだ」
「何か情報でも掴んだんですかね?」
「さあな。だが、ラプターの突然のグアム配備、突然のリベットジョイントの偵察飛行、ラプターの性能フル活用。総じて北朝鮮相手には過剰な行為だが……、何があったんだ……?」
羽浦から渡した紙を返してもらうと、その紙に書かれている情報とにらめっこを始めた。
アメリカが一体何を考えているのかはわからないが、少なくとも、普通のものではないのは間違いないと踏んでいた。羽浦の言った通り、何か情報を掴んだのか。ここまで急いで飛ばした理由はそれに起因するのか。また、ラプターがその数日前に嘉手納に来たのも、その情報に由来するものなのか。だとすれば、アメリカは、少なくとも今から過去1週間以内のうちにその情報を掴んでいたことになる。
「まさか、北朝鮮で何か起きるのか……?」
心配する重本であるが、この時の羽浦は少しだけ楽観的に考えた。
「でも、事前通知がないのだって割といつものことですし、組織統制がままならないんで念には念をって感じにしただけでしょう?」
「でも、ラプターは流石に強過ぎねえか?」
「再来週うちらとの共同訓練が予定されてたはずですし、それに参加するついででしょう。ラプターの性能が北朝鮮にどれほど効くか試したかったのかもしれませんし」
「実戦確認ってか?」
「恐らくは。北朝鮮の防空網も、何だかんだ言って巷で言われてる以上には盤石だって話ですが、それは今みたいな混乱が起きる前の話でしたし、現状の北朝鮮の防空網やレーダーシステムがどこまで機能しているのか、ステルス機を使って確認したかったんでしょう。何度も鉢会ってるF-15Cだと、流石に対応されやすいでしょうし」
「はぁ……なるほど……」
いまだに納得していないような顔を浮かべる重本であったが、羽浦はそこまで深刻な考えは持っていなかった。
確かに性能過剰な編成で臨んでいるが、いつも同じ編成で臨んでいたら流石に対処策を用意されるであろうし、時たま違う性能の機体を差し向けて、対抗策を講じるのも一手である。ステルス機を差し向けることで、対ステルスの対応にリソースを振り分けさせるのも、十分戦略的であるし、ただ単にそれをさせたかっただけなのかもしれない。
こういう時、大抵そこまで深く考えていないことの方が多かったりするのだ。「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」というとある少女漫画家を中心とした某コメディ4コマ漫画に出てくる女子高校生のセリフが浮かんでくるが、割とそんなものなのだ。時と場所と場合があるだろうが、深く考えすぎると、余計なことまで考えてしまうという羽浦なりの思考理論が出来ていた。
「気にし過ぎですよ。余り考え過ぎると、日本のマスコミみたいになりますよ。ちょっと軍事行動を中国の近くでやったら。すぐに条件反射で中国に対するけん制とか言っちゃうような感じで」
「ハハ、事前に計画されてたのやっただけなのに?」
「事前に計画されてたのやっただけなのに」
そう言って「へへへ」と笑い合った。
よくある話であるが、事前に計画された訓練などを、偶然東シナ海でやっただけなのに、日本メディアはよく「中国に対するけん制を――」と言いたがる傾向にある。突然の予定変更であったりするならばまだしも、何年も前から定期的にやっているごく普通の訓練だったり、ちょっと近くを通ったりしただけでもこれを出すことがあるので、羽浦に言わせれば「どれだけ牽制好きなんだよマスコミ」と、若干うんざりしていた。
つい最近も、件のF-22の事前通知なしの飛来をこぞって挙げた際は「中国に党大会に関連するけん制の狙いがある」と言っていたが、再来週の訓練に参加することはもう何か月も前から決定済みで、党大会の日程が公開される前の話である。いつ飛来するかなどは明かされず、事前通知も確かになかったが、訓練参加自体が別に牽制の意味合いを含んだものではないことは、当事者ならすぐにわかることだった。
……それ故か、羽浦はこうした「牽制」なる見方を全然信用していない。例外はあるが、これが出ると、大抵は普段から軍事情報をチェックしていないということがわかるからだ。
休憩に入るまで仕事しっぱなしだったからか、重本も「まあ、細かいことは上がやるか……」と、思考を止めて背もたれに「どさっ」と背中を預けた。事前にギャレーで入れてきたらしい紙コップに入った水を少しばかり飲んだところで、羽浦が話題を変えるように言った。
「……しかし、どこの国も皆怖がってますね。暴発を恐れて」
小さなため息交じりに言ったその一言に、重本も「あぁ……」と、小さく頷いて返した。
「つい最近、Tu-214Rが配備されたろ? ウグロヴォエ基地だったか。さっきのスクランブル対象にも入ってるあれ。まだ数機しかないのに、国境付近の基地にわざわざ常駐させたの、やっぱり対北朝鮮らしいぞ」
「Su-35Sもそれ関連でしたっけ。Su-27をわざわざ全替えする形で」
「未だに生産中の最新鋭機を、ここに張り付けるって時点で、やっぱり重視してないわけがないよなあ……」
ロシアの対北朝鮮戦略は、実際に大きな転換期を迎えていると言っていい。伝統的に、ロシアは北朝鮮に対しては、アメリカ等の旧西側よりは宥和的な対応を取っていた。それ故に、国連安保理決議などで対北朝鮮制裁を行う際によく衝突するのだが、今では姿勢が変わってきている。
全ては、例の前指導者急死による国内の混乱にある。この混乱が、ロシア極東地域にも飛び火することは、ロシアとしても可能な限り避けたい事態であった。しかし、通常の外交的手段ではもうどうにもならないほど、現体制の制御は難しい状態にある。臨時色の強い現指導者の指導力が行き届かないならば、自分たちで守りを固めるしかないという発想に至るのは、至極当然のものであろう。
その結果が、件のロシアの偵察機編隊であり、その貴重な電子偵察機の近隣基地への常駐なのだ。
「皆怖いのさ、暴発が。日本でも、対中戦略で組んでた現行の防衛計画を一部変更して、北朝鮮暴発に備えて一部の部隊をすぐに日本海側に即応できる配置にしようって話になってるらしい。三沢に置いてる2つのF-35部隊の片割れを、小松に持ってくるとかな」
「小松にいた309が那覇に行くってのも反対出てそうですね、その流れだと」
「実際あったって話だぞ、あれ」
「え、マジっすか?」
309とは、蒼波らが所属する309飛行隊のことである。小松から那覇に配置転換となったが、対北朝鮮を見据えて、反対意見も出たようであったが、それでも、対中でのスクランブル対応や航空戦力の近代化は喫緊の課題だとして、実行に移されたのだという。
「市ヶ谷にいる友人と前に会ったとき、そんなこと漏らしててな。結局は那覇に移動にはなったが、それでも、やっぱり対中と対北朝鮮、どっちを優先するかで揉めてるんだと」
「今の日本に、二正面作戦っていうのは中々難しいところありますからね」
「ああ。北朝鮮と中国……、見事に、厄介な国に囲まれたなぁ、日本は」
重本は呆れ半分、苦笑半分な顔をしつつため息をついた。片や経済第2位の大国で、軍事的に急速な発展を遂げつつある国である。そしてもう一方も、総合的な軍事力は日本にすら劣るものの、核兵器を暴発させかねない危険な独裁国家である上、しかも、今は内戦一歩手前の状態。軍の統率が行き届いていないという点では、中国よりよっぽど危ない。これが中東やアフリカなどであれば、国連PKO等を送る流れなのだろうが、治安が最悪の状態で、しかも、核兵器も保有しているという事実が、PKO派遣を足踏みさせている。国連としても、現状は“放置”せざるを得ないのだ。
随分と危険な時代になってしまった……。羽浦はそう実感せざるを得なかった。そんな彼を、重本は励ますように肩を軽く叩きながら、
「俺達も頑張らないとな。こういう不安定な時代だからこそ、空からの見張りが一番ってことだ。特にこの女神さんはな」
下を指さしてそう言った。女神とは、要は今自分たちが乗ってる機体のことだ。
「メッチャ頑張ってる割には、余り目立たないですけどね、この太陽神の女神さん」
「別にいいじゃねえか。日陰者でいいんだよ、女神さんにはお似合いだ。女神ってか、守護神か」
重本がにやっと笑って返した。
守護神か……。確かに、女神さんであると同時に、守護神でもあるのか。羽浦はそう考えた。
空を見守る最前線の目という意味では、確かに守護神というあだ名もぴったりだ。太陽神な女神の守護神……。どうも詰め込み過ぎな感が否めないが、これもこれでありだろうか。
「実戦じゃ、俺たちはサブキャラってわけだが、サブキャラがいねえと主人公が立たねえ。そういうこった」
「引き立て役ってことですかね」
「正解。そんで、その引き立て役たる管制員の一人であるお前なんだが……」
「はい?」
重本は、腕時計を見ながら、羽浦に行った。
「……俺も俺で長々と話しちまったからあれだけどさ、お前、そろそろシフトだぞ」
「え゛ッ」
羽浦も左手首に巻いている腕時計を見た。自分の担当は11時半からだが、もう残り2分である。自分と同じ時間帯のシフトの管制員は、既に待機スペースを出て行っていた。
「んげ、やばっ。すいません、じゃあ行ってきます」
「おう。今日は今のところさっき言った奴以外は何もない。平和な空を祈ってな」
「了解。今日もいつも通りラブアンドピースで」
そう言って、羽浦は自分の使う資料を手に持って、待機スペースを出た。
通路との境にあるカーテンをめくり、何時もの仕事場に来ると、やはり普段通りの静かな空間がある。右を見ると、先ほどシフトに入ったばかりの百瀬が目に入る。彼女も羽浦に気づき、小さく笑顔を見せて手を振ってきた。羽浦も小さく笑い手を振り返す。
「(……天使かな?)」
ふとそんなことを考えてしまったが、実際笑顔が可愛らしかったのでしょうがないと開き直る。全てはあの美顔が悪いのだ。自分には何も瑕疵はなく、健全な20代男性として当然の反応をしたに過ぎないのだ。2秒と経たないうちに羽浦はそんな言い訳を心の中で言い連ねる。
当直幹部にシフト入りを知らせると、自分の担当の卓に来た。
「松さん、交代です」
「お、もう時間か」
腕時計を見て交代を確認すると、机に置いていた資料を持って立ち上がる。入れ替わるように、羽浦がそこに座り、必要な資料となるA4の紙数枚を手元に並べた。
「引き継ぎ事項は?」
「んにゃ、ないよ。至って平和な空だ。暇でしょうがねえ」
「暇でいいですけどね」
「だな。楽だし」
違いない。そう言って互いに「ハッハッハ」と笑い、「じゃ、あとよろしくー。あー、飯飯……」と、そそくさと退出し、後方に向かった。そういえば時間は昼食時。早めに食べたので空腹感はないが、やっぱりこの時間帯に食べたかった……と、羽浦は今シフト外れている人らを羨ましく思った。
「……しかし、本当に何もないな……」
映っているのは民間機の反応ばかり。時たま軍用機が映るが、全てフライトプランが提出されているものばかりで、国籍不明機の姿はない。交代前に彼が言っていた通り、至って平和な空であった。
……暇だ……。
暫しの時間、特に何もすることがない時間が続く。元より、警戒監視は基本的に警戒管制員が重点的に行うため、羽浦のような兵器管制官は半ば手伝いみたいなものである。セクターが振り分けられているためしっかり監視は行うが、何もやってこないのでは、羽浦としても何もしようがない。
シフトに入って以降40分ぐらいは経ったが、これといって異常はなし。少し目を周りに向けると、当直幹部も、他の管制員らも、そして、百瀬も、平和なのをいいことに若干飽き始めていた。中には呑気に欠伸をする人もいる。自分にもうつったのか、つられて大きく欠伸をした。先ほどまで寝ていたはずなのだが、眠気は全て取り切れていなかったようである。
「……何も来ねえなぁ……」
まあ、来なくていいが……。
「……、ん?」
――しかし、その時だった。
「……なんだ、新しい航空機……?」
レーダーに新しい反応が出た。しかし、様子がおかしい。普段なら瞬時にフライトプランと照合し、適当なデータが航空機のブリップのすぐ横に出るはずだが、いつまでたっても照合中を示す、黄色の『Unknown/Collating』のままだった。数秒と経たないうちに出るはずの作業が、いつまでたっても終わらない。しかも、よくよく見たら、複数で編隊を組んでいるようであった。
「……このパターン、まさか……」
今までの経験から本能的に導き出したその予感は、残念ながら的中した。
ブリップの横にあった英文字が、国籍不明機を示す赤色の『Unknown』へと変わった。刹那、
「――ッ! あ、国籍不明機探知!」
不意を突かれた百瀬の張った声が室内に響き渡ると同時に、
今までの気の抜けていたような空気が、一気にピリッと張り詰めた……