9-9
――彼が、まだ小学3年生なりたてだった頃。学年が上がり、人生初のクラス替えが行われた際、羽浦と蒼波は一緒になった。また、直後の席替えでも、くじ引きの結果二人は隣同士になりもした。ただ、その時はまだ「ただの同級生」としか思っておらず、隣にいるからと言っても、特段会話することもなかったのだ。
転機が訪れたのはさらに数ヶ月経ったある日だった。学校が終わった帰り道。人通りの少ない閑静な住宅地の道路を一人で歩いていた時、細い路地から一瞬悲鳴が上がった。本当に一瞬。女性が出したのか、男性が出したのかも分からないぐらいに短かったが、直ぐ近くなのは間違いない。不審に思った羽浦は、その声がした十字路を曲がった。
「……ッ!?」
そこに止まっていたのは一台の黒いバンだった。右側には二人の大人の男。彼らは、一人の少女を強引に車に乗せようとしていたらしく、異様な雰囲気なのはすぐに理解できた。
――そして、その少女というのが、
「(あれは……あのとなりの子じゃ!?)」
当時は、まだ一人の同級生でしかなかった蒼波だった。大人が少女を車に詰め込む目的は、小学生だった羽浦でも直ぐに理解できた。
――“ゆうかい”。脳裏にそのひらがな四文字が浮かんだ羽浦は、すぐにランドセルにつけておいた防犯ブザーを鳴らすべくスイッチを押した。これを鳴らせば、周りの大人が直ぐに助けに来てくれる。万一の際はすぐにこれを押すよう言われていた彼は、その言いつけを守り、実行した。
「……え、な、なんで!?」
だが、何度押しても鳴らなかった。実はこの時、防犯ブザーは一部の回路が断線しかけていた。新1年生として入学した時に渡されて早3年。一度も使われることなく風雨に晒され続けた防犯ブザーは、既に老朽化を始めていたのだ。
しかし、そんな裏事情を知らない羽浦は一気に焦り出す。運悪く周囲は空き家ばかりで、ブザーだけが唯一の頼りだった。緊張のあまり大声を出すこともできず、元よりブザーの音より小さいので無駄だろう。羽浦は焦燥感で一杯になった。
だが、このままでは蒼波は男たちによって車に詰め込まれ、どこかに連れ去られてしまう。車で逃げられたら一巻の終わりだ。そう考えた羽浦少年は、ブザーを握ったまま、深く考えることをやめ、決死の策に出た。
「……お、おい!」
重いランドセルをコンクリートの地面に置いて、出せる限りの大声でそう叫び、男二人の注意を自分に向ける。当然、彼らは驚愕と共に、困惑していた。誰かに叫ばれたと思って焦って振り返れば、ちっこいガキがガクブル震えながら、自分らに向けてガンをつけているのである。それはまさしく、巨人に立ち向かう小人の如し。だが、羽浦は、恐怖のあまり薄っすらと目に涙を浮かべながらも、あらん限りの大声で叫んだ。
「そ、そそ、その子をはなせええ!」
口まで震えたせいでうまく言葉にできなかったが、しかし、声は通じた。口を押さえられていた蒼波は羽浦に気づき、驚いたような目線を向ける。余計な邪魔が入ったと悟った男たちは、うち一人が羽浦を追いやるべく近づいてくる。同時に、羽浦はでたらめな方向に指を差しながら、
「あ! おまわりさん!」
「なッ!?」
近づいた男が動揺した一瞬の隙をついて、羽浦は猛然と蒼波の元に駆け出し、男から蒼波を引っぺがすべく飛びついた。
「たすけにきたよ!」
「クソッ、このガキがッ。どけ!」
強引に引き剥がそうと、男は羽浦の背中を全力で引っ張る。背中だけではない。時には首まで絞められ、何回か殴られもした。だが、不思議と痛みをあまり感じなかった。蒼波に引っ付くことだけが頭にあった結果、脳が余計な感覚を全て除外していたのだ。さらに、手に持っていたブザーを、鳴ることを願いながら何度も押していた。
「ッィ……ィィイッ……!!」
大粒の涙を浮かべながらも、歯を食いしばり、必死に絶えた羽浦。絶対にここから離れないという強い意志は、大の男二人の力にも勝ってしまったのである。
そして、神様はそんな幼き勇者に救いの手を差し伸べた。防犯ブザーが奇跡的に息を吹き返し、大音量の警報を鳴らし始めた。一瞬怯んだ男たちだったが、奇跡はそれだけではない。
「――お、お前ら、何やってんだ!!」
一人の大きな男性の声が聞こえた。偶然近くを通りかかった、愛犬と散歩中の若い男性だった。防犯ブザーの音に気づき、瞬時に状況を把握した彼は、うまく手なずけていたジャーマンシェパードをけしかけ、男二人を直ぐに襲わせ、隙を突いて蒼波と羽浦を救出。男二人を、愛犬と協力して追い払うことに成功した。
「クソッ、なんてこった! おい、大丈夫か!? おい! 返事しろォ!!」
だが、救出された時の羽浦はボロボロだった。何度となく殴られ、首を絞められ、背中を引っ張られるなどした結果、もうまともに体は動けなくなっていた。蒼波にだけは男たちの手が行かないよう、必死に抱きかかえるようにしていたことで、男たちの全ての攻撃が、羽浦に集中したのだ。
蒼波は無事だったが、本人はもはやそれどころではない。大泣きしながら羽浦を何度と無く呼ぶが、ほとんど応えてくれない。まだ死んではいないと、男性はすぐに救急車を手配したが、救急車が来るまでの4分間。辺りには、蒼波の慟哭と、羽浦を心配しているらしい愛犬の鳴き声が、大音声で響いていた。
――結局、目が覚めたのは3時間も後のことだった。幸い骨折などは無かったが、体の至るところが赤く腫れてしまい、一部は内出血や打撲等も散見されたため、念のため数日ほど入院することになった。見舞いに来た両親や親戚、そして、二人の救出に関わった男性は安堵の顔を浮かべ、同じく見舞にきた蒼波一家も、しきりに羽浦や彼の両親、助け出した男性“と、外にいた愛犬”に頭を下げていた。
そして、そこには蒼波本人もいた。羽浦が身を挺したかばったことが功を奏し、彼女はほとんど怪我が無かった。羽浦の姿を見るや、今度は蒼波が、やはり大粒の涙を流しながら抱きついてきた。これが、羽浦が異性に抱かれた最初の記憶だという。
その後、両親たちだけで色々と今後を話し合う流れになったらしく、羽浦と蒼波、二人だけになった時があった。羽浦は蒼波の無事に胸をなでおろしたが、蒼波は、涙を浮かべながら“怒っていた”。
「なんであんなにあぶないことするの!? 死んじゃったらどうするのよ!」
思いっきり怒鳴られた羽浦は呆気に取られた。自分を助けたはいいが、あまりに危ない賭けであったことは事実であり、自分のために死んでしまう事だってありえたのだ。蒼波がそれを一番理解しており、現実にならなかったにせよ、もし本当に死んでいたらと思った時の恐怖感は計り知れない。
しきりに「危ないことをしないで」といいながら、ベットに突っ伏して泣きじゃくっていた。羽浦としては、正直、せっかく助けたのになんでこんなに怒られなきゃいけないんだと不満に思っていたが、しかし、それを抑えて、蒼波の目を一直線に見て言った。
「たすかったからいいじゃんか。さらわれてたかもしれないんだぞ?」
「でも、それじゃ羽うら君がぁ……ッ」
「あぶないとは思ったよ。でも……、ごめん。あのまま逃げたくなかったんだ。なんか、見すてたみたいになっちゃうからさ」
「でも……でもぉ……ッ!」
「あんなことしかできなかったけど、でも、悪いやつらはおまわりさんがつまえてくれたみたいだし、めでたしめでたしってことでいいじゃん。おれも、すぐにけが治して学校いくからさ」
優しく諭すような声で、蒼波を宥めた。少しして、涙をぬぐって小さく「……ありがとう」と言った時の顔は、蒼波が、初めて羽浦に向ける、優しい笑顔だった。
――こうした、ヒロイックかつ衝撃的な出会いがきっかけとなり、二人の交流は急速に進んでいった。学校に復帰した羽浦は、早速男友達から英雄扱いされるわ、蒼波の女友達からは頭を下げられるわ、ついでに、学校で表彰もされてしまうわと、慌しい日々が続いた。しかし、最初は怪我の具合を確かめるつもりだったその交流が、いつの間にかはっきりとした友人関係を形作り、中学校に上がる頃には、互いに“幼馴染”を自称する程に親しい間柄になっていた。
中学校でも、時として友人たちから互いの間柄を冷やかされながらも難なく過ごし、高校も同じ所に進学した。部活も同じ陸上部に入り、大会などで共に程ほどの成績を残しながら、迎えた3年生。いよいよ本格的に進路を決めようという時期になったとき、蒼波は、羽浦に打ち明けたのである。
「――え? お前、自衛隊入んの?」
「うん。空自にね」
「空自ィ?」
後ろの席にいた蒼波の顔を見ようとするが、その顔はパンフレットで隠れていた。防衛省が発行している広報パンフレット。そこから顔をチラッと覗かせた蒼波が、自分が見ていたページを羽浦にも見せる。
「ほら、これ。戦闘機パイロットの募集、女性も解禁されたんだって。私やってみようかなって」
「ええッ? お前、F-15とか乗る気かよ!?」
「できるならね。F-2とかでもいいけど、どうかな?」
「どうかなって……いや、お前体力大丈夫かよ……」
正直、羽浦は「(こいつには無理だろ)」と内心で思っていた。戦闘機パイロットは体力を要する職種だが、彼女はそんなに体力がある人間じゃない。陸上部時代も、出場競技は軒並み短距離モノというスプリンタータイプだったし、ましてや女性だ。海外では事例があるとは聞いていたが、そう簡単に入れるもんでもなかろう。精力的にもキツいはずだが……。
「お前の成績なら、東大とか、せめて一番近い北海道大あたりは堅いだろ。そっちはいいのか?」
「いいのよ。どうせそっちに行っても学びたいものはないし。それよりは、私がやりたいことをやるわ」
「えぇ……」
困惑する羽浦だったが、しかし、蒼波の決意は思った以上に硬かったようである。蒼波が珍しく真面目な目を見せた。
「今までは守られてばっかりだったしね。そろそろ、守る側の人間になってみようかなって」
「守る側?」
「そう。私の好きな人とか、この生まれ故郷とか。つらいだろうっていうのはわかってるんだけど、そういうのを全力で守ってみたくて」
「愛国心ってやつ?」
「かもしれないわね。ま、世間で言われてるほど、私は深くは考えないわよ。文字通りよ、文字通り。誰だって、多かれ少なかれ持ってるもんでしょ」
かもな、と、羽浦は持っていたペットボトルの水を飲み干した。日本ではあまりいい印象はない『愛国心』という概念。しかし、戦闘機パイロットという男性社会かつ精力的につらい職種に行くのなら、こういうのは多少なりとも必要だということを、蒼波は理解していた。
「細かいことは抜きで良いのよ。単純に、私の好きな、人たちや故郷を守りたい。それだけ。私には、それだけで十分だと思う」
「お前らしい考えだ」
「勿論、アンタもその守る対象だからね」
「……不安しかしねえ」
「うわ、ひっどい。でももう私は決めたからね。お父さんは反対してるけど、ま、こっちが押したら最終的にはオッケーしてくれるでしょ」
「そっか、お前のお父さん空自のお偉いさんだったな」
「まあね。親の後を追うって意味もあるし」
父親の背中を追って……か。一人の女性の挑戦としては、なかなかにハードなものに違いないが、しかし、それが彼女の決心であるというのなら否定することはしない。ここで羽浦も、一つの決意をした。
「……よし。じゃ、俺も行くか。空自」
「えッ?」
蒼波は驚いた声をあげ、羽浦の顔を見やった。
「え、雄ちゃんはOMU行くんじゃなかったの? 根岸先生にもそう言ったんでしょ?」
「お前がまともに空飛べるとも思えんからな。せめて、上から監視させてもらうわ」
そういって、蒼波の持っているパンフレットを拝借し、別のページを開く。そこには、要撃管制の職種について書かれた部分があった。蒼波はその解説文をさっと読む。
「……迎撃に上がった戦闘機を誘導する?」
「俺の進路第二候補。お前じゃ間違いなく空の上で迷子だ。俺が見てやればまあ死ぬことは無いだろ」
「うわぁ、すんごい侮辱された気分。見てなさい、絶対すごいパイロットになってやるんだから……ッ」
「ハハ、なれるもんなら、なって見ろってんだ」
そんな軽口をたたきながら、二人の進路がほぼ決まった。蒼波は戦闘機パイロット。羽浦は管制員。卒業と同時に二人は自衛隊の門を叩き、羽浦は防大に、蒼波は航空学生課程へと人生の駒を進めた。
――それから3年程の月日が経った。高校3年の時、「お前がまともに飛べるとは思えない」と冗談を抜かしていた羽浦だったが、入隊後色々聞いてみれば、予想外にも同期の中では成績トップレベルで初期の課程をパスしたらしく、しかも、なんとついに戦闘機要員として基本操縦前期課程に進むことが決定したというのだ。
空自始まって以来の優秀な女性パイロット誕生の可能性が見えてきたということで、世間は当然盛り上がったが、羽浦としてはあまりに想定外すぎる出来事に唖然とするばかりだった。まさか、本当にやってしまうとは。努力は実を結ぶというのは決して嘘ではないらしい。
「こりゃああとで謝らないといけないな」と思った羽浦は、とある週末に外泊許可を貰って、祝いの席を催すことにした。ただの祝いではつまらないと考え、蒼波的にも都合がいい時間帯を狙って、直接訓練が行われている芦屋基地に出向き、ゲリラ的に祝いの席に引きずり込んでやろうと企んだ。蒼波には時間だけを指定し、すぐに飛行機で九州に飛び、意気揚々と芦屋基地に向かった。手には、祝いの品として買っておいた青いバラの花。今の蒼波にあげる花にはうってつけだと思っていた。
夕方頃。芦屋基地についた羽浦は、正門近くで待っているはずの蒼波を探す……。
「――ん?」
――先客がいた。少し高身長な男性らしい。会話中のようだが、おそらく友人だろうと思った羽浦は、蒼波に紹介してもらおうと遠慮なく近づいた。
「――僕と付き合ってください!」
――その言葉を聴いた瞬間、羽浦の足は凍りついた鉄柱のように固まった。いや、凍りついたのは足だけではない。胴体が、手が、頭が、そして、思考が。全てが一気に固まり、何かを考えることができなくなった。
……付き合ってください? 改めて、少し遠めにいる二人の姿を見る。片方の、言われた側の女性が蒼波で、もう片方が、誰とも知らないイケメンな男性で……そして、彼は深々と頭を下げて、蒼波は困惑したような表情を見せて……。
「……え」
重本から「頭がキレて機転が利く」と評価される程度には優秀な羽浦の頭脳は、今目の前の光景がどういう状態なのかを理解するのに数秒の時間をかけた。そして、何が起きていたのかを理解した瞬間、羽浦は手に持っていた青いバラを落としかけ、慌てて持ち直す。
「――ッ」
その姿に反応してか、蒼波が、こちらのほうに首を振り向きかけた。それを見た瞬間、羽浦は踵を返して走り、近くの路地に隠れた。「(なんで逃げたんだ、俺?)」と、自らの謎の行動を問うてしまい、完全に動揺した羽浦は、この後何をするべきか、何も思いつかなかった。頭は、完全に真っ白だったのだ。
――なぜ、そんな状態になってしまうのかも、何も分からなかった。
頃合を見計らって再度路地から顔を出すと、蒼波が一人、呆然とした様子で立っていた。動揺していたのは彼女も同じだった。羽浦は、「ちょうど今来た」という自然な体で路地から抜けて、蒼波と合流した。
「うぃっす。わり、待った?」
「え……、あ、あぁ、うん……別に……」
完全にいつもの彼女の受け答えではないことは明白であったが、直ぐに祝いの席であることを伝え、予約していたレストランに足を運んだ。喜びはしていたが、しかし、先ほどの件が忘れられないのだろう。少しだけ、複雑な表情をしていた。
レストラン内で、羽浦の奢りで好きなのを頼みながら食事を楽しむ二人。しばらく会っていなかったので近況報告をし合っていたが、やはり、なんとも形容しがたい微妙な空気が二人を包み込む。そして、食後のデザートを楽しんでいた時、ついに蒼波が口火を切った。
「あのさ……、ちょっと相談なんだけど」
「ん?」
「実はさっき……、告白、されちゃって」
「ブフゥッ! こ、告白ゥ!?」
あたかも、たった今知った衝撃の事実、といった様子で驚く羽浦だったが、これも高度な演技でしかない。この程度の流れは簡単に予測できていた。
聞けば、彼は航学時代からの同期で年上。とても優しく紳士的で、パイロットとしても人としても優秀な人間なのだという。常日頃から仲良くさせてもらってはいたが、羽浦が来る直前、ついに彼のほうから告白されたらしい。突然すぎるので回答を保留にさせてもらったが、受けるべきか否か、今も迷っているのだという。
「流石にいきなりすぎるし、私なんかでいいのかなって……、それに……正直、その……」
「ん? なんだ?」
動揺を隠しつつ顔だけは見繕う羽浦だったが、対する蒼波も、まだ気持ちがまとまっていないのか、もじもじしながら肩を落として憂鬱な表情を浮かべていた。その真意はよくわからない。受けたくないのか、単に本人が今言ったように「自分でいいのか」と謙遜しているのか、それとも、別の想い人がいるのか……。
しかし、複数ある選択肢のうちどれを選ぶか、悩んでいるのは間違いなかった。羽浦も頭を悩ませる。なんて声をかければよいのか。表向きは唐突な恋愛相談でしかないが、その実、一部始終を見てしまった“当事者”でもある。
数分の沈黙の後、羽浦は徐々に心拍数を上げる心臓を押さえるように深呼吸しながら、
「……お前は、どうしたいんだ?」
「え?」
「彼はいい人なんだろ? 受けたいのか、受けたくないのか。二者択一だ。どっちを選びたいんだ?」
そう聞く羽浦は、どこか逃げたいような心境になっていた。これ以上、この話を続けたらマズイ気がする。これ以上、この先の話を聞いたら、自分は深く後悔してしまう気がする。しかし、羽浦は止めなかった。これしか、思いつかなかったのである。
「自分に正直になれ。受けたいんなら堂々と受ければいいじゃないか。彼が、好きなんだろ?」
「ッ……」
「行くんなら安心して行け。俺は背中を押してやる。な?」
気がつけば、羽浦の額からは汗が流れ出し、蒼波はうつむいて小さく震えていた。何を思ってのものなのかはわからない。だが、伊達に小学生時代からの幼馴染を自称しているわけではない。その真意を察した羽浦も、やはり小さく震えていた。心臓の音はもう外に漏れるのではないかと高く鳴り出し、ついに、その心臓から漏れたように、一言言い放った。
「――俺はお前を応援する。好きなようにやれ。“彼ともうまくいくはずだ”」
背中を押したつもりだった。小さく肩を震わせた蒼波は、「……ごめん……」と小さく口にすると、
「――わかった。告白、受け入れてくる」
決意したように、そう声を震わせて言った。背中を押した張本人は、数秒ほど、ぎこちない笑顔を浮かべながら、やはり固まっていた。
夕食が終わった後、門限が迫っていたのですぐに解散となった。外泊であったため近くのホテルに泊まった羽浦は、自室に入ると、風呂にも入らずテレビもつけず、ただただ、ベットに腰掛けて放心していた。
――あれは彼女の選択なんだ。自分はその背中をちゃんと押してやった。それを応援する立場にもなった。良い事のはずだ。はずなのに、何なんだ、この、心にぽっかりと黒く穴が開いたような、わけも分からない“喪失感”は……。
羽浦は戸惑っていた。なぜ、蒼波に彼氏ができたというだけの話で、ここまで精神的に衝撃を受けたのか。迷いに迷って、悩みに悩んで、次に浮かんできたのは、蒼波の、あの言葉だった。
“――わかった。告白、受け入れてくる”
その言葉が、何度と無く脳内で反芻した。告白を受け入れてくる。それが意味することは、羽浦にとってはさして重要ではないはずだった。
……そのはずなのに、気がつけば羽浦は、二つの瞳から、涙が溢れていた。
「え……」
なぜ泣いてるんだ。自分は、なんで“こんなこと”で泣いてるんだ。溢れる涙をぬぐいながら、何度となくそう問うが、誰も答えてはくれなかった。溢れ出る涙そのものが、それに対する唯一の答えだと言わんばかりに、目から出てきた大量の無色の液体が、頬を伝って、一滴、また一滴と、ベットのシーツに滴り落ちていく。
「あ……あ、ぁあ……ッ!」
感情を抑えられなくなった羽浦は、ついに、ベットの上で崩れ落ちて、半ばうつぶせになった状態で思うがままに号泣した。室内に彼の慟哭が響く中、ようやく羽浦の脳は、一つの結論にたどり着いた。
――これは、自分自身の、蒼波に対する恋、それも、“初恋”であり、そして、
自分はたった今、“失恋”したのだと……。
「――んで、結局、買ったけど渡さずに隠してた青いバラとかも、過去を思い出すのも嫌だったんで捨てちゃったんですよね。そんで、その後実際にその人にあってみれば、確かにいい人過ぎて、そりゃ俺負けるわって感じでして。アイツも割り切ったみたいで、恋人になってからは普通に楽しんでたみたいです。そういうの見てたら、俺もやっぱ応援する立場のほうがいいかもなって」
結婚すらも視野に入れている、とまで明かした羽浦の言葉に、百瀬は静かに、かつ、同情とも、真剣とも取れるような複雑な表情を浮かべていた。単に、自分の失恋相手である幼馴染に執着していたわけではない。複雑な過去がそうさせているに過ぎないのだ。それを理解した百瀬は、やっぱりこれ聞かないほうがよかったかもしれないと、早まった自分の行動を軽く後悔し始めた。
だが、まだ疑問がある。仮にも自分の初恋の相手が、他人と結婚するのを積極的に推進するものだろうか。勿論、世界は広いので事例は山ほどあるのかもしれないが、しかし、今日のあの叫び。怒り。悔し泣き。あれを見る限り、まだ蒼波に対する未練は膨大に残っているはずで、それを抑えて、恋人たちの一つのスタートラインになる“結婚”という節目までの道を支えられるものだろうか。
そう考えた百瀬が、自分なりの経験から出した結論が、
「……もしかして、結婚すれば、“諦め”がつくから?」
羽浦は、どこか遠くを見ているような目をしながら、小さく頷いた。
「正直、なんでここまで応援してやれるのか自分でもよくわかってないんですが、たぶん、そういうことなんだろうなと思います。実際、今までのあの二人は幸せそうで、邪魔してはならないと思っていました。でも、そうした考えが、無意識にこの行動をさせたのかもしれません」
「意識しないうちに、諦める理由を求めて……」
「二人が結婚して、また次の段階に行けば、俺も流石に諦めがつくだろうなと。それに……」
「それに?」
「その……、数ヶ月前、シゲさんと訓練終わった後失恋の話になった時、「俺に告白は無理だ」って言ってたの、覚えてます?」
「あー……なんかそんな会話あったような……」
尤も、数ヶ月も前の話である。流石に覚えていてもうろ覚えかと思った羽浦は、軽く振り返りながら言った。
「告白しなかったかって言われた時、結局、俺は自分には無理だって言ったんです。でもあれ、実際はちょっと違ってて」
「というと?」
「実は、神野さんとくっついた後も、自分の思いだけは伝えられないかと内心思ってたんです。もう遅いことは重々承知の上で。でも、今更言ってもあいつが困るだけだし、それ以前に、それを言うほどの勇気が、自分には無くて……。それも、実は原動力だったんです」
「……そうか、つまり、二人が結婚すれば、「やっぱり自分には無理だった」って、そういう意味でも諦めがつけられる……」
「二人の結婚という事実で以って、強引に納得できるようにしようと……。勿論、幸せを願っていたのは事実です。でもその実、単に自分の身勝手な考えを正当化するためでもあったんです。なんとまぁ、笑える話なんですけどね……」
そう言って羽浦は自嘲した。結局、自分の弱さや鈍感さ、この件に関する自分の頭の悪さを誤魔化し、覆い隠さんとするための、一つの理由作りでしかなかったのだ。純粋に応援したい気持ちの裏にあった、誰にも明かせなかった暗い影。百瀬が、初めてこの話を明かした相手だった。
軽く呆れられるかと思った羽浦だったが、隣から聞こえてきたのは、“すすり声”だった。
「……え」
隣を見た羽浦が見たのは、涙を浮かべてすすり泣く百瀬の姿だった。しかも、思いつめたように、膝の上に乗せたこぶしを強く握りながら。慌てた羽浦は、すぐに宥め始めた。
「ど、どうしたんです百瀬さんッ? なんで貴女が泣くんですかッ?」
「だって……悔しくて……ッ」
「え?」
百瀬は涙をぬぐいながら、涙声になって続けた。
「ここまで、ここまで悩みに悩んで彼女の選択を受け入れて、そして誰にも見られず泣きじゃくって、それでも、自分のためでもあるとはいえ、結婚も視野に入れて応援してくれるほどいい人なのに……、そのきっかけになった彼氏が、あんな形で彼女を裏切るなんて……ッ、グスッ、あまりにも不憫すぎてッ……!!」
百瀬は、決して羽浦を嘲笑うことは無かった。ここまで苦悩して出した選択を、責めることもしなかった。二人の出した選択に間違いなんてものはなく、正解すらないのだと思っていた。その結末が、こんなにも悲しく、そして、“怒りを感じる”ものであったという事実に、百瀬は耐えられなかったのだ。
袖を使ってどうにかぬぐい切り、それでもまだ瞼に大量の涙を残しながら、百瀬は羽浦の目を一直線に見て力強くいった。
「羽浦さん、貴方の選択は決して間違ってません。確かに未練はあるかもしれませんが、応援する気持ちは彼女を大切に思っていた気持ちの現れです。でも、こんな形での結末なんて間違ってますッ。これじゃお二人がこれっぽっちも救われません!」
「で、ですが、もう終わってしまったことですし……」
「いえ、まだ終わっていません」
「え?」
百瀬は断言するようにはっきりといった。その時の彼女の目ときたら、今までに見たこと無いほど自信に満ち溢れていた。普段のオドオドした彼女からは考えられないほどだ。
「今までは、彼が蒼波さんの下支えをしつつ、貴方がそれを応援する立場でした。ですが、その彼はもういません。応援する立場から、支える立場になったんです」
「え、ええ……」
「正直に話してください。どんなに弱気なことでも、ゲス臭いことでも、呆れることでもかまいません。貴方は、彼女をどうしたいんですか?」
「ど、どうするって――」
「彼女を、蒼波さんを……、守ってあげたいんですか?」
一瞬黙りこくった羽浦だったが、考える必要すら感じなかった。1秒と経たないうちに、
「勿論です。今アイツを、全力で守ってやれるのは……」
「そうです。貴方だけです。明日、間違いなく彼はやってきます」
「ええ……」
「彼は容赦なく彼女を落としにやってきます。そのとき、彼がどう動くのかを知っているのは貴方だけです。羽浦さんに担当が渡るかはわかりませんが、シゲさんのことです。たぶん渡してきます」
「俺にですか?」
正直、任務中とはいえあそこまで叫んでしまった自分を、彼がシフトに入れてくれるだろうかと不安に思っていた。だが、百瀬はやはり断言して言った。
「今まで彼女の部隊を羽浦さんが管制するようなシフトになっていたのは、何も偶然じゃありません。シゲさんが仕組んでたんです」
「え、そうなんですかッ?」
「前にシゲさんが新代一尉と話しているのを聞いたんです。彼女の部隊が来たら羽浦三尉に任せようって。彼が一番うまく管制できるって、シゲさんがそう話しているのをちゃんと聞きました」
初耳の話だった。確かに、妙に自分の持ち場にばかり来るなとは思っていたが、偶然などではなかったのだ。そういえば、重本は蒼波のことを気にかけている羽浦に色々とアドバイスをしていた。まだ不安要素が残る彼女をしっかり見ていられる管制員は、羽浦ぐらいしかいないと判断したのだろう。
よほどのことがなければ、日本における作戦は明日で大体終了する。多国籍軍による大規模空爆もあるので、今までのような規模の航空部隊がやってくることもなくなる。明日だけ。明日を乗り越えればということであれば、継続して羽浦を出す可能性が高いと百瀬は見ていた。
「彼はやはり彼女を狙うかもしれません。絶対に守ってあげてください。彼に目にモノをみせてやりましょうッ」
「そ、相当ブチ切れてますね、百瀬さん……」
「当然です! 女心を、ましてやこんな形で弄ぶなんて最低なんて言葉じゃ表現できません! 今だったら彼の首左手だけでへし折れるかもしれないぐらいです!」
「それは怖すぎる」
左手って、それ利き腕じゃない……。女性、怒らせたら怖いとは常々思っていたが、想像以上だった。火事場の馬鹿力という奴であろうか。どうやら神野は、別の怒らせてはいけない女性を怒らせてしまったらしいと、ほんの少しだけ同情した。本当に、ほんの少しだけ。
「羽浦さんは、全力で守りたいんですよね?」
「当然です」
「失恋はしましたが、蒼波さんへの思いは相も変わらず」
「愚直なぐらいにね」
「なら、言うことはこれだけです」
百瀬は、一つ小さくため息をついて、脳に直接届くようなはっきりとした声で言った。
「……絶対に守り抜きましょう。そして、アイツに教えてやるんです。……自分は、とんでもない人を怒らせてしまったんだと……ッ!」
その顔は、決意に満ち溢れていた。目に炎が灯っているようだった。一番悔しいのは自分たちだと思っていたが、案外、上には上がいる、ということなのかもしれない。考えてみれば、彼女もまた、一つの恋愛を経験して、さらに結婚もした一児の母である。女心がどういうものか、どう扱うべきか、そして、それをぞんざいにした結果、どうなるのか。誰よりも分かっている存在でもあろう。
だが、百瀬の思いは羽浦も共有するものだった。何れにせよ、彼はとんでもないことをしでかした。羽浦自身の大好きな幼馴染を、自らの目的のために利用し、その乙女の恋心を愚弄し、そして、最終的には切り捨てて、殺しに来た……。これは、羽浦にとっても、冒涜以外の何者でもなかった。
重本も言っていた。「彼はとんでもない過ちを犯した。その罪は絶対に償ってもらう。それが、彼の死を意味するとしてでもだ」。このまま終わらせるわけには行かない。自らの犯した行動が、どれだけ罪深いものだったのかを、思い知らせてやらねばならない。羽浦の決意は、ダイヤのように固かった。
「……明日、いよいよ決戦のときです。彼もやってくるに違いありません」
「ええ」
「俺に割り当てがくるかはわかりませんが……、もし来たら、全力で守りますよ。それが、今の俺ができる、アイツに対する最高の援護であって、彼に対する、最大限の“復讐”です」
先ほどとは打って変わって、力強い目となった羽浦。それに安心してか、百瀬もようやく笑顔を見せた。
「その意気です、羽浦さん。私も頑張りますから!」
「それはいいですけど、緊張して噛む癖だけは直してくださいね」
「えッ、い、いや! 頑張ればしゃんとしゃべれますし! それに今みゃではしゃんと!」
「今噛んでますやん……」
「いや、い、今のはッ、単に口が回らなかっただけで……ッ!」
「それを世間では噛むっていうんです」
「あうぅ……」
せっかくかっこよく決めたのに……と、締まりきれなかった自分にがっかりしてしまう百瀬。だが、羽浦はそれを見て気が楽になった。こういう普段の彼女を見ていれば、どこか安心するものがある。やはりここら辺は妻帯者らしい。無意識か意識的か関係なく、男を元気にする上での要素を持っている。ドジなところがある彼女であるが、それでもちゃんと結婚できたのも納得できるかもしれない。
一先ず、明日に備えてそろそろ休んで英気を養おうということで、二人は立ち上がり、皆のいる休憩室に向かった。
「(……絶対に、後悔だけは残らない明日にしないとな……)」
その決意を新たに、羽浦は通路の窓から見える夕暮れの空を見上げて、遠くにいる幼馴染の明日の健闘を祈った。
気がつけば、もう、一々スマホを取り出すことも、しなくなっていた……




