9-7
ミグの集団に混じって、どこかに潜んでいる別の2機。一瞬だけ、E-2Dが捉えた一瞬だけ、データリンクを通じてE-767のレーダー画面にも表示された。IRST情報を用いても、他のミグにまぎれているためよく見えない。
しかし、確実にいた。“奴ら”である。
「遼ちゃん……ッ」
蒼波は、IRSTが探知している先にいるであろう空を見て呟いた。
彼もいた。E-2Dが一瞬探知したJ-20と思しき機影は二つ。ミグがうろついている状態ではまともに攻撃できない。AAM-5BのIIRシーカーならば、ドでかいJ-20を押し上げる推力を持つエンジンの熱源をもしっかり見つけてくれるだろう。
『バザード6、ラクーン2。電子妨害アクティブ。目視内射程エンゲージ。ペアで前後をカバーし合って攻撃しろ。IRSTに注意』
『了解、WVRエンゲージ。つっても固まってやがるからみえねえぞ畜生ッ』
愚痴を吐きながらも、すぐに編隊を崩して戦闘に入る。電子妨害を展開しつつ、3つのペアに分かれた。ラクーン2の二人に、切谷と大洲加。そして、近藤と蒼波。これもいつも通り。肉眼でJ-20がうまく確認できないため、一先ずは手近なミグから捕らえにかかる。
『IRはなるべく使うな! 可能な限り機銃で落とせ!』
「無茶いうなぁ……」
J-20対策としてAAM-5Bを無駄撃ちできないため、少しでも機銃で落とすよう指示を受ける。機銃なんて簡単に当たる武器ではない。それでも使えというあたり、近藤も中々小難しいことを要求するものだが、やらないわけにはいかない。数的に不利なのはこちらなのだ。
手近なMiG-29を見つけた蒼波は、すぐに飛び掛った。ちょうどノロノロと飛んでいる敵に対し、緩上昇からの急降下をかけて20mm機関砲弾を上から雨の様にばら撒く。全てではないが、幸運にも半分ほどが機体後部に集中して命中し、小さな爆発を繰り返しながら高度を落としていく。「スプラッシュ1!」。そのコールとともに、次の目標を探した。
『クソッ、フェアリー! そっちに1機行ったぞ! J-20だ!』
「――ッ!」
近藤の声に答える間もなく、弾かれるようにバックミラーを見たその時。明らかに大きな黒い影を目視。ミグじゃない。J-20だ。
「(何時の間にバックに!)」
舌打ちをしながら、すぐに回避機動に入る。一発だけIRミサイルが放たれ、接近警報がコックピット内にけたたましく響き渡るが、ほぼ無意識のうちにフレア射出スイッチを操作してフレアを機体後部から放り投げる。同時に、右に急旋回しながらエンジンをアイドルにまで引っ張り、ハイGターンをかける。
「(……まだくるッ……!)」
しかしJ-20は、大柄な機体らしからぬ高速機動を披露しつつ、蒼波の後ろをぴったりとついてくる。J-20はまだミサイルを撃っていないはず。短距離AAMだけでなく、中距離AAMすらまだ持っているかもしれない。こんな短距離で使うなんていう勿体無いことをするかはともかく、こっちはAAM-5Bを4発しか持っていない。すぐに上下左右に機体を振りながら、J-20を撒こうと試みる。
……だが、違和感はすぐに感じた。あるものが鳴ってないのだ。こういうとき、間違いなくなるものが、今はうんともすんとも言っていない。
「(――RWRも、ミサイル接近警報もなってないッ? )」
レーダー波を、蒼波の機体に打っていないのである。当然、IRミサイルを撃つというならレーダーを使う必要はない。J-20であれば、電子/光学目標補足システムを用いて受動的なデータを基に短距離AAMを発射する事だってできるし、むしろそれが理想である。だが、バックミラーにはっきりと写るほど接近する必要性は皆無だし、そこまで来た今になっても発射しないのは意味がわからない。様々な方向に逃げても、やはり、“追う”だけだった。
「(……舐めてんの、こいつッ!)」
バカにされているようにしか思えなかった蒼波は、撃ってこないことをいいことに一気に急上昇し、ついてきたところで今度は急減速、敵のJ-20を自分の前に押し出した。“オーバーシュート”だ。太陽の光に反射した灰色の巨体は、蒼波のF-15Jのすぐ右横を通過する。その時、太陽の光が反射して、パイロットの顔が若干見えた。
「――ッ!!」
彼は、バイザーをおろしていなかった。J-20はHUDを使わないHMD型であるため、バイザーを確実におろしていなければ戦闘しにくい。戦闘に必要な高度や速度などの基本データを参照できない。
――敵を見るために、わざと上げている。一瞬で理解した直後、太陽の光が照らしたそのパイロットの顔に、蒼波は目を見張った。たった一瞬。だが、彼女にはそれで十分だった。遠めでもわかる。大体の輪郭から、確信があった。
「――遼ちゃんッ?」
あの機体に、神野がいる。やはり、昨日の無線は冗談でも何でもなかった。どこか非現実的な感覚を覚えていた蒼波だったが、これによっていよいよ現実として受け入れざるを得なくなった。彼は乗っている。そして、つい先ほどまで、追ってきていたのだ。あの、どう考えても舐め腐っていた動きも。
まさか、ここまで来て「襲いたくないからわざとそうした」等という都合のいい話はあるまい。あの機体は、機動に一瞬の隙すらない。先ほどまで、近藤を積極的に追撃していたはずでもあった。手加減をするつもりはない。
……舐められていた。誰でもない、自分の“彼氏”にだ。
「……冗談……ッ」
蒼波の心は初めて、神野に対し異常な怒りを感じた。しかも、目の前に追いやられたはずなのに、神野は左右に振りながら蒼波の目の前に居座り続けている。まるで、「お~にさんこ~ちら~」と、手をたたいて挑発しているかのように。
気がつけば、蒼波のスラストと操縦桿を握る両手に力がこもっていた。周りの雑音を脳内から追い出し、意識は全て、目の前のJ-20に集中している。蒼波は神野の機体にしがみつき、レーダーでロックするべくエンジンを噴かす。
蒼波の乗るF-15“MJ型”は、HUDではなくJHMCSを用いた視線照準を用いている。機首を極端に敵に向ける必要はない。必要最低限の機動と、自分自身の首の動きで、敵に狙いを定める。蒼波の首は、神野機を追うべくひっきりなしに上下左右に動いていた。
「(狙いが……ッ!)」
当然、神野もそれをわかっている。ロックされない程度で、そして、あまり大げさな機動にならないような、絶妙な回避機動で蒼波を翻弄する。J-20に乗っていた経験などないはずなのに、神野はまるで自らの手足のようにJ-20を乗りこなしていた。「(昨日と同じだ……)」。そう蒼波が直感した直後、ようやくAAM-5BのシーカーはJ-20の熱源をロックした。
――きた! 神野は相変わらず機体を上下左右に振っているが、ロックは外れない。必死に逃げるつもりもないらしい。今がチャンスだ。蒼波の親指は、グリップの上部にある赤いミサイルリリースボタンの上に乗った。
……だが、ここまで来て、その親指は中々押し込まれなかった。いや、わずかに、“震えていた”のだ。
「(これを撃てば、遼ちゃんが……)」
ここまで来て、“躊躇”してしまっていた。神野が敵であることはもう既に理解した。受け入れざるを得なかった。だが、それでも、わずかに残っていた神野に対する好意は、その親指をこれ以上動かすことを阻んでいたのだ。敵であることはわかっている。だが、それでも自ら攻撃することで、仮にも彼氏である彼を殺すという勇気が、今の蒼波には足りなかった。
コックピット内は、ロックオンしたことを知らせる電子音のアラームがひっきりなしに鳴り続けている。まだかまだかとせかすような音は、蒼波の耳に届きはしても、今押すべきスイッチを押させるまでには至らなかった。
『――いいの、撃たなくて? チャンスだよ?』
「ッ!」
そのうちに、神野がまた無線に割り込んできた。予備周波数に変えたはずなのに、やはり問答無用で割り込んできた。そしてこの口ぶり。間違いなく蒼波が後ろにいることを知っている。蒼波は何とも答えることができずにいたが、数秒して、少し呆れたような口ぶりでいった。
『どっちでも僕はいいけど、いいのかな? 君の後ろ、皆いるよ?』
「みんな?」
その時だった。ようやく、耳に入ってきていた雑音の中に、「……ァリー……、…ェアリー……」と、聞き慣れた声と言葉があることに気づいた。その一部の雑音に意識を向けると、そこから飛んできたのは、親しみのある彼の、逼迫した声だった。
『フェアリー、深追いしすぎだ! チェックシックス! 3ボギーズアプローチ!』
――え? 咄嗟にTEWSの画面を確認する蒼波の目が見たのは、後ろから猛追を仕掛けてくる3機のMiG-29のシンボルだった。同時に、MiG-29がレーダーでこちらを追跡し始めていることを知らせるアラームが響き始める。さらに、3時方向からは別のMiG-29も追いかけてきていた。
「(ヤバイ! やらかした!)」。そう思うのもつかの間、すぐに機体を180度反転し、操縦桿を一気に引いてスプリットS機動を取る。瞬間的に6~7Gを体全体に受けながら、距離からしておそらくIRミサイルも届くと考え、チャフとフレアを予防的にばら撒く。これが功を奏し、直後に放たれていた2本のミサイルが、蒼波機の直ぐ後ろで爆発した。RWRは鳴ってない。間違いなくIRミサイルだ。
『――隙あり』
だが、スプリットS機動の最中、今度は神野からミサイルが放たれた。機首を蒼波機に向けないで放つ、オフボアサイト能力の発揮だ。バックミラーで白煙を見やりる。だが、3発もあった。距離からしてIRミサイルだとは思うが、2発しかないはず。すると、次の瞬間にはRWRが鳴り始めた。遅れて撃ったミサイルが、RWRスコープに表示されたのと同じタイミングだ。
「(中距離ミサイルを混ぜてきたッ?)」
直ぐにチャフとフレアを一気にばら撒く。回避角度がよかったのか、2発はかわすことに成功したが、最後の1発が機体の下で破裂。撃墜まではされなかったが、多数の破片が機体にぶち当たる。特に右主翼にあたった破片は、一部が貫通するなどしてエルロンが機能しなくなっていた。
「(クッ、機体は……ッ? いや、まだ飛べる!)」
すぐに立て直した蒼波は、そのままミグをかわして南に機首を向けた。そのさらに向こうには、近藤の乗っているF-15Jが見える。
『フェアリー! 周りをよく見ろ! あまりでしゃばるな!』
「すいません隊長! 今どこにいますかッ?」
『そっちの真後ろにいるミグのさらに後ろだ! スリットが援護に向かった、そのまま南にまっすぐ行け!』
スプリットS機動を終え、高度を犠牲にして真反対の方向を向くと、1機のF-15Jがほぼ真正面から急接近してくる。隊長の言っていた切谷の機体だ。後ろからは2機のMiG-29が相変わらず追ってくるが、切谷が直ぐに二発のミサイルを放って牽制する。
『無事か、お転婆娘! のめり込みすぎだぜ!』
「ごめん、スリット! でもお転婆は余計よ!」
そう愚痴をたれながら、切谷とすれ違う。2機のMiG-29は切谷の手で撃墜に成功した。すぐに反転してきて、蒼波機に合流する。
気がつけば、状況は中々に混沌としていた。MiG-29はJ-20を守るように動き回り、J-20に張り付いたF-15Jを後ろから複数機で追って行く構図。羽浦は敵の居場所をひっきりなしに伝えているが、それはMiG-29の情報ばかり。時折飛んでくるJ-20の情報も、「ここに反応があった」「ここにいたはず」といった曖昧なものばかりだった。未だに、E-767はレーダーでJ-20を捉えきっていないのだ。
ミグはJ-20を守りながら、『まや』に向けて機首を向けようと必死に動いていた。対艦攻撃装備はないはずだが、最悪、体当たりをも考えている可能性だってある。迎撃開始時間まであと少し。それまでの辛抱だった。
「スリット、さっき私が追ってたJ-20……」
『わかってるよ。幾らお前でも、あそこまで執拗に追っかける奴は一人しかいねえ。隊長が最初に気づいたんだ。それで俺が援護に呼ばれた』
「隊長……」
その隊長は、MiG-29を振り切りながら、恨み節全開で、彼の名前を呟いた。
『神野……貴様……ッ!』
彼の怒りの沸点は頂点に達していた。真剣に国防に向き合ってきた彼にとって、信頼の置ける仲間の裏切りは受け入れがたいものだった。ある意味、蒼波以上に、ショックを受けていたともいえるのだ。そして、次の瞬間には、彼は神野に向けて叫んでいた。
『神野! 聞こえてるんだろ! なぜ裏切ったんだ! お前ほどの愛国者が何で敵に寝返るようなことを!!』
誰もが抱いていた疑問の代弁だった。神野が、国防について真剣に考えていたことは誰もが知っていることであったが、近藤は理解できなかった。時として、国を守ることについて語り合ったことだってあった。それほど真面目な人間だった彼が、なぜこんな行動に出たのか。
その神野から飛んできた返答第一声は、意味深長なため息と、
『……愛国者。何とも崇高な響きですね』
彼のこの一言の真意をすぐに理解できた人間はいなかった。空戦をしている最中であるにもかかわらず、彼は余裕にも、近藤の問いに悠長に返し始めた。
『三佐、自衛官の宣誓。覚えていますか?』
『宣誓だぁ? それが何だってんだッ?』
『私は使命に従ったまでです。自衛官としての使命。そして、“一日本国民としての使命”です』
『……何言ってんだお前はッ?』
MiG-29を追撃しながら、片手間で神野を問い詰める近藤に対し、神野は語った。
服務の宣誓――自衛隊に入った人間は必ずやこれに署名し、その宣誓文にある内容を忠実に履行する義務を負うと。言うまでもなく、神野もかつて署名した人間であり、その中身は諳んじることだってできる。彼は言う。「宣誓の言葉に従ったに過ぎない」と。
『最後に書かれているはずです。“事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、国民の負託にこたえる”と』
『それがどうしたッ』
『“国民の負託”とはなんなのでしょうか?』
『……は?』
『国民は何を期待して自衛隊に責務を与えているのでしょうか? 僕たちは国民から何を期待されているのですか? そんなこと、考えたことがありますか?』
『国防の任じゃねえのか?』
『そうでしょうね。期待しているのはそこかもしれません』
『んな当たり前のこと雄弁に語るためにこの無線開いてんのかッ? 頭イカれてんじゃねえかお前!?』
ラクーン2のスパークが横から怒鳴り始めた。手近なミグを1機さらに鉄くずに変えながら出したその声は、近藤と同様に失望と怒りを織り交ぜたものだった。だが、神野は意に介さず、“演説”を続けた。
『僕はこの国が大好きです。生まれ育ったこの地を、他の国々に侵されることは耐え難いものです。自衛隊に入ったのは最早必然ともいえます』
『どの口が言ってやがるッ』
『ですが……最早、守るべき形を失い始めている』
『ぁあ?』
『三佐は、見たことがありますか? 優美な東京の夜景を』
優美な東京の夜景――蒼波は、数ヶ月前に、羽浦も連れて行った六本木ヒルズから見た、あの夜景を思い出した。高層ビルから低階層住宅地まで、あらゆる建物を集めて、それらの光が織り成す一つの芸術。夕食を食べながら、ずっとその景色を楽しんでいた記憶がある。羽浦は勿論、神野だって楽しんでいたはずだった、あの光景。
だが、神野は儚げに笑った。あの優美な光景を、「幻想に過ぎない」と切り捨てながら。
『今の日本の象徴です。表面的には、素晴らしく、優美で、高尚なかの景色は、実態は国民の過酷な労働環境の表れでしかないのです。外から見れば優れているように見えるこの国の内部は、多くの問題を抱えています。それに、多くの国民は不満を持っている。SNSには日ごろからの不満がぶちまけられ、世間話は生活や政治に対する不満ばかり。煌びやかな見てくれの背景に隠れる、汚れて停滞した現実です。政治、治安、農業、漁業、教育、技術開発……、そして、“国防”まで』
『なんだ、ついに政治家気取りでも始めたのかッ?』
『まさか。彼らは自分の国そのものを美化することしか頭にない。彼らに、この国を変えることはできません。アメリカにおんぶに抱っこされながら、自分らの権益を守ることしか能がないのです』
『何をいって――』
『――だから、“僕たちが変える”んです。“外圧”で以って』
『外圧ッ?』
すなわち、外の世界からの圧力。神野は“雄弁に”語った。
――日本は外圧でしか変われない国だ。黒船来航から始まる明治維新、それに端を発する急速な西洋型近代化、ロシアの南下に対抗して起こった日露戦争、太平洋戦争の終戦に伴うアメリカ型民主主義の導入……。近代日本における転換点は、そのほとんどが海の外からの圧力ありきでしかなかった。外からの圧力がなければ、たったの一歩も変わることができないのだと。
そして、今では日本は国として停滞し、アメリカの軍事力に相乗りしながら、“進歩”を忘れた“老後”を送っているに過ぎない。近頃の日本は、次なる歩みを進めるための、きっかけを失っている。現状に満足し、貧欲な思想に浸かっているこの国の人間に、一つの刺激を与えるのだ、と。
『――国民は“変化”を求めています。国民は、国としての更なる変化を期待している。その期待にこたえられるのは、政治家でも、今の自衛隊でもありません。そろそろ必要でしょう。日本にとって、大きな外圧が。次なる進歩を、日本はしていくのです。この、戦争という外圧をきっかけに』
『戦争という外圧……ッ!?』
『そんな外圧なんてもののために協力したってのか!? てめェの頭は正気か!?』
『正気ですよ、スパーク。日本にいる全ての人間に迫るのです。変わる時だと。今に分かりますよ。僕たちの目的が達成された時、何が起こるのか。そして、日本は、否応なく、変わらざるを得なくなる』
神野は誇らしげにそう語っていた。自分たちの目的が達成された時、日本は進化を余儀なくされる。全くもって意味が分からないが、しかし、蒼波は異様な寒気を感じていた。自分の知っている神野ではない。優しげな口調から放たれる、恐ろしく、強大な、畏怖の念。
先ほどまでの空戦によって、ミグがもう完全に消え去り、『まや』への脅威がほぼ無くなった。しかし、好転してきているはずの空の上で、蒼波たちは異様な恐怖感を感じていた。未だにまともに見えないかの大きな黒い翼から、まだ自分たちが理解できない、より大きな狙いが透けて見える。蒼波の手は震えていた。神野のことを知っていたからこそ、恐怖しか感じていなかったのだ。
「(これが……本当に遼ちゃんなの……?)」
蒼波は信じられなかった。先週まで見ていた彼と同一人物だとは思えなかった。これが、彼の本性だと蒼波の頭が悟った時、彼女が胸の内に抱いたのは、“恐怖心”だった。今まで、こんな人間を彼氏にしていたのかと理解した蒼波は、怒りではなく、ただただ、恐怖心しか抱けなかったのだ。
『開戦以降、日本は見事に僕の思っていた通りに動いてくれました。熱核兵器の動画から、交戦禁止令まで。僕の出したアドバイスは的を得ていたわけです』
『あれを提案したのはお前だったのか!?』
『あれだけじゃありません。対日本の戦術は大抵僕の演出です。いい脚本だったでしょう?』
『破り捨てたいぐらいに胸糞な三流脚本だったがな!』
『これは手厳しい。まあでも、バレないように取り繕うのも苦労しましたよ。優等生を演ずるのは楽なことではありません』
『今までのお前は全部建前だったんだな。その全てが』
『あまり器用なタイプではないんですけどね。ですが、一人二役というのも悪くありませんでしたよ――』
『――いや、彼氏を“演ずる”のも大変だった。彼氏というのも大変ですね』
「……“演ずる”?」
蒼波は思わず呟いた。彼氏を演ずる? 演ずるとはどういうことか? つまり、演技だった? 演技だったということは、つまり……。
『まさか……あいつと付き合ってたのも、“フェイク”だったのか!?』
『そのほうが都合がいいでしょう。自分の守るべき彼女を持っているという事実は、うまく使えば監視の目を逃れるのに使えます。仮にスパイ容疑がかかっても、うまく立ち回れば、初期の段階で逃げることができるわけです。独身だと、そういった行動をしやすいと思われますし、仲が良ければ良いほど、動機を悟られにくくなります』
『それだけ……、だと?』
恐る恐る聞いた近藤の声に、神野は何とも躊躇なく、軽く一言投げて返した。
『――ええ。まあ、“良い駒”でしたよ』
……蒼波は、自らの肩に、大きな鉄の重りがのしかかったような感覚を覚えた。愕然、と一言で言い表すはできるが、そんな生ぬるい熟語では表現仕切れない。唖然、動揺、茫然自失――そういった言葉が軽々しく感じられるような、多大な衝撃を蒼波は感じていた。頭の中が真っ白になり、今自分が、戦闘機を操縦しているという事実をしばしの間忘れさせる。
神野の放った一言は、すなわち、今までの彼に対する好意が、全て無意味であったことを意味していた。今までの彼との思い出も、経験も、会話も、何もかも……。全ては、彼の手のひらに踊らされるがまま。自らが、万一疑いの目を向けられた時に盾にするための“囮”に過ぎず、自らの目的のために都合よく動かす“駒”でしかなかったのだと理解したその時、初めて、蒼波の脳裏に、“怒り”という感情が、沸騰したお湯の湯気のようにじわじわと湧いて出てきた。
「ッッ……!」
操縦桿やスラストを握る手の力が増す。無線は、近藤やスパークが、神野を“罵倒”する声が届いていた。
『貴様、それだけのためにアイツを使ったのか!』
『テメェ男じゃねえのかよ! そんなことに女使いやがって! 恥を知れクズが!!』
だが、それに対しても、神野はこれっぽっちも意に介さない。そればかりか、自分が悪いわけではないといわんばかりに呆れた声で、こう一言投げた。
『そういわれましても、騙されるほうが悪いでしょう。こんな“トラップ”に』
ここに来て、ついに蒼波の堪忍袋の緒が切れた。流石に、ここまでコケにされて黙っていられるほど人が良い訳ではない。彼氏、いや、“元彼氏”であろうと知ったことではない。蒼波はマスクの中にあるマイクに向けて、大音声の声を発しようとした。
『――騙されるほうが悪い、だと……ッ?』
――唐突に聞こえてきたその一言、蒼波は再び背筋が凍る感覚を覚えた。先ほどとは違う寒気。威圧などという言葉では表現できない。冗談抜きで泣く子も黙るのではないかと思うほどの、気迫のこもった、ドスの聞いた声がスピーカーから聞こえてきた。
そして、その声の主はもうわかっている。ここまで暗く、威圧感が込められたものは初めてだったが、聞き間違えることはない。今まで、神野が語っている間、ずっと口を閉ざしていた、彼だった。
「――雄ちゃん……?」
少なくない恐怖心を交えたその蒼波の声に、彼が答えることはない。
神野から激怒を買ったのは、蒼波たちだけではなかったのである……




