8-9
――は? 羽浦は一瞬頭が真っ白になった。唐突に言われたその一言は、今の羽浦を完全に死後硬直のように固まらせるには十分すぎる効果があった。
「……へ、え?」
ほうけた表情のまま、今、谷濱がつい先ほどなんという言葉を発したのかをもう一度反芻させる。「グルの可能性がある」? その言葉の意味は単純のはずだった。だが、一時的に処理能力が落ちた羽浦の脳内は、その意味を理解するのに数秒という時間を要した。
――つまり、咲も……。
「ま、待ってください!」
その続きを思い浮かべる前に、羽浦は突然スイッチが入ったように勢い良く立ち上がって叫んでいた。座っていたパイプ椅子は立ち上がった勢いで後ろに音を立てて倒れている。突如として叫ばれたので、将官たちも驚いたように羽浦のほうに視線を集中させた。
「な、なんだねいきなりッ」
「いや、えぇ、えっと、咲は……あぁ、いえ、蒼波三尉とは小学校からの仲でありますが、さすがにそのようなことをするとは思えず……」
「そういわれてもな。根拠は何だ?」
「か、彼女はそのような暗躍には向かない真っ直ぐで不器用な人間です。国防についても自分なりの考えを持つほどに意識が高い人間で、そんな彼女もグルであるということは――」
「だが、“絶対に”ないと言い切れるのかね?」
増之が遮るように聞いてきた。一瞬言葉に詰まる羽浦に対し、畳み掛けるように彼は続ける。
「彼女はこの神野二尉と恋人関係だった。二人で一緒にいる時も多分にあっただろう。愛し合っていた二人が、何らかの形で裏で共闘し始めていた……その可能性を、君はゼロだと“絶対”に“断言”できるというのかね?」
冷徹なまでに低い声で告げられた言葉。その中でも、ただ一言、ある一言が、羽浦の脳内に何度となく響いていた。
――“絶対に”。白か黒か。灰色は無視するという理屈。絶対に“黒ではない”と言い切ることができるのか。小学校からの腐れ縁でもある蒼波は、自分の知る女性の中で特に親しい人間であって、彼女のことは大抵のことは知っているはずだった。そう、“大抵のこと”ならば。
「…………」
羽浦はそのまま立ち尽くして震えていた。断言が、できない。いや、実質的には“不可能”だ。たとえ自分の両親であっても、その人のことを1から10まですべて知っているなどということは決してありえない。常に、1年365日24時間。絶えずその人のことを見てきたわけでもない限り、その人のすべてについてはっきりと断言をすることは、理論上不可能である。ましてや、蒼波は結局は幼馴染でしかなく、その部分を抜いてしまえば、はっきり言って血も繋がっていないただの“赤の他人”なのだ。
そのような関係にある人間に、裏の顔があるかどうか――それについて、「ない」とはっきりと断言することは、事実上“不可能”だ。できるわけがなかった。
「……そ、それは……」
蒼波がそんなことをするわけがない。理由もない。むしろ、自分の好きな生まれ故郷を守りたいと、そう吐露するほどに、国防に対する意識が強い人間でもあった。だがそれは、羽浦が知っている蒼波の情報から導き出した“推測”に過ぎない上、自分以外の人間に向けて作った“ただの表面的なキャラクター”でしかなかった可能性を、完全に否定することはできない。羽浦の知らない裏が彼女にあった場合、その推測は、根底から崩れ去ることになる。
「(あいつに限って、それは……それは……ッ)」
何度も否定をすれど、断言ができなかった。その事実こそが、羽浦を徐々に追い詰めていく。次の言葉を出すことができなくなったと見るや、谷濱は少し優しげな口調で、説得するように言った。
「いいかね羽浦三尉? 幼馴染を信じたい君の気持ちはよぉくわかる。わかるよ? だがね、これは自衛隊始まって以来の大事件なんだ。あの強大な武装組織に、自衛隊員も参加していた。しかも、空自始まって以来の天才がだ。最悪の可能性を少しでも考えて対処しなければいけないのだよ」
「おまけに、ここまでの脱走劇を、一人でこなすということはさすがに難しい。どこかに協力者は必要だ。極東革命軍からの人間はもちろん……自衛隊側にも、そのような一連の作業の手助けをする協力者を持っておいたほうが都合がいい。向こう組織との調整役とかな」
「となれば、一番身近にいて、3年も付き合っている気心の知れた恋人である蒼波三尉は、その役割を担うには現状うってつけという訳だ。結果論ではあるかもしれんが、彼女は彼を手助けできる最高の立ち居地にいる。違うかね?」
谷濱を初め何人かの将官たちは丁寧に説明したつもりらしい。しかし、羽浦はそのほとんどを理解できずにいた。その場に立ち尽くしたまま呆然とし、耳に聞こえてきた内容を整理し始める。だが、整理したところで、納得できるわけもなく……。
「……待ってください。その理屈なら、私はどうなるんです? 私だって彼とは親しい間柄にありますし、蒼波三尉とならばもっと近いです。彼女だけを疑うのは――」
恋人、というよりは、親しい間柄であるから疑われるならば、羽浦自身も黒の可能性が生まれる。いや、もしかしたら、神野の属していた第309飛行隊全体すらも怪しくなる。最悪の可能性を考えたら幾らでもケースは思い浮かぶのだ。
だが、谷濱はまるで駄々っ子の孫を宥めるように言った。
「それはないよ。君が彼と繋がって極東革命軍に同調する動きをするには、少々離れすぎているからね。向こうは那覇で、ここは浜松だ」
「しかも、君は言ってしまえばただの管制官だ。管制官が彼の組織に行っても何かできるわけではない。AWACSはないし、AEWはついこの前落とされたしな」
「他にもありますよ、例えば、向こうに管制情報を伝えるとか、周波数をひそかに教えるとか……」
「それなら今更になって周波数に割り込むということはないし、のこのことAWACSの探知範囲に入ってくるようなことはしない。こちら側の弱点をつく様子はこれっぽっちもない。そういう意味から考えても、我が警戒航空団から協力者がいるとも考えにくいよ」
「し、しかし……ッ!!」
蒼波が疑われた羽浦は焦るあまり、自分にも疑いの可能性があることを示して、相対的に蒼波が黒である可能性を消しにかかっていた。その声も、徐々に荒っぽく、そして大音声となっていく。隣にいた重本も、どうやって止めたものかと、小さくあたふたするしかなかった。
だが、そうした行動自体が、自分の行動が限りなく“白”であることをリアルタイムで裏付ける結果になっていることを、佐波は至って冷静な口調で教えた。
「正直な話、本当に羽浦三尉も黒ならば、わざわざ自分から「自分も疑わないとおかしい」等と言うとは考えにくい。その一言がきっかけで本当に自分に対する捜査にメスが入ってしまっては何の意味もないですからね」
「演技という可能性だって考えられますが……ッ」
「本当に演技なら、演技の可能性についても言及しません。それに、あなたは先ほどから自分が黒だった場合の具体的な行動内容すら証言してしまっている。焦りから出ているものとはいえ、もし本当に協力者なら貴方は完全に落第レベルですが、貴方はいざとなれば頭のキレて機転の利く優秀な人間であると、人事査定でも出されています。誰でもない重本三佐が出した評価ですが」
「え……」と思って横目で重本を見るが、気まずそうに目をそらしていた。部下を評価する立場からも高評価を受けていることを示しており、間違いなく喜ばしいことである。だが、こと今回に限っては、それが自らの希望とは別の効果を生んでしまったとは、なんと言う皮肉であろうか。
「私が貴方の立場なら、せめて自分だけはバレないようにするべく可能性として考えさせないようにします。この場にいる誰も、貴方が黒である可能性に言及していないなら、少なくとも自分から口にする必要性は全くない。違いますか?」
「ッ……」
「ですが、貴方はこの場において立て続けに、そして具体的に自分が黒だった場合の行動例を示した。相手をだます演技と考えてもこれはやりすぎです。「なぜそこまで詳しくいえるんだ?」と、逆に勘ぐられる可能性すらありますからね。貴方ほど明晰な人間が、そこに考えが至らなかったとは到底考えづらい」
「そう。つまり、君は少なくとも可能性の範囲からは外れたわけだ。安心したまえ。君に調査の手を入れることはしない」
谷濱はゆっくりと羽浦の隣に歩み寄りながらそういって、左肩の上に手を乗せて続けた。
「君の親しい人間が疑われる気持ちはわかる。だが、これはあくまで可能性の話だ。彼女が黒だと断定されたわけではない。調査の結果“白”だったなら、それはそれでハッピーエンドで終わりだ。彼女を置いて組織を離反した彼がバカだっただけに過ぎない。なんとも勿体ない話だろうがね、3年も共にいたのに」
終始、しょうがない子だといわんばかりの表情を浮かべる谷濱。しかし、羽浦はその顔に強い怒りを覚えていた。
――断定されたわけではない? 可能性があるからと勝手に黒かもしれないと決め付けているのはどこの誰なんだ。恋人だからと、近い人間だからと疑うのは、的を得ているようであまりに浅い理屈だ。恋人である咲を疑って、同じく親しい人間であるはずの俺を、向こうに行っても使えないから、物理的に連携できないぐらい離れているからと可能性の範囲からすら除外するのは、あまりに矛盾した話だ。309がまだ小松にいた時は何度となく彼と会っていたし、309が元々小松にいたことぐらい、彼らだって知っているはずなのに――。
考えれば考えるほど、谷濱のしたり顔を殴り倒したい衝動に駆られる。しかし、反発はできなかった。彼に対して言いたい文句は浮かべど、それに対する反論も、大体読めてしまっているからだ。決め付けているのは、自分自身もそうだといわれればそれまでだ。見方によっては、自分自身も、蒼波は白だと決め付けているに過ぎないとも見れるのだ。それだけに、羽浦は全うな返しができず、どこにも向けようがない怒りと悔しさを拳にこめて、ただただ振るわせるしかなかった。
そんな羽浦の心境には目もくれず、谷濱は自分の席に戻りながら、「もうそろそろいいだろう」と言わんばかりに話をまとめ始めた。
「とにかく、大体の情報はまとまって来ましたな。彼だけではなく、彼に近い彼女にも、もしかしたら調査が必要かもしれません。尤も、309にいった調査官も同じ結論になっているかもしれませんが」
「何れにせよ、今後の調査で明らかになることです。向こうの警務隊も張り切るでしょう」
「しかし、当の神野二尉から直接事情が聞けないというのも、何とも痛い話ですな。官邸の意向だからしょうがないのでしょうけども」
直接事情が聞けない? 待て、向こうに行った彼を連れ戻すということはしないのか? 向こうに行ったらそのまま無視なのか? 同じ疑問を抱いたらしい重本が、遠慮気味に右手を挙げて聞いた。
「あのぉ……神野二尉については、処遇はどうなるのでしょうか? 国際法に則って逮捕してもらってから召喚するのか、それとも野放しなのか……」
その問いには、岩城が答えた。
「彼については、先ほど官邸から基本方針があった。可能ならば身柄を確保して連れ戻すということであるが、戦闘機、ましてやステルスのJ-20を操縦している立場であることを考えれば、それはほぼ不可能であるという結論に達したようだ」
「ということは……」
「まあ、大体察しているとおりだ」
「――戦闘機に乗っていても、そのまま撃墜することになる。彼の確保はその後だ」
「そ、そんなッ……」
そのまま撃墜? 事前に連れ戻すことをこれっぽっちもせず? 神野さんはもう戦闘機と共にすることが確定なのか? では、もし撃墜するとなれば、ベイルアウトでもしない限り、まず助からないが……。
「(ベイルアウトするからその時にってことなのか? でも、ベイルアウトはできても被弾した際にコックピットごとパイロットが被弾してたら……)」
というより、最近のミサイルは直撃ではなく、付近、もしくは機首側に躍り出て爆発して破片をばら撒くのが一般的なやり方になりつつある。破片を広範囲にばら撒くということは、たとえ一部でもそれがコックピットに直撃する可能性が増えるわけで、それはつまり、神野は空の上で死ぬ可能性が少なくない確率で存在することでもある。官邸としては、それでもベイルアウトして無事だったなら、その時に回収するというのが現実的な手法であると考えたのであろう。
……だが、それで生きて帰ってこられる可能性は、現実的に考えてどれほどなのだろうか。
「(……神野さん……)」
一体なぜこんなことをしでかしたのか。それがまともにわからないまま、彼は戦闘機の中で死ぬかもしれない……。それを簡単に受け入れられるほど、羽浦は冷徹な人間ではなかった。
「わざわざ北朝鮮に行って本人だけを回収するということが現実的に難しい以上、そうするしかないというわけだ。わかってくれ」
申し訳なさそうな表情を浮かべる岩城を、羽浦は呆然とした顔で見つめるしかなかった。
「――まあ、こんなところだろう」
今伊が腕時計を見ながらそう呟くと、締めるように声を張っていった。
「一先ずは、今回出た情報を関係各所に伝達します。勿論、309にも」
「だな。とにかく、情報は集めることができた。協力に感謝するよ、羽浦三尉。今日は色々と疲れたろう。もう退室してかまわんよ。重本三佐もご苦労だった」
「は、はい……」
そう優しげに微笑む谷濱の顔を、羽浦は憎々しげに見ていた。普段は部下に気遣いができる優しいおじさんのような人間であったが、この時ほど、彼をこの拳で殴り飛ばしたく思ったことはなかった。だが、それ以上のことはできない。無力感に苛まれた羽浦は、重本に促されるがまま、会議室を後にするしかなかった。
もはや、足元で倒れていたパイプ椅子を直す気力すら、
今の羽浦には存在していなかった……




