8-1
「全ての人間は己の内に猛獣を潜めている」
――フリードリヒ2世(第3代プロイセン王)
≫7月25日 AM10:26 東シナ海西部洋上≪
――艦橋内は、黒い霧でも立ち込めそうなよどんだ空気が流れていた。表面的には真面目に仕事をしているように見えるが、その実、単に“恐怖”していたに過ぎない。最悪、というほどでもないが、出来れば逃げ出したいような物々しい空気が、ここには立ち込めていた。
「――そうか、では『蒼岩山』は完全に沈没を確認したのだな?」
ドスの効いた重苦しい声を上げる一人の大柄な政治委員『宋』は、まさしくその空気の中心にあるといってもいい。報告を行う幹部も、完全に怖気づいてしまっている。巨大な肉食獣を前にした小動物のように、肩は小さく振るえ、発する声の音程は均一ではない。生真面目な彼にとって、これほど精神的な苦痛を感じる仕事もないだろう。
「は、はい! 先ほど、本艦の哨戒ヘリが現場を確認しましたッ。沈没推定時間はふ、不明ですが、残骸を残して、えー、完全に沈んでいるのは間違いありません!」
「護衛のフリゲートは?」
「そ、そちらも……」
「なかったのか?」
「は……はい……ッ」
その報告を受けるや否や、阿修羅のごとき表情を浮かべながら、彼は近くにあった航海用レーダーのコンソールを拳で思いっきり殴った。艦橋中に金属の鈍い音が響き渡り、周囲の空気を凍りつかせる。
「貴重な揚陸戦力を失ったばかりか、あろうことかフリゲートを2隻も失うとは……ッ」
「ち、『天摩山』からは、東シナ海方面にいる日本軍の駆逐艦を、出来る限り撃沈せよとの命令を受けておりますッ」
「当然だ! ここまでの仕打ちを受けて黙っているなどということはできん! 見つけたやつを片っ端から沈めてやるのだ、一番近い敵の位置を教えるよう返信しろ!」
「り、了解ィ!」
そして、その幹部は、周囲から同情の視線を受けながら、逃げるように艦橋を後にした。再び訪れる沈痛な空気。その一人だけが、火山が噴火した後の山頂のように熱く興奮状態になっているが、そこに文字通り水をぶっ掛けるかのごとく押さえにかかったのが、この艦、054A型(江凱II型)フリゲート『慶陽』の艦長『汪』中校だった。
「まあ宋さん、ここは言っても始まりません。やるだけのことをやりましょう」
「何を暢気なことを言っているのです、汪艦長ッ。我々の計画がついに本格的に狂い始めたのですぞ!」
「だからこそですよ。元より、計画通りにいく計画など存在しません。必ずや狂いが生じます。……ここは『高台』の意向に従いましょう。向こうはちゃんと考えてあるはずです。聡明な郭司令を信じましょうや」
「……」
納得いかないといった表情だったが、目線でも「これ以上は騒がないでくれ」と訴えられたこともあり、不満げな顔を浮かべたまま、艦橋を後にした。「他の同志と連絡を取ってくる」と言い残し、艦橋の階段を下りていったのを見た一人の乗員が、肩をなでおろして安堵のため息をついていた。やっと解放された、そんな空気になる。
「……あの人、確か40になるおっさんですよね?」
「ああ、そうだな。ただ、まだまだ若いようだな」
「ええ。あそこまで取り乱されると、こっちが困るんですが……」
汪と少し小声でそう話すのは、航海長の『黎』少校だ。まだ階級が上がったばかりの比較的若い佐官であるが、汪の腹心として既に立派に大成した幹部である。周りにいる乗員達を小声で労いつつ、宋の下りていった階段に複雑な目線を送っていた。
「急遽東シナ海にいけといわれた理由を今更になって明かされたら、まあああもなろうってもんだがな」
「ええ……。元々は、台湾海峡の警備に当たっていたところに、突然の配置変更。その理由が、反乱を起因とした撃沈騒ぎですので、気持ちはわからなくはないんですが……」
「まあな。日本も、既に本格的な反攻に動きつつある。台湾も、じりじりとではあるが、海峡方面での制海権を奪い返しつつあるしな」
「というより、もうほとんど南方においやられてるでしょう。オーストラリアも加わり始めて混沌としていますよ」
台湾海峡での勢力はほぼほぼ逆転しつつある。第7艦隊から派遣された数隻の米駆逐艦と航空部隊によるネットワークを使った連携もあって、それを持たない極東革命軍艦隊は劣勢に追いやられていった。それでもかろうじてまだ全滅にいたっていないのは、元南海艦隊に所属していた潜水艦部隊がまだ健在だったからなのだが、それも、米軍の構築した対潜網に引っかかり、徐々に数を減らしつつある。
また、同じことは韓国にも言えた。旧北朝鮮勢力とされる陸軍砲撃部隊による奇襲攻撃に端を発した、極東革命軍旧北朝鮮勢力との戦いは、初撃におけるソウルを中心とした38度線周辺都市部への攻撃成功の後は、徐々に勢いを衰えさせつつある。
ソウルへの攻撃が成功したといっても、青瓦台をはじめとする中枢部を破壊しきることはできず、中途半端なものとなっていた。また、38度線越えの艦艇や潜水艦によるゲリラ戦術は、開戦数日ほどは効果を発揮すれど、すぐさま立て直した韓国海空軍と在韓米軍との連携もあり、少なくとも、守りの面では磐石な体制を構築しつつある。今や、旧北朝鮮勢力の攻撃が韓国に届くことはほとんど無くなり、あとは、国連安保理の認可を受けた多国籍軍がやってくるのを待つのみとなっていた。
――趨勢は、徐々に極東革命軍に不利になりつつある。情報が満足に入ってこない彼らであったが、宋に隠れて、民間ラジオなどを使って情報を集めていた乗員達からの報告を通じて、一定量の戦況については把握していたのだ。
「本当に大丈夫なんでしょうね、この調子で」
「さあな。……やっぱり、君達は来ないほうがよかったのではないか? 何れ、君達も罪に問われるぞ。勝てば官軍、負ければ賊軍だ」
「我々は、艦長についてきてここまできました。最後まで、お供する所存です」
そうきっぱりとした口調でいう黎の顔は、まさしくまだまだ青い青年とも言うべきものだった。活力を感じるそのオーラは、本来、自分が持っているべきものでもあった。いつから、ただの老人に成り下がってしまったのか。ここまで付いてきてくれる部下を持っていながら、一体いつの日から、道を間違えた老兵になってしまったのか。後ろめたい気持ちを感じながら、窓際においていたコーヒーを啜った。
思えば、あの宋政治委員以外、ここまで連れてきたのは誰でもない汪だった。宋との共謀、そして、極東革命軍の“強制執行”のためには、この艦のクルーの協力が必要不可欠だ。ここに来る前に、相当な根回しをしてきた結果が、今この時なのである。
コーヒーを啜りながら、横目で艦橋内にいる乗員達を一瞥する。普段と変わらない、生真面目な若い幹部達が、いつも以上に緊張した面持ちでこの艦を動かしている。これだけ見れば、なんとも無い、普段どおりの光景だ。やっていることが、大きく違うだけなのだ。
「……日本軍は我々を全力で迎え撃つだろう。我が軍が強奪してきた、唯一無二の早期警戒機も失ったらしい。AWACSやAEWの優位を以って、早期発見からの先制攻撃は確実だ」
「たとえ超音速のミサイルが飛んでこようと、是が非でもあがいて見せますよ。フリゲートといえど、最新鋭艦ですからね」
「どこまでも愚直だな、貴様は」
「それしか、私の取り柄が無いもので」
そういって、黎は自嘲気味に微笑んだ。ただ、その目にはある種の決意のようなものが透けて見える。南京の海軍指揮学院では、師弟関係ともいえる親しい間柄だった汪だからこそ、かすかに悟ることが出来たそのオーラ。過去に置き忘れてしまったそれを纏った彼は、どことなく頼りになる印象を持っていた。
「大丈夫ですよ。貴方の指揮さえあれば十分生き残れます。もっと自信持っていいんですから」
「はは……」
定年間近の老兵のはずが、まだまだ若い黎からの激励にしどろもどろ。年齢を無視すれば主従関係はどう考えても逆にすら見える二人だが、汪はそれでも、胸を張れずにいた。
「(……ここまでの部下を持ったのに、何をしているんだ私は……)」
今の彼の心のうちは、今日の曇天な空模様のように薄暗かった。そんな空を見た黎は、少々不満げに口をもらす。
「今日の空、さっきから晴れませんね」
「予報だと、少なくとも今日はこのままな上、時々雨も降ると聞いていたが」
「やはり暗い天気はいけませんね。気分も暗くなる」
貴様は太陽か……。そう内心ツッコみながら、コーヒーを飲み干した。
「……ちょっと部屋に戻ってる。流石にここいら辺には敵はいないだろうしな」
「了解です。でも2時間もしないうちに戦域に入りますから、休憩は早めに上がってくださいよ」
「わかってる。じゃ、航海長、ちょっとここをよろしく」
「了解」
汪はゆったりした足取りで艦橋を後にした。すぐそばにいた乗員の綺麗な敬礼に軽い会釈で返すと、徐々に痛み始めた足腰を動かしながら、急な階段を下りていく。
「……私も、もう歳だな……」
来月になれば定年で引退の予定だった汪が、最後の仕事とばかりに参加したこの強制執行だが、どうも最後までそれをする前に、体が限界に来そうだった。せめて、生きて陸に上がりたいとは思えども、そうなる前に、現実は日本軍の先制攻撃という死神を連れてきそうだ。
「(生きて、帰ることが出来るのか……)」
もはや不安しかない。巻き込んだのは私とはいえ、せめて、部下だけでも……。そう思いつつ、士官室の前を通ったそのとき。小さく開いていたドアの隙間を通じて、中から声が聞こえてきた。
「……ええ、わかってますよ。……はい……彼は……」
これは……宋の声だ。そういえば、同志と連絡を取るといっていた。まだ電話していたのか。褒められたことではないとはいえ、自分の知らないところで何を話しているのか――。気になった汪は、少しだけドアを開け、バレないように陰に隠れながら聞き耳を立てた。汪の存在に宋は気付いていないらしく、遠慮なしに電話を続けている。
「……今のところ見つかっていませんが、確認次第必ず。……たかがフリゲートと舐めないで頂きたく思います。たとえ1隻であろうと、日本軍のやつらを道連れにしてご覧に入れますよ、同志」
恐らく、極東革命軍の上層部との電話なのだろう。相当な意気込みであることを訴えているようだ。艦橋にいたときの興奮が、まだ収まりきっていないらしい。冷めにくい方だ。
「ええ……勿論、穴埋めの役目はしっかり果たさせてもらいます。潜水艦の援軍がほしいところですが……あぁ、もう一部がすでに? はい、それでしたらば……」
そんな具合で、上官との今後の連絡を取っているに過ぎないようだ。休憩できる時間も余り無い。他愛の無い事務的な会話であるならば、さっさと艦長室で短めの仮眠でも――
「――勿論です。彼らはまだ気付いていません。“艦長を含め”、まだ、私の手駒です」
――なんだって?
「(……手駒?)」
艦長を含め……、まて、私のことではないか。
だが、なんだ。私を“含め”ということは、まさか、他の乗員達も……? 艦長室に行く足を止め、再び士官室に聞き耳を立てた。
「ええ。こちらの目的に気付かないよう、彼らには都合のいいストーリーを与えています。艦長の人望が厚いですからね、ほとんどの乗員が簡単についてきました。……反乱の様子はありませんよ。『蒼岩山』のようなヘマは犯しません。ご安心ください。何かあれば、私が“成り代わります”から」
「(な、成り代わる……ッ!?)」
汪はドアの前で固まってしまった。斯様な性格ではあるが、宋は極東革命軍設立当初からの同志だった。知己の仲というほどではないが、互いに理想のために切磋琢磨する同志ではあったし、自身が『慶陽』の艦長になれるように、裏から手を引いてくれたのも彼だった。彼の尽力が無ければ、今自分はここにはいなかったのだ。
……だが、彼は今なんと言ったのだ? 成り代わる? 手駒? 一体何の話だ? どういうことなのだ?
宋が電話し終わるまで、汪は固まったままでいた。自分が裏切られた、ということももちろんだが、話が本当なら、部下すらも騙していたことになる。しかも、自分を通じて。
「(……そんな……)」
もしそうだとすれば、自分は知らずのうちにとんでもない過ちを犯していたことになる。汪は確かめねばならないと感じた。真っ正面から聞くのはマズイだろうが、せめて、遠まわしに、真意を、彼らの“本当の目的”を聞き出さねば――。
一瞬足を進めるのを戸惑ったが、意を決して、士官室に入る。電話を終えて、まさに士官室を出ようと携帯をしまっていた宋と鉢合い、目が合った。
「おぉ、貴方か。一人でどうしたのです?」
少し驚いた表情を浮かべるものの、すぐに優しげな微笑を返す宋。今や、その顔の裏に何を考えているのかすら脳裏で考えてしまうが、汪は勢いそのままに、嘘をでっち上げる。
「いや、ずっと艦橋にいるのは疲れるのでね。たまには広い部屋でゆっくりと」
「左様でしたか。まあ、流石にそのご老体です。コーヒーでも入れましょうか?」
「あぁ、すまないね。頼むよ」
艦橋にいたときとは打って変わって、紳士的ともいえる態度を見せる宋。プライベートな空間における汪の前ではいつものことで、ゆえに乗員達からも、宋が暴れたときのストッパー役として期待されていたし、むしろ自分から買って出ていた。怒りっぽい彼の裏にある、そうした紳士的な一面を、今まで素直に受け入れてきた汪。だが、今の彼の目には、単にコーヒーを入れている宋の後姿にすらも、恐怖を感じていた。コーヒーを入れながら、一体何を考えているのか――どうしても、よくないものを想像してしまう。
「砂糖多めでしたな。どうぞ」
「あぁ、ありがとう」
自分の分と一緒に持ってきたコーヒーを片方受け取ると、暖かいうちに一啜り。……のはずが、一気に半分も飲んでしまった。緊張の表れである。さっきコーヒーを飲んだはずなのに、もう喉が渇いていた。
そして、少し広めの士官室で、二人だけで他愛の無い会話を挟む。休憩ついでということもあって、少しだけ話が弾んだ。普段ならば、これも気楽な時間として過ごすことができるはずだった。楽しそうに笑みを浮かべる彼も、もはや見慣れたものだ。
……なのに、今は、どこか不気味に感じられた。その表情、その言葉、そのしぐさ。すべてに、何か裏があるのではないかと疑ってかかってしまっている自分がいた。数分ほどの会話が、妙に長く感じられたのは、恐らく錯覚ではないだろう。
「(……いつまでも逃げるわけにはいかんか)」
それでも、そうした恐怖や不安から逃れることは出来ない。自分はこの艦の艦長であり、百何十人という乗員の命に責任を持っている立場でもある。自分が逃げたら、もう後が無いのだ。小さく深呼吸しながらコーヒーカップをテーブルにおき、対面に座る宋にきりっとした姿勢で向き合った。
「……そういえば、先ほど電話していたようだが、誰との電話だったんだ?」
「ッ?」
一瞬、宋の顔が強張った。やはり、聞き耳を立てられていたことに気付かなかったのだ。しかし、向こうとてバレるわけにはいくまい。すぐに、余裕を取り繕った表情を浮かべ、
「あぁ、あれですか。少し上の連中と話をつけていたのです。今後について、色々と調整せねばなりませんからな」
と、どうとも解釈できる大雑把な返答をした。確かに、上の連中とは話していたのだろう。中身は、別として。
「やはり、厳しくなるかね?」
「ええ。日本軍の攻勢も、厳しくなるでしょう。先制攻撃は、間違いなく向こうが実行することでしょうし、ここからが正念場です」
「だが、それは元より覚悟の上。これもすべて、共産党政権の打倒の計画のためだ」
「ですな」
共産党政権打倒――汪が、今まで何度となく聞かされた、極東革命軍の設立目的にして、強制執行を実行する上での最終達成目標。共産党に変わり、自分達の求める理想の政権を樹立するという、実質的な“クーデター”。自身も、その理念に乗っかってここまでやってきた。表裏なく、それが目的なのだと思っていた。
……だが、あの電話の内容。恐らく、それとは違う何かがあるのだ。この“カバーストーリー”に包み隠された、別の、“真の目的”。彼はさらに深く入った。
「……ですが、本当にそれだけかね?」
「……というと?」
表情が変わった。コーヒーを飲む手を止め、一直線に、汪を見つめている。元より強面の彼のまっすぐな目線に、また一瞬固まるが、それでも、ここまできたらやけだと振り切った。
「いえ、そろそろ話してくれてもいいと思ってな。単に打倒するだけではなかろう?」
「一体何の話しで――」
「いいではないか、そろそろ。私も、同じ同志だ。なに……、悪いようにはせんよ」
お返しとばかりに、一直線の目線を宋に返す。自分も、伊達に50年以上生きているわけではない。こういった場でのプレッシャーの掛け合いなら、何度となく経験してきた。その点では、自分に利があるはず。
何も話さない、これっぽっちも動かない時間が続いた。互いに、相手の目をずっと見つめたまま。先に逸らしたほうが負けという、一種の耐久ゲームの舞台のような様相を呈してきた士官室は、艦全体に響くエンジンなどの動作音だけが響いていた。
「(……頼む……)」
祈るような時間が、かれこれ数分ほど。先に根負けしたのは、
「……はぁ、かないませんな。貴方には」
宋のほうだった。内心ガッツポーズをとる汪だが、顔は冷静を装い、彼の話に耳を傾ける。
「まあ、いいでしょう。ここまで来たのです。そろそろ話しても確かにいいでしょう。ずっと隠し事というのも、気持ちのいいものではありませんしね」
「ああ、その通りだ」
いよいよか……。不安半分、ただ内心、好奇心も半分入ってはいた。これから何を聴くことが出来るのか。不安を感じながらも、少し期待はしていた。
「……まあ、簡単な話です」
「――我々は、共産党政権に――」
彼の口から、その真意が語られていく……




