2-7
「――真上ェ!?」
重本は咄嗟に聞き返した。羽浦もレーダーを確認する。見ている画面は百瀬と同じはずだ。
――いた。思いっきり真上にいるうえ、高度が余りに高い。高高度にいたのか。……いや、待てよ? この機体は……。
「まて……コイツ、民間機じゃなかったのか?」
一人の管制員がそう呟いた。そうだ。確か、この2機は民間機の信号を送っていたはずだ。ちょうど近くには、台湾方面と韓国方面を行き来する民間機の航路がある。高度はまだしも、軍用機の反応は少なくとも出ていなかった。だが、今見えているそのブリップの機体は、軍用機を示している。
「冗談だろ? まさか、IFFコード改ざんしたのかッ?」
重本は青ざめた。それを行うということは、すなわち、目的は一つだけ。この航路を往来する民間機に、紛れていたという事だ。
――刹那、
「――ッ! ぼ、ボギー2機急降下開始!」
レーダー上のボギー2機が一斉に急降下を始めた。相当な速度で降りているのか、みるみる高度が下がっていく。ましてや、バザードの4機のほぼ真上。急すぎる接近時間だった。
「BUZZARD 2-1, warning! New bogey approac――」
羽浦はすぐに不明機の接近を知らせた。ほぼ真上だ、レーダーにも中々移りにくいはずだ。こういう時は、こっちのレーダー情報が頼りなのだ。
……だが、
『おい! アラート出たぞ!』
近藤の声だった。
「(遅かった!?)」
――その時、合流したバザードの4機のうち、1機にRWRが鳴っていた。
蒼波の方は鳴っていない。他の3機のうちどこかだが、近藤の声からして、RWRが鳴ったのは近藤機のようだ。
『バザード2-1、上方からボギー! ほぼ真上!』
『真上!? そっちから見えなかったのかッ?』
『民間機のIFFだった! たぶん改ざんされてる!』
『冗談だろおい、あれ改ざんできたのかよ!』
羽浦のテンパる声に、蒼波もつられて焦燥感を一気に抱いた。IFFコードって改ざんできたのか? というより、改ざん出来るとしても、パイロットの手ですぐその場で出来るものでもない。間違いなく、前々から準備しないといけないものだ。
「(どういうこと? 余りに計画的じゃ……)」
さらに、考える暇を与えない。今度は別の機、
『こっちにも鳴った! RWR、1時方向上!』
しかも、その機が、
『スピアー!?』
神野の機だった。蒼波の驚く声に続く様に、近藤は指示を出す。
『クソッ、とにかく回避しろ! リック、ミサイル見えたら知らせろ!』
『ラジャー!』
『フェアリー、そこからできるだけ離れろ! ほかにもいないとも限らねえ!』
『り、了解!』
とにかく言われるがままに機体を翻した。民間機に紛れていたということは、他にもIFFコードを書き換えたボギーがいる可能性もゼロではない。どっちが航路なのかはわからないが、とにかく今いる場所は離れた。
『――な、撃たれた! 回避する!』
近藤の声が無線に響く。ミサイルが撃たれた。ということは、やはり敵機だ。タイミングからして、先ほどの2機のJ-11Bのお友達だろう。近藤の機を見ると、フレアを放出しながら急旋回をかけているのが見える。少しして、神野の声も聞こえる。
『こっちもだ! スピアー、回避!』
神野の声だ。やはりミサイルだ。神野の機もフレアを放出しながら回避機動を取り始める。綺麗な円を描くような旋回の後、ミサイルが到達。その頃、ようやくレーダーもボギーを捉えた。反応は最初のものと同じ。ということは、J-11型か。
『ミサイル回避!』
『バザード1、上からまだ来ます!』
『機銃か、クソッタレ! イーグルの機動なめんじゃねえぞッ』
さらに旋回方向を変えてハイGターン。神野にも、ミサイルが到達。神野機のすぐ近くでミサイルが爆発したように見えたが、まだ飛んでいる。
『――ィてッ』
「スピアーッ?」
神野がそう呟いたのを、蒼波は聞き逃さなかった。
『大丈夫だ、いける』
神野は力強くそう答えた。その間も、近藤は回避機動に上昇を加えることで、相対速度を増加させ、照準の時間を短縮させるやり方に出た。旋回方向と上昇率を巧みに調整し、上手く機銃攻撃を回避した。機関銃弾の光を下方に伸ばしながら急降下してきたその機体は、遠目で見ても、案の定最初に相手したものとそっくりだった。
『回避した! スピアー、そっちは!』
近藤が無線で叫んだ。ミサイルも、機銃も回避した。神野の腕も十分高い。ミサイルが回避できたのだ。機銃も十分回避できる。そろそろ機銃が撃たれるが、大丈夫だ、いける。
『――クソッ、操縦桿が重い……ッ!!』
――全員が耳を疑った。神野の機は、確かにさっきより動きが鈍かった。お世辞にも、急旋回と呼べるような動きをしていない。
「す、スピアー?」
『スピアー、大丈夫か? もう機銃来るぞ!』
近藤が急旋回を急かす。だが、その返答は、
『ダメです! さっきのミサイルで操縦系統がやられました! 動きが――』
その瞬間だった。
神野の機体に、一本の光の線が通った。機関銃だ。
――次の瞬間、神野の機体から小さな爆発と、火が上がった。
「――ッ!!!」
蒼波は神野の機体を見て、言葉を失った。神野の機体に、機銃弾が当たった。被弾だ。すぐ横をJ-11らしき機影が通りすぎるが、そっちには目も向けない。神野の機体は、右主翼に複数の穴が開き、右エンジン部分から火が上がっている。右エンジンノズルは大量の黒煙を吐き出していた。不完全燃焼時に起きるそれではない。右エンジン内部で、火災に相当する何かが起きたのだ。
「(そ、そんな、遼ちゃん!?)」
戦闘機で火災。その先に起きる出来事なんて戦闘機パイロットなら誰でも想像がつく。思わず「スピアー!」と叫んでしまった。そのあと何を言おうとしたのかすら曖昧なまま、しかし、呼ばずにはいられなかったのだ。
『2-1よりアマテラス! 2-3が撃たれた! 繰り返す! 2-3が被弾した!』
『被弾した!?』
――被弾。その一方で、その室内にいた全員が青ざめた。攻撃されたときの比ではない。
『スリット! “敵機”を牽制しろ! 正当防衛だ!』
『ラジャー!』
近藤の声がさらに響く。被弾した。正当防衛の条件は確かに整っているが、羽浦の心情は正直それどころではない。
――撃たれた? スピアーのTACネームを持っているのは、確か……。
「(……遼さん……ッ!?)」
額から大量の汗が噴き出る。気のせいか、呼吸も荒くなってきているように見えるが、羽浦はそんなことを自覚している暇はなかった。
……とにかく、指示を出さなければならない。だが、何を? この状況で何を指示しろと?
「被弾した機の状況はッ? ……羽浦!」
重本の声で、ハッと我に戻る。すぐに神野の機をレーダー上で確認。まだ飛んでいる。
「アマテラスよりバザード2-3、機体の状況はどうか?」
答えられるだろうか? だが、何とか無線は帰ってきた。
『……エンジンに被弾、推力低下……右の主翼もやられた、制御が……』
「2-3、まだ飛べるか? とにかく現場空域を急いで離れろ。今2-1と2-4が敵を引き離してる」
『いや……機体がうまく動かない……、くそ、どうなって……』
機体の状況もよろしくないが、それより、神野の声がいつになく弱々しい。まさか、さっきの被弾で体を痛めたか? 機銃とはいえ、相当な衝撃が加わったはずだ。
「グリズリー、スリット、とにかく敵を2-3から引き離せ」
『グリズリー、了解!』
『スリット、コピーッ』
「フェアリー、スピアーのそばにつけ。退避の護衛だ」
『……』
蒼波の返事がない。自分の彼氏が撃たれたんだ、相当な動揺をしているのか? 羽浦は少し語気を強めた。
「フェアリー、お前が護衛につけ。お前しかいない」
『……り、了解』
声に力がない。やっぱり、相当堪えているのだ。蒼波機のブリップが動いた。神野の機体に近づく。すると、
『――な、おいおい、お前どこに!』
「ッ?」
近藤の声だ。その近藤の前にいた“敵”のブリップは、一気に急旋回を開始し、蒼波に向かい始めた。
「(邪魔する気か!?)」
蒼波に警告を発した。
「フェアリー、後方より敵機! お前を狙ってる!」
蒼波が「ッあ゛あ゛あ゛ッ!」と、イラついたような声を上げて右に急旋回を開始した。敵は蒼波を追いかけ始める。神野を狙っていない。もう落ちると判断しているのか。回避機動によって、蒼波が神野と少しばかり離されると、敵は追跡を止めた。そして、やはり神野に向かうでもなく、近藤の追撃から逃げるだけ。
「(……やはり、遼さんはもう目標として見られてない……)」
チャンスだ。それなら何もしてなくても逃げ切れる。蒼波の護衛は必要だが、必要なら回避に専念させればいい。
「南西SOCに通信! 交戦により被弾した機体あり! 那覇基地にもエマージェンシーを伝えろ! 救難隊にも出動要請!」
「了解!」
重本が受け入れ先の那覇基地に連絡を命じる。帰らせる気だ。だが、羽浦は妙な事に気が付いた。
「……マズい、遠ざかってる……」
神野の機体が、那覇基地のある沖縄本島に向かっていない。ほぼ真北に向かっている。
「アマテラスよりスピア―、機体を180度旋回させよ。那覇基地から遠ざかっている」
気づいていないだけかもしれない。こっちですぐに命令した。
『……ダメだ、旋回ができない……』
――冗談だろ? 羽浦は言葉を失った。
「操縦が難しいか?」
『旋回操作が聞かない。やっぱり操縦系統がやられてる……あぁ、ダメだ、高度が……』
神野のブリップの横にあるフライトデータを確認。降下率がさっきより上がっている。マズい、このままじゃ雲の中だ。この状態であの低気圧に入ったらまず助からない。
「せめて高度だけは保て。低気圧への突入だけは避けろ」
『ダメだ、上下操作も聞かなくなってきた……油圧、たぶんやられてる……ッ』
油圧まで……ッ? まさか、右翼部に被弾した時に、油圧が漏れたか? 多重の油圧システムがあったはずだが、それらが全てやられたか、機能不全に?
「(運がないどころじゃねえぞ……ッ)」
だが、こっちからではどうしようもない。本人がどうにかするしかないのだが、それでどこまでできるか。
こっちができるのは、導くことだが、そこに、“絶対的な強制力”はない。当たり前だが、それを強く認識したことは、ほとんどなかった。
『スピアー、大丈夫? 飛べる?』
蒼波の声だ。度重なる敵の追撃を振り切って、どうにかしてここまで飛んできたのだ。神野の隣にピタリと付いた蒼波に、神野も弱々しく答えた。
『飛べるっちゃあ飛べるけど……ほんとに、飛んでるだけだね、これ……』
『大丈夫、飛べるならまだ希望はあるから。頑張って』
優しく声をかける蒼波の声は、普段は絶対聞くことはないものだった。それだけ、蒼波も切羽詰まっているのだ。羽浦は、それを見ているしかできない。
「グリズリー、スピアーとフェアリーに敵を近づけないようにしてくれ。今更だが、撃墜しても構わない、こっちで許可する」
『あいよ。といっても、もうミサイルはさっき使い切っちまったんだけどな……』
近藤が「参ったなー」とさらに呟いた。敵を妨害する際に、牽制目的でミサイルを使ったのだろう。あとあるのは機銃だけだが、それだと撃墜というより、牽制がせいぜいだ。
スリットの方はまだミサイルはあったが、うまく当たっていないらしい。だが、牽制にはなっている。
「フェアリー、スピアーの操舵を確認しろ。使えそうな場所はないか?」
『……いや、ダメ。ない。どこも被弾してる』
「油圧が漏れてそうな場所は?」
『わからない、どこからも黒煙が噴き出てる。たぶんこれのどこか』
「クソッ……」
どこも被弾してるってことは、相当な量の機銃弾を受けたのだろう。油圧系統がほとんどやられているのも十分あり得る話か。
「エンジンはどうだ? 左右のエンジン推力調整して方向転換はできそうか?」
羽浦はできる限り冷静を装いながら聞いたが、蒼波は暗い声で否定した。
『無理よ、右エンジンから黒煙が大量に吹き出てる。使い物になってないし、左側しか実質生きていない状態じゃ……』
「……高度が稼げない……」
右エンジンが仕えないのに、無理に左エンジンの推力調整で方向転換しようものなら、ただでさえ高い降下率をさらに上げることになる。下手すれば、二度と制御できずに真っ逆さまだ。
『スピアー、操縦桿もだめ?』
『ダメだ……どこに動かしても全然動かない……』
『じゃあせめて高度だけは稼いで。今救助が向かってるはずだからッ』
『どこまで……、飛ぶんだろうね、これ……』
『どこまでって、とにかく飛べる所まででしょ! せめて低気圧は抜けて……』
神野の声がさらに弱くなった。蒼波の強い語気にも全然応じない。やはりどこか体を打ったのだ。このまま飛ばすのも危険だが、かといってここで降下させても意味がない。死ぬ時間を待つだけの状態になり始めている。
……助けなければ……いや、だがどうやって……? 自分ができるのは、指示することだけだ……。
「(……なんだ、この無力感は……)」
必死に生きようとしている当事者たちを見ながら、自分は安全な後ろで何をしている……。2機の寄り添うF-15Jのブリップを見ながら、羽浦はそんなことを思い始めた。嘗て本人に行ったはずだ。二人は生きて帰らせると。それなのに、やれることは指示を出すことだけだ。こういう時、何もできないのだ。
「(……やっぱり、あの約束しないほうがよかったな……)」
心底そう思い始めた。軽はずみな約束は、いい結果を出さないのか。
その後、スリットから『敵機撃墜』の報告を受け取った。1機のJ-11Bがレーダー画面から消えた。だが、スリットは持っているミサイル全てを使ったらしい。近藤も、相変わらず機銃だけで敵をけん制しているが、もう弾がほとんどないらしい。牽制をスリットに任せ、スピアーの下に行かせた。
「バザード2-3、せめて飛べる所まで飛んでくれ。今那覇から救助が向かっている。海自や海保にも状況は伝わってるはずだ。すぐに助けが――」
くるはずだ。そう言葉をつなげようと、口を動かした。
『――スピアー! 高度下がってるわよ!? スピアー!?』
――蒼波の声だ。ほとんど叫び声だ。神野のブリップの横にある高度の数字が、どんどんと下がり始めている。マズい、いよいよ操縦が本格的に聞かなくなったのだ。
『スピアー、ヒューエルカットしたか? 右エンジンは消火しておけ!』
『隊長……いや、もうカットとか……それどころじゃ、なくて……』
『なんだ、どうした!?』
『機体が……もう……』
神野の機体の高度がどんどん下がる。もうすぐ目の前が低気圧だ。低気圧の雲に、神野の機体が突っ込み始める。
「2-3が突っ込むぞ!」
「マズい、羽浦! とにかく高度を保たせろ! あの機体の状態で低気圧に突っ込んだらまず助からない!」
言われるまでもなかった。羽浦は重本の指示に返事をするまでもなく、すぐに指示を出した。
「スピアー、とにかく高度だけは保ってくれ! 推力をとにかく上げろ! もうすぐ下は低気圧だ!」
『いや、だから……もう、エンジンが……』
「やれるだけでいい! やるんだ! 今はそれしかない!」
ほとんど怒鳴るような声だった。だが、それでも神野の返答は相変わらず弱々しい。機体の高度も全然上がらない。
『スピアー! 頑張って! もっと上げて!』
蒼波の悲痛な叫びすらも、神野には全然届いていないようだった。蒼波の声に返事するどころか、
『……フェアリー……』
『大丈夫だって! 帰れるから! 全員で帰れるんだから!』
まるで、死の瀬戸際にある病人を必死に励ますように。ここは病院ではない。だが、今の空気は、まさにそれだった。それも、“今日が峠と言われた人の、死の数秒前の時の病室”だ。
「バザード2-3、なんでもいい。高度を上げろ! 少しでもいい!」
羽浦も必死に叫んだ。周りからも声が聞こえない。状況を見守りながら、必死に祈っていた。機内にいたキリスト教信者の管制員に至っては、必死に神に祈りを捧げていた。思いは一つだった。無線は叫び声しか聞こえない。ほとんど蒼波と近藤のものだ。機内は羽浦の“叫び声”以外、誰の声も聞こえない。
……だが、
『――もう、ここまでかな』
神野が、本当に小さく呟くように言ったのを、羽浦の耳はしっかりとらえてしまった。
『……“咲ちゃん”……』
『え……』
『――ありがとう。“またね”』
神野の機体が、低気圧の雲がある高度に入った。
その瞬間、高度がさらに一気に下がった。低気圧の乱流により機体は振り回され、さらに制御が不能になる。もはや、パイロットの手が付けられない状態になったのは、火を見るよりも明らかであった。
「……すp――」
羽浦が力なく神野を呼ぼうとした時だった。
『ピーー………』
レーダー画面から、神野の機体のブリップが消えた。
間違いなく、1機のF-15Jが、レーダーから姿を消したのだ。
「……え……」
実感がわかなかった。レーダー画面では、訓練などで幾度となく見てきた光景だし、実戦では、それが意味することを嫌と言うほど教わってきたはずだった。レーダーから機影が消えたということは、レーダーで捉えられないような状態に、機体がなったということだ。しかも、通常緊急脱出した際に発せられるスコーク『7700』が発信されていない。レーダー画面上で、1秒間隔で鳴る電子音と共に表示されるはずだが、どこを見渡してもない。
……それは、すなわち……
「……スピアー……?」
応答はない。誰も無線で声を出さない。室内も、沈黙を通り越して、“沈痛”ともいえる空気が流れていた。
『……遼ちゃん……?』
蒼波の声だ。力がない。TACネームを使わず、本名、いや、“愛称”で呼んでいた。何度も呼びかけるが、反応はない。
『――遼ちゃん……ッ?』
そのうち、彼女の声は涙声になり始めた。無線越しでもわかる。羽浦は、まるでメデューサの目でも見てしまったかのように固まり、その視線は、レーダー画面の、神野がさっきまでいた場所にあった。
『クソッ! 2-3、脱出しろ! イジェクトだ! スピアー!!』
近藤は叫んでいた。そこが低気圧だということを忘れて、いや、承知なのかもしれないが、脱出の危険を承知で、届いてるとも知らない相手に、叫んでいた。当たり前のように、返答は帰ってこない。雑音だけだった。
「バザード2-3、応答してくれ。バザード2-3」
『遼ちゃん、返事して。遼ちゃんッ。……遼ちゃん!』
『スピアー、イジェクトしたのかッ? 聞こえたら返事しろ! スピアー!』
誰もが呼びかけていた。羽浦も、蒼波も、近藤も。途中からは、敵機を追っていたスリットも呼びかけ始めた。
だが、応答はなかった。一切の応答が、無線には届かなかった。神野の声は、最後の「またね」の声で、完全に途切れた。
「……そんな……、嘘だろ……」
いよいよ実感を抱き始めると、それを受け入れようとする頭とそれを逆らう感情とで対立が生じ始めた。そしてそれは、“叫び声”となって表れる。
『スピアー! スピアー! ……クソァッ!!』
『……そんな……冗談でしょ? 遼ちゃん! 遼ちゃん!!』
「バザード2-3、応答してください! バザード2-3! バザード2-3!!」
羽浦も、蒼波も。誰もかもが、我を忘れたように叫んだ。神野を呼んだ。応答がくると。また声が返ってくるのだと。それが、叶わない願望なのだと頭ではわかっていても。蒼波に至っては、自分も降下して神野を追いかけようとしたが、近藤に止められた。また機体を振り回されたいのかと。そして、無線に響いたのは、「ああああッ!!」という蒼波の叫び声と、何かを殴りつけるような音。
……帰ってくることはなかった。レーダーの反応も、声も。再び、自分たちの前に、神野がその姿を見せることはなかったのだ。低気圧の下に、彼は落ちていった。まるで、地獄か何かに吸い込まれるように。
「……遼さん……」
少しばかり叫んだあと、羽浦は大きな無力感に襲われた。先ほどのそれの比ではない。だが、それは皆同じだった。あの重本も、今は何を話すわけでもなく、ただ、茫然と、羽浦の見ていたものと同じレーダーの画面をみていた。
「……クソが……」
そして、怒りに打ち震えていた。
「……うちの仲間を打ち落としやがって……ッ! あの違法戦闘機野郎はどこのどいつだ! 中国か?」
近くにあったコンソールを力任せに殴りながら、そう怒鳴り散らした。誰も答えることができない。誰もが、怒りと、無力感と、どうしようもない虚脱感に、完全に支配されていた。
「……」
羽浦はの目も、焦点が合わなくなっていた。呼吸もほとんど忘れている。その後、ようやく我に返ったのは、反応が消えて約1分後のことだ。とても長い1分に感じていた羽浦は、時間を確認した。
「……ね、燃料……」
もう結構な時間を飛んでいる。特に蒼波は、時たまアフターバーナーを使用していたため、相当な燃料を消費していたはずだ。
「シゲさん」
「……あぁ?」
力なく、そして、軽く涙ぐみながらそう答える重本に、羽浦は気まずさを感じつつ、
「……そろそろ、燃料がビンゴです」
「あぁ……、そうだな」
重本は腕時計を確認する。そして、大きくため息をついて、
「……わかった。バザードは帰頭させろ。今CAPも向かっているはずだ。救難隊の護衛は、そっちに任せる」
「了解」
「南西SOCと……横田のCOCに連絡。被弾した機体は、レーダーから反応を消失。墜落したと思われる」
「わ、わかりました……」
皆、覇気がない。通夜でも行われているのかと勘違いしそうな空気の中で、羽浦も、バザードに指示を出した。
「……アマテラスよりバザード2-4、敵の方は?」
『あー……こちら2-4、先ほど撤退していった。北に向かっている』
「了解。……バザード各機、今CAPが向かっている。そっちに引き継いで、そちらは帰頭せよ」
『……了解』
近藤の力ない声が聞こえてきた。最初、あんなふざけたジョークを言っている人と同一人物だと言っても、誰も信じないだろう。近藤と、スリットが那覇基地に機首を向ける中、1機だけ、そこに留まり続けるブリップがいた。
「……咲」
気持ちはわかる。だが、羽浦は管制官として、指示しなければならない。余りに心苦しい。胸が締め付けられる思いとはこのことだ。
「……フェアリー」
『……』
返事がない。羽浦は小さく息を吐いた。
「……アマテラスよりバザード2-2、燃料をほとんど使い切ってるはずだ。すぐに帰頭せよ」
『……』
返事がない。屍でも操縦しているのかと、そんな勘違いすらされそうな状態だ。しかし、一番燃料を使っているのは、間違いなく蒼波だ。自分でも気づいているだろう。
「フェアリー――」
再度無線で呼びかけようとした。
『――最後』
「?」
蒼波が、やっと口を開いた。だが、それは了承の返答ではなかった。
『最後、遼ちゃん……“笑ってた”……』
「……、笑ってた?」
『笑ってた……死ぬかもしれないのに……、マスクを外して、私に……』
声が続かない。呼吸音の中から、小さく啜り声が聞こえてきた。泣いている。つられてか、羽浦も涙を流しそうになった。
「……彼らしいといえば、らしいか」
それしか答えられなかった。なんて答えればいいのかわからなかった。蒼波も、それ以上は言ってこなかった。
「……しつこくてすまん。フェアリー、燃料が切れるぞ。帰頭せよ」
『……了解』
やっと了承の返事が聞こえてきた。レーダーでも、蒼波の機体が180度反転し、那覇基地に向かいはじめた。機体を加速させ、近藤たちと合流する。
「……」
……自分の任務は終わった。重本の指示で、後続のCAPは他の管制官が担当することになった。羽浦も、相当な疲労を溜めたはずだということで、一時休憩を貰った。他にも、一部の管制官も同じく休憩を取るよう指示を受ける。百瀬も一緒だ。
「……羽浦さん……」
百瀬が声をかけるも、次が続かない。やはり、こういう時の話す内容がわからないまま、声をかけただけだった。
「……百瀬さん」
「はい?」
羽浦は、力なく言った。
「……管制官って、思った以上に、無力ですね……」
「……」
百瀬は答えることができなかった。そのまま、待機スペースに向かう羽浦を、百瀬は黙って後ろから見るしかできなかった。
――バザード隊は、その後CAPとすれ違った。那覇から飛んできたらしい、4機のF-15Jだ。知らせでは、今回の事態を受けて、さらに那覇基地から追加の戦闘機も発進準備中とのことだった。
『11時上方、CAPです』
スリットの声だ。11時の上方向を見ると、4本のコントレイルが確認できる。キレイな4機編隊を組んで、蒼波たちの左上を通り過ぎる。
『バザード2-1、こちらラクーン4-1。良く帰ってきた。あとはこちらで引き継ぐ』
『バザード2-1、了解。あとはよろしく』
近藤が返答する。4機編隊はそのまま、先ほどまで蒼波たちがいた空域へと向かった。バザードも、一直線に那覇基地に向かう。懸念されていた燃料不足も、ギリギリではあるが間に合いそうで、空中給油機のお世話にならなくて済みそうだ。
「……」
蒼波は、それを見届けつつ、もっと遠くの空を見るように視線を少しずらした。
「……良く帰ってきた、ね……」
違いない。確かに、よく帰ってきた。ミサイルを数発撃たれて、それでも、今こうして飛んでいる。素晴らしき幸運。“それだけは”、天にいるであろう神様に感謝したい。
……でも、全員じゃない。彼が、すぐ隣にいない……。いつも隣にいる、あの人が。
「……遼ちゃん……」
先ほどから何度も、彼の愛称を呟いては、エンジンの轟音にかき消されてしまっている。蒼波は、先ほどまでいた空域に視線を向けていた。ほぼ真後ろ。頭を強引に後ろに向けたまま、その先にある、白い雲海を見続けていた。もう涙は枯れていた。泣く涙が、もうない。
ふと、ある男の言葉を思い出した。
“空から丸見えだからな。女神はちゃんと空から見守ってるよ”
それを言った本人が、決して嘘を言ったわけではないのは十分わかっていた。相手が、その女神の目を掻い潜る姑息な手を打ってきたのが問題なのは理解しているし、彼自身も、最善を尽くそうとしたのは、仮にも幼馴染である自分が、わからないわけがない。
「……女神は――」
……それでも、蒼波は呟く様に、ふと口にした。
「――空から、見守ってるんじゃなかったの……」
力なきその声は、愛機のエンジンの轟音に、かき消されていった……