闇
ダドルにとってそこは、何もない闇の世界だった。黒く塗り潰された部屋、大勢の黒く塗り潰された顔の人達が幼い自分を取り囲む空間。
―――あぁ、またこの夢か。
そう思いながらも恐怖を感じていた。その影は口々に、「可哀想だ」と連呼する。女や男、子供のような声もする。けれど、ダドルは言われる意味が分からない。なぜ自分が可哀想だと言われるのか。
「ダドルは、可哀想」
誰かがそう言った。そいつを殴りたい衝動に駆られて、取り囲んでる人達を押しのけて飛び出すと、すぐ目の前でスポットライトに照らされて座りこんでる少女が見えた。
彼女は知っている。ずっと前から記憶しているその金髪の髪がサラサラと動いているのが見えた。彼女は俯いて、うずくまっていた。
「ルシアナ……っ」
そう呼んで駆け寄った。自分の小さな体が恨めしい。すぐにそばに行くことができないこの体が、堪らなく恨めしく思えた。
名前を呼ばれた少女はゆっくりとダドルの方へ振り返った。ダドルはハッとした。その顔は、ルシアナのようでいて違っていたのだから。
「どうして、こうなってしまったの」
「え……?」
ぽつりと聞こえてきたのはルシアナの声だった。ダドルは何も言えずただ少女を見つめた。少女はダドルを見つめ返して、ぽろぽろと涙を零した。
「みんなみんな、どうして汚いの」
「……」
「おにいさま、みんな私から離れていくの……嫌、寂しい……さみしいの」
そしてその顔が歪んでいく。憎しみとも悲しみともとれるその表情を見て、ダドルは気づいた。
あぁ。そうか、この人は―――。
「僕自身だ」
夢から覚め、そう言ってからダドルは脱力した。汗が額から流れ落ち首筋を伝っていく。ルシアナが屋敷を出てから毎晩見るようになったあの夢は、じわじわと自身の精神を侵してきていた。喉の激しい渇きに吐き気さえおぼえながら、ダドルはよろよろと立ち上がり、キッチンルームへと向かった。
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「お兄様っ……」
ハッハッと短くあえぐように息を繰り返してルシアナは飛び起きた。ダドルが苦しそうにルシアナを見てくる夢。その兄の体からはたくさんの血が流れていた。
ズキンとこめかみが痛み、そこを押さえて深く息をついた。なぜだかとても嫌な感じがする。ふいに窓から見えた月は満月に近く、ぼんやりとしていた。
「あぁ……愛しいお兄様……」
月を見上げてぽつりと零した声はどこか寂しげで、ますます彼への想いが募る。あの人に抱かれた記憶を胸に、ルシアナはまた瞼を閉じた。
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ゴウゴウと風の音がする。幼いルシアナは眠さに半分瞼を落としながら、それでも頑張って起きていた。それは伯父夫婦とその子供のためだった。何か大事な用事があって起きていたのだが、よく覚えていない。
「伯母さま?」
お気に入りのくまの人形を引きずりながら廊下を歩く。自分の靴音と屋敷に当る雨の音と風の音が聞こえるだけだ。それがどこか恐い。ルシアナはくまの人形を抱え直して、ロウソクの火が揺らめく筒のような廊下を歩き進んだ。
「――――……」
名前を呼んだ。返事は無い。ルシアナの声はそのまま闇に消えた。また繰り返して呼んでみたが、同じ結果だった。恐怖にくまをぎゅっと抱きしめて、ルシアナは走った。走って扉を開け、開け、開け、―――そして、
とある扉から漏れ出た光を目にしてひどく安堵した。
きっとこの部屋には誰かいる。伯父さまか伯母さまか、もしかしたらあの子かも。期待に胸が急かされて扉を開いた。蓄音機からクラシックが―――なんの曲だったか忘れたが――流れていた。そして、床に真っ赤な液体を浴びて寝ている人がいた。
「……おじさま?」
その人には見覚えがあった。一目見たら決して忘れることはない容姿の人だったから、だから、見間違えることはないはず。でもなぜ、赤い液体を浴びているんだろう。
そう思いゆっくりとその人に近づいた。怖さはなかった。その人の顔はとても綺麗で、よくお母さまも褒めていた。邪気もなく人懐こい人、と。
バンと弾けるように蓄音機から音がしてその場で驚いて飛び跳ねた。そのとき、ピチャンと微かに液体の滴る音がした。ルシアナは震えながらもその方向にゆっくりと顔を向けた。誰かが立っていた。黒い闇みたいな人だった。
「全て忘れなさい」
―――そう言った。だから、その言葉に従ってルシアナは忘れることにした。忘れなければいけなかったのだ。忘れてしまえば幸せに生きていけるのだから。