平和協定
###
首都郊外にあるセシルの屋敷までは遠く、砂利道に体が跳ねたり左右に振られたりとすごく大変な旅であった。ようやく着き馬車を降りると、大勢の使用人に囲まれた。
「ダリア様の生まれ変わりね」
「こらっ」
なんて会話も聞こえてきた。老執事が前に出て仰々しくお辞儀をした。ルシアナも倣って少しだけ腰を折る。
「ようこそお越し下さいました。セシル様は只今外出中でして、しばらくお待ち下さいますよう。ああ、まずは部屋にご案内致します」
「ありがとう」
にこりと笑ってそう返すと使用人の声も盛り上がりを見せた。なにをそんなに興奮しているのか、ルシアナにはサッパリ分からなかった。
部屋に入ると女性が好みそうな調度品が多く置かれていて、その後すぐに使用人が入ってきて、ルシアナの荷を解き始めた。ルシアナは邪魔にならないように気をつけながら窓に近寄った。窓から見た下方には大きな木が立っていて、その下には―――。
「セシル?!」
叫んでから慌てて口を塞いだ。ゆっくり後ろを振り返ると、使用人が驚いた顔をしてルシアナを見ていた。だがハッとしてそれぞれ自分の仕事をやり始める。
ルシアナは部屋を出て階段を降り、窓から見えたその場所へと向かった。何度か訪れたことがあったおかげで迷うことはなかった。
「セシル!!」
「うわっ!」
何か黙々とやっていたその背中に声をかけると、その青年はビクリと肩を奮わせて大きな動作で振り返った。
「あれ? ルシアナもう着いたの? てっきり半日以上掛かるかと」
「―――セシル……。あなた、自分の屋敷が首都から何時間掛かると思ってらっしゃるの」
呆れ返った声で返すと、セシルは乾いた笑いをもらして立ち上がった。そうして両腕を広げ、
「ようこそ、ベアドリーへ。大歓迎さ!」
「……」
「あれ?」
――にこにこと嬉しそうにそう言った。ジトーっとした目でルシアナは彼を見つめた。無言で見つめ続けていたら実に居心地の悪そうな顔をされた。
「あなたは知ってたのね。あなたと私が、婚約者同士ってことを」
「うん。まあ、そうだね」
悪びれもなさそうなその返事がいっそう清々しい。ルシアナは、ため息をついてセシルを見上げた。
「どうして黙ってたの?」
「いずれ分かることなら言わなくていいと思ったから」
「……確かにそうよ。でも私は……」
「―――君が誰を好きで誰を愛そうが、俺の手元にくるなら良いと思った。が、実の所の本音」
なんの躊躇いもなくそう言ったセシルにルシアナはまた何も言えず、魚のように口をぱくぱくさせた。実はあの時のことをまだルシアナは引きずっていたのだが、あえて気にしないようにしていた。
それを察してかセシルはくすりと笑ってルシアナに近づくと、ズボンのポケットから花を取り出し、その花をルシアナの髪に挿した。
「お花?」
「うん。実はね、さっき花を摘んでたんだ。ルシアナの部屋に飾ろうと思って。だから、俺は出かけてるって言えって執事に言っておいたんだけど……」
あいつ、とどこかを見上げて拳を握るセシル。ルシアナはプッと吹き出して、首を横に振った。
「私が勝手に見つけたのよ。そもそも私の部屋から見える位置で花を摘んでたあなたが悪いのよ」
「え。ここってルシアナの部屋から見えるの?」
セシルは木の陰から出て屋敷の方を見上げた。そして、頭を抱え小声で「しまった」と言って、ルシアナを振り返り見た。
「サプライズを、してあげたくて」
「ええ」
「……ごめん」
本当に申し訳なさそうな顔をされるものだから、ルシアナはキョトンとしてから、堪らず笑ってしまった。セシルはギョッとして腹を抱えて笑っているルシアナに駆け寄った。
「何に笑ってるのか全然理解できないんだけど」
「ふふっ……ごめ、ごめんなさ……ふふふ」
笑いが止まらないルシアナにセシルはあたふたとして、彼女は息を落ち着けながら、セシルの腕の袖を掴んだ。
「もう大丈夫、平気よ。ごめんなさい」
「いや、なんだか久しぶりだ。そうやって、大笑いする姿」
「そう、かしら」
そうだよ、と返事をしてセシルはルシアナの手を引き歩きだした。ルシアナは抵抗もせずその手を握り返した。昔、こうやって誰かに手を引かれて歩いたような気がする。その人は笑顔で、ルシアナ、と名前を呼ぶのだ。
そのまま二人は屋敷の一階にあるサロンへと入った。白に統一された壁には様々な絵画が飾られている。それにヴォルグの屋敷とは変わらない美しさを誇る大きなシャンデリア、天窓にはめられているステンドグラスは見事なものだった。
「綺麗ね……」
「父がお気に入りにしてるんだ。お客様を退屈にさせない工夫らしい」
「そうね、これは素晴らしいわ。ヴォルグ家も見習ったほうがいい」
ルシアナは、ゆっくりと前に進んで天に向かって手を伸ばした。ステンドグラスが日の光を入れて輝いている。その光を掴んでみたいと思った。
「―――〝神の涙〟」
「え?」
ぽつりとそう零した少女をセシルは見た。少女は尚もステンドグラスの方へ向いていた。
「木漏れ日を〝神の涙〟と呼んでいたの。私とダドルで」
「へぇ……、幼馴染の俺も知らなかった。教えてくれたら良かったのに」
「いま、知ったでしょ。だからいいじゃない」
ルシアナはそう言って俯いた。セシルは慌ててルシアナに駆け寄り、膝をついた。そして、そっとその体へ触れて尋ねた。
「どうしたの? 悲しいことでも思い出させた?」
「……」
「俺のせいだよね? ごめん」
「違うわ」
「じゃあ、どうして泣いてるの」
ぽろぽろとこぼれ落ちてくる雫が、涙だったのだとルシアナは言われて初めて気づいた。セシルは、指先でそれを拭って表情を暗くした。ルシアナが望んでここに居るわけではないことを薄々感じてはいたが、この状況はあまり芳しくない。
「ルシアナは……」
そう言って口を閉じた。他に好きな男でもいるのか―――そう聞きたかったのに口に出来なかった。それに、金の髪が光を受けて、まるで天使の輪を付けているかのように見えた。彼女は真の天の使いなのではないかと思ってしまった。セシルがしばらく見惚れていると、ルシアナは顔を上げて言った。
「―――私は、とある時期の記憶が無いの」
「え?」
唐突な告白にセシルが驚きの表情を浮かべた。それも無理はない。このことは、ヴォルグ家以外の者には秘密にしていた。ステンドグラスを見上げながら打ち明けようか考えていたのだか、意を決し告白することに決めた。お互いがこの先、|公平<<フェア>>に動けるように。
「あなたも知ってるでしょう。伯父さんが私の目の前で死んだあの事件」
「あ、あぁ……うん」
「そのせいで、私はその頃とそれ以前の記憶が断片的なの。断片的、と言ってもぼんやりとしていたりが多いんだけど。そして、時々ふと恐怖が襲ってくるの。怖くて堪らなくなる。だから、」
ルシアナはセシルの腕に触れた。真っ直ぐセシルの茶色の瞳を見据えて、ルシアナは頼んだ。
「私が恐ろしいと思った時、誰よりも早く私の側にきて……抱きしめて欲しい」
「う、うん? 待って。……抱きしめる?」
「そう。いままでは、ずっとダドルがしてくれてたの」
そう、兄の代わりになる人が必要だった。でなければ、兄を想っておかしくなりそうだ。今にも足元が崩れ落ちて奈落の底へ落ちていきそうな不安定な状態なのに、あの発作が起きたら一人で耐えられそうにない。
真剣な面持ちで伝えてきたルシアナを、セシルは真偽を測ろうと見つめ返し、それが嘘ではないことを確信して、ゆっくりと頷いた。
「分かった……。俺で良ければ、利用してよ」
「ありがとう、助かるわ」
笑顔を浮かべ、ルシアナは清々しい気持ちで壁に飾ってあった絵画のほうに足を向けた。きらきらと輝く髪を遊ばせるようにあちこち移動する少女の背を見つめ、セシルはふぅと困ったように息を吐いた。