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欠けた月  作者: 萩彌
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浮草

 ルシアナは、真っ赤に染まった世界の中で蹲<<うずくま>>った。手のひらには血がべっとりと付いている。顔にも服にも真っ赤な液体がこびり付いていた。息が自然と荒くなる。心臓がバクバクと音を立てて、吐き気もこみ上げてきた。

 うっと唸って、ゲボゲボと背中を丸めて咳き込んだ。何も出てきやしない。しばらく経つとどこからか血の匂いもしてきた。さらりと落ちてきた金の髪の束が、赤に染まっていて体が固まった。

 

「起きて」


 そう女性の声が聞こえた。パッと顔を上げてみたが誰もいない。それでも声は止まなかった。

 

「起きて、お願い。私の――……」

「……だ、れ?」

 

 掠れた声で尋ねてみたが、その声の主は返事をしない。それどころか急速に世界は白に包まれていく。あまりの眩しさに目を覆うと、ふわりと花の匂いがした。これは、そう、

 

「ダリアの花……」

 

 うっすらと目を開ける。いつもの部屋、いつもの天井、いつもの景色が広がっていた。額に掻いた汗を手で拭って起き上がる。両手は恐怖に震え、体じゅうに汗をビッショリと掻いていた。また酷い悪夢をみたらしい。ため息をついてベッドからおり、クローゼットに向かった。服を脱いで新しい服をを取り出す。そうすることさえもどこか億劫に感じた。

 

「……」

 

 あの日から、あの日が始まりのように悪夢が続く。血に濡れる夢を見る。

 

「お兄様……」

 

 あの日、冷たく言い放った兄の姿。あんな言葉を一度も言われたことが無かった。だから、ショックを受けたのだ。

 

―――せいぜい楽しんでくれよ、ルシアナ。


 蒼い瞳には優しさのかけらも含まれていなかった。向けられた背中が拒絶の色を強くしていた。セシルを想えば想うほど、ダドルへの罪悪感が募って胸が苦しくなる。それなら、もうこの不毛な関係を終わらせようと思っただけだ。ダドルを嫌いになった訳では決して無い。今この時でさえ出来るなら……側にいて、抱きしめあって、温もりを感じていたいと思う。

 

「愛してる。愛してるの……、あなたを……ダドル、お兄様」

 

 堪らずそう呟く。言葉が胸に刺さってひどく痛い。そっと、クローゼットの奥に隠してあった物に手を伸ばした。銀の鎖のロケットペンダントを抱きしめるように持った。

 

「例え、貴方が真実を知らなくても」

 

 パタリとクローゼットの戸を閉めて、少女は部屋を後にした。

 

 ***

 

「セシル!」

 

 庭の木の根本に寝転がっていたその人の名を呼んだ。彼はゆっくりと起き上がって、やぁと言いながら片手を上げた。

 

「今日は体調が良いみたいだね」

「えぇ、まあ」

 

 そう答えながら風に吹かれた髪を手で抑えた。とても気持ちのいい涼しい風だ。心地よさにぐっと腕を伸ばした。

 

「良いお天気ね」

「そうだね、今週はずっとこんな感じらしいよ。あっ、ほらこっちに座って」

 

 ポンポンと彼は自分の隣りを叩いてルシアナを呼んだ。ルシアナはクスリと笑ってから、彼の隣に駆け足で向かって座った。彼はまた嬉しそうに笑った。

 

「よしよし。あ、本もあるんだよ。昔みたいに一緒に寝転がって読む?」

「あのね、もう子供じゃないのよ」

 

 ルシアナが笑って言葉を返すと、セシルはしばらくその横顔を見つめ、それから近くに置いてあった本を手にして目を細めた。

 

「ルシアナは変わらないね。―――昔のまんまだ」

「それは子供っぽいってことかしら?」

「いやいや、子供の頃から可愛くて綺麗だって言いたくて」

 

 スッと伸びた手がルシアナの頬に触れた。とても優しい手つきに自然と心臓は高鳴る。ルシアナは目を逸らして、誤魔化すように笑った。

 

「冗談でも嬉しいわ。ありがとう」

「……冗談じゃなくて本心なんだけどね。――――あのさ、ルシアナ」

 

 彼はそう言ってルシアナの手を両手で包み込んだ。ルシアナはゆっくりと真剣な色を帯びたその目を見つめた。

 

「もう君は十七歳だろ。そろそろ俺との結婚について、しっかり考えて欲しいんだ」

「……っ、なにをいきなり……」

「いきなりじゃないよ。俺はずっと考えてたんだ。君との未来を」

「セシル。わたし……」

「―――俺じゃ、やっぱり駄目? ルシアナは物足りない?」

「っ、そんなことないわ! セシル、あなたは素敵な人よ……本当に素敵な人。だからこそ私には勿体無く感じる人でもあるの」

「何が勿体無いの……? ―――俺はずっと、ずっと君を想ってたのに」


 風が髪をさらって流れていく。彼の手が髪に触れ、それからすべての音を閉ざすように耳に添えられた。彼がゆっくりと近づいてくる。チュッと音を立てて、でも唇が触れるだけのささやかなものだった。切なさが心を占めて、胸が苦しくなった。離れていく温もりを名残惜しいと思うくらい、彼は大切な存在になっていた。

 

「ごめん。こんなふうに感情にながされてするつもりは無かったんだ」

「いいのよ……」

「本当に余裕がない自分が嫌になるよ」

「セシル」

 

 セシルが浮かべた笑みが痛々しくて、胸が鋭く痛んだ。きっと彼は知っている。自分が誰を好きで、想っているのかを―――。

 それでもただ真っ直ぐに彼を見た。

 

「私は、あなたの奥さんになる。それは変わらないから……。何があってもあなたの側にいるわ。ずっと、……ずっと」

「でも、心は俺を向いてくれないだろ?」


 びくりと肩が震えた。セシルはルシアナを抱きしめて、あえて彼女の顔が自分に見えないようにした。

 

「意地悪しすぎた。いいんだよ。誰を想っていても、俺は平気だから」

 

 どうして、こうも残酷に、―――彼と同じような言葉を吐くのだろう。なぜ、自分だけを見て欲しいと願ってくれないのか。

 ルシアナは、大きい背に腕を回してその肩に顔をうずめた。ただ何も言わずに、こくりとだけ頷き返した。

 

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