始まりの冬
キラキラと輝くシャンデリアに火を灯しながら正装をした男たちがせかせかと屋敷中を歩き回っている。女たちはドレスを身にまとい、派手な化粧をして優雅にワインをくゆらせている。そして楽しそうに笑うのだ。
そんな場所に居るにも関わらずどこか不満気な顔をして、金髪の髪を腰まで伸ばした少女は、指先でその毛先を遊ばせながら会場を見回していた。少女が生まれた家で行われているパーティー、それは少女が望んで開かれているわけではない。父が勝手に知らない大人たちを招いているのだ。
近くに置いておいたグラスを手にとって、大人たちの真似をしてそれに口つけてみた。もちろんワインではない。だが、こんな気分を味わうのなら酔ってみたいとさえ思い始めていた。
「どうしたの、ルシアナ」
「お兄様!」
ぽんと肩を叩かれ、パッと隣を見ると同じく金髪の青年が会場の方に視線を向けながら立っていた。少女はその横顔に一瞬だけ見惚れ、ハッとして俯いて答えた。
「なんでもないの」
「そうか。父上のパーティーに似合わない暗い顔の女の子がいると思ったんだけどな」
ジロッとした目でそう楽しそうに言った青年を見上げると、彼は目を細めて少女―――ルシアナを見た。
「パーティー会場に現れた〝少女の幽霊〟かな?」
「からかわないでください!私はただ……」
「知ってるよ。いつものだろう? ルシアナのパーティー嫌いに付き合わされる兄の身にもなってくれ」
やれやれと言わんばかりに肩を竦め、兄―――ダドルは左手に持っていたグラスのジュースを飲み干した。ルシアナは深く息を吐き、ダドルをチラッと横目で見た。
お伽話の王子様のように美しい容姿、それでいて頭も良く家柄も良いこの一つ年上の兄を、ルシアナは慕っていたのだった。
ルシアナは物思いにふけつつ空を見上げた。パーティーが嫌いな理由―――それはヴォルグ家を継ぐこの兄の姿を大勢の人間が目にするからであった。その兄の十八歳の誕生日を祝うパーティーが今夜行われていたのだ。
思えば思うほど憂鬱な気分になる。幼い頃からずっと彼が隣りに居た。歳を取ればそれだけ彼と離れなければならない時期が近くなるだろう。ルシアナはダドルの纏う服の端を掴んで、その端正な顔を見上げて言った。
「お兄様はずっと私のお兄様でいてくださいね。どんなに歳をとっても私だけのお兄様でいて」
「……あぁ、僕はずっと変わらず君を愛するよ。家族として、兄としてね」
微笑んだダドルは空いた片手でルシアナの頬に触れ、その親指の先で唇をなぞった。ルシアナは背筋がジンと痺れ、この妖艶な空気に何か心の中から溢れそうになるのを感じた。
カアッと林檎のように頬を赤くさせた妹を満足気に見つめ、ダドルは額に口付けて言った。
「驚かせた? いつもより綺麗な格好だったから、つい」
「……お兄様は出来心でレディに触れて良いと思っていらっしゃるのね」
「いや、それは失礼なことをした。ああ、そうだ。君にばかり構っていられないことを忘れていたよ」
それじゃ、と片手を挙げて、空けたグラスを持って行ってしまう兄の背中に手を伸ばしかけて、止めた。きっといつかこうやって、背を向けて行ってしまう時が来る。そう思うと、自分の中に何かどす黒いものが湧き上がってくるのを感じた。
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ルシアナは会場を抜け出して、はあ、とわざと息を荒く吐いた。心に積もる悪感情という悪感情を全て吐き出したかったからだ。何もかもを吐き出して、全て無かったことにしてしまいたい。この醜い感情と自分自身を、あの澄み切った世界から消して……。
「ルシアナ?」
唐突にかけられた声にビクリと体が震えた。振り返ると見覚えのある焦げ茶色の髪の青年が立っていた。優しい笑顔を浮かべている。まだ会場の明かりが届く場所だったせいか青年の笑うと目の端に皺ができる癖までよく見える。ルシアナはハッと慌てて笑顔を貼り付けた。
「驚いたわ、セシルまで呼ばれてたのね」
「良かった、ルシアナで……。間違ってたらどうしようかと」
ははは、と笑う幼馴染の彼に呆れたような視線を送ると彼は頭を掻いてから、ルシアナの手をとった。
「それより、こんなところで何してるの? もしかして迷子になったとか?」
「方向音痴の貴方にだけは言われたくないわ……」
「あのねぇ、俺は真面目に訊いているんですよ。お嬢さん」
肩を掴まれ目を合わせるように腰を屈めて、彼は真剣な表情になった。ルシアナはふい、と顔を背けた。
「パーティーがあまりにもつまらなくて、外の空気を吸いに来ただけです」
「ああ、なるほど! その気持ちは痛いほど分かる。メインが楽しむだけの物なのにオマケの俺達がどうやって楽しめっていうんだ、ってね」
「そうね」
そうして急に力説し始める二歳年上の幼馴染であるセシル。彼はダドルと仲が良く、ルシアナとも仲が良い貴重な友人だ。そんなセシルを見ていると、なんだか落ち着いた気分にさせられる。
なおも続けて話すその内容に思わず吹き出すとセシルは不思議そうな顔をしてルシアナを見つめた。その表情も何故だか面白くなってきて、くすくすと笑いが止まらなくなる。
「え? なに、どうしたの?」
「セシルはいつも面白いのね」
「面白い、ってどういうこと? 何に笑ってるの?」
「私、貴方のそういうところが好きよ」
笑いが止まらなくて、笑っている自分自身にさえ笑いがこみ上げてくる。そんなルシアナをセシルは見つめて目を細めた。
「―――良かった。泣いているかと思ったから」
「なにか言ったかしら?」
「いいえ。なんにも」
「あ、そうよ。セシルこそ、こんな場所に居ていいの? 私のせいで怒られたりしない?」
セシルの家が厳しいことを思い出してそう尋ねると、セシルは首を振って右手の人差し指を立てた。
「それがね、平気なんだよ。父に断りを入れてから来たからね」
「わざわざ言わなきゃいけないなんて、セシルの家に生まれなくて良かったわ」
冗談交じりに言ってみるとセシルはうんうんと首を縦に振って応えた。
「俺もそう思うよ。ベアドリー家は厳し過ぎる……。ヴォルグ家に生まれたほうがよっぽどマシだったろうね」
「それはどうかしらね。でも、もしセシルがヴォルグ家に生まれたとしたら、私とあなたは兄妹になるのかしら」
想像してふふっ、と笑ってしまった。きっと今よりも温かな家になるだろう。ダドルとセシル、二人が庭を駆けてその後をルシアナが追いかける―――そうして幼少期を思い出した。過去の自分たちに想いを馳せて、ぽつりと呟く。
「だとしたら昔みたいに楽しいでしょうね」
「ルシアナは昔に戻りたいの?」
「戻りたいのと訊かれたら、答えはイエスね。無垢で楽しかったあの頃に戻りたい」
「え、無垢? 今でも無垢でしょ、処女だし」
聞こえてきた処女、という単語にルシアナは顔を真っ赤にしてセシルの胸を叩いて抗議した。
「やめて! そういう意味じゃないの!! 心の純真さを言ってるのよ」
「へぇ……」
「そのどこか人を嫌にさせる目で見てくるのはやめて」
ジトーとした目で見てくる彼の顔を隠すように手を掲げて、ルシアナは距離をとって歩きだした。
「どこに行くのさ」
「会場に戻るのよ」
「戻るの? まだここに居たら良いのに」
「なぜ?」
やけに絡んでくる彼に少し苛立って訊くと、手首を掴まれて彼の方に引き寄せられた。突然のことで体は彼の胸のほうへと倒れこんでいた。
「セシル……、何をしてくれたのよ」
胸に手をついて真っ直ぐ立とうと試みるものの、あの瞬間に足をくじいたらしく上手く力が入らなかった。たじろいでいると、ぐっと腰を掴まれて引き寄せられ、顔と顔が必然的に近づいた。
真面目な顔をしたセシルが視界いっぱいに広がる。ふわりと、カモミールの花の匂いがした。
「俺にも同じ質問をしてくれる?」
「……質問?」
「子供の頃に戻りたいのか、ってやつ」
「良いわよ。……質問するから体を離してくれない?」
「質問してくれたら離すよ」
そう言うと増々腰に回る腕の力が強くなった。気恥ずかしい気持ちに襲われて、ルシアナは少し早口で尋ねた。
「昔に戻りたいの?」
その質問になぜだか自分で言ってて息が苦しくなった。なにか悪いことを訊いているんじゃないかと思ってしまった。セシルの顔を見ていられなくて、首まで目線を下げた。そんなルシアナを見下ろして、セシルは選択を間違わないように、努めて冷静に口を開いた。
「――ルシアナ、俺の目を見て」
「嫌よ……。近くて恥ずかしいの。訊いたんだから体を……」
離して、そう続けたかったのにセシルのせいで言えなかった。は、と口を開いた瞬間にセシルはルシアナを抱きしめて、その耳元で囁くように答えた。
「答えは、ノーだ」
ルシアナは離れたセシルをただ何も言わず見つめた。いつものおちゃらけた様子とは一変して、男らしく頼もしい姿に何も言えなかった。
対してセシルは驚いた顔をして唖然としている彼女にいつものように笑いかけた。彼が今出来る、精一杯の演技だった。
「ルシアナとは兄妹になりたくないな、ダドルともそうだけどね。何て言うか、俺はベアドリーにこれでも誇りを持ってるんだ。分かりづらいだろうけど」
「そ、そうなのね……」
ルシアナは、ぎこちなく返事を返したもののどうしていいか分からなくて、視線を忙しなく動かしながらドレスの裾をぎゅっと握った。セシルはそんな姿に少し寂しさを覚えつつ、『いつも』を装って続けた。
「あと俺は、兄妹とかそんな関係は嫌なんだ。幼馴染で十分だと思わない?」
「あ、そう……よね。私も幼馴染の関係で満足してるのよ。家族はものの例えだったのよ」
例え…と、喉が渇いて声が上手く出なかったけれどそう取り繕った。なぜこんなにもこの人の前で緊張してるのか分からなかった。「もう戻りな」と言ってくれたセシルに背を向けて、足早にそこを後にした。
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会場に戻るとあの賑やかさがほんの少しだけ落ち着いていた。きついドレスに疲れた女性たち、談話に飽きた男性たち、様々な人がいた。その中に混じっても一際目立つ青年が一人いた。綺麗な金の髪が光を反射していて、王冠でも被っているのかと思ってしまった。
「お兄様」
絶対聞こえるはずがない距離で、ぽつりとそう口にした。すると彼は振り返り、ルシアナを見た。ルシアナは動けなかった。その青いサファイアのような瞳が、ルシアナを見ていると思ったら体は動き方を忘れてしまったのだ。
ダドルは青い顔をした妹に近づいて、肩に優しく手を置いた。ゆっくりと目の前の少女の視線がダドルの顔へと動いた。
「どうしたんだ? 顔色が悪いけど」
「何も、何も無かったわ」
どこか虚ろにも感じる視線と口調になにか嫌なものを感じて、ダドルはルシアナの手を引いて、すぐ隣に設けられていた談話室に入った。そして扉に鍵をかけ、ルシアナを椅子に座らせて、その前に膝をついた。
「本当に何も無かったのか? すこし姿が見えないと思ってたんだ」
「お兄様は心配しすぎよ。私は平気よ……平気なのよ、お兄様」
平気、そう何度も繰り返して言う妹を無意識に抱きしめて、ダドルは分かったと頷いた。触れた体は冷えていて、外にいたのだと感じた。苦しそうな妹の背をさすりながら、言い聞かせるように囁いた。
「ルシアナは、僕の大事な人だ。大事な妹で、誰の代わりにもならないんだ。それだけは覚えていて」
「えぇ……私は、お兄様の、ただ一人の妹よ」
公私を分けるとき、公の場ではルシアナは敢えて自分の事を『わたくし』と呼んでいた。高位の階級であるヴォルグの者であることを忘れないためだと、以前言っていた。こうした二人きりの場所でさえ、ルシアナは自分を隠そうとする。
「ルシアナ……」
「お兄様、早く会場にお戻りになって」
ダドルが堪らず名前を呼ぶと、目も合わせずにルシアナはそう言い放った。有無も言わさない気迫がある。だが、ダドルは負けずにルシアナの手をとって、目を合わせようと顔を覗く。
「ルシアナ……僕の顔を見て」
――ルシアナ、俺の目を見て。
その言葉と共にセシルの声と温もりを思い出して、ルシアナはバッとダドルの手をはねのけた。ダドルは、驚いて固まった。ルシアナもハッとして息を止めた。
「ルシアナ……?」
「あ……、お、お兄様、ごめんなさい。わたし、ワザとでは無いのよ……」
「――やっぱり、何かあったんだな? 何を隠そうとしているんだ? 言ってくれよ」
いつも冷静な妹を、これ程までに混乱させた人間を憎く思い、早口でそう言ってしまっていた。激しい感情を抱えたままダドルはルシアナの肩を掴むと、窘めるように言った。
「ルシアナ、君を傷つける奴を僕は絶対に許さない。君をそんなふうに混乱させた奴を殺してやりたいくらい、今僕は怒っているんだ。だから、包み隠さず言ってほしい」
「っ……」
ようやく目を合わせたルシアナは、体を震わせていた。なぜ体を震わせていたのか、ダドルにはさっぱり分からなかった。
彼の激情が、掴まれた肩の手の強さでひしひしと伝わってきていた。今までも時々目にした彼の激情。自分のことは厭わず、妹に関することには敏感な兄。
ルシアナは、セシルを想って口を閉ざした。本当に言ってしまったら、この兄が何をするか解らなかったからだ。美しい王子様のような兄が、その顔を歪ませる姿を見たくなかった。
震えをなんとか落ち着かせて、それでも唇が震えないように努めて口を開いた。
「――お兄様。私、外に出ていたの。そうしたら、〝あの事件〟を思い出して……」
「……それは、悪いことを訊いてしまったね。ごめん、ルシアナ」
ぽんと優しく頭に手を置かれ、ルシアナは安堵の息をついた。この聡い兄を騙せたことに、緊張が解けてのことだった。
「あの事は忘れよう。僕達には関係のない話だ」
「ええ、そうよね……。もう克服出来てたと思ったのに」
「仕方無いよ。君が一番、アレを見てしまっていたのだから」
あの事件、とはルシアナが五歳の時に伯父の死体を見たことである。それ以前の記憶が抜け落ちてしまうほどのショックを受けた事件。今でも時々、断片的に思い出してしまって、そしてダドルに抱きしめてもらっていた。
ルシアナは、それと同じようにダドルに抱きついて、セシルの体温を消し去ろうとした。いつものように体に腕を回されてホッとした。
「怖がるのも無理は無い。ゆっくり克服していけばいい」
「そうよね……。でも、これではお嫁に行けないわ」
ふっと自虐的に笑ってみせると、ダドルが身体を離して首を傾げた。
「お嫁になんて行かなくていい。ずっとヴォルグの姓を名乗ればいいさ」
「ふふっ。何を言ってるの、お兄様。私が女である限り嫁がなくてはいけないのよ?」
「じゃあ、僕が当主になったら君を嫁がせないようにしようか? 今から不安になることも、悲しむことも無いだろ?」
実に真面目な顔で言うものだから信じそうになってしまった。ルシアナは、くすくすと笑って兄の頬に両手を添えた。
「まるでプロボーズね。私を手放したくないみたい」
「ああ。じゃあ、プロボーズだと思ってくれて構わないよ」
しれっと言う兄へ、信じられないものを見る目を向けてしまっていたルシアナは、気を取り直して言葉を返した。
「あのね、お兄様。私、お兄様の事が好きよ。愛してるわ。でも、きっとこれはいけないことなの。恋人のキスも出来ない関係なのよ」
「……恋人のキス?」
「ええ、恋人のキス……」
そう言い、近づいて来た顔に目を見開いた。ふわりと、なにか花の匂いがしたはずなのに、上手く思考が働かなかった。熱いものが触れた唇から、じわじわと体全体にその熱が広がっていく。目を閉じると唇を啄まれ、ちゅっと音を立てて繰り返された。その口づけに、その甘さに酔いしれる。
どれくらいそうしていたのだろう。何時間もキスしていたような気分だった。鼻が触れる距離まで離れたその顔を、ルシアナは潤んだ瞳のまま見つめた。
「出来ただろ?恋人のキス」
不敵な笑みを浮かべているその人の顔をまだうまく働かない思考のまま、ぼんやりと映していた。ゆっくりと閉じられていく瞼のおかげで、長い睫毛だと思った瞬間には、また唇は重なっていた。