黒い瘴気の獣1
ずっと不思議だった事があった。
それはチャコの事。
何度もそばにいてくれた。
いつも隣で笑ってくれた。
何度繰り返しても、何かを抱えたまま、最後には消えてしまうチャコ。
チャコを助けたくて、その秘密を知りたくて……。
色々な人に近づき、色んな情報を知ることができた。
チャコは元々は人間で。
友孝先輩の式神で。
普通の妖とは違い、依代がなく、瘴気の渦が本体。
色々と姿を変えられて、妖を食べても自我を保っていられる。
生まれるはずのなかった自然発生した妖で、こっそりと山で生きていた。
ようやくそこまで知る事ができた。
それでも、何か不自然な感じが拭えなくて……。
文化祭の日。
チャコから山桜の妖の事と友孝先輩の式神になった経緯を知って、ようやく一つの答えが見えた。
チャコは自然発生した妖じゃない。
――作られた妖ではないのか?
文化祭の後、チャコからもらった宝箱の鍵を持って、私は山を登っていた。
写真部でハイキングに行き、チャコから元は人間であったと教えてもらった、あの山だ。
頂上付近にある山桜の木は、チャコと一緒に空を見上げた日から何も変わっていなくて……。
だけど、しっかりと意識を向ければ、それは小さいながらも妖気をまとっていた。
友孝先輩が、妖気を極限まで削いだんだ。
山桜にそっと手を当てれば、小さな息吹を感じる。
私は息を吐いて、唇を噛み締めた。
この妖を復活させるには、妖雲の巫女の力を使わなければならない。
勇晴君と修行をして、力の制御ができるようになったとはいえ、ここで力を使えば、二度と時を遡る事はできないだろう。
「……大丈夫。……大丈夫。」
怖気づけそうになる自分を励ますように、ゆっくりと言葉を零す。
鋼介君は力を得た。
友孝先輩はまだ悩んでいるが、きっと手を離してくれる。
先生は長生きできるし、勇晴君には友達ができ、友幸さんもみなと一緒に過ごしてくれている。
誰も置いてきていない。
「大丈夫。」
後はチャコだけ。
チャコが前へ進めば、もう時を遡る必要なんてないんだ。
「木魂のおじいさん……チャコに、聞きました。」
木の幹に手を当てたまま、話しかける。
「チャコは木魂のおじいさんと一緒に、この山に住んでいた妖です。……今、陰陽師の式神になってて、私と一緒に学校に行ってます。……この世界で生きて欲しいんですけど、なかなか手ごわいんです。」
何度遡っても、消えちゃう。
「力を貸して欲しいんです。……私、妖雲の巫女です。木魂のおじいさんをよみがえらせる力があります。話を聞かせていただいてもいいですか?」
力を使って、時を遡れなくなるのは怖い。
けれど、この山桜の木がチャコにとって大事な事を教えてくれると思うから。
「……力、流しますね。」
眠っている木魂のおじいさんからの返事はない。
それでも私は木の幹にそっと唇を寄せる。
そして、山桜の木が木魂の姿を取れるようになるまで力を流した。
「わしは……。」
力を流した後、木の幹から体を離す。
すると、木の幹の前に子供の背丈ほどのおじいさんが現れた。
眠っていたところを無理やり起こしたために、まだ意識がはっきりしていないのだろう。
顔に白い髭を蓄えたおじいさんが、その筋張った手を不思議そうに握ったり、開いたりしている。
「はじめまして。」
「……わしに何を聞きたい?」
私の言葉におじいさんが白目のない陰った茶色の目を向けた。
「ここで一緒に暮らしていた小さな狼……。あの子を作ったのはおじいさんですか?」
私より小さな体の木魂のおじいさんにそっと目線を合わせる。
木魂のおじいさんは私の言葉に小さく息を吐くと、目を閉じて、ゆっくりと頷いた。
「……そうじゃ。わしがあの子を作った。」
その言葉には苦しみが滲んでいる。
「――わしが殺した。」
そうして私は木魂のおじいさんにこれまでのチャコの事を聞いた。
おじいさんの住んでいた山には元々、瘴気が集まる場所があったらしい。
その瘴気は辺りを陰らせ、そばを通る人間の心を侵す事はあるが、ただそれだけ。
おじいさんは瘴気が集まっている事は知っていたが、それに興味を持つことはなかった。
おじいさんは山桜の妖として、山桜の樹齢が五百年を超えた頃から妖になったそうだ。
当時はたくさんの妖がおり、山で暮らすおじいさんの周りにも当然のように妖がいた。
けれど、気づけば妖は減り、一人で生きる時間が増えたのだと言う。
おじいさんには自我がある。
けれど、完璧に人間の姿を取る事は出来ず、力の強い妖のように人間に紛れて生きることはできなかった。
そうして、一人で十年、二十年と生きるうちに、おじいさんは考えるようになったそうだ。
――瘴気を集め、妖が作れるのではないか?、と。
おじいさんはまずは元からあった瘴気の淀みに依代になりそうな物を入れてみたらしい。
長く生きているタヌキや狐、今は絶滅してしまったニホンオオカミ。ウサギ、鳥。
大切にされていた人形、ぬいぐるみ、鏡。
けれど、それらは瘴気の中で息絶え、消え、瘴気を濃くしただけで、妖になる事はなかった。
おじいさんは次に、自我の持たない妖が瘴気の中に入れば、自我を持つようになるのではないかと考えた。
自我の無い、手頃な妖を瘴気の中へ入れ、吸収させる。
しかし、妖は消滅し、やはり瘴気を濃くしただけだった。
そして、おじいさんはもっと瘴気を濃くする事にした。
山へと来る人間を襲い、恨みの念を抱かせる。
この世に残りたいと言う思念が何かの糧になるのではないかと、チャコが生まれる少し前には何人かの人間を殺したらしい。
おじいさんのその告白に私は目を閉じて、小さく頷いた。
「……少しだけ聞きました。この山では落石事故が頻発していた時期があるって。」
三度目の山を登った時。
先生が落石に怯えるチャコに告げていた。
『少し前にそういう事もあったみたいだな。』
『道の整備工事も進んだし、落石防止の柵の設置が終わってからは事故は起きてない。』
落石の事故。それはチャコを生み出すためにおじいさんが起こしていた事。
道の整備工事や落石防止の柵も意味はあったのだろうが、事故が起きなくなった根本はチャコが生まれたために、おじいさんが人を殺す必要がなくなったからだったのだ。
「友孝先輩は……陰陽師はおじいさんが人を殺したから、退治しにやってきたのですね。」
チャコはなぜ友孝先輩が山へやってきたのかはわからないと言っていた。
けれど、友孝先輩は真面目な陰陽師だ。理由なく妖を滅したりしない。
おじいさんの行為と陰陽師の制裁との間に時間が開いたが、おじいさんは危険な妖として滅する対象になったのだろう。
「わしは陰陽師が来た時、仕方のない事じゃと思った。……むしろ、一年もの間、あの子と過ごせて良かったと……。」
本来なら一人でも人間を殺せばすぐに陰陽師にみつかる。
おじいさん自身が生気を取るためでなく、山に瘴気を作るためだったので、発見が遅れたのかもしれない。
「陰陽師に滅される事は構わんかった……。わしがやった事が人間に許されない事ぐらいはわかっておったのじゃ……ただ、残されるあの子に申し訳ない、と。」
おじいさんはそういうと、筋張った手で眉間をグッと抑えた。
「わしの勝手で山に留めた。……あの子はなろうと思えば人間に姿を変えて、人間と共に生きていけたのに。」
苦しみが滲むその言葉に私はぎゅっと唇を噛む。
「……わしはそれを教えず、小さい狼の体のあの子をそばに置き続けた。他の妖に渡りもつけず、あの子を隠し続けた。」
おじいさんはそれだけ言うと、はあと息を吐いた。
自分を落ち着かせるように、眉間をぐいっぐいと揉み、もう一度話し始める。
「あの子は妖なのに物を食べたがったし、人間を脅かすのを嫌っていた。……本質は人間じゃった。」
おじいさんは目を閉じ、時折、唇を噛みながらも話し続けた。
「わしが殺した人間の中に……あの子がいたんじゃろう。」
その言葉に私の胸が締め付けられたように苦しくなる。
ちがう、と言いたい。
チャコのいた世界とこの世界は別。
おじいさんのした事とチャコが死んだ事は関係ないんだって。
でも、チャコは落石事故で死んだって言ってた。
そして、この世界に生まれたと。
チャコのいた世界とこの世界がどう繋がっているのかはわからない。
おじいさんのした行為がチャコのいた世界に影響を及ぼしたのだとしたら?
もしかしたら……。
「――わしがあの子を殺したんじゃ。」
私には否定することができないその言葉。
「わしがあの子に全てを教えず、そばにいて欲しいと願ってしまった。陰陽師についても深くは教えなかった。知られて興味を持たれるのが怖かったんじゃ……。その結果、あの子は式神になってしまった……。」
おじいさんはチャコが式神になってしまった日の事を思い出しているのだろう。
「あの子を殺したのはわしなのに……。わしを消すまいとして……。」
眉間に深い皺を刻んで、言葉に後悔を滲ませる。
おじいさんは孤独だった。
仲間が欲しいと願った。
たくさんの命を使って、ようやく生まれたのがチャコで、おじいさんはチャコがかわいくて仕方なかったのだろう。
自分の罪を知り、いつかは陰陽師に滅さられる事もわかっていた。
それでも……チャコと一緒にいたかったんだ。
おじいさんがチャコを作って。
友孝先輩がチャコを式神にして。
「……みんな、自分の事で精いっぱいなんですね。」
何が失敗で何が成功で。
何が良い事で何が悪い事か、私にはわからない。
「チャコは……妖として生まれたくなかったかもしれません。」
チャコは時折、ぼんやりと空を見上げている。
もしかしたら、前世の事や元の世界の事を思い出しているのかもしれない。
「……でも、私はチャコが生まれてくれてよかった。」
たとえ、チャコがこの世界に馴染めなくても。
妖として生きる事が苦しみしかないのだとしても。
「私はチャコに会えてよかった。……おじいさんがチャコを作ってくれてよかった。」
人間のチャコを殺したのがおじいさんだったとしても。
チャコが元の世界に帰りたいのだとしても。
それでも私は――。
「おじいさん、チャコはいつも消えてしまうんです。」
「……消える、とな?」
「はい。おじいさんと別れてからのチャコと……これからのチャコの事を聞いてください。」
私は陰った茶色の目をじっと見つめて、色々な事を話した。
チャコが友孝先輩の式神となり、妖雲の巫女である私のそばにいる事。
チャコの前世は人間で、この世界の人間ではないという事。
何度、時を繰り返しても、最後にはチャコが消えてしまうという事。
「そうか……。」
私の話を真剣に聞いていたおじいさんが小さく息を吐いた。
「……あの子はこの世界を生きていこうと思ってないのかもしれんの。」
「……はい。」
おじいさんの言葉に私の声が震える。
「わ、たし……。わがままです。チャコがどんなに嫌がっても……チャコを諦められない。生きて欲しいって思い続けてしまう。」
声が震える自分が情けなくて、唇をぎゅっと噛み締めて、手を強く握った。
私の思いはチャコにはいらないものかもしれない。
それでも。
――この世界で生きて欲しいんだ。
「チャコは式神になってしまったけど、依代がないおかげか、その体の瘴気を消してしまえば、式神の契約は解除できるんです。」
ぐっと目に力を入れて、おじいさんの目を見る。
おじいさんは私の言葉に興味深そうに目を大きくした。
「おじいさんにはチャコの新しい体を作って欲しい。……チャコが式神をやめて生まれ変われるように」
「……体を消した時にあの子も消えてしまうのではないのかの?」
「チャコの意思はこの世界のものじゃないから、取り込まれにくいと思うんです。だから、瘴気の渦の中で一人だけ自我を保っていられるんだろうって。」
チャコの話を聞き、ここでおじいさんの話を聞いて、それが確信に変わった。
チャコの意思は体との結びつきが弱い。
そして、他の意思にも取り込まれない。
それはチャコがこの世界の人間ではないから。
「四度目の時、意思のない体を作る事はできませんでした。」
勇晴君といっぱい考えたけど、答えはなかった。
チャコの体を作る。
その答えはここにあったんだ。
「私がおじいさんをよみがえらせたのは、チャコの体を作って欲しいからです。私はチャコを生まれ変わらせたい。」
おじいさんは私の目をじっと見ていたが、しばらくしてゆっくりと頷いた。
「そうじゃの……。わしのせいであの子が式神になってしまった。……お前さんの話の通り、新しい体を作り、まずはあの子を式神から解放してやらねばの。」
「……はい。」
「あまり時間はないのじゃろう? 急がねばいかん。」
おじいさんがチャコの新しい体を作ってくれる。
私はそのためにおじいさんをよみがえらせた。
けれどそれは瘴気を濃くする事を意味していて……。
「……勝手なお願いだとは思いますが、人は殺さないで欲しいです。」
「ああ。わかっておる。人を殺して得た体をあの子は嫌がるじゃろうからな。」
瘴気を濃くするためには人を殺すのが早いのかもしれない。
それでも、それをおじいさんに頼めば、心得ていると頷いてくれた。
……優しい妖だと思う。
人の姿にさえなれれば、人間の世界でも馴染んで生きていけたのだろう。
変わらない時を一人、この山で生き続けるのはどれだけの孤独だったんだろうか。
「……チャコに会いたいですよね?」
「……そうじゃの。今すぐにでも会いたいのぉ。」
私の質問におじいさんは、はあと息を吐きながら答えた。
しかし、その懐かしさの滲む言葉とは反対に、小さく首を振る。
「わしはあの子につらい思いをさせてしまっている。……それなのに、あの子に会えば、一緒に山で暮らしたいと思ってしまうじゃろう。……あの子は優しいから、それを叶えようとしてくれるやもしれん。そして、自分の主人である陰陽師との関係に苦しむ。」
……そうかもしれない。
チャコは山に帰りたいと言うかもしれない。
けれど、友孝先輩がそれを許す保証はまだなくて……。
「……そうですね。」
「だから、あの子に会うのは式神から解放してからじゃ。」
「はい。」
チャコにはまだおじいさんがよみがえった事は伝えられない。
これでまたチャコには言えない秘密が一つ増えた。
その事がぎゅっと胸を締め付ける。
すると、私をじっと見ていたおじいさんが小さく言葉を紡いだ。
「……わしをよみがえらせて良かったのか?」
色々な物を詰め込んだその言葉。
「……多分、良くないと思います。」
その言葉に私は目を閉じて答えた。
きっとこの山で死人は出ない。
しかし、ケガ人は出るだろう。
きっかけは私。
妖雲の巫女が妖に手を貸して、人を襲わせた。
この事はいずれ問題になるかもしれない。
でも、後悔はないから。
私は目を開けて、小さく笑った。
「……しばらくは黙っておきます。止められたら困るから。」
鋼介君や先生には言えない。
二人にはチャコが友孝先輩の式神である事も言っていない。
チャコの体を作り直そうとしている事は話せない。
友孝先輩にも言えない。
友孝先輩はまだチャコの手を離していない。
私が式神の契約を解除しようとしている事は話したが、未だその方法は話していないから。
友孝先輩が眠らせた妖をよみがえらせた事など話せるはずもない。
そして、勇晴君や友幸さんにも言えない。
二人は陰陽師だから……。
そんな事はしてはいけない、と止められるかもしれない。
わかった、と何も言わずに手を貸してくれるかもしれない。
どちらにしても、二人に重い物を背負わせてしまう。
できるなら。
私一人で――。
「……そうか。ではわしもこっそりやるかの。」
そう言って、木魂のおじいさんは陰った茶色の目を細めた。




