共に生きる幸せ2
私が部屋に引きこもってから一か月半が過ぎた。
初めの一週間と同様に、ほとんど外へ出ていない。
生きていくために食糧を買ったり、生活消耗品を買ったりする必要はあったが、それも極力、人と関わらないようにした。
目を合わせない。声を出さない。
どんどん暗くなっていく自分に鬱々としながら、ぼんやりと日々を過ごしている。
もちろん、引きこもっているのを認められているわけではない。
私が学校へ行っていない事は両親に伝わっているようで、何度か両親が来た。
母は私から話を聞こうとしたり、外へ一緒に行こうと誘ったりしている。
そして、私はそれに首を振り、拒否をする。
初めは怒ってみたり、優しくしてみたりと色々と試していた母も溜息が多くなってきた。
さすがにそろそろ痺れを切らしているんだろう。
週末が来る度に心がズンと重くなる。
また、今日も母の顔を見るかと思うと、溜息が出た。
母の目に映る落胆や失望や焦燥を見ると、心がギュッと痛む。
両親を困らせて、家に閉じこもってる自分が情けなくて仕方なくなる。
ごめんね、お母さん。
心で何度も謝った。
だけど、学校へは行けない。
私は逃げてる。
だって、もう何も選びたくないんだ。
土曜日の朝。
一人でベッドに座り、膝を抱え込む。
今日も母が来るのかと思っていたら、珍しく父だけが来た。
どうやら母は仕事の都合がつかなかったらしい。
母の顔を見なくてホッとした反面、父と二人きりという状況に困惑した。
父と二人きりなんて久しぶりだ。小学校以来かもしれない。
部屋に来た父は、私に何かを言う事もなく、ただむっつりと座り込んでいる。
沈黙に耐え兼ねた私は、テレビをつけて、見たくもないテレビを二人で見た。
「唯。どうしたい? 」
朝から同じことを繰り返している情報番組を見ていると、ポツリと父が言葉を漏らした。
私はチラリと父を見てから、目線を下に落とした。
「……学校には行きたくない。」
「そうか……。」
私の小さな声に父が頷く。
そしてまた、沈黙が降りた。
しばらく、そうしていたが、ふと父が立ち上がる。
そして、買い物へと出かけていった。
父は食料品を色々と買ってきてくれたのだ。
私があまり外へ出ず、食べるのも少なくなったから気を遣ってくれたんだろう。
父が買ってきてくれたカップラーメンなどを収めていると、父は買い物袋から何かを取り出し、台所に立った。
不思議に思い、見てみると、何か料理を始めたようだ。
時計を見ると昼時になっている。
動いていないからあまりお腹は空いていないが、父が何かを作ってくれるのだろう。
父が料理をするのを見るのも久しぶりだ。
「できた。」
そうして、父が作ってくれたのはオムライスだった。
特に何の変哲もないオムライス。
それをリビングテーブルに二つ並べると、ケチャップを机に置いて、私を呼ぶ。
二人で手を合わせて、それぞれケチャップをかけた。
そして、それを口に運ぶ。
「……味、濃いよ。」
「そうか? 」
そうだよ。
お父さんの料理はいつだって味が濃い。
ケチャップいらなかったな。
「お父さん……なんで行きたくないのかって聞かないの? 」
「……母さんが何度も聞いてただろ。唯は答えなかったからな。」
「……うん。」
ごめんね、お父さん。
こんな娘でごめん。
ギュッと痛む胸に気づかないふりをして、ただひたすらオムライスを食べる。
味が濃いから、上にかけたケチャップはなるべく薄くして、いらない部分は皿へと落とした。
「小学生の時、一緒に買い物に行ったの覚えてるか? 」
向かい側でオムライスを食べていた父が、言葉を漏らす。
それはいきなりの昔ばなしで、え? と父を見上げた。
「いつのこと? 」
「夏に。どうしてもアイスが食べたいからって、コンビニにアイスを買いに行った時だ。」
「ああ、うん。」
父と二人で買い物に行った事はあんまりない。
アイスを買いに行った時、と言われて、なんとなく思い出した。
父がいきなりアイスが食べたいって言い始めて、私も食べたかったからついて行ったんだ。
「アイスだけの予定だったのに、唯がジュースも買う、あれも買う、これも買うって色々買っただろ。」
「……うん。」
そうだ。
父は母に比べて甘い。
だから、わがままを言って色々と買ってもらったんだった。
「唯が自分で持って帰るなら、買ってもいいぞって言ってな。」
「うん……手が千切れるかと思った。」
父は全部買ってくれた。
1.5Lの炭酸飲料、紙パックのフルーツドリンク、果物の入ったゼリー、プリン、チョコのカップアイス、少女漫画の雑誌……。
全部持てる! と買ってもらったが、帰り道、ビニールの取っ手が手に食い込んで、すごく痛かった。
蝉がジージーうるさかったな。懐かしい。
「ああ。欲張るからだって言ったが、唯は暑い中、ずっと泣きそうな顔をして、家まで歩いたな。」
「うん……。」
自業自得とはいえ、父は手伝ってはくれなかった。
なんとなくその時の気持ちを思い出して、チラリと恨みがましく父を見上げる。
すると、父はふっと笑っていた。
「唯は欲張りだからな。」
「……私って欲張りなの? 」
「ああ。その分苦労するってわかってるのに、両手にいっぱい抱えて苦しそうに歩いてたな。」
私って欲張りなんだ。
その言葉はストンと胸に落ちた。
でも、父に言われると、なんかイラッとする。
「……欲張りじゃない。普通だよ。」
「ああ……そうだな。普通だな。」
父は適当に相槌を打って、オムライスを口へ運んだ。
まったく気の無い返事に、私もふっと笑いが漏れる。
すると、父は私を伺うように見た。
「実家に帰って来るか? 」
ゆっくりと紡がれる言葉。
それはそろそろ言われるだろうと思っていた言葉だった。
ずっとこの部屋にいる事はできない。
それはわかっている。
父とさっきまで他愛ない会話をしていたおかげだろう。
反発心などは芽生えず、ただただその言葉が心に響く。
だけど、私は父と目を合わせることなく、ボソリと呟いた。
「わかんない。」
そう。わからないんだ。
実家に帰って物理的な距離を取った方がいいのか……。
でも、実家に帰るのは両親を選んだ事にならないだろうか?
それでチャコが消えてしまったら……。
正解が見当たらず、ウロウロと視線を彷徨わせると、父は私から目線を外し、テレビを見た。
相変わらず、変わり映えのしない内容が流れている。
「再来週の水曜日にな、父さんと母さんでここに来る。」
「うん。」
「辞めるにしても続けるにしても、一度学校に説明に行かないと。」
「うん。」
「行けるか? 」
父の言葉に目を瞑り、小さく息を吐いた。
行きたくない。
このまま逃げ続けたい。
――でも、これ以上、迷惑をかけられない。
「……うん、行く。」
小さく、了承の返事をした。
きっと大丈夫。
学校へ行って、少し話すだけ。
何かを選んだ事にはならない。
大丈夫。
大丈夫。
怯える心に何度も大丈夫と繰り返す。
父はそんな私を見て、何も言わずにオムライスを食べた。
そして、夕方に実家へ帰って行った。
約束の水曜日。
予告通り、両親が来て、学校へと行くことになった。
久しぶりに制服に袖を通し、赤いチェックのリボンをつける。
そして、両親と共に学校へと向かった。
学校は既に授業をしており、人がいる割にはシーンとした空間が漂う。
久しぶりの学校の空気に、胸が緊張でドキドキと鳴った。
きちんとスーツを着た両親の後をついて行くと、新校舎の入り口の辺りに担任の姿がある。
担任と両親はいくつか言葉を交わした。
私もとりあえず、ペコリと担任にお辞儀をしておいた。
そして、担任がどこかへ向かって歩き出す。
てっきり新校舎にある職員室や校長室で話すんだろうと思っていたが違うらしい。
担任と両親について歩きながらも、顔は下を向けたままにした。
すぐそこにチャコがいる。
みんなもいる。
授業を受けているはずなので、出くわすことはないだろうが、必死に胸で祈った。
どうか、みんなに会いませんように。
誰も私を気にしませんように。
私の後ろ向きな祈りが通じたのか、誰かに会う事もなく目的地へ到着したようだった。
「こちらへ、理事長がお待ちです。」
担任の堅い声が響く。
担任が案内したのは、旧校舎のもっと奥。
正門から離れた場所にひっそりと建っている離れのような一軒家だった。
あまり使われていない第二グラウンドのすぐそばにこんな建物があるとは思わなかった。
びっくりして、その扉を見つめていると、両親がそこへ入っていく。
私も慌てて入ると、後ろから担任が続き、ゆっくりと扉を閉めた。
土足のまま応接間のような所へ案内されると、中には一人の男の人がいた。
「今回はお時間を頂き、申し訳ありません。」
「いえ、呼んだのはこちらですから。」
父の堅い、緊張しているような声とは対照的に優しい、柔らかい声が響く。
男の人は私たちにソファを勧めた。
奥から父、母、私と座り、テーブルを挟んで理事長、担任と座った。
そして、自己紹介が始まり、それぞれが名乗っていく。
私は誰とも目を合わせないように床を見ていたのだが、思っても見ない名前にパッと顔を上げてしまった。
「理事長をしています、賀茂友幸です。」
目を丸くしてその人を見る。
ミルクティー色の髪は長く、後ろで一つに結ばれている。
そして、目はきれいな水色でこちらを優しく見ていた。
まだ四十に届いていないぐらいの若さに思えるが、この人が理事長のようだ。
そして――賀茂、と名乗った。
優しい色をした水色からバッと目を逸らし、ギュッと眉を顰めて床を見つめる。
心臓がドキドキと鳴り、苦しい。
知らず知らずのうちに息を詰めてしまい、上手く酸素が回らない。
どうして。
なんで。
そんな私を知ってか知らずか、両親と担任は何やら話をしている。
私はここから逃げ出したくて、そわそわと体を動かした。
ここに『賀茂』と名乗る人がいる。
これは偶然だろうか。
私はまた、何かを選んでしまったのだろうか。
胃がキュッと縮む。
やっぱり学校に来るんじゃなかった。
バカだ私。なんで来てしまったんだ。
「唯、唯っ、きちんと話を聞いてたの? 」
私がそわそわと体を動かしていると、母が私の肩を叩き、注意を向ける。
もちろん、話しなど聞いておらず、眉を顰めたまま母を見た。
そんな私に母は小さく息を吐くと、ソファから立ち上がる。
「父さんと母さんは担任の先生と話してくるから。唯はここにいてね。」
「えっ!? 」
「しっかりな。」
ちょっと待って、と慌てて立ち上がったが、両親は私を置いて部屋を出て行ってしまった。
担任も行ってしまい、部屋には私と理事長だけが残される。
どうしよう。
心臓が早鐘のように打つ。
まずい。
この状況は絶対にまずい。
これまで何も選ばないように、誰とも関わらないようにとしてきたのが水の泡になってしまう。
私は少し考えたが、やっぱりここに留まるべきではないと判断した。
両親には後で怒られる事にし、部屋を出るために扉へと向かう。
すると、私の背に優しい声が響いた。
「私は君がやっている事を、知っているよ。」
思ってもみない言葉に勢いよく後ろを振り返る。
そこには優しい水色の目があって、私にゆっくりと頷いた。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。私は君の味方だ。」
驚き、その優しい目をじっと見つめてしまう。
この人はなんて言った?
私のやっている事を知っていると……。
そして、私の味方だ、と……。
「私は先の妖雲の巫女の子供なんだよ。」
柔らかく笑う、その人。
私は動くことができずに、ただただその人を見つめ続けた。
「色々と言いたい事もあると思うけれど……とりあえず、ソファに座ってくれるかい? 」
水色の目に促されるように、ソファへ身を沈める。
私がソファの端っこに座るのを確認すると、理事長は言葉を続けた。
「君がやっている事を知っていると言ったけれど、全てわかっているわけではないんだ、ただね、私は今日という日がね、何度も訪れているような気がするんだよ。」
「……はい。」
「君が何かをしているのかい? 」
「……時を遡っています。」
水色の目から視線を外し、俯きながら答える。
まさか、私以外に繰り返す時の記憶がある人がいるとは思わなかった。
これまで、誰一人としてそんな人はいなかったのだ。
理事長はわかっていたんだ。
私以外にもわかっている人がいたんだ。
「なるほど、時を、ね。私には妖雲の巫女の力が少しだけあるから、君が起こしている現象が少しだけわかるのかもしれないね。」
理事長はゆっくりと手を体の前で組むと、少し考えるように目の前のテーブルを見つめた。
私はそんな理事長をチラリと見やり、疑問を口にする。
「あの、先の妖雲の巫女はまだ生きてるんですか? 」
理事長は妖雲の巫女の子供だと言った。
理事長はまだ若く見える。ならばもしかしたらまだ生きているかもしれない。
妖雲の巫女は案外、近い周期で生まれていたんだろうか。
もし、そうなら会ってみたい。
私のこの力の事を話してみたい。
私の。
私の悩みを聞いてい欲しい。
一人は嫌だ。
心からあふれ出る思いに振り回されそうになって、ゆっくりと深呼吸をする。
理事長はそんな私を優しく見つめたまま、答えてくれた。
「いや、既に亡くなっているよ。」
その言葉に心に落胆が広がる。
そうか。
やっぱり私が話せる人などいないのだ。
一人で抱えていくしか……。
眉を顰めて床を見つめる。
「亡くなってから、もう百五十年は経っているかな。」
「え? 」
一人、落ち込んでいた私だが、理事長の言葉に、思わず顔を上げた。
相変わらず優しい目が私を見ている。
「君は私がいくつにみえる? 」
理事長から投げかけられる質問に、困惑し、目が泳いだ。
この人は……いくつなのだろう。
先代の妖雲の巫女は百五十年以上前に亡くなっている。
しかし、理事長はその子供だと言った……ならば、その歳は?
「三十八ぐらいにしか見えないです……。」
私は頭に思い浮かんだ数字を頭を振って消すと、見た目から推測される年齢を口に出した。
理事長はふふっと柔らかく笑うと、悪戯っぽく目を光らせる。
「私はね、もう二百歳は超えてるよ。」
「二百歳……。」
あまりに非現実的な言葉に頭がついて行かない。
私をからかっているのかと思ったが、理事長の目はまた優しく細まった。
「そう。私はね、妖雲の巫女と妖のハーフなんだよ。――人間と妖のハーフだ。」
人間と妖のハーフ。
そんな人がいるなんて。
勇晴君と勉強したので、妖の事は少しはわかるようになった。
確かに妖は人間よりも長い時を生きる。
寿命は持っている妖力によって違うようで、強ければ強いほど長いのだ。
……ただし、九尾先生は例外だが。
人間と妖で子を成す事ができるのなら、その子供は人間よりも寿命が長いのかもしれない。
ここにいる理事長以外には聞いたことはないけれど。
「半分妖で半分人間。更に賀茂家の陰陽師で、妖雲の巫女の力も少し受け継いだ。そして、この学園の理事長だよ。」
理事長と会ってから、私は驚きっぱなしだ。
相変わらず、開いた口で見つめると、水色の目が優しく私を見つめ返す。
「どうだい? 君の味方として、こんなに役立つ者もいないよ? 」
水色の目が引きこもっていた私を引きずり出す。
一人で悩むな、話してみろ、と……。
「教えてくれるかかい? 君がやっている事を。」
話してはいけない。
何も選ばない、誰とも関わらないって決めたよね?
確かにこの人はすごい人なのかもしれない。
けれど、きっと今までと同じだよ。
期待して、がんばって……。
でも、チャコは私の手は取らないんだ。
心が痛い。
心が痛いよ。
「――はい。」
気づけば、頷いていた。
ああ、もういいか。
言ってしまおう。
きっとこれで何かを選んだ事になるんだろう。
そしてまた、チャコは消える運命に手をかけるんだ。
頭にチャコの笑顔が浮かぶ。
なんだかその笑顔がすごく遠く思えた。
そういえば、ずっと笑ってもらってない。
最後にチャコの笑顔を見たのはいつだっただろう。
遠いな。
チャコがすごく遠いよ。




