コンパニオンvs???
その日の仕事は、都内のホテルで行われるパーティでのコンパニオン業務だった。
まあ大方会場入り口での受付だろう。専用のコスチュームの支給もなく、スーツでの現場入りを指示されていたから。それでもギャラには上方修正が掛かり休憩時間は何割か増すというのだから、こういう業界ではとことん若い女が得をする。
地下鉄の出口を抜けると、青く澄んだ空に無数の高層建築物がそびえ立っていた。いい天気だ。時折吹く風も暖かくて心地よい。
「よう」
高校時代からの友人――男だ――がいつの間にか私の隣にいた。彼も同じ電車で来たのだろうか。どちらからともなく現場のホテルへと歩き出し、しばらくして私は彼に尋ねた。
「今日の案件受けてたの? ずいぶんラフな格好だけど」
上下ともにポケットの沢山ついた緑色の服を着ている。確か会社支給の作業着にこんな物があったはずだ。
「今日は転換とバラシ担当だからな。お前らが表でスマイル振り撒いてる間、携帯のゲームでもやって時間潰してるよ」
公演中にステージや会場のセットを変更することを転換、パーティ終了後の撤収作業がバラシと呼ばれている。語源は知らない。
「じゃあステージ終わりからが本番ってことか。今日は遅いの?」
「良くて終電、多分タク送」
可哀そうに。私たちのポジションはパーティ終わりがそのまま仕事終わりになる。
「お疲れ様。あんたも女だったら楽できたのにね」
「全くだ。深夜手当込みでも中級以上のコンパニオン相手じゃ時給で大負けする」
そういえば、と友人はごく自然な様子で続ける。
「お前今日はどのくらいギャラ倍率掛かってんだ?」
これは本来タブーである。具体的なギャランティーを聞くことはもちろんだが、コンパニオンの質――要するに基本給に上乗せされる各種手当を直接尋ねることは最大級に近い失礼に当たる。
まあ、私たちの場合はそんなことを気にするような間柄でもないのだが。腐れ縁でここまで続いているのだから、根本的に波長が合うのだろう、私たちは。
「秘密。ご想像にお任せします」
後半は営業モードの口調で話題を打ち切る。さして興味があるわけでもなかったのだろう。友人もそれ以上の追求はしなかった。
「ここっぽいな」
友人が足を止めたので私もそれに従う。実は駅前で彼を見つけた時点で、私は携帯のマップ情報で道を確認する作業を完全に放棄していた。根っからの方向音痴なのだ。
正門両脇に立っているガードマンに会釈をしながら、二人で敷地内に入っていく。自転車置き場が中央に配置された変わったロータリーを抜けて、私と友人は正面玄関の自動ドアをくぐる。
「つうか集合場所聞いてんのか、お前」
友人に言われて気付く。その辺の記憶がぼやけている。緋色の絨毯の敷かれたエントランスを歩きながら、頭を働かせた。確か直接会場に向かっていいと前日のメールで――
「俺は裏の搬入口集合だから」
「え、ああ、うん」
どうも今日はぼんやりしている。元々気分屋だが、これはかなりひどい。仕事中に無気力状態に陥らなければいいのだが。こういう時に嫌な客やスタッフと当たると一気に労働意欲が萎えることを、私は経験上知っている。
「ま、頑張れよ」
「ありがとう」
軽口も忘れて私は頷き、微笑と共にエールを送ってくれた友人の後ろ姿を見送った。
不安に駆られ、一端ホテルの外に出る。携帯電話で会社からのメールを確認しながら、私は正門の外の歩道まで歩いていた。
集合場所は正門前だった。集合時間の11時は間もなくである。スタッフはまだしも、コンパニオン管理ディレクターさえいないというのは少々おかしい。何らかの事情で現場の入り時間が前倒しになったのだろうか。
事前に知らされていた集合担当の人間に電話を掛けてみた。コール音が数回なった後、留守番電話サービスに切り替わったので通話を終了する。
電車の遅延。だとしても先に現場入りしているであろうディレクターなりADなりが代理で立っていそうなものだが。
ここにきてようやく、嫌な予感が胸の内で渦巻き始めた。それも、仕事で大ポカをした時の感じとは決定的に違う、もっと直接的な危険に対する恐怖だ。
背後に建つ壮麗なホテルからは、人の気配が微塵もしない。午前11時。平日ではあるが、チェックアウトの客が一人も出てきていない。思い返せば、さっき友人とホテル内に入った際にも、人間の姿は確認できなかった。
「通してくれ!」
駅方面の歩道から猛然とこちらに走ってきたのは、スポーツ刈りの長身の男だった。胸にワッペンの付いた緑色のジャンバー。警察手帳らしき物をを右手で掲げている。
別に関係者以外立ち入り禁止というわけでもないので、男はフリーパスで敷地内に突入していった。反射的に後を追う。
「何かあったんですか!」
「判らねえ!」
姿も声も、俳優のあの人に似ているが、名前が出てこない。「相棒の初代相棒」。場違いに呑気なあだ名を胸中で付けながら、私と男は自動ドアが開くのと同時に中に入り、奥へと走る。受付カウンターに誰もいないことは一瞥して知れたので、一番近い階段を勢い良く駆け上がっていく。お世辞にも走りやすい靴とは言えなかったが、不安のせいか足は痛みを訴えなかった。
と、わずかに前を走っていた男が、階段の踊り場で足を止めて呻いた。
「どうしたの」
そう訊いたが、男の視線の先を追ってすぐに状況を理解した。
壁には果物かごを描いた巨大な油彩画が掛かっていた。その絵の半分ほどに鮮血がべったりとこびりついている。
そして絵画のすぐ真下の床の上には、上半身の完全に潰れた男の死体が、うずくまるようにして存在していた。
思いの外素早く状況を理解できた私は、悲鳴じみた声を上げる。
「こんなの……私たちの手に負えませんよ!」
人間の仕業とは思えない。まるで蚊でも潰すようなあっけなさで被害者が殺害されたということは、容易に想像がついた。
「とにかく俺は生存者を捜す。あんたは早くここから出ろ! 時期に応援が来る!」
相棒の初代相棒に似た刑事は、苦悶に満ちた表情でそれだけ言って更に階段を上がって行った。
自分でも信じられないことだが、取り残された私が最初にしたことは、死体の足元に転がっていたスタッフパスを入手することだった。これさえあれば大抵の場所を通過できるし、助けも呼びやすい。パスにホテルのロゴが入ってない所を見るに、この被害者も今日のイベントの関係者だったのだろう。首から血塗れのパスを下げると鉄のような臭いが立ち上ってきたが、そんなことを気にしていられる状況でもない。
一目散に階段を駆け下り、転がるようにして屋外に出る。生存者なんている訳ない。あの刑事の選択は明らかなミスだ。この建物内にいるのは、紛れもない化け物なのだから。
異変に気付く様子もなく突っ立っている無能なガードマン連中に対して、心の中で悪態を吐きながら、私は駅方面に向かって駆ける。一刻も早くここを離れたい。安全な家に帰りたい。
十字路を二つほど超えたその瞬間、周囲が光に包まれたような気がした。ビルの影を抜けたらしい。
全く以て奇妙な話だが、その五月の陽光を浴びた瞬間――
ついさっきここを一緒に歩いた友人の顔が、脳裏をよぎってしまった。
急停止した私は、踵を返して来た道を全力で戻り始めている。
あの施設内にもう生存者はいない。その見立ては間違っていないだろう。断言しても良い。
つまり、あいつも殺されてしまったのだ。
死の恐怖は、自分でも驚くような速やかさで怒りに上書きされていった。
思えば私はいつもそうだった。手が届かなくなってから物の価値を痛感するのだ。
卒業してから学校の楽しさに気付いたし、適当に付き合っていた友人たちが実は心の底から好きだったことも自覚した。
私にとってあの友人は、かけがえのない存在だったのだ。
絶対に逃げない。相手が何であろうと捕まえてやる。
戦意以外の全ての感情をどこかに置き去りにした私はホテル正門に戻り、円形のロータリーの真ん中をぶった切って玄関に向かう。四角い顔の中年のガードマンが呑気に中央の自転車置き場を整頓していたが、私はその横を風のような勢いですり抜けて、閉まりかけていた自動ドアの前に飛びつく。
そして――
「その男を止めて!」
振り返った私は、無意識にスタッフパスを掲げてそう叫んでいた。
正門に張り付いていた二名のガードマンが、不審がりながらもロータリーにいた男に接近し始める。
深い理由もなく取った行動にも関わらず、私の脳内は勝利の幸福感で満ち溢れていた。勝った。この悪夢は私の勝ちで幕引きだ。
あいつの仇が取れたのだ。
ぱきょり、という湿っているのか乾いているのか良く判らない音がした。よく見れば、男の肩に手を掛けようとしていたガードマン二人の首が、あり得ない角度に捩じ曲がっている。
すっかり失念していた。いかに冴えない風貌であっても、相手が人間ではないという事実を。
「ミステリーの読み過ぎだな」
力なく崩れ落ちたガードマンに興味を失い、私に向き直った男が言う。なぜミステリー好きなのが見破られたのだろう。
――自動ドアが閉まり切っていなかったから、俺が直前に中から出てきたことに気付いたんだろう。
そんな深読み的な思考は微塵も持っていなかった。
とりあえず。
ごめん。やっぱ無理だった。
最後に友人に詫びを入れ、私は怪物に背を向けて走り出した。
おわり