「浮気したのは君が冷たかったから」と言われました。それとこれとは別でしょう?
アメリア・ハーグレイヴが、婚約者のノア・エヴァレットに違和感を覚えるようになったのは、三か月ほど前からだった。
「今日の放課後、一緒に帰らない?」
「ごめん。今日はちょっと用事があるんだ」
「そう。分かったわ」
以前なら、それで終わっていた。
ノアにも友人はいるし、アメリアより一学年下とはいえ、学院の二年生ともなれば忙しい時期もある。
だから疑わなかった。
その日の帰り道、中庭を通るまでは。
「ノア先輩、見てください。この花、とっても綺麗!」
「本当だ。ミレーヌの髪と同じ色だな」
「もう、そんなこと言われたら照れちゃいます」
二人は楽しそうに笑っていた。
ミレーヌ・コルベール。
ノアより一年後輩の男爵令嬢だ。
「⋯⋯用事って、ミレーヌ嬢だったのね」
翌日、アメリアはノアを尋ねた。
するとノアは少し面倒そうな顔をした。
「彼女、勉強で困ってるんだよ。相談に乗ってただけ」
「でも、一緒に帰ろうって誘った時には、そう言わなかったでしょう?」
「わざわざ誰と会うかまで報告しないといけないの?」
「そういう意味じゃないわ。ただ⋯⋯」
「アメリアって、意外と嫉妬深いんだな」
冗談っぽく笑われ、アメリアはそれ以上言えなくなった。————自分は、面倒な女なのだろうか。
ノアは昔から優しい。
困っている人を放っておけないところも、彼の長所だと思っていた。
だから、信じることにした。
それから一週間後。
昼休み、二人が食堂で向かい合って座っているところを見た。
「最近、よく一緒にいるのね」
アメリアが言うと、ノアはため息をついた。
「またその話?」
「責めているわけではないわ。ただ、二人きりで食事までしているから」
「友達と昼飯を食べたら浮気なの?」
「そうは言ってないでしょう」
「だったらいいじゃないか」
さらに一週間後。
ミレーヌの腕に、見覚えのないブレスレットがあった。
ノアからの贈り物だった。
「誕生日だったからだよ」
「私の誕生日には、何もなかったわよね」
口にした瞬間、自分でも嫌になった。
プレゼントが欲しかったわけではない。
ただ、悲しかった。
「それ、去年の話だろ?」
「⋯⋯そうね」
「いつまで言うんだよ」
「ごめんなさい」
謝ったのはアメリアだった。
それでも二人の距離は近づいていった。
中庭では、ミレーヌがノアの腕へ抱きついていた。
そのたびにアメリアが何か言えば、
「ただの友達だよ」
「ミレーヌは距離が近いだけ」
「信用してくれないの?」
といった言葉を向けられ、最後には必ず、自分の方が悪いような気持ちにさせられた。
だからアメリアは何も言わなくなった。
そして、ノアから言われた。
「最近、冷たくない?」
「え?」
「前はもっと俺のこと気にしてくれてたじゃん」
アメリアは言葉を失った。
「⋯⋯あなたが、私を嫉妬深いと言うから」
「だからって無視することないだろ」
「⋯⋯無視なんてしてないわ」
「してるよ。最近のアメリアと一緒にいても楽しくない」
何を言えば正解なのか、分からなくなった。
そして、その答えが出ないまま一か月が過ぎた。
ある日の放課後——アメリアは忘れ物を取りに教室へ戻った。
その途中、人気のない階段の踊り場から話し声が聞こえた。
「誰か来ちゃいますよ」
「少しくらい大丈夫だって」
知っている声だった。
覗かなければよかったのかもしれない。
ノアがミレーヌの頬に手を添えて————そして二人は、キスをした。
「⋯⋯ノア」
二人が飛び退く。
「アメリア!?」
ミレーヌがノアの後ろへ隠れた。
アメリアは不思議なくらい冷静だった。
「相談に乗っていただけだったのよね」
「これは⋯⋯」
「友達だったのよね」
「待ってくれ!説明するから——」
「何を?」
ノアは黙った。
やがて、観念したように息を吐く。
「⋯⋯俺が悪かったよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸が少しだけ軽くなった。
ようやく認めてくれた。
そう思った。
「でもさ」
続いた言葉に、アメリアは顔を上げた。
「こうなったのって、俺だけのせいなのかな」
「⋯⋯え?」
「最近のアメリア、ずっと冷たかっただろ」
「それは⋯⋯」
「ミレーヌは俺の話を聞いてくれたんだ。俺が辛い時も一緒にいてくれた」
ノアは困ったような顔をした。
「アメリアがもう少し俺を大事にしてくれてたら、こんなことにはならなかったと思う」
何も言えなかった。
「もちろん、キスした俺も悪いよ。でも俺だけが全部悪いみたいに言われるのは違うだろ?」
「⋯⋯⋯⋯」
「アメリアは俺より一つ年上なんだからさ。もう少し大人になってくれてもいいだろ?」
アメリアは俯いた。
「少し、考えさせて」
それだけ言って、その場を離れた。
帰り道、なぜか本当に自分が悪かったのではないかと思った。
最近、ノアに冷たくしていたのは事実だ。
もっと優しくできたかもしれない。
もっと彼の話を聞けばよかったのかもしれない。
「それで?」
翌日の昼休み、親友のジュリエットはアメリアの話を最後まで聞いてから尋ねた。
「あなたが冷たかったら、他の女とキスしていいの?」
「⋯⋯え?」
「ノアに不満があったら、あなたも他の男とキスしていいってこと?」
「それは駄目でしょう」
「でしょう?」
ジュリエットは呆れた顔をした。
「不満があるなら話し合えばいいの。それでも駄目なら別れればいい。どうしてその間に『別の女とキスする』が入るのよ」
「でも、私にも悪いところが」
「あるかもしれないわよ」
意外な返事だった。
「恋人同士なんだから、アメリアにだって悪いところの一つや二つあるでしょうね」
ジュリエットは紅茶を飲む。
「でも、それと浮気したことは別でしょう。理由がどうであれ、浮気した方がぜっっったいに悪いのよ」
アメリアは黙った。
あまりにも単純な話だった。
「⋯⋯そうよね」
アメリアは、思わず笑ってしまった。
ずっと絡まっていた糸が、一瞬でほどけた気がした。
翌日、ノアが当然のように話しかけてきた。
「もう落ち着いた?」
「ええ」
「俺も悪かったよ。アメリアも悪かった。それで終わりにしよう」
「そうね。終わりにしましょう」
「うん。じゃあ——」
「婚約を解消しましょう」
ノアの笑顔が消えた。
「⋯⋯は?」
「昨日、両親にも相談したわ。正式な手続きを進めます」
「待てよ。一度の過ちだろ?」
「一度?」
アメリアは思わず笑った。
「三か月間、嘘をつかれていたのだけれど」
「でもキスしたのは一回だけだ!」
「回数の問題ではないわ」
「こんなことで婚約を解消するのかよ!」
「こんなこと、なのね」
その一言で、最後に残っていた迷いも消えた。
「さようなら、ノア」
婚約は正式に解消された。
ノアはすぐにミレーヌと交際を始めた。
アメリアは意外なほど平気だった。
昼休みはジュリエットと食事をする。
放課後は図書室へ寄る。
休日には友人たちと街へ出る。
ノアが誰といるのか気にしなくていい。
嫌われないように言葉を選ばなくてもいい。
その生活は、思っていたよりずっと楽だった。
そして三か月後、学院で妙な噂を聞いた。
ミレーヌが三年生の男子生徒とキスをしていたらしい。
数日後、中庭で激しい口論が起きた。
「恋人がいるのに他の男とキスするなんて最低だろ!」
ノアだった。
向かいにいるミレーヌは、不満そうに頬を膨らませている。
「でも最近のノア、私に冷たかったでしょう?」
「は?」
「先輩は私の話をちゃんと聞いてくれたの」
「だからって浮気していい理由にはならないだろ!」
「私だけが悪いみたいに言わないでよ。ノアがもっと私を大事にしてくれてたら、こんなことにはならなかったんだから」
ノアの口が止まった。
アメリアは少し離れた廊下から、その光景を見ていた。
うっかり目が合うと、ノアの顔から血の気が引いた。その数日後。
「アメリア」
放課後、ノアが待っていた。
「⋯⋯俺が悪かった」
「そう」
「今さらだけど、分かったんだ。君がどんな気持ちだったのか」
「そう。分かってくれたのなら良かったわ」
ノアの顔に、わずかな希望が浮かんだ。
「だったら、もう一度——!」
「でも」
アメリアは穏やかに遮った。
「あなたが反省したことと、私がもう一度あなたを好きになることは、別の話でしょう?」
ノアは何も言えなかった。
「それとこれとは別よ」
かつて自分が理解できなかった、とても簡単なこと。
今なら迷わず言える。
「さようなら、ノア」
アメリアは振り返らなかった。
今度こそ、本当に終わったのだから。
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