第12話 お別れ
龍登 86歳
「結菜、調子はどうだい?」
低くしゃがれた声で、目の前の結菜に語りかける。
「まあ、調子も何もないかもしれないがな」
返事はない。
眠っているように棺の中に横たわっている、愛する妻。
年老いた龍登は、結菜を愛おしい視線で見つめる。
ボリュームのあった白髪も、細くなり、頭皮が透けていた。
顔や手には多くの深い皺が刻まれ、筋肉も衰えて小さくなっている。
「君は綺麗だな、結菜。
とても、88歳には見えないよ」
結菜もまた、年老いている。
けれど、老けてもなお、その美しさは健在だと、龍登は思う。
「88歳、米寿だよ。
ここまでボケもせず、怪我も病気もなく、無事にお迎えが来てよかった」
優しく髪と肌に触れた。
ひんやりと冷たい肌が、もうこの世に結菜がいないのだと分からせてくる。
「みんな、君との別れを惜しんでいた。
家族も、仕事でお世話になった人も、近所の人も、みんなだ。
本当によかった。君の望みを最後まで叶えられて」
龍登の脳内には、皆が涙を流して惜しむ姿が浮かんでいた。
自分たちの両親のように、惜しまれ、家族に看取られて行けたこと。
それは、ふたりが叶えたい最後の夢であった。
「今日、これから君を焼くそうだ。
きっと、骨も多く残るだろうさ。運動して、牛乳をたくさん飲んだおかげだな」
ハハハと、力なく笑う。
最愛の人が亡くなったのだ。
夢を叶えたとはいえ、やるせない気持ちが無いわけがなかった。
60年。
常に隣にいた人、愛していた人なのだから。
「パパ、大丈夫?」
優しい声色が、龍登の上から降ってくる。
「……華、大丈夫だよ。
最後に結菜と話そうと思ってね」
「そっか」
娘の華に支えられる。
年老いて白髪や皺が増えても、華の美しさは健在であった。
「……綺麗な寝顔ね」
「……あぁ、そうだね。とても綺麗だ」
「うん」
すっ
音が僅かに聞こえる。
涙を堪える音だ。声も震えている。
「良かったな、結菜。みんなが、涙を流しているよ。
愛し愛される。君の願いが現実になって、本当に良かった」
「当たり前よ。ママは、凄く素敵な人だったもの」
間髪入れずに、華が言う。
そして、父である龍登の手を握った。
「そうだね。本当にその通りだ」
龍登の顔の皺が、さらに深くなるほど微笑んだ。
「そろそろ、火葬が始まるみたい」
「……そうか」
龍登は、もう一度、結菜に触れる。
「じゃあ、ここで一旦お別れだ。
火葬場で、また会おう」
華に支えられながら、杖をついて火葬場へと向かう。
「親父」
「おう、聡。色々と助かったよ。ありがとうな」
龍登の代わりに、葬儀の手続きをしてくれた息子の聡に礼を伝える。
聡は、一度顔を上げて涙を堪えるような仕草を見せた。
そうして、もう一度、自身の父である龍登と向き合う。
「いいんだ。ギリギリまで、話せたか?」
「あぁ、バッチリだ。みんなのお陰でな」
「そうか……。
すぐに始まるらしいから、一緒に行こう」
そうして、聡は腕を差し出す。
いつも淡々としている息子からの優しさに、龍登は笑みを浮かべた。
「ありがとな」
「おう」
「わたしも一緒に」
「ああ、華もありがとう」
龍登の足腰は、そこまで悪いわけではない。
杖をついてるとはいえ、一人で歩けるくらいだ。
正直なことをいえば、杖もファッションくらいの感覚。
けれど、龍登は甘えた。
自分よりも背の高い息子と、同じ身長になってしまった娘に支えられながら、火葬場へと向かう。
火葬場での一通りの流れが終わった。
そして、結菜と最後のお別れ。
1番手は、前にいた聡一家が前に出る。
「お義母さん……本当に、本当に……ありがとうございました」
大粒の涙を流す聡の嫁である美月が、結菜との別れを惜しんでいる。
嫁と姑。多くの家が苦労する中で、美月と結菜の関係は良好だった。
「……結菜おばあちゃん。天国でも幸せにね。夏には帰ってきてよ。
ほら、やっぱりさ、結菜おばあちゃんがいないと、寂しいから」
聡の娘である夏希が、棺に向かって涙を零す。
「結菜ばあちゃん。今までありがとう。天国でも、元気でね。
龍じいのことは、俺たちに任せてよ。たくさん、顔見に来るからさ」
涙目で優しい言葉を告げる聡の息子の修治。
「母さん、良かったな。みんな、泣いてくれてるぞ。
まあ、俺もだけどさ。本当に向こうでも元気にやれよ。
今までありがとな。親父のことは任せてくれ」
シャンと胸を張る、結菜と龍登の息子である聡。
聡一家の、最後の別れの挨拶が終わる。
次は、華一家だ。
まずは長男の優司が前に出る。
「ばあちゃん……俺たち、ばあちゃんは、ばあちゃんしかいなかったけど、幸せだった。
本当に、ばあちゃんがいてくれて、良かったよ。成人しても、涙流すくらいには、さ。ばあちゃんのこと好きだったんだ」
ぐっと前を向く。
「俺、また優勝できるように頑張るよ、ばあちゃん。
天国でも、応援しててくれよな。今まで、本当にありがとう」
続いて、杏奈が前に出る。
「おばあちゃん……編み物と刺繍、教えてくれてありがと。
おばあちゃんから、何でも教わるの好きだったなぁ。
絵も、編み物も、刺繍も。お陰で色んな仕事がもらえてる」
結菜から貰ったハンカチで、涙を拭う。
「本当はね、ウェディングドレス、見てほしかった。
でもそれは、おじいちゃんに譲ってあげて」
懸命に微笑みながら言う。
「だって、これからはおじいちゃん1人なんだもん。
ご褒美あげないとさ、おじいちゃん、すぐにおばあちゃんに会いにいっちゃうだろうから」
杏奈の言葉に、龍登は思わず笑みを浮かべた。
実際、そうなってもおかしくないと思ったのだろう。
「だからね、天国でいっぱい自慢話、聞いてあげてね。
本当に、今までありがとう、おばあちゃん」
二人の背中を見守っていた楓が、前に出て、静かに頭を下げる。
「お義母さん……わたしにとって、あなたは本当の母のようでした。本当に、お世話になりました。華のこと、お義父さんのことは、僕に任せてください。今まで、本当にありがとうございました。天国でもお幸せに過ごしてください」
そして最後に、華が棺の前に立った。
「ママ……今まで本当に……本当に、ありがと。
ママとパパ、2人のおかげで、本当に今も幸せよ」
華は龍登を一度見た。
龍登は変わらず穏やかな表情だが、涙が両目から零れている。
愛しているからこその涙。
華は、もう一度、結菜を見つめた。
「私もね、ふたりみたいになるよ。だから、天国でも、見守っててね。
私もさ、素敵なおばあちゃんになるし、楓と幸せな老後を過ごすよ」
もう触れることは許されない。
棺の中で、顔を見ることしかできなかった。
「天国でも、元気に幸せにね。本当にありがとう、ママ」
息子と娘、その家族が別れを告げ終えた。
最後は、龍登だ。
「結菜……出会ってくれて、ありがとう」
「一緒に過ごしてくれて、ありがとう」
「愛してくれて、ありがとう」
「俺はこれからも、結菜を愛してる」
「たくさんの土産話を持っていくから」
「その時は、一緒にどら焼きも食べような。約束だ」
一つ一つの言葉に想いを乗せて。
結菜に伝わるようにゆっくりと言葉を綴った。
「愛してるよ、結菜。また、必ず会おう」
最後に、愛の言葉と、再会の言葉を告げて、龍登は結菜から離れた。
ブーーー
ブザー音が、物悲しく響いた。
皆が涙を流して、結菜の最期を見送る。
惜しまれながら、火葬されていく。
龍登は最後に、頭を下げて、結菜のことを見送るのであった。
しばらくして、火葬場の煙突から、煙が上がる。
缶コーヒーを片手に、ゆらゆらと流れる煙を、龍登はベンチに座って静かに見上げていた。
「親父」
「おお、聡」
聡が龍登に声をかけてきた。
「隣、いいか?」
「あぁ、もちろんだ」
龍登は聡の顔を改めて見る。
壮年の顔つきは、親と仕事の責任を背負った男の顔だ。
聡はゆっくりと座り、龍登と同じく煙を眺める。
龍登もまた、聡と同じく煙を眺めた。
「100歳まで、頑張れよ」
唐突な言葉に、龍登はもう一度、聡の横顔を見つめた。
ふざけているわけではない。
聡の表情は真剣だ。今日のことで、思うことがあったのだろう。
龍登は、淡々と言葉を並べていく。
「それはぁ、厳しいかもな……まあ、ボケなかったらありか」
「たしかにな……ボケが一番怖いか」
「そうだな。まあ、でも、結菜が一人だと退屈だろうからな」
天に昇っていく白煙。
それを眺めている自分。
最愛の人が、この世から消えていく事実が、龍登の胸に刻まれる。
久しぶりに拭えない胸の痛みを感じていた。
病気ではない。毎年の健康診断を欠かしていないから、それは分かっている。
なら、この痛みの正体は、なんなのか。
考える力が弱まってしまった頭で、懸命に考える。
「あぁ……」
1つの答えが浮かんだ。
納得のいく、吐息がでた。
「……そうじゃないか」
「ん?」
器用なのか、不器用なのか。
聡には見えない方の片目から、涙が零れ落ちた。
「俺が……どうしようもなく、寂しいんだな」
結菜という存在が、この世から去った。
ポッカリと空いた穴の埋め方を、今の龍登は思い出せない。
それほどまでに、結菜と過ごした期間は長いのだ。
人生の四分の三。
共に歩んだ時間の長さ。
思い出のほとんどが、結菜との記憶だ。
当たり前だけど、当たり前じゃなかった日常が、次々に蘇る。
初めてのデート、同棲、プロポーズ、結婚、仕事と育児、家族行事。
今までは、写真を眺めて甦る記憶が、何も見なくとも甦る。
「怖いんだな」
「怖い?」
「あぁ、ボケて記憶が消えてしまうことが。
結菜と華、聡、ふたりの家族。みんなの思い出が消えるのが怖いんだ」
じっと缶コーヒーを見つめる。
結菜が好きだった飲み物。どうにも苦いが、これから飲むのは珈琲一択だろうと、龍登は思った。
大切な人の、好きだった飲み物。
それすら分からなくなったとき、龍登にはそれが、どうしようもなく胸が痛む。
「だからこそ、記憶があるままで、俺も眠りにつきたいと思ってしまったよ」
「……そうか」
「悪いな」
長生きしてほしいという息子の願い。
龍登は本音で話したからこそ、謝罪の言葉が口に出ていた。
「いいんだ。親父の我儘くらい、どうってことねえ」
「ふ、良い息子に育ちやがって」
「もうすぐ、50歳だけどな」
聡の言葉に、龍登は思わず目を見開いた。
「そうかー……もう、そんな年か」
「ああ。でもさ、まだすぐには、行くなよ」
聡は、煙を見て呟く。
龍登はただ一言、呟いた。
「なるべく頑張るよ」
「そうか」
でもさ、と、聡は龍登に向き合う。
「杏奈のウェディングドレスもあるだろ。
それに、優司もそうだ。それに、うちの子、夏希と修治もいる。
だから、まだ頑張ってくれ。頼むよ、親父」
「……ああ、そうだな」
ポッカリと空いた胸には、まだ入るものがあるじゃないかと、龍登は気付く。
孫たちも、この老いぼれを好きだと言ってくれる。
それだけで、十分かもしれない。
「そうだな……彼女に自慢できるものを一つでも多く持っていくのも、ありかもな」
「ああ、その意気だ。ありがとな、親父」
突然の感謝。
けれど、龍登は驚かない。
それは、聞き馴染んだ言葉だから。
常に感謝を忘れない。
龍登一家の家訓の様なものだ。
大切に育てた家族が、大切なことを受け継いでいってくれた。
龍登のぽっかりと開いた胸に、ゆっくりと温かい気持ちが流れ込んでくる。
「こちらこそ、ありがとうな、聡」
最後に、もう一度だけ、白煙を眺めた。
「結菜……もう少しだけ、待っていてくれ」
煙を見つめながら、胸を張って、そう呟いた。
「たくさんの土産話を持っていくからな」
まだ、自分は生きている。
生きているだけではなく、家族に支えられていた。
そしてまだ、生きていてほしいと言われている。
これほど幸せなことはないと龍登は思った。
結菜のいない生活のことを考えすらいなかった龍登であるが、残されたものは、多くある。
龍登は、結菜のいない生活をする覚悟を、一人で静かに決意した。
「おじいちゃーん!」
「パパ、中に入りましょう」
「いつものどら焼きあるよ、じいちゃん!」
龍登はゆっくりと立ち上がり、お気に入りの杖をついて、皆の元へと向かう。
杏奈と華、優司。
ぞろぞろと出てくる龍登の家族。
「うん……まだ頑張れそうだ」
抜け殻のような表情が消え、いつもの好々爺に戻っていたのであった。
その日の夜。
龍登は昔の思い出を、夢見た。
結菜との、思い出の日々の数々。
眠っている龍登が、自然に口角が上がってしまうほど。
きっと、懐かしくて、素敵な、思い出の夢。
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