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摩耗

作者: 沙華やや子

沢山の物語りがある

 私はずっと昔からここに居る。

 なぜだかここに居る。私には見えないが、どこかの会社の社名が宣伝文句のようにひっそりと私の顔の下に書かれているが、ずいぶん時間が経ち、その金色の文字はかすれている部分がある。


『マンション南天(なんてん)』入り口の壁に……無造作に取り付けられた感の否めない私の顔。

 マンションと言っても広いエントランスがあるわけじゃなし、まるで商業ビルの入り口のような処に私は居る。

 街の行きかう人もよく見える。


 新たに引っ越してきた人の中には私を見て「何でこんな所に? 気持ち悪、シュールだな~」とこぼした人も居たっけな。

 それでもほとんどの住人は私とにらめっこしながら、身なりを整え出掛けていく。


 だが、私の仲間はだいたいこんな場所には居ないので、確かに珍しいだろう。シュールな趣があり、恐怖すら与えるかもしれない。私の仲間たちは時に、個人個人の持ち物となり、普段はその人だけ、もしくはその人の家族だけを映す。


 私は鏡だ。


 私を覗き込んだある人は言った。

「マンション共用の鏡なんてなんか怖い。不自然。念が入っていそう……」


『念』か……。


 私の友はエレベーターに居るし、トイレにも居る。数え上げればきりがないほど、街中に鎮座する。


『念』とやらを払う為だろう、友たちは毎日決まった時間帯にピカピカに磨かれている。

 しかし私はくすんでいる。なぜかは知らない。取り付けられたまんまで茶色っぽいシミのようなものを(すみ)に持つ。


 不気味がられ厄介者扱いされながらも、おしゃれに入念な女子などには重宝されてもいる。


「じゃあ(たかし)、取りあえず、ここで。あたし達はもう帰るわ。(あきら)を早くお風呂に入れてやりたいし。後の事は自分でやってちょうだい」


 ……。見慣れない家族だ。父母と子ども、という関係であろうか。

 しかし女性は「もう帰る」と言ったから家族ではなく、恋人同士と女性の子どもか? 3才ぐらいの男の子と女性が手を繋いでいる。


 12月の午後6時。辺りはすっかり暗い。賑やかな駅にほど近いマンション南天に入居してきた男性は、なんだか一人置き去りにされたみたいに見える。


沙織(さおり)の奴『もう帰る』ってさ、電気屋これから見つけるのかよ?」

 曲がり角を曲がるまで、女性とその息子らしき男の子をじっと見つめていた男性・隆がボソッと言ったあと舌打ちした。


 私は男性と向かい合わせになった。彼が私に近づいてきたのだ。

「なんだこれ。こんなところに鏡? 変なの」と言った。

 その後、隆という名前の男性は、機嫌が悪そうにブツブツ言いながら階段を上って行った。


                 *


 私はこの新顔に興味を持った。


 スーツを着た隆は平日の朝8時半ごろ必ず階段を下りて来て、私の見える場所にある自転車置き場の自転車にまたがりどこかへ行く。四角く平たい鞄を持っているので仕事へ行くのだろうか。

 夕方の6時半ぐらいに戻って来て、私をちらともせず階段を上って行く。手には野菜などが見え隠れするスーパーの袋を持っていることもある。


 隆は毎日、同じ時間に同じように無表情で私の前を過ぎていく。

 隆は私に対して殆ど魅力を感じないらしい。見向きもしない。


 ある日曜日のお昼時。半月前、隆に「じゃあね」と言い去って行った沙織という名前らしい女性が、この間と一緒の子どもを連れマンション南天にやって来た。子どもは、沙織がお風呂に早く入れたがっていた『明』だろうか。


 隆と違い、自分の顔が好きなのか何なのか、兎に角絶対に私の前で立ち止まる沙織。

 私に見入り、深紅の口紅を塗り直している。


「ママ~、パパなにしてる?」明らしきが、私に夢中の沙織に向かって話しかける。

「うーん、そうね。ゲームしてるかもしれないね。いこっか、お待たせ! 明」


 やはりこの子は明という名だな。ぷっくりとした小さな手がなんとも愛らしい。羽毛のようにやわらかな髪の毛をした天使のような男の子だ。

 明は背が小さいので、私から離れた時だけその姿が見止められる。


 沙織は髪の毛をツインテールにした若い母親だ。私が見るに……おそらく年齢は20代だろう。


 家族のカタチが様々な事を私は知っている。この目で目の当たりにしてきた。マンション南天で。男女の関係もいろいろある事を私は生まれた時(私がここに設置された時)から学んでいった。


 マンション南天はそんなに大きなマンションではないらしい。私が知る限りでは住人は10組程度だ。


 隆の部屋で沙織と明はどう過ごすのだろう? 恐らく元夫婦だ。今は友達付き合いをしているのだろうか? それとも息子の明が父・隆に会いたがるから母である沙織が連れてくるのだろうか。


 何せ私は暇人だ、おっと……暇()だ。あれこれ妄想するのは楽しい趣味の一つだ。


 夕方5時。

 沙織と明の声が階段の上のほうから聴こえてきた。

「ママ、またパパに会える?」

「うん、もちろんだよ、明。また遊びに来ようね!」

「うん!」


 私は遠くからやって来る街の灯をぼんやりと顔に映しながら、胸が切なくなった。明の無邪気さに胸が痛んだ。

 家族など持った事はないが、私には心があるのか? 誰かが言った『念』が私に『心』を与えたのかも知れない。


 やがて誰もがコートの端をギュッと持ち体をくるむ寒い冬が過ぎ、すっかり春がやって来た。


 朝の光の中、満開の桜のピンクが私に反射する。


 あれからもずっと、隆のもとへ毎週のように、沙織と明がやって来ていた。

「ママ、パパ喜ぶ?」

「うん! きっと明が択んだチョコレートケーキ、パパ喜んで食べるよっ」

「わーい!」

 今日はケーキを手にしているせいなのか、私の前で立ち止まらない沙織。嬉しそうな親子のおしゃべりが、階段の上へと小さくなっていく。


 隆は見送りをしないんだな。つらくなるからだろう、と私は何となく感じ取る。

 たくさんのカップルが「さようなら」と手を振る姿を私に映した。

 次の約束を楽しみに倖せを噛み締めた「さようなら」。ほんとうの「さようなら」。半ばやけっぱちの「さようなら」。

 それらを見ていると、私は豊かなアート作品を無料で見られる喜びを感じたし、手を振り続ける人を助けたいような気持ちにもなった。

 でも鏡だからなにも出来ない。


 1年経った。


 相変わらず隆は会社へ行っているようだ。いつもの時間に、自転車に乗り出発する。雨の日は合羽を着ていく。

 出不精らしい隆が最近では、土曜日や日曜日も自転車に乗りどこかへ行く日を持つようになった。

 そんな時、沙織と明はやって来ない。


 どうしたのかな? と私が考えこんでいると、次の週の土曜日には沙織と明がマンション南天へやってきたりもした。


「ねぇ、ママ、パパともう喧嘩しないで」と明が私の近くで漏らした。

「うん、大丈夫よ。明、ママは怒ってないよ。パパと仲良くするね!」

 明がさみしそうに黙っている。

「明? ママとお手てを繋ぎましょう」

「はーい」


 すぐに階段を上ってゆく音がきこえ始めた。母子は黙ったまま私のそばから消えていった。


(ああ……私が人間ならば、今頃ウロウロそこら中を行ったり来たりしているだろう。隆と沙織になにがあったのだろう。明を笑顔にしてやってほしい)

 備え付けられた鏡だから、歩けない。


 夕方の6時半……沙織と明が階段を下りてきた。二人の声が近づいて来る。

「ママ、またパパに会いたい! 楽しかったね」

「うん、そうね。明。今度は家族でお好み焼きを一緒に食べに行きたいね」


 ……。どうしてこの夫婦は別れてしまったのだろう。赤の他人、おっと他()の私ごときが要らぬ世話だが。

 しかし皆そうだ。マンション南天の皆がそうだった。あんなにプンプン怒っていた彼氏が、次の日にはベッタリになっていたり……一人の学生らしい女性をいつも訪ねていた仲良しの男性が突然来なくなったり……。私は人間じゃなくて良かったかもしれない。人間は大変そうだ。


 私は恋をしたこともなければ、子どもを持つこともない。声を発することが無いから言い争いとは無縁だ。時々孤独を感じるが、人間を羨ましいとは思えない。


 翌日の日曜日、隆が珍しく私をじっと凝視した。恥ずかしくて逃げ出したくなるぐらいの長い事見つめている。浮かない表情だ。しばらくし、たった一言だけつぶやいた。

「俺の顔、気持ち悪」

 彼は苦笑いした。

 私は彼の代わりに泣きたくなった。何処が気持ち悪いというのだ。隆は派手な顔はしていないが、『気持ちの良い顔』をしている。優しさを湛えている。

 正直言って、私は見ていられない顔もこれまで映してきた。それは顔の造りの事を言っているんじゃない。意地悪を企む顔や、人を陥れる前の表情だ。目の前から消えてくれ! と願ったぐらいだ。

 隆は、なにかコンプレックスがあるのだろう。私はそう感じる。ただ、隆に見つめられると嬉しくなるので、性根が美しいのだろう。


「ママ、ほんとう? ほんとうに……?」

 明の声だ。


 それはある日曜日の朝。

「ええ、ほんとうよ。きっとよ。必ずパパにまた会えるわ。明、ママは明と指きりするよ」

「うん!」

 少し離れた所に明と沙織が小指と小指を絡め笑顔を交わす姿が見えた。


 今までと何かが違う。私は悲しい色合いを沙織から感じ取った。

 沙織が私の所に来て、真っ直ぐに私を見つめた。沙織の瞳の中にボートの浮かんだ湖が見えた。

(さっき、明に言った言葉の意味は……?)考え直すが私にはよくわからない。


 口紅は塗り直さずに、豊かな前髪を左手で整えている。どうやら右手は明と繋いでいるらしい。間近なので明の姿は私から見えない。


「ママ、早くパパに会いたい!」

「うん、行こうね! 明」微笑む沙織が左手で瞳を少しだけ拭った。ボートが揺れた。


               *


 その日の夕方は、隆が階段から下りてきた。(ああ、今日はお見送りをするんだな)

「気を付けて帰るんだぞ、明。また遊ぼうな!」と隆。

「うん! パパ大好きっ」満面の笑みの明。

 沙織は俯き瞳を伏せている。

「じゃあね」と沙織。「うん、気を付けてね」と隆。


 曲がり角の所で明は振り返った。一生懸命手を振る隆。嬉しそうに精いっぱい手を振り返す明。


 私はもう可愛いあの姿を見られないんじゃないかと予感した。

 沙織は振り向かなかった。


               *


 そして、梅雨がやってきた。

 ああ、このムカデ君を何とかしてほしい。ジメジメする季節の到来とともに、私のことを好いてか、私の顔の近くを這うのだ。モゾモゾして不快だ。


 雨の続く日も、隆はいつでも自転車で出勤して行った。


 道行く人の「こんなところに紫陽花! きれいだね」という声が聴こえる。


 何人もの人から聴いた。「時間が経つの、早いね。もう8月!」そのようなセリフ。

 紫陽花は枯れ、やがて向日葵の季節が到来した。


 私の予感は的中してしまったのだろうか。儚げなあの日の母子の姿をあれ以来見ない。


 (隆と沙織と、明……[ほんとうのさようなら]をしてしまったのだろうか。指きりは何処へ行ったのか)

 何処からか聴こえてくる風鈴の涼やかな音色が、私のやり切れなさを撫でる。


 あ! 隆がやって来た。ごきげんな表情をしている。

 そして……ニコニコしながら私を覗き込んだ。

(お?! いつもより粋な格好の隆)


「隆~!!」

 聞きなれない女性の声だ。

夕子(ゆうこ)、来たの!」

「ええ、智也(ともや)も、ネ! ……ほら、智也、隆さんに『こんにちは』は?」

 どうやら夕子という女性の子どもらしい、智也君は。ちょうど………1年前の明と同じぐらいの背格好だ。3歳ぐらいだろうか。

「こんにちは……」もじもじと夕子の足の後ろに隠れる智也。

「こんにちは! 智也君。仲良くしてね!」と隆。


 私は、いったいぜんたい……沙織との交際はどうなったのだろう。明の気持ちは……隆の最初の家族の記憶が蘇り、胸がズキンッとした。


 あの日、沙織が目に涙をためていた、明と指切りした日は……何処へ行ったのだと虚しいような心地がしてきた。


 自分が人間じゃなくて良かった、と思った。と同時に人間だったら、『パパに必ず会えると信じていた』明に会いに行ってやれるのにと思った。会いに行ったところで、自分に何ができよう。でも、鏡で培った技術を生かし、物真似を教えてあげられるな、などと考え付きもした。


 幸せそうな隆と、夕子と智也がキャッキャと言いながら階段を上って行ったあと、私は力が失われていくのを感じた。


 ああ、鏡でありながら魂を持ってしまった。


 見守り続ける事が宿命であるがゆえ与えられる、残酷な仕打ちを経験した今、ちょうど私の寿命がやって来た。


 勝手に割れて、粉々になった。



このカケラがもしも刺さったあなた、あなたがHappyで居られますように

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