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戻れぬ道標  作者: sana
3/3

交錯する影

 ――黒川湊


東京の空は、妙に低く感じられた。


午後の陽が傾きかけた頃、自宅の書斎で湊は深いため息を吐いた。


机の上には整理された書類、脇には例のUSB。そして、ひとつの封筒がその中央に置かれている。ミネルヴァ会の理事名簿と、数名の職員の顔写真が入った資料だ。玲奈が生前、執拗に迫っていた対象たち。


「.....始めるか」


誰に向けたものではない声が、部屋の空気に溶けていく。自分の背中を押す言葉が必要なほど、今日の湊には迷いがあった。


玲奈の死の真相を明かす――それは建前ではなく、彼自身の罪の重さを誤魔化さないため行為だった


あの夜、彼はすでに知っていた。矢島が玲奈の部屋を訪れることも、彼女が危険なものに近づいていることも。しかし、探偵の顔ではなく、裏の交渉人としての立場が、湊を沈黙させた。


「見なかったことにすればいい。手を引けば、波風も立たない。」


そんな誘惑は何度もあった。だが、あの日玲奈が残した最後の言葉、「誰かが見てなきゃいけない」が今も胸に残っている。


再びUSBを開き、、「mem_log_17.txt」の末尾を読み返す。玲奈の文章は拙く、それでいて真っ直ぐだった。


<7月14日、カフェリド。最後の話し合いになるかもしれない。でも、私は逃げない矢島さんが関わっているなら、必ずその証拠を掴む。>


湊はノートPCを閉じ、目を閉じた。まぶたの裏には、ある夜の光景が繰り返し映る。カフェリドの裏手、人気のないテラス席。テーブル越しに座る玲奈と矢島、そのすぐ背後の闇に粉れていたのだ、自分だった。


自分は「観察者」だったはずだ。関わらず、壊さず、ただ見届ける。だがその姿勢こそが、結果的に玲奈の死を招いた。


(これは償いだ)


そう言い聞かせながら、湊は新たに作成した人物相関のメモを手に取る。矢島真一郎――社内でも評価の高い先輩記者にして、玲奈の元恋人。だがその裏では。ミネルヴァ会の内部と何らかの形で繋がっていた。


玲奈が取材していたNPO法人ミネルヴァ会。若者支援を掲げながら、内部では精神的な支配構造と隠蔽体質がはびこっていた。玲奈はそれを暴こうとしていた。しかし、彼女が見つけたある証拠により、矢島が最も危うい立場になった。


(.....証拠は処分された)


湊は思う。日記帳が消えた理由、パソコンのデータが部分的に削除されていた理由、それは偶然ではない。誰かが事後処理を行った。そして、その実行犯は間違いなく矢島だ。


それを証明する術も、手段も、まだ見えない。だが、今度は逃げないと誓った。


午後五時を過ぎ、湊は上着を羽織った。これから向かうのは、かつて玲奈が通っていた大学。その図書館に、彼女が調べていたミネルヴァ会関連の資料が一部残されている可能性がある。


(矢島を問い詰めるにはまだ早い)


証拠が必要だ。確実に、論理的に、彼を追い詰められるだけの。でなければ、ただの復讐心と見なされる。


自宅の扉を閉め、階段を降りる途中、ふと携帯が震えた。差出人は――井上紗英。


『少し話がしたい。玲奈さんのおと.....』


数秒間、湊はその文面を見つめていた。


井上紗英――玲奈の元同僚で、かつて彼女と共同でミネルヴァ会の内部に接触した経験を持つ人物。事件直後から表立った発言を避けていた彼女が、今になって何を話そうというのか。


(.....動き始めたな)


湊は微かに笑った。これは負うべき波だ。玲奈が繋ごうとした線は、まだ途切れてない。


「俺が終わらせるよ。玲奈」


誰にも届かぬよううな小声で、湊はそう呟いた。


階段の先に沈む夕日が、ゆっくりと彼の背中を照らしていた。



――矢島 真一郎


「.....まだ終わってないのか」


煙草の煙が、窓の隙間から湿った東京の空へと吸い込まれていく。矢島真一郎は、ぼんやりと曇天を見上げながら、吸い殻を灰皿に押し付けた。会社からは「取材の準備」として数日間の有給を取っていたが、実際には心身を休めるどころではなかった。


自宅のリビング。薄暗い室内には、使いかけの資料と書きかけの原稿が散乱して入る。その中央にぽつんと置かれた、玲奈の名が知るされた手帳。


いや、かつて彼女が使っていたものと「同じ種類の手帳」――そう思い込もうとしていた。だが、これは間違いなく彼女の手帳だ。


(なんで、まだ手元に置いてるんだよ)


自嘲気味に笑いながら、矢島は手帳をそっと閉じる。もう何度も読み返した。中には断片的なメモや名前、ミネルヴァ会の構造に関する疑問、そして「黒川湊」の名前を走り書きで記されていた。


玲奈は、あの日、確実に核心に迫っていた。矢島はそれを知っていたし、止めようとした――だが、方法が、悪かった。


あの夜のことは、鮮明に覚えている。


7月14日、カフェリドの裏手。玲奈が自分を呼び出した場所。彼女はもう、すべて知っていたかのように、ミネルヴァ会の内部構造を語った。役員の名前、資金の流れ、そして自分の名も。


「矢島さんも知ってたんですね。ミネルヴァ会が何をしてるか」


問い詰める彼女の目は、記者としてではなく、一人の人間として怒っていた。


矢島は言葉を失った。なぜなら、彼女が正しかったからだ。


「玲奈.....今更引けるわけがない。俺だって、最初は善意だった。でも、あの中に入り込んで気づいたんだ。連中は切る者と使う者を区別しない」


玲奈は信じなかった。彼の言葉を。


「じゃあ、どうするんですか?黙ってるの?協力するの?」


彼女の言葉は、剣のように鋭く胸に刺さった。正義を貫く勇気も、腐敗を告発する気概も残っていなかった。ただ、自分のキャリアと立場を守るために沈黙した。


その夜、彼は一つ決断を下した。


「......止めるしかない。あいつを」


直接手を下したのは、言葉を選べば事故だった。


玲奈の部屋には、合鍵を作って入った。かつて同棲していた頃の名残だった。部屋の中は静かで、彼女は一人だった。


「久しぶりだね」


振り返った玲奈は、もう以前の恋人ではなかった。取材者として、記者として、まっすぐに彼を睨んだ。


「やっぱり来たのね」


「話がしたい」


「そろ言葉、もう何度聞いたと思ってるの?」


言い合いになった。矢島は彼女に「やめてくれ」と懇願したが、玲奈は頑として引かなかった。


「だったら、出て行って。今すぐ」


矢島は、ポケットから缶入りのドリンクを取り出してテーブルに置いた。冷たいアルコール入りの炭酸飲料。彼女が好きだった銘柄。


「......せめて、飲んでから追い出してくれよ。」


玲奈はしばらく黙っていたが、ため息をつき、缶を手に取った。


(その一口が、すべてを変えた。)


中身は、少量の睡眠導入剤が混ぜられていた。大量ではない。数時間眠る程度。そう思っていたが。だが――予想外の反応が出た。


彼女は飲んだ後すぐに意識を失い、倒れた。慌てた矢島は彼女を浴室に運び、湯を張り、冷水をかけて意識を戻すとした。だが、彼女の呼吸は戻らなかった。心臓が止まっていた。想定していた眠らせるだけのつもりが、取り返しのつかない事態になっていた。


パニックだった。事故だったと自分に言い聞かせながら、矢島は証拠となるものをすべて処分した。服に触れた水、テーブルに残されたグラス、そして手帳。


自殺に見せかけるために、湯船に浮かべたその瞬間の冷たさを、今も忘れることができない。


矢島は手帳を胸に抱えたまま、ソファに体を沈めた。


(.....黒川。あいつは気づいている。いつ動くか、だけにの問題だ)


黒川湊。玲奈の死の直前、彼女と矢島の密会現場に現れた「観察者」。あの男は、ただの探偵ではない。裏の顔を持つ交渉人――矢島自身、それを知っていた。


(なら、お互い様だろ)


湊が動けば、矢島も動く。どちらが先に、相手の「裏」を暴くかの勝負だ。


そして、もう一人。最近になって妙に接触を試みてくる存在がいる。


井上紗英――玲奈の同僚にして、矢島がかつて情報を探るために一度だけ接触した女。


(あいつも....何か知ってるのか?)


携帯に届いた未読のメッセージがひとつ。差出人は不明、本文はただ一行。


『あの夜のこと、全部見てた。』


矢島の心臓が、一瞬だけ止まった気がした。


誰だ?ごこまで見ていた?――


指先がじんわりと冷える。



(まだ、終わってない.....)


震える手で煙草に火をつけながら、矢島はじっと窓の外を見つめていた。まるで、過去の影がそこから現れるのを持つかのように。



――篠原 三月


午後六時。新宿の雑踏を抜け、三月は小さなビルの階段をゆっくりと上っていた。目的地は、玲奈と最後に話したあのカフェ――「リド」。当時は何の変哲もない打合せだった。だが今、その記憶は別の意味を帯びて迫ってくる。


(あの時、玲奈は本当は何を言いたかったんだろう。)


扉を押し開けると、木の香りと薄暗い照明に包まれた店内は、あの日と何も変わっていなかった。角の席に腰を下ろし、彼女はバッグから小さなメモ帳を取り出す。玲奈から最後に受け取った、たった一枚の紙――「矢島に気を付けて」。それだけが、残された彼女の警告だった。


その後、玲奈の訃報を聞いた時、三月はすぐに黒川を訪ねた。だが、あの男はほとんど何も語らず、逆に彼女の目を真っすぐ見て、こう言った。


「本当に玲奈の死を知りたいなら、自分の足で動いてください。」


最初は怒りに近い感情を覚えたが、今ならわかる。あれは突き放したのではない。巻き込まれる覚悟があるかを、見極めていたのだ。


(玲奈は、私を信じて何かを託そうとしていた。)


三月はこの数日間、玲奈の過去の取材ノートやスケジュールを洗い直し、彼女が何に執着していたのかを少しずつ見えてきた。ミネルヴァ会、その役員のひとりに、彼女の家族に関係のある人物がいたという。だが詳細は書かれていない。おそらく、それを調べる過程で玲奈は「身内」をも巻き込む覚悟をしたのだ。


――まさか、玲奈の父親が関係者だったのか?


疑念が浮かび、すぐにかき消す。まだ決めつけるには早い。だが、彼女の死を「正義感の暴走」として済ませるのは、あまりにも短絡的だ。


(私にできることは、玲奈が見ようとしていた全てを、もう一度辿ること)


そのとき、携帯が震えた。差出人は井上紗英。画面には一言、「会いたい。今夜、話したいことがある。」とだけ。


彼女の名前に、わずかな胸のざわつきを覚える。玲奈の死後、音信不通になっていた彼女が、なぜ今になって? 玲奈の死と、彼女の沈黙には、きっと意味がある。


三月は深く息を吸い込み、返信を打ち込んだ。:

『わかった。今夜、会おう。』


冷めかけたコーヒーを残し、彼女は席を立った。闇が色濃くなる街を、次の真実へ向けて歩き出した。



――井上 紗英


集合場所に指定したのは、住宅街の外れにある小さな公園だった。人通りは少なく、騒がしさもない。誰かに聞かれる心配もない。紗英は、木製のベンチに腰を下ろしながら、来るべき言葉を胸の中で繰り返していた。


(ようやく、話せる時が来た。)


玲奈の死以来、紗英は沈黙を守ってきた。それは恐怖のせいではない。彼女が残した「ある記録」を見たからこそ、軽はずみに動けなかったのだ。


USBに残された音声ログ。7月14日、カフェリド裏手で玲奈と矢島が交わした最後の会話。それをこっそり録音していたデータを、彼女は偶然手にした。玲奈がUSBを共有していた同期のIT担当が、密かにバックアップを紗英に託していたのだ。


その内容は衝撃的だった。矢島が自分の立場を正当化しようとする声、玲奈がそれを拒む声――そして、不自然にぶつりと途切れる音声。


(あれが、本当の終わりだった)


その事実を知って以来、紗英は葛藤してきた。玲奈を助けられなかった罪悪感。そして、矢島の背後にある「大きな存在」への恐れ。


けれど、あの夜――公園の茂みの陰から、二人の密会を見ていた「もう一人の目撃者」が現れたことで、彼女は決意した。その人物から届いたメッセージ。「証言する用意がある」という言葉が、紗英の背中を押した。


「ごめんね、玲奈。私は……やっと、立ち上がるよ。」


そのとき、足音が近づく。振り返ると、篠原三月が息を切らしながら立っていた。


「遅くなって、ごめん。」


「ううん、来てくれてありがとう。」


短い会話の後、紗英はためらいがちに、しかし決意を込めて封筒を差し出した。


中には、USBのコピーと、玲奈の日記から抜粋した資料。


「これが、私の知ってるすべて。」


三月は黙って封筒を受け取った。夕闇の中、ふたりの目が合う。その間に、玲奈の意志が生きている気がした。


「玲奈は、まだ終わってほしくなかったんだと思う。私たちに。」


「うん。だから、続けよう。今度こそ、最後まで。」


風が吹き抜ける。静かな夜のはずなのに、ふたりの胸には確かな鼓動があった。


――戦いの火蓋は、静かに、だが確実に切って落とされた。



夜の街が、ゆっくりとその表情を変えていく。


遠くのネオンの霞、湿った風がビルの谷間を吹き抜ける。


静けさの中に、言葉にできないざわめきが漂っていた。


篠原三月は、封筒を胸元で握りしめたまま、何度も深呼吸を繰り返していた。


息が浅い。心臓の鼓動がやけに大きく響いている。


(これで....いいんだよね、玲奈。)


玲奈が遺したものを自分が引き継ぐ――そう決めたはずなのに、胸の奥には、震えるような怖さが残っていた。


もし、これが間違いだったら?


もし、これ以上踏み込んだら、後戻りできなくなるのだとしたら?


怖い。それでも、進むしかない。


三月は震える指先をそっと握りしめた。これは玲奈が残した「想い」であり、自分の「選んだ道」なのだと、自分に言い聞かせるように。


一方で、井上紗英は、まだ微かに指先が冷たいことに気づいていた。


手渡した封筒の重みが、やけに現実味を帯びて胸を締め付ける。


(私は....見てしまった。知ってしまった。もう、知らなかった頃には戻れない。)


紗英の脳裏には、USBの音声が繰り返し蘇る。矢島の声。玲奈の声。その緊迫したやりとり、不自然に途切れた最後の音。


(あの瞬間、玲奈はひとりじゃなかったんだ。誰かが、あの場にいた。私以外の、誰かが――)



恐怖と怒り、後悔と決意がないまぜになって、心の奥でぐらりと揺れる。


それでも、今はもう逃げないと決めたのだ。


「私も、戦う。玲奈の代わりに。」


そして――


夜の街のどこかで、黒川湊はひとり、ビルの屋上から街を見下ろしていた。


冷たい夜風にコートの裾が揺れる。


煙草に火をつける指が、かすかに震えた。


(やはり、矢島の背後にいるのは――)


思考の糸が張り詰め、切れそうな感覚に苛立ちが募る。


玲奈の死。それは偶然ではない。だが、すべてが「ただの犠牲」で終わるには、まだ何かが足りない。


「誰が、何のために仕組んだのか。」


黒川の目が夜の奥底を睨みつける。


その視線の先で、かすかに灯るひとつの影――。


矢島の名が、喉元で呟かれ、かき消された。


(あの男が、どこまで知っているのか.....試す必要があるな。)


矢島――


彼もまた、暗い部屋で一人、窓の外に目を凝らしていた。


乾いた唇を指で押さえ、何度も深く息をつく。


(大丈夫。大丈夫だ。.....俺は、守っただけだ。)


自分に言い聞かせる声が、どこか空虚に響く。


耳の奥に残るのは、責めるような、泣くような玲奈の声。


「違う、俺は.....!」


だが、その言葉もまた、夜の闇に吸い込まれ、消えていった。


矢島は、思わず胸元を握りしめた。


守るべきもののために、踏み越えた一線。その正当化を必死に信じ込もうとしていた。


だが、心の奥底には得体の知れない後悔が渦を巻き、夜の闇に溶けていった。


四人の想いが、夜の底で絡み合う。


真実を求める者。


真実から逃れようとする者。


影の中で糸を引く者。


そして、知らぬ間に巻き込まれていく者たち――。


夜の帳が落ちる中、何かが確かに「次の階段」へと動き始めていた。


誰の涙が、夜の闇に消えるのか。


誰の命が、音もなく断たれるのか。


その答えを求め、物語はさらに深い闇の中へと進んでいく。

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