第二章 高城という名の影
高城詩織。朝倉玲奈の同僚であり、写真に写っていたもう一人の女性。
湊は彼女の所在を調べるため、まずは文月文房の内部に詳しい千晶に再び会った。雑然とした編集部の片隅、千晶はコーヒーを啜りながら記憶を手操るように話し始めた。
「高城さんはね。確か、玲奈さんと同期だったはずよ、編集二部の文芸担当で、気が強いけど、仕事はできる子だった。.....でも、今はもうここにはいないわ」
「退職した?」
「正確には異動よ。表向きは地方支局への転属。でも、玲奈さんの死の直後だったから、あれは左遷に近かったって噂だった。」
湊の視線が鋭くなる。
「どこに異動した?」
「新潟の支局。.....あまり行きたがる人はいない場所」
湊は黙って小さくうなずいた。玲奈の死と時を同じくして行われた異動、偶然にしてはできすぎている。
「もうひとつ気になることがあるの。高城さん、玲奈さんが亡くなった週、編集長と何度か密談してたらしいの。ドアを閉めて、声を落として。ああいうの、うちじゃ珍しいのよ。」
「編集長の名前は?」
「矢島真一郎。玲奈さんの名刺にあった人と同じね」
カフェリド、7月14日、19時30分....玲奈と矢島が何かを話す予定だったのか。そして、玲奈が死んだのは、その数日後。
湊は小さく息を吐いた。
「ありがとう。もう少し、彼女のことを洗ってみるよ」
帰り際、千晶がぽつりと呟いた。
「玲奈さんが亡くなった後、高城さんがひどく取り乱してるのを見たの。社内のトイレで一人、泣いていたわ。言ってたの、あの子は何も知らないままでよかったのんにって....」
その言葉が、湊の背中に冷たい重みを残す。
新潟へ向かう準備を整える中で、湊の頭にひとつの問いが浮かび続けていた。
玲奈が知ろうとしていた何かを、誰が、なぜ、隠そうとしたのか。
新潟駅に降り立つと、潮の匂いと土の湿り気が入り混じった空気が迎えた。駅前のバスターミナルから郊外行きの路線に乗り、揺られること四十分。湊が降り立ったのは、地方新聞社と文月文房の共同オフィスが入る複合施設だった。
受付で名を告げると、間もなく小柄な女性が現れた。黒いジャケットに紺のパンツ、そして揺れる黒髪。写真で見たよりもずっと固い表情をしている。
「.....黒川さん、でしたね。お電話いただいた件で」
「高城詩織さん。少しだけお話伺えますか?」
応接間に通された湊は、正面に座る高城さんをじっと見つめた。彼女は目を逸らさず、だが微かに手元が震えていた。
「朝倉玲奈さんの件ですか?」
「察しがいい。突然の異動も、彼女の死と無関係じゃないように思える。」
沈黙
そして、高城さんはふっと目を伏せた。
「玲奈は......私にとって......唯一無二の同僚でした。彼女が死んだ時、私は何もできなかった。ただ、それだけです。
「ただそれだけの人間が、異動になることは少ない」
「勘ぐるのが探偵の仕事?」
「いや、繋げることだよ。点と点を、線にする」
高城はわずかに口元を歪めた。苦笑に似たその表情には、どこか懐かしさも滲んでいた。
「玲奈が亡くなる前、何かあったんじゃないですか?彼女と矢島編集長が、彼女が、カフェで会う予定だったと聞きました。」
その名前に、彼女のまなざしが一瞬揺れた。
「......玲奈は気づいてしまったんです。文月文房が、とある団体と繋がっていたことに。私は止めた。でも、彼女は止まらなかった。」
「団体?」
「言えません。私が言えば、今度こそ本当に消される」
「つまり、あなたは口封じとしてここに飛ばされた」
答えはなかった。だが沈黙が、肯定だった。
湊は立ち上がり、窓の外に目をやった。小雨が降り始めている。
「最後にひとつだけ聞かせてください。玲奈さんの日記帳について、何か知っていますか?」
高城さんの表情が凍る。.....だが、次の瞬間、彼女はかすかに頷いた。
「彼女の部屋からそれを持ち出したのは。矢島さんです。私、見てしまったんです。鍵を開けて中に入る彼を」
湊の背筋に冷たいものが走る。
「そのことを、なぜ今まで黙っていた?」
「.....玲奈が遺した言葉があるんです。『誰も巻き込みたくない』って。彼女の願いを、無視したくなかった。だから、私は逃げた。逃げて、ここまで来たんです。」
沈黙の中、雨の音が強くなった。
湊は静かに言った。
「その日記、今どこにあるか、見当は?」
「.....矢島さんのロッカー。社内にまだあるはずです。あの人、自分の弱みを簡単にはしょおぶんしないから。」
探偵の目がわずかに細くなる。
「ありがとう。君が玲奈さんを守ろうとしたこと、俺は信じるよ。」
そして湊は、新潟を後にする。
東京に戻る彼の手帳には、次なる目標の名前が記されていた。
矢島真一郎 ー 文月文房 社会部 編集主任。鍵を握る男。
物語は再び動き出す
井上紗英の部屋は、思いのほか簡素だった。湊はソファの脇に置かれた引き出し付きのテーブルに目をとめる。そこには数冊の雑誌と、ひとつだけ鍵のかかる文庫本サイズの金属ケースがあった。
「玲奈のもの......よく来てたから。預かったの。いま思えば、怖くて開けられなかったのかも。」
高城が差し出したその鍵は、微かに錆ていた。
――カチり
中に入っていたのはUSBメモリ、折り畳まれたメモの束、そして文月文房の取材用ID。
湊はUSBメモリを自分のノートPCに差し込む。パスワードがかかっていたが、「Asakara_0412」で突破できた。玲奈の誕生日か、それとも......
湊はまずテキストファイルを開く。そこには、玲奈自身の走り書きのようなメモが並んでいた。
No.17:新潟の“研修団体”
・公的助成金と地域振興名目の「若者育成プログラム」
・実態は内向きな“研修合宿”+謎の「評価制度」
・運営母体は「ミネルヴァ会」→登記簿上はNPO(代表:神崎達也)
・矢島さんが「取材やめとけ」と言った。不自然
・高城にも話すべきか迷う
・7/14 カフェリド=矢島さんと“取材中止”の話し合い?
湊は手を止める。「ミネルヴァ会」――それが鍵か。
続いて画像ファイルを開く。合宿所らしき施設の前で撮られた集合写真
写真の中央には、見覚えのある男の姿があった。
「.....これは、矢島か?」
写真はややピンぼけしているが、間違いない。
さらに音声ファイルを再生すると、女性の声――おそらく玲奈自身のものが収録されていた。
「.......矢島さんは関係ないって、言い張った。でも私は知っている。あの夜、彼があそこにいたのを。.....もう逃げれない。誰が相手でも、これは記事にするって込めたの。」
湊は息をつく。ここまでくると、玲奈の死は偶然では済まない。
「矢島、お前は.....玲奈に何を言った?」
PCを閉じ、USBをポケットにしまう。
今の湊にははっきり見えていた。玲奈は真実を暴こうとしていた。そして、それを止めようとした誰かがいた。
新潟から東京に戻った翌日、湊はふたたび文月文房の裏手にある喫茶店で、井上紗英と会っていた。
灰色のカーディガンを羽織った彼女は、氷の溶けたアイスティーを前にして、湊の前に静かに座っていた。
「玲奈さんのことを、ちゃんと話したいと思ってました。でも、誰にも信じてもらえなくて」
「信じるかどうかは、話を聞いてから決めるよ」
湊の声は柔らかいが、視線は鋭い。テーブルに置かれたICレコーダーが、また静かに作動音を立てた。
「玲奈さん....亡くなる少し前、編集長と揉めてました。取材中止命令を出されたのに、彼女は聞かなかった。『絶対に記事にする』って」
「何の記事だった?」
「ある団体のこと。ミネルヴァ会っていう名前でした。名前だけじゃ宗教か政治団体かわからないような、グレーな存在。玲奈さんは、最初は新人研修会って名目でその集まりに参加したんです。
「名目でということは、実態は違った?」
井上はわずかにうなずいた。
「精神論とか、人脈作りとか.....そういう自己啓発系の顔をしてる。でも、奥に進むと妙な戒律があったり、閉鎖的な合宿に連れていかれるらしいんです。玲奈さんもこれ、洗脳に近いって....」
湊は黙ってメモを取る。
「玲奈さんは、その団体の幹部クラスの名簿をどこかから手に入れてみたいです。私には見せてくれなかったけど、『文月文房の誰かが関わってるかもしれない』って」
「それが矢島か?」
井上の顔に、はっきりと動揺の色が走った。
「......わかりません。でも、7月14分。玲奈さんはその人と会うって言ってました。場所は......カフェリド」
それは湊が名刺の裏で見た日付と一致していた。
「その日、玲奈さんは戻ってきた?」
「ううん、帰ってきたのは深夜だった。顔色が悪くて、何も話してくれなかった。ただ......」
「ただ?」
「......あの人、あんな目をするんだって、ぽつりとつぶやいたんです。殺されるかと思ったって。」
のペンが止まる。
喫茶店の外では濡れた街路樹が風に揺れていた。
「玲奈さん、その翌日から、会社を三日休んでいます。そして――その一週間後に亡くなった。」
井上は唇を噛み、視線を落とす。
「私....あの時、何かできたんじゃないかって、今でも後悔してます。」
湊は、彼女のこと言葉を否定しなかった。ただ一言、静かに呟いた。
「玲奈さんが最後まで持っていた情報。それが何かを、確かめる必要ががあるな。」
東京に戻った翌日、湊はUSBメモリに記録された情報の余韻を引きずりながら、ひとつの決断を下した。
玲奈が集めていた証拠――それは想像を以上に生々しく、危ういものだった。そして彼の脳裏には、もう一つ、誰にも明かせぬ重たい真実が浮かんでいた。
自宅の書斎でUSBを再び確認した湊は、深く呼吸を整える。ファイル「mem_log_17.txt」の末尾には、玲奈自身の決意が綴られていた。
7月14日、カフェリド。
最後の話し合いになるかもしれない。
でも、私は逃げない。矢島さんが関わっているなら、必ずその証拠を掴む。
誰かが見てなきゃいけない。
その言葉が、湊の胸を締め付けた。彼は、あの夜のことを知っている。
7月14日、玲奈は矢島と確かに会っていた。場所はカフェリドの裏路地にある、人気の少ないテラス席。そこに同席していたもう一人の男――それが、黒川湊だった。
探偵という仮面の裏で、彼は別の顔を持っていた。裏の交渉人。表には出せない問題を、法と倫理の狭間で調整する者
報酬と引き換えに、真実を隠すための落としどころを模索する、もうひとつの役割。
玲奈が迫った「ミネルヴァ会」は、表向きには若者支援NPO法人だが、実態は洗脳と従属を巧みに織り交ぜた、半地下の共同体だった。そして、その団体から取材の停止を条件に、湊にある依頼が持ち込まれていた。
「朝倉玲奈を止めてほしい。.......どんな手を使ってでも。
湊は沈黙したままその提案を聞き、首を縦には振らなかった。ただ、詳細な背景と関係者の名だけを引き出し、裏で動き出した。彼は、玲奈に警告するつもりだった。
少なくとも、最初は。
だが玲奈はそれを拒んだ。「真実を追うことが記者の責任だ」と言い残し、矢島との会話も打ち切って立ち去った。
――その翌日、玲奈は社内でも姿を見せず、自宅に閉じこもっていた。そしてさらに数日後、浴槽の中で冷たくなって発見された。
自殺とされたその死に、不自然な点がいくつもあった。洗面所にあったコップ、未開封の睡眠薬の瓶、そして、玲奈が愛用していた日記帳が忽然と姿を消していた。
湊は思い出す。玲奈が「矢島さんが来た」と最後に誰かに送ったというメールの断片。
警察には残っていなかったその記録を、湊は独自に堀り起こしていた。
そして高城詩織の証言――
「玲奈の部屋に、矢島さんが入っていくのを見たんです。鍵を開けて。」
湊の中で、点と点が線を結び始めていた。
玲奈は、誰かに薬を盛られた。自分から進んで服毒したのではない。
あの夜、矢島が持ち込んだ飲み物――それがすべての始まりだった。
玲奈は誰かに殺された。
そう結論づけることは、湊にとって困難ではなかった。
だが――本当にそうか?
湊は胸にわずかな罪悪感が差し込む。彼は矢島に会う前の段階で止められたはずだった。あの夜、少しでも彼女に危険を伝えていれば、彼女は警戒し、何かを防げたかもしれない。
だが彼は黙っていた。
言わなかったのは、仕事の一部でもあったから。
湊は、その狭間で何も選ばなかった。そしてその沈黙が、玲奈の死を許した。
彼女を守ることも、止めることもできなかった。
だからこそ、湊はこの先の行動に自らを縛る。玲奈の死の真相を明らかにすること。
それが、自らに課す償いであり、果たすべき唯一の贖罪。
部屋の明かりを落とし、湊は1枚の写真を机に置いた。
USBに残っていた、ミネルヴァ会の合宿に写真。
中央に、冷めた目でこちらを見返す男がいた――矢島真一郎。
次に狙うべき相手は明白だった。
彼が、玲奈の死に関与した実行犯だ。
少なくとも、その夜、彼が玲奈の部屋に侵入し、日記帳を持ち出したのは事実。
湊は再び手帳を開く。
記された名のひとつひとつに、今度こと正面から向き合う覚悟を刻む。
交差する真実、沈黙された罪――やがてすべてが、ぶつかり合う。
物語は、新たな視点を求めて、次章へと歩みを進める。