第一章 再会は雨のにおいとともに
六月の終わり。細かい雨がアスファルトの匂いを濃くしていた。
傘を差すにはまだ早いが、濡れるには十分すぎる湿気が街に沈んでいた。
黒川湊はいつものように裏路地の古びた喫茶店へと足を運んだ。
看板も目立たない、古びた店。
「黒川探偵事務所」の連絡先は、この店の伝言ノートにだけ、ひっそりと記されている。
今日の依頼人は約束の時間に現れた。
「.....久しぶりだね、湊君。」
細い声に顔を上げると、そこには高校時代の同級生、篠原三月が立っていた。
優等生で、常に一歩引いた場所にいた少女。
今もその面影は残し、どこか緊張した表情で椅子に座る。
「こんな場所で探偵なんて.....変わらないね。君は。」
「''普通''じゃ、できない仕事だからね。──で、用件は?」
湊はメニューも見ず、彼女の目を見た。
三月は一瞬だけ視線を逸らし、そして切り出した。
「兄の婚約者が、二ヶ月前に死んだの」
その言葉に、湊はまばたき一つせず「そう」と答えた。
「警察は自殺と判断した。でも....私は違うと思ってる。彼女は死ぬような子じゃない」
湊は黙って、ポケットからボイスレコーダーを取り出してテーブルに置いた。カチッと小さな音が鳴る。
「詳しく教えてくれるかい、三月さん。──君の言う違和感について.....」
三月は、静かに息を吐いた。その仕草に、迷いと覚悟の両方が滲んでいる。
「兄の名前は篠原陸。婚約者の名前は、朝倉玲奈。玲奈さんは、ある朝、自宅の浴室で手首を切って亡くなっていたわ。発見者は兄.....」
言葉が途中で詰まり、三月はコップの水に手を伸ばす。震える指先が氷を揺らした。
「でも、兄はおかしかったの。彼女はそんな子じゃなかったって言ったのは兄の方だったのに、数日後には何もなかったみたいな顔をしていた」
「まるで、そう言うことにしておけと誰かに言われたかのように、か」
湊の声は低いが、よく通る。彼は一度、視線を窓の外に流し、そして三月の目に戻した。
「事件当時、玲奈さんに何か悩みごとは?仕事、家庭、交友関係....なんでもいい」
「彼女は出版社で働いていて、兄とは職場恋愛だった。同じ部署で、結婚式も決まっていた。でも....その直前に、何かがあった気がするの」
「例えば?」
「玲奈さんの部屋から、彼女の日記が消えていたの。兄が言うには『そんなの知らない』って....。でも私は何度かその日記を見たことがあるの」
湊は、ポケットから小さなメモ帳を取り出し、短くペンを走らせる。
「つまり、誰かが証拠を隠した可能性がある。そして兄さんが何かに脅されている、あるいは事件に関わっているかもしれないと」
「....兄を疑いたくない。でも、玲奈さんの死をこのまま自殺で片付けられるのは、もっといや」
雨音が、窓を打つ。静かな空間に、湊の短い息が混ざった。
「わかった。まず玲奈さんの勤務先にあたる。次に遺体発見の状況、そして....消えた日記帳」
彼は立ち上がり、ジャケットを肩にかけた。
「依頼は受けたよ、三月さん。ただし、忠告はしておく。本当に知りたいことが、必ずしも正しいとは限らない。真実ってのは、誰かの幸せを壊すことの方が多い」
三月は目を伏せ、それでも小さくうなずいた。
「それでも....知りたいの。彼女の本当の死因を」
湊は扉を開けた。湿った空気が、喫茶店の中へ流れ込む。その中にこれから暴かれる嘘の気配が、微かに混じっていた。
朝の空気はまだ重たく、昨夜の雨の余韻を残している。
玲奈が務めていた出版社「文月書房」の入ったビルの前に立っていた。エントランスには社員証がなければ入れないセキュリティゲートがある。しかし、こうした時のために湊にはひとつの手札がある。
数年前、別件の調査で知り合ったフリーライターの女性、早川千晶。彼女は文月書房で連載を持っており、社内にも顔が利いた。
「久しぶり、黒川くん。あいかわらず渋い依頼ばっかり受けてるのね」
湊は千晶に会釈をし、受付を無言で通過する。
玲奈のデスクは整理されすぎていて、不自然なほどに私物がない。湊はその中からひとつ、気になる名刺を見つける。
「文月書房 社会部 編集主任 矢島真一郎」
その名刺の裏には、ベールペンで小さく「7/14」の日付と「19:30 カフェリド」とだけ記されていた。
「これは何の予定だったんだろうな......」
湊は視線を机の下に移す。足元の引き出しの中には、一枚の小さな写真。玲奈ともう一人の女性が、親しげに並んで写っていた。写真の裏に、かすかに文字が残っていた。
《サエさんと──最後の打ち上げ》
湊の視線が鋭くなる。
「紗英....玲奈の周囲にはまだ、表に出ていない人物がいそうだな」