いつか王子様が
曲は『いつか王子様が』だった。
バーカウンターで退屈そうに足をぶらつかせていた女の子の顔色が途中で変わった。
常連らしい父親に連れられてきて、つまらなさそうにしていた女の子の姿は、ステージ上の彼からも見えたのだろう。
このジャズバー『Duke』は、決して広い店ではないから。
もぞもぞと身体を動かしていた女の子が父親に何かを言っている。前のほうの空いているテーブルに行ってもいいかを聞いているのかもしれない。
この曲が終わったらね、僕が父親だったらそう答えるだろう。
それにしても、
「今日も本当に楽しそうだな……」
ピアノを弾いている柳井さんを眺めながら、思わず呟いてしまう。
柳井さんは、本当に楽しそうにピアノを弾く。歌うように、音楽の中に浸るように。僕は、ジャズには全然詳しくないし、柳井さんと知り合うまで、ジャズを熱心に聞いたこともなかった。そんな僕にも、柳井さんの演奏が稀有なものだということはわかる。
こんな小さなジャズバーの、週に一回のライブ演奏には多分もったいないような人なのだろうことも。
それでも、柳井さんはそんなことはちっとも気にしていないのだろう。どんな時でも、ピアノを弾いてさえいれば、本当に楽しそうだ。
彼の弾くピアノの音がキラキラした粒になって、店の中に広がって行くのが見えるような気がする。
『いつか王子様が』が終わったとたん、女の子が小走りで一番前のテーブルに座った。やっぱりね、と思わず笑ってしまう。
ステージ上の柳井さんは、ステージ上にいるトリオのメンバーに合図をしてから、ピアノを離れた。そうして、女の子に手招きをする。
女の子はおずおずと、座ったばかりの椅子から降りて、ステージと客席の境目にしゃがんだ彼のもとへ行く。
僕がいるのは一番後ろの、一番店の出入り口に近い窓際の席だから、女の子と柳井さんが何を話しているのかは当然聞こえない。二人は何やら話し込んでいて、女の子が大きく頷いたのが見える。
声は聞こえない。けれど、彼が言ったのは大方こんな感じのことだろう。
「今のは知ってる曲だった?」
そして、きっと女の子はディズニーアニメの白雪姫を見たことがあるのだろう。知っている曲だったと彼女は頷く。知っている曲なら、退屈しないで済みそうだ、と彼女は思ったかもしれない。そう思ってくれたらあとはこっちのものだ、なんてことを、彼が考えているとは思わないけれど。
ただ、僕はそう思ってしまう。彼のピアノに耳を傾けてさえくれれば、きっと誰でも柳井さんのピアノが好きになる。僕も、彼のピアノのファンだから。
彼のパートナーだから、とはまだ自信を持って言えない。情けない話だけれど。
「じゃあ、もう一曲知ってる曲を弾こうかな」と彼はきっと言う。
声は聞こえないけれど多分。
女の子に椅子に戻るようにうながしてから、柳井さんもピアノに戻る。
メンバーに合図をして、始まったのは『不思議の国のアリス』だった。
女の子の顔はこちらからは見えない。見えるのは小さな後ろ姿だけだ。けれど、全身が彼のピアノに集中しているのがわかるようだった。
「星野くん、さっきから随分楽しそうだね」と、唐突に低い声がした。
呼ばれた名前に振り返ると、至近距離にDukeのオーナーである、窪さんが、頼んでもいないチェイサーを手に立っていた。
「頼んでないっす」
自分でもどうかと思う硬い声が出る。
「そろそろ飲んどきなって。そんなに酒に強くないんでしょ?」
知ったようなことを言われて、ムッとしてしまった。その通りだから、余計に腹立たしい。チェイサーを持って来るタイミングも正直完璧だった。
それでも、素直に受け取るのが癪で固まっていると、
「大丈夫だよ、チェイサー持ってけって言ったのは、翔宇だから」
と言って、窪さんはカウンターを指さした。
カウンターの中からは、バイトの鄭くんが長い首を突き出してこっちを見ていた。僕と目が合うと、無表情のまま指をサムズアップにする。
僕は、鄭くんに感謝のジェスチャーをして、窪さんからチェイサーを受け取った。
「わー、ゲンキンだね」
「鄭くんの好意をむげにはできないので」
「そうそう、うちのシェフのタイミングはいつだって完璧なんだから」
と、窪さんは柔らかく笑った。
チェイサーを受け取ったのに、窪さんはまだ立ち去ろうとしない。
一体いつまでここにいるのかと、僕が怪訝に思った途端、
「そうあからさまに嫌そうな顔しなさんなって」
と、窪さんがニヤリと笑った。
「そんな顔してませんよ。頭ん中では思ったけど」
「そんな顔してたから言ってんのよ。あいつが言う通り、星野くんって、ほんと頭ん中のこと表情に駄々洩れなんだね」
その言い方から、誰が僕の話を窪さんにしているのかがわかってしまって、またもや嫉妬の芽がむくむくと育ちそうになる。僕はチェイサーをぐっと半分くらい呷った。アルコールじゃないのがかっこうつかないかもしれないけれど、飲めないものは仕方がない。
窪さんは、まだ隣に立ってにやにやと笑っている。不思議の国のアリスがいい具合のBGMになってしまって、まるでチェシャ猫みたいだな、なんてことを思う。まずい。今晩あたり夢に出られそうだ。チェシャ猫の窪さん。完全なる悪夢としか言いようがない。
だいたい常連さんと話していたのじゃなかったか、とカウンターをに目をやると、女の子の父親も含めて、窪さんがカウンターで相手をしていた人たちは、すでに別のテーブルの常連と話し込んでいる。
「あの子、すっかりあいつのファンだな」
窪さんは、ステージの柳井さんを、目を細めて見つめながら言った。
ステージのライトが眩しかっただけかもしれないけれど、その目つきも嫌だったし、窪さんが柳井さんのことを『あいつ』と呼ぶのを聞くのも嫌だった。そこに二人が重ねてきた年月を感じて。
そんな嫉妬は子どもっぽいだろうことは自分でもわかっている。言っても仕方のないことを、くどくどしく羨むなんて。
頭の中が駄々漏れだと言われたばかりなので、気を引き締めてステージの彼に集中する。
「柳井さんのファンになるなんて、あの女の子、いいセンスですね」
「大丈夫? 妬いてない?」
「あのね、あんな小さい女の子にはさすがに妬きません。柳井さんにファンができて何よりです。あと、あの女の子にとっても。早いうちに良いプレイヤーの、本物の音楽に出会えたのは幸いです」
「それは、Dukeにとっては最高の褒め言葉だね」
「僕はこの店には敬意を持ってますよ、あと鄭くんの料理にも」
「そうかそうか、俺に対してリスペクトしてくれてると、いやあ、自分より若い子にそう言ってもらえると嬉しいなあ」
「いや、言ってないから」
そうこうするうち、流石に他の席に呼ばれて、窪さんは去っていく。
オーナーと言っても、Dukeのスタッフは窪さんと鄭くんの二人しかいない。
鄭くんは、シェフ兼バーテンなので、滅多なことがなければカウンターの中から出てこない。忙しくはないのかもしれないけれど、とはいえ暇でもないのだ。
「なんでいちいちこっちに構うかな……」
窪さんの後ろ姿にボヤきながら、ステージに目を戻す。
一瞬、柳井さんと目が合ったような気がした。
演奏中だし、そんなはずはないのだけれど。
アリスが終わって、次の曲になる。今度はいわゆるジャズのスタンダードナンバーで、女の子が知っている曲かどうかはわからない。
それでも、女の子は聞き入っている。
ほら、やっぱり、一回興味を引いてさえしまえば、あとは引き込まれるに決まってる。
柳井さんのピアノは、そういうものだ。
それ以降は、ピアノを弾いている柳井さんと視線が合うことはなかった。
だからやっぱり、さっきのは見間違いだろう。
そう思っていたのだが、どうも違ったらしい。
「一誠、さっきあいつと何話してたの」
と、店を出た途端に、柳井さんに言われた。
さっきまでの紳士的な雰囲気はどこへやら、小さな子どもみたいに膨れた顔をして突っ立っている。
ステージを終わらせた彼を待って店を出て、一緒に帰る。
この時間がたまらなく楽しい。同じところに帰ることには未だに慣れなくて、毎回いちいち嬉しい。彼も同じように思ってくれていればいいな、と思うし、いつもならそう思えるような笑顔でいてくれるのに、今日は違った。
すっかりむくれている様子の柳井さんに慌てはするけれど、「さっき」も「あいつ」も、なんのことなのかわからなくて、首をひねった僕の頬を、ムッとした顔をした彼が思い切りつねった。
「え、痛いなにすんの!」
「しらばっくれてんじゃねえよ」
「いや、ほんとしらばっくれてない。こわい、何怒ってんの」
「怒ってはいない」
「いや、怒ってるでしょ」
それとも怒ってないのに人の顔をつねってきたりするというのか。それはそれでこわい。僕は慌てて彼の手を取った。あ、これも怒られるかも、と思ったけれど、つないでしまったからもう後の祭りだ。
表で手をつなぐことをとても嫌がるので、振り払われることを覚悟したのが、予想に反して彼の手は僕の手の中でおとなしくしている。
かわいい。そう思って感動していると、もうひとつ爆弾を落とされる。
「だって俺がせっかく弾いてんのに、なんか楽しそうに話してるから」
なんだそれかわいい。
一瞬頭の中が真っ白になりかけた。
「へ、あ、オーナーと話してたときのこと?」
と、気を取り直して聞くと、への字口のまま顔を背けられた。
なんだそれ、への字口だけど全然こわくない。
というか繰り返しになるけどかわいい。
あんまり繰り返すんで僕が馬鹿みたいだけどかわいい。ことこの件に関してはべつに馬鹿でいい。そして、やっぱりあのとき目が合ったのは気のせいじゃなかったのか。
「やめてよ、俺あの人苦手だよ」
「のわりに今日は楽しそうだった」
「えー、だとしたら話題が楽しかっただけです」
「何の話」
「いや、何の話って、柳井さんの話しかないよね? ほかの選択肢ないよね? あ、わかってて俺から言わせたかった? 図星かないたいごめんなさいつねんないで」
手をつないでないほうの手が伸びてきて思い切りつねられる。顔は真っ赤で可愛いけれど、痛いものは痛い。けっこうマジで。
「ピアニストの指、つよすぎでしょ…」
「本気ではつねってない」
「もう一段階上があるって言ってるようにしか聞こえねえ」
「まあな」
赤い顔をごまかすようにして背けられる。そのまま少し前を歩こうとするから手を引っ張って引き寄せた。
「ねー俺なんも悪いことしてないし、今日だっておとなしくしてたのに顔つねられまくって痛いの、かわいそうだと思いません?」
「さー」
「さーじゃなくて」
まあべつにいいですけどね、と肩をすくめる。
べつに言うほど気にしていない。むしろ機嫌ならすこぶるいい。窪さんに妬くのは今までは僕のほうだったから。柳井さんと窪さんの仲がいいのはもう仕方がないことだから諦めてはいるけれど、それでも今でも妬くことはあるし、窪さんのことは変わらず苦手なままだ。
そんなわけで、彼がどうやらヤキモチを妬いてくれたらしいことに僕は胸がいっぱいで、一瞬気が付くのに遅れてしまった。
気が付いた時には、ふに、と柔らかい感触が頬から離れていく瞬間だった。何をされたのかわからなくて、ポカンとする。
「え、なに今きす」
「べつになんもしてない」
「は、え、うそだね今さ」
「あ、ほら駅つくぞ」
そう言って人通りの多いところについた途端、彼の手はするりと離れてしまう。僕は、ううと唸り声をあげた。
「ねー」
「なんだよ」
「なんでそんなかわいいことすんの」
「だから何もしてないって」
そう言って、何事もないような顔をして笑う横顔を憎らしく眺める。
「帰ったら覚えてろよ」
悔しまぎれのこっちの呟きが聞こえたらしい。
「さーね、忘れた」
柳井さんはそんな言葉と、ちょっと意地の悪い笑みを残して、改札の中へと去っていく。今度こそ本当に置いていかれそうになるのを、僕は慌てて追いかけた。
5年くらい前に構想して脳内に置いたままにしていたものを、一旦短編の形にしてみました。
現在このストーリーに至るまで、の長編を準備中だったりします。