第四話 霧の山の調薬師
# 主要登場人物
## 八重葎
- 32歳、男性
- 調薬師
- 毒草と触媒の調合を専門とする
- 寡黙で危険を顧みない性格
- 山育ちで、毒草への深い理解を持つ
- 命を救うことへの強い使命感を持つ
## 蓑虫
- 72歳、男性
- 薬師集落の長老
- 八重葎の才能を見出した人物
- 穏やかながら芯の強い性格
- 集落の伝統と安全を守る立場
- 八重葎を見守る理解者
## 露芽
- 9歳、女性
- 難病を抱える患者
- 純真で健気な性格
- 病に苦しみながらも前向き
- 八重葎の行動の直接的な動機
- 新薬による最初の救われる命
一
「もう、下がるがよい」
八重葎は霧の中に、蓑虫の姿を見失いながら答えた。
「ここからは、一人で」
「しかし」
蓑虫の声が、霧を震わせる。
「黒霧の谷では、誰も」
「分かっています」
八重葎は、腰の触媒袋に手を当てた。
「ですが、あの子を」
言葉は霧に吸い込まれた。
しかし、蓑虫には分かっただろう。
露芽の命を救うためには、この谷の奥に咲く毒草が必要なのだ。
「では、せめて」
蓑虫が、何かを差し出す気配。
「大丈夫です」
八重葎は背を向けた。
「私には、山の心が見えますから」
深い霧の中に、八重葎の姿が溶けていく。
その背中には、ただ一つの木札。
「毒を知る者」という、調薬師の証が。
二
「来るな」
八重葎は、動きを止めた。
霧の向こうで、何かが蠢いている。
黒霧の谷には、普通の生き物は住めない。
それなのに。
「守りの印」
八重葎は、静かに呟いた。
掌の中で、触媒が反応する。
淡い光が、霧を押し分ける。
その明かりに照らし出されたのは。
「藤毒か」
黒紫の蔓が、霧の中で蠢いている。
触れれば、指が腐る。
吸えば、肺が焼ける。
それが、藤毒。
「だが」
八重葎は、そっと腰を落とした。
「お前の根元に」
確かに見える。
藤毒の根元に咲く、小さな白い花。
霧隠れの涙と呼ばれる、伝説の薬草。
露芽を救えるのは、これしかない。
「守りを固めて」
八重葎は、もう一つの触媒を取り出した。
「近づこう」
一歩、また一歩。
藤毒の蔓が、不気味に揺れる。
だが、触媒の光が、それを押し返す。
「そう、そのまま」
八重葎は、藤毒に語りかける。
「私は、お前を傷つけない」
震える指が、白い花に触れた。
その瞬間。
「っ!」
八重葎の意識が、霧に呑まれそうになる。
花からの毒が、守りの触媒を突き破ろうとしていた。
三
「毒を知る者よ」
誰の声だろう。
八重葎は、朦朧とする意識の中で、声を聞いた。
「毒を知る者よ」
また、その声。
「私は」
八重葎は、かろうじて意識を保った。
「毒を、知る」
そうだ。
私は毒を知る。
毒と共に育ち、毒と対話し、毒を活かす。
それが、調薬師。
「守りの印ではない」
八重葎は、残る触媒を取り出した。
「受けの印」
調薬師の技の中で、最も危険な印。
毒を受け入れ、毒と交わり、毒を導く印。
「導いて」
八重葎は、白い花に触媒を近づけた。
「お前の、本当の力を」
花が、微かに光る。
それは、月のような、雪のような、透明な輝き。
その光が、八重葎の体の中に流れ込んでくる。
「ああ」
思わず、声が漏れる。
「これが」
毒ではない。
力でもない。
それは、命そのものだった。
四
「生きる」
調合小屋で、八重葎は震える手で、薬を調合していた。
白い花と触媒が、新しい命の形を作り出している。
「生きるんだ」
八重葎は、露芽の顔を思い浮かべる。
「必ず」
最後の一滴が、器に落ちた。
淡く光る液体。
それは、毒から生まれた命の薬。
「八重葎殿」
蓑虫が、小屋の外から声をかけた。
「できました」
八重葎は、薬を掲げた。
「露芽を」
その時、小さな足音が聞こえた。
「先生」
露芽が、小屋の入り口に立っていた。
蒼白い顔に、かすかな笑みを浮かべて。
「飲んでごらん」
八重葎は、静かに告げた。
「命の、触媒を」
露芽は、薬を一息に飲み干した。
その瞬間、少女の頬に、薄い朱が差した。
「温かい」
露芽の声が、不思議な響きを帯びる。
「お日様みたい」
八重葎は、黙って頷いた。
毒の中に眠る命。
それを引き出すのが、調薬師の技。
「私も、もう一度山に」
八重葎は、霧の立ち込める山を見上げた。
「きっと、まだある」
「何がですか?」
蓑虫が問うた。
「命を救うもの」
八重葎は、静かに答えた。
「山は、まだ私たちに、たくさんの宝を隠しているはずです」
露芽が、元気に走り出す音が聞こえた。
その足音は、新しい命の音。
新しい技の音。
(終)