第二話 継ぎ墨師の決意
# 主要登場人物
## 玉繋
- 35歳、男性
- 継ぎ墨師(道具修復職人)
- 触媒入れの修復を専門とする
- 几帳面で職人気質
- 岩島の漆の最後の所有者
- 伝統技法を持ちながら、革新的な技術開発も行う
## 苔眼
- 60代、男性
- 古い触媒師の家元
- 伝統を重んじる厳格な人物
- 玉響の筒の現所有者
- 技術に対する深い理解を持つ
## 鈴
- 16歳、女性
- 玉繋の弟子
- 継ぎ墨師見習い
- 真面目で几帳面な性格
- 師匠の技術に深い尊敬と憧れを持つ
- 将来の技術伝承者としての自覚を持ち始めている
一
玉繋は、目の前の触媒入れを見つめ、思わず息を呑んだ。
「これは...」
「御覧の通りでございます」
苔眼の声は重かった。
「うちに伝わる『玉響の筒』でございます」
黒漆塗りの円筒には、幾重もの金の紋様が走っている。しかし、その美しい表面には、深い亀裂が刻まれていた。まるで蜘蛛の巣のように。
「修復は可能でしょうか」
玉繋は黙って触媒入れを手に取った。重い。通常の漆器とは比べものにならない重さだ。そっと蓋を開けると、内側に刻まれた銘が目に入る。
「これは...百五十年前の」
「ご承知の通り」
苔眼は静かに頷いた。
「代々の触媒師が、この筒に魂を込めてきたのです」
工房の明かり取りから差し込む陽光が、傷ついた漆面を照らす。玉繋は慎重に触媒入れを回しながら、すべての傷を確認していく。
「鈴」
玉繋は後ろで正座していた弟子を呼んだ。
「『岩島の漆』を持ってきなさい」
「はい」
少女は素早く立ち上がり、奥の保管庫へ向かった。
「あの漆を...」
苔眼の声が震えた。
「噂には聞いておりましたが」
玉繋は黙って頷いた。岩島の漆。百年に一度しか採れないという特殊な漆だ。玉繋の家に残された最後の一滴。
「ただし」
玉繋は静かに言った。
「時間をください。この仕事、簡単ではありません」
二
「師匠」
玉繋は目を開いた。工房の灯りが揺れている。外はもう日が落ちているようだ。
「鈴か」
「お茶を持って参りました」
少女は静かに茶碗を差し出した。
「ありがとう」
玉繋は茶碗を受け取りながら、作業台の上の触媒入れを見た。まだ、わからない。どこから手をつければいいのか。
「師匠」
鈴の声が小さく響く。
「あの、伺っても」
「何かな」
「なぜ、あんなに深い傷が」
玉繋は黙って触媒入れを見つめた。確かに、通常ではあり得ない。触媒入れは最も大切な道具だ。これほどの名器が、これほどまでに。
「魂が暴れたのだろう」
「え?」
「触媒入れには、代々の触媒師の魂が宿る」
玉繋は静かに説明した。
「特に、これほどの古い器ともなれば」
鈴は息を呑んだ。
「しかし、不思議なことがある」
玉繋は触媒入れの傷を指でなぞった。
「これほどの傷なのに、中の刻印は無傷だ」
「それは...」
「普通なら、外側の傷は内側にも影響する」
玉繋は首を傾げた。
「まるで、内側から何かが」
その時、触媒入れが微かに震えた。
三
「全ては準備万端ですね」
苔眼は作業台に並べられた道具を見渡した。
「はい」
玉繋は静かに頷いた。
研ぎ澄まされた継手筆。
調合された岩島の漆。
そして、代々伝わる魂入れ鏨。
「ただ」
玉繋は言葉を選んだ。
「通常の方法では、修復できません」
「どういうことですか?」
「この触媒入れ、内側から傷ついているのです」
苔眼の表情が変わった。
「私にも分かりました」
玉繋は続けた。
「中に宿る魂たちが、互いに反発している」
「そんな」
「おそらく、代々の触媒師たちの想いが」
玉繋は慎重に言葉を選んだ。
「あまりにも強すぎたのでしょう」
部屋に重い沈黙が落ちた。
「新しい技法を試みます」
玉繋は決意を込めて言った。
「漆で傷を埋めるのではなく、魂を鎮める印を刻むのです」
「しかし、それは」
苔眼の声が上ずった。
「命を削る技ですぞ」
「覚悟の上です」
玉繋は立ち上がり、作業着を正した。
「鈴」
「はい」
少女が緊張した面持ちで答えた。
「私の技を、しっかり見ておくように」
四
月が昇る頃、玉繋は魂入れ鏨を手に取った。
工房には、三人の張り詰めた気配だけが満ちている。それは、まるで触媒入れの中の魂たちが放つ緊張に呼応するかのようだった。
「始めます」
玉繋は目を閉じ、深く息を吸った。
そして、鏨を触媒入れに当てた瞬間。
激しい震動が走った。
「師匠!」
鈴の悲鳴が響く。
しかし、玉繋は鏨を離さなかった。触媒入れの中で、幾つもの魂が渦を巻いている。まるで、嵐の目のように。
「落ち着くのじゃ」
玉繋は静かに、しかし確かな声で語りかけた。
「皆、同じ想いなのだろう」
鏨を動かす。一刻一刻と、新たな紋様が刻まれていく。それは、触媒入れに刻まれた古い紋様とは異なる、しかし、確かに調和する文様。
「技を継ぎ、魂を継ぎ、想いを継ぐ」
玉繋の声が響く。
「それが、私たちの道」
汗が滴る。指先から、少しずつ感覚が失われていく。しかし、玉繋は止めなかった。鏨を運ぶ手は、少しも震えない。
そして。
「終わりました」
玉繋の声が、静かに工房に響いた。
月光に照らされた触媒入れは、もはや傷の痕跡すら見えない。新たな紋様が、古いものと見事に溶け合い、より深い輝きを放っている。
「見事」
苔眼の声が震えた。
「これぞ、真の継ぎ墨の技」
玉繋は、ゆっくりと立ち上がった。しかし、その足が折れそうになる。
「師匠!」
鈴が駆け寄る。
「大丈夫」
玉繋は微笑んだ。
「これも、技の一つを継いだ証」
工房の外で、夜明けを告げる鳥の声が響き始めていた。
(終)