60 悪女は愛しいその名を呼ぶ
「早く奥様に会いたいと、馬車ではなく馬で向かわれていたのです。途中でこの猫が道を横切り……避けて落馬されました。猫が閣下からどうしても離れず、閣下も意識を手放される直前まで猫を案じられていた為、こうして一緒に連れて来た次第です」
ガリガリに痩せているのにお腹だけがぽっこり膨らんだその猫は、ダーリンが診察を受ける間もずっと傍に寄り添っている。
元の色が分からないほどに汚れた身体から、相当苦労してきたことが窺えた。
何だろう……この猫……すごい既視感。
幸いダーリンは、軽い脳震盪と腕の骨折、数ヶ所の打撲と擦り傷だけで済んだ。首の骨を折ってもおかしくない勢いで落ちたのに、この程度の怪我で済んだのは奇跡だと聞かされゾッとする。
「うう……」
「ダーリン!」
美しい青が苦しげに開く。
「ダーリン、分かる?」
「メイ……リーン」
優しい微笑みに煽られ、炎みたいな涙がぶわっと溢れる。
「うっ……うわああぁぁん!!」
「おかえりなさい」も「会いたかった」も、何も言葉にならない。胸の上に突っ伏し泣きじゃくる私を、ダーリンは軽くうめきながら撫で続けてくれた。
「にゃあ」
しゃくり上げる私の耳に、可愛い声が届く。
吊るした腕にすり寄る猫へ、彼は優しい目を向け言った。
「……似ているだろう? コイツ。ガリガリなのに、腹だけぽっこりしていて。おまけに汚くて臭くて……お前にそっくりだ。ほら! 目の色も」
あ、確かに。既視感はそれか。
と納得したところで、複雑な感情が込み上げる。
「まさか……それで助けたの? たかが野良猫一匹の為に、騎士団長ともあろう人が、危うく首の骨を折るような危険な落ち方をして」
「うん。心配かけてごめんな。咄嗟に受け身は取ったが、怪我は免れなかった」
軽い調子でハハッと笑う。
「あ、コイツ腹が減っているだろうから、シェフに言って何か……」
「バッッッカじゃないの!?」
「……メイリーン?」
「何でっ、何でせっかく無傷で戻ったのに、野良猫の為に怪我なんてするのよ! あんた冷徹でしょう!? ほんとにどこまで優しいのよ!! バカっ、ほんとにバカっ!」
収まりかけていた涙が、また溢れてくる。
愛しくて、とにかくこの人が愛おしくて。湧き立つ感情の全てが、濁流のようにそこへ流れていく。
「ありがとう……このコを助けてくれて……本当にありがとう」
涙だか鼻水だかもう分からない唇を、優しい冷徹は無言で受け入れてくれた。
シェフがこしらえた即席フードを、ガツガツと喰らう猫。何度もお代わりしたというのに、皿まで噛る勢いだ。
「あらら、本当に奥様そっくりですね」
呟くクニコに、皆くすくすと笑っている。
いやいや、いくらなんでもこんなにがっついてないわよ。失礼しちゃう。
ペーターが言うには、このコは妊娠していてもうじき仔猫が生まれるとのこと。
助けてもらえて本当によかった!
ベトベトの身体を綺麗に洗って乾かすと、真っ白な長毛に碧眼の、超絶美猫が現れた。
うん、やっぱり私にそっくりだわ♡
一方ダーリンは……
早く褒美をくれ、骨の一本や二本折れていても問題ないと言い続けるのを焦らし続けた効果か、驚異的な早さで骨がくっ付いた。
もう普通に動かして構わないと医師の許可が出たその日、『サツキ』も可愛い三匹の仔猫を産み、屋敷中が温かいものに包まれた。
その夜、改めてダーリンの帰還祝いが行われた。
今日は特別に使用人達も食堂に集まり、皆でわいわいと主人の無事を喜び合う。
久しぶりに飲むワインは、氷魔法でキンキンに冷やしてもらったこともあり、あまりの美味しさにくうっと涙がこぼれる。
右手でダーリンの口にせっせと田楽を運びながら、左手で何本も空にした。
酒の〆は、あの恐ろしい料理。
「大丈夫なのか?」と心配するダーリンの前で、私はそれを美味しそうに啜ってみせる。
大丈夫、これはコーラクのラーメンじゃなくて、シェフがこしらえてくれた特製ラーメンだ。
具はシンプルに、ほうれん草にコーン、厚切りハムだけ。もちろんあの気持ち悪いヤツは載っていないし、一見コーラクと同じような鶏ガラベースのスープには、鰹出汁が絶妙にブレンドされている。
ダーリンの留守中にこれを克服したことは、私にとって大きな一歩だった。
ダーリンもバターを落としたものを気に入り、美味しそうに食べてくれる。だけど……
どこか物足りなそうなその表情に気付き、私は「待っててね」と厨房へ向かう。
愛情たっぷりのおみおつけを幸せそうに飲んでくれる彼を、私も幸せな気持ちで見つめていた。
♡- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -ഒ˖°
静まり返った屋敷の、静まり返った離れ。
みんな夕べは相当飲んでいたしねと、欠伸をする。
直ったばかりだというのに逞しすぎる腕は、私の腰にがっちりと絡み付いて、寝返りさえ打てない。
お水飲みたいんだけどなあ……よしっ。
長い睫毛をくすぐってみると、瞼が可愛く震え、透き通った瞳が覗く。
「おはよう♡」
「……おはよう♡」
朝日よりも眩しい笑顔にくらりとする。
「鬼はどう? 満足して全滅しちゃった?」
「いや……むしろ、まだ全然足りないって暴れているよ。ったく、強欲なヤツらだ」
くすくすと笑い合い、さっそく欲深い唇を交わす。
互いの鬼がもたらす甘い熱の中、私は彼の耳にそっと囁いた。
「……愛しているわ。イサムール♡」
勇気を出して呼んだその名は、前世とは全く違う、愛しい色で世界を染めていった。
๑~ おしまい ~๑
ありがとうございました。