56 悪女は納豆を断つ
◇◇◇
あの夜、王子一行と共に王宮へ向かった冷徹は、もう一週間も帰って来ない。
国王が夜分に騎士団長へ早馬を送るほどの有事。身構える私に知らされたのは、先の大戦で敗北し我が国の属国になったオスン国が、国境の街を急襲したという緊急事態だった。
あり得ない……どうして……と酷く混乱する。
だって、小説でそれが起きるのは、物語終盤のクライマックス。それまでは、冷徹と王子とのじれじれの三角関係や、どっぷり甘い溺愛シーンしか描かれないはずなのに。
新聞で得た情報によると、相互関税の引き上げに強い難色を示していた東のタイコーキ国が、同じく内政干渉に不満を抱いていたオスン国と軍事同盟を結んだらしい。
……小説では、タイコーキ国なんて全く絡んでいなかったのに。
クニコが言うには、王都で突如巻き起こった虎の毛皮ブームのせいで、密漁者がタイコーキ国の山岳林にしか生息しない貴重な虎を乱獲し始めたことが引き金になったらしい。
暖かいこの国で、どうして虎の毛皮なんか流行るんだ? 大阪のオバチャンじゃあるまいしと考えハッとする。
「まさか……」
私の視線に、クニコは深刻な顔で頷いた。
────大丈夫。
もしまた戦争になったとしても、冷徹は死なない。
だってヒーローだもん。無事に帰って来て、ヒロインと結婚式を挙げて幸せに暮らす。そういう設定だもん。
でも、私が描いたデザイン画一つで、タイコーキ国がオスン国と手を組んでしまった。そのせいで戦況が大きく変わるかもしれない。
最悪の事態が過り、ぶんぶん頭を振る。
────大丈夫よ。
だって冷徹はただの『冷徹騎士』じゃないんだもの。
彼には、物語の終盤まで明かされない、とっておきの秘密があるんだから。
オスン国に攻め込む前日、半日だけ屋敷に戻った冷徹は、永遠の別れを覚悟してメイリーンと結ばれる。心身共に愛で満たされ、心を大きく揺さぶられたことにより、彼の中に眠っていた魔力が開花した。
強烈なブリザードを起こして周囲を極寒地獄にしたり、狙った物を瞬時に凍らせる強力な氷魔法。『冷徹騎士』の名に相応しいそのチート級の魔法が、我がワタオニール国を勝利に導き、僅か一ヶ月で戦争を終わらせるのだ。
うん。小説通り無事に魔力が開花すれば、タイコーキ国とオスン国が束になっても敵わないだろう。
とすれば……
私がやるべきことは、ただ一つ。
その日から、私は大好きな納豆を断った。
歯をしつこいぐらい丁寧に磨き、風呂ではナガコに手伝ってもらい、隅々まで身体を磨いている。
王子からもらったダンベルで、毎日筋トレを欠かさず行っているし、戦闘服の準備もバッチリだ。
早く……早く貴方に魔力をあげたい。
まさかこのまま、会えなくなってしまうなんてことがありませんように。
願いが天に通じたのか、冷徹は屋敷に戻って来てくれた。二週間ぶりに見る美しい顔は窶れ、とてつもない疲労が滲んでいる。
その胸に飛び込むのと、彼が私を掻き抱くのとは、ほぼ同時だった。
小説の設定通り、一時帰宅したという冷徹。
軍事機密の為詳細は語られないが、また明日からしばらく会えなくなる、次はいつ帰って来られるか分からないとの言葉に、私も使用人達も全てを悟った。
久しぶりにこしらえたおみおつけを、噛みしめるように、幸せそうに飲んでくれる。その姿だけで、もう涙が溢れそうなのに……
「ナットウは食べないのか? 魚は?」
なんて優しく訊かれてしまえば、もう止められなかった。
優しい冷徹は、私の頬を指でゴシゴシと拭いながら、日本酒を注いでくれる。
だけど今夜は酔いたくない。
絶対に酔う訳にはいかない。
傾けたグラスの縁を少しだけ舐めると、彼の肩にこてんと頭を寄せる。
大丈夫よ。臭いものは何も食べていない。
クニナガコに何度も確かめてもらった、メイリーンの甘い吐息を唇から漏らす。
「今夜は……」
「今夜は一緒に寝よう。月を見ながら、お前の大好きな草の寝床で。……なあ、メイリーン?」
肩に添えられた大きな手に、ぐっと熱がこもった。