54 悪女は鬼を止められない
「何って……」
「密室で、男女が二人して汗を掻いて……想像出来ることなど一つしかないが」
唇を寄せられ、震える耳朶。火傷しそうなほど熱い囁きに、彼の言わんとすることを悟る。
「ちっ、違うわよ! 筋トレよっ! 筋トレ! 体力を付けたいから教えてって、私が王子にお願いしたの」
「体力? ……それ以上付けてどうする。二階から簡単に脱走したり、オニ祓いの儀で俺をあそこまで追い詰めたり」
「全っ然足りないわよ! あそこで転ばなきゃ、豆を当てられたんだから! 脱走だって、もっとスムーズにピョーンって」
冷徹の纏う空気が変わる。私の膝を持ち上げ、汚れた部屋履きを脱がせると、細い足首をガシッと掴んだ。
「どんなに体力を付けたところで無駄だ。二度と逃げられないように足枷を嵌めてやるからな。それとも地下牢の方がいいか?」
足枷に……ちっ、地下牢!?
この屋敷には、そんな物騒なものがあるの!?
マジな目に私は怯え、慌てて弁明する。
「たっ、体力を付けるのは、逃げる為じゃないわ! 離婚後の為よ!」
「……離婚後?」
「うん! 出来れば働きたくないけど、働かなきゃ酒も買えないでしょう? 何をするにも、筋力と体力は必要だと思って」
険しかった彼の眉が、しゅんと垂れる。
今までの威圧感はどこへやら、私を見下ろす目は、まるで迷子の小鬼のようだ。
「離婚後のこと……もう考えているんだな」
「貴方だって考えているでしょう? 手切れ金代わりに酒を持たせて追い出すって、王子に言ったそうじゃない」
「それはっ……それはアイツが!」
美しい唇をぐっと噛み締め、冷徹は何かを逃す。やがて顔をしかめながら、苦しげに口を開いた。
「王子がお前の人生を、物みたいに扱おうとしたから。……ついカッとなったんだ。前世でも今世でも散々苦労したお前には、何にも縛られず自由に暮らして欲しいんだよ」
冷徹はガバッと身体を起こし、ベッドの端に背を向け座る。
……広い背中が、震えて見えるのは気のせいかしら。
私も自由になった身体を起こし、表情の見えない彼へ問いかける。
「なら、何で私を監禁して自由を奪ったの? 生臭いキスが不本意だったのは分かるけど……顔も合わせたくないのは分かるけど。それにしたって酷いじゃない」
ピクッと跳ねる背中。
しばらく待ってみるが、何も返事がない。
痺れをきらした私は、冷徹の元までシャカシャカと這い、顔を覗き込んだ。
え……何これ…………
そこにいたのは、耳まで真っ赤っ赤な赤鬼だった。
紫色の瞳を潤ませ、じっと俯いている。
あまりの可愛さに、「ねえ」と優しく呼び掛けてみるも、逆にぷいと顔を逸らされてしまう。
隣に座り静かに待つと、弱々しい声がポツリと届いた。
「……オニが暴走するんだよ。お前といると」
ん?
「触れたくなって、抱き締めたくなって、唇を味わいたくなって……」
んん?
パッとこちらを向き、私の腰を引き寄せる赤鬼。
顎を上げられ、唇をぷにっとつままれる。
「今だってそうだ。こんなにナットウ臭いのに、味わってみたくて仕方ない。この臭いを乗り越えた向こうはどんなに甘いのか……探ってみたくて、危険を冒してみたくて仕方ない」
……いや、絶対に止めた方がいいと思うけど?
香水もハーブティーも効かないほど敏感なんだからさ。
「お前、言ったよな? たとえオニが暴走したとしても、熱くなるのは身体だけだって。愛がなければ、心は静かで冷たいままだって。だけど……」
だけど?
「心もこんなに熱いんだよ。熱くて、苦しくて、冷徹でいられなくなるんだよ。お前が俺以外の筋肉に触れようとしていただけでこんなに……」
赤、青、黒。
彼の中の全ての鬼が暴走している。
危険なのに。止めなきゃいけないのに。
腰に回された腕の熱が、私を脅かす彼の熱が、心地好くて仕方ない。
「なあ、これはお前を愛しているってことなんじゃないのか? ……教えてくれよ、メイリーン」