53 悪女は淫らな汗を掻く
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「……そんなに緊張しなくていいよ」
「でも……私初めてで。痛くならないかしら?」
「大丈夫。ゆっくり、優しく進めていくからね」
ソファーに横たわる私の手に、王子が厳ついそれを握らせる。
「重っ……!」
「一番軽いやつと言っても男性用だからね。痛めないように、僕が手を添えているから大丈夫だよ。はい、じゃあ息を吐きながらゆっくり上げるよ……うん、そうそう、すごく上手」
ずっと気になっていた、メイリーンの細っこい身体。どんなに食べても一時的に腹が出るだけで、ちっとも身にならない。
毎日重いお盆を運んでいた逞しい前世の感覚に、身体が付いてきてくれず疲れてしまうことが多い。
離婚後にどうやって生きていくかはまだ決めていないけど、何をするにも筋力と体力は必要だと思い立った。
さすが筋肉マニアの王子。トレーニングルームへ行かなくても、部屋には様々な種類のダンベルが置かれている為、こうして筋トレのサポートをお願いしてみたのだ。
寝たり立ったり膝を突いたり、体勢を変えながら何セットか行うと、汗がじわりと滲んでくる。
ダンベルを一緒に支えたり、お手本を見せる王子も暑くなってきたらしい。襟のボタンを外し、隙間からパタパタと風を入れている。
汗が光る胸板を覗き見ては、勝手に湧いてしまう唾。
目も逸らせず固まっていると、王子はニヤリと笑いながら、これ見よがしにもう一つボタンを外した。
「見たい? ……僕の胸板」
そりゃあもちろん!
こくこく頷くと、汗ばんだ手を取られ、シャツ越しの胸板にぐっと引き寄せられた。
「見るだけじゃなくて、よかったらジャッジしてくれない? この間はお預けになっちゃったからね」
ジャッジ……していいんですか?
そのしなやかな筋肉とやらを。
涎と共に心の声が漏れていたらしい。王子はこくんと頷き、「生で触っていいんだよ」と眩しい笑みを浮かべる。
片手で器用にはだけられるシャツ。
露になった胸板と腹筋は、朝日にも負けぬ輝きを放っている。
無駄な厚みのない、しなやかな曲線美さえ感じる造形。色白の肌も相まって、高貴な彫刻のようにも見える。
綺麗……これが準ヒーローのしなやか筋肉……
ヒーローとは違う、でもヒーローと並ぶ魅力だわ。
「……おいで。僕を確かめて」
広げられる両手。彼の金色の目には、栓を開けたばかりのシャンパンのような、激しい煌めきが浮かんでいる。
あまりの眩さに、思わず伸ばしてしまう手。貴い大胸筋に指先が触れる……その寸前で、廊下がガヤガヤと騒がしくなった。
何事? と、顔を向けるのと同時に開いたドアには、息を切らした冷徹が。
私達を見てカッと目を見開くと、護衛兵を振り払い、こちらへずんずん向かって来る。
凄まじい冷気を撒き散らしながら、大胸筋の前で停止している私の手首を掴んだ。
「……何をしている」
芯まで凍りつきそうな冷たい声。
なのに私を見下ろすその目には、いつかのように、青い炎が揺らめいている。
「筋肉をジャッジしてもらおうとしていたんだよ。ほら、この間出来なかったから」
私の代わりに答えてくれる王子を、冷徹は燃える目で睨みつける。
「人妻と密室で二人きり……素肌までさらけ出して。情事の真っ最中と思われても仕方のない状況ですが? 王子殿下ともあろうお方が、ここまで非常識とは」
あれ、そういえばどうして王子の部屋にいるんだっけ? と経緯を辿る内に、冷徹に対しての怒りがふつふつと沸き上がる。
本来の目的を思い出した私は、掴まれた手首を振り払い、キッパリと言った。
「殿下は悪くありませんよ。私を匿ってくださっただけなんですから」
「匿う?」
「ええ。何故私がこんな非常識な格好で屋敷をうろついているか。貴方が一番よくご存知でしょう?」
部屋着と部屋履きで仁王立ちする私に、冷徹は気まずそうな顔を向ける。
「……話をしたいんだってさ、団長と。ちゃんと聴いてあげな」
王子のナイスアシストに、暴れていたブリザードは完全に収まる。
「……来い」
冷徹は私を肩に担ぐと、王子の部屋を無言で後にした。
長い足でずんずん向かった先は、一昨日運ばれた冷徹の部屋。介抱してもらったあの広いベッドに、ぼすんと放り投げられる。
ひらりと上に股がられれば、あの夜の器用な唇を思い出し、胸が熱くなってしまう。
首筋をつっとなぞる指先。羽みたいに軽いのに、明確な意思を感じゾクゾクする。
「……こんなに汗を掻いて。本当はアイツと何をしていたんだ?」