50 悪女は脱走を試みる
重苦しい沈黙の後、冷徹はスッと冷たい笑みを浮かべる。
「さあ、どうでしょう。たとえ王子殿下とはいえど、そんな下品な質問にお答えする義務はないと思いますが」
「『普通』の政略結婚ならね。でも君達は『王命』による政略結婚で夫婦になったんだ。務めを果たさず、陛下を欺いているというのなら、臣下として追及する権利がある。いや、義務かな」
黙り込む冷徹に、王子は畳み掛ける。
「本当の夫婦なら、とっくに生の胸板なんて触ってるだろうしね。まあそれ以前に、夫人が君達の関係をペラペラ喋っていたし。ええと、何だっけ……『一緒に寝るのが嫌だから気絶しら』とか、『お前を愛するころはない』とか、『離婚後は大人しく牧場に行く』とか?」
「……酔っ払いの戯言です。まだ、夫婦になってから日も浅いので、色々行き違いがあるのでしょう」
「行き違い……ね。どうしても合わない相手とは、どうやったって上手くいかないだろうに。一生結婚なんかしたくない僕からすれば、王命に翻弄された団長が気の毒で堪らないよ。……で、いつ離婚する予定だ? 最短で三年後ってとこか?」
「…………」
「正直に言えよ。僕は協力したいだけなんだから」
「協力?」
「ああ。たとえば……そうだな、離婚後は僕が夫人を引き取るとか」
「……は?」
「離婚した娘など、実家に戻っても肩身の狭い思いをするだけだろう? それなら一旦侍女として僕の屋敷へ置いて、ほとぼりが冷めた頃、妻として迎え入れてもいい。そうすれば僕も結婚をせっつかれなくて済むし、彼女とならなかなか愉快に過ごせそうだしね。お互い……」
バキッ!!
冷徹の握るフォークが、マッシュポテトの山を貫通する。皿にはパキパキとひびが入り、料理を載せたまま真っ二つに割れてしまった。
悲惨な手元には目もくれず、王子を見据える冷徹。纏う冷気と、底の見えない昏い青に、王子はゾクリとする。
「……王族はいつもそうだ。勝手に決めて、勝手に押し付けて、勝手に奪う。戦争も、命も、何もかも……」
込み上げるものを、冷徹はぐっと呑み込む。
「アイツは物じゃない。アイツにだって、自分で幸せを選ぶ権利があるんだよ。草と自由が好きなら一番広い牧場へ、魚と臭い豆が好きなら東国へ。もし誰かを好きになったら……そうしたら……手切れ金代わりの酒を沢山持たせて、気持ち良く追い出したいと思っている。だから、だからそれまでは……」
言葉にならず、目を伏せたそこには、左右に分かれた白い皿。妙に悲しく、冷徹はすぐに給仕を呼んで片付けさせた。
アイツはちゃんと、朝食を食べているだろうか……
妻が作ったのとは違うおみおつけの香りが、冷徹の胸をキュッと締めつけていた。
꩜♰꩜♰꩜♰꩜♰꩜♰꩜♰
「お代わり!」
と言いながら、自分でわしわしとご飯をよそう。
山盛りの炊き立てご飯に、生卵と納豆。そこに三つ葉に似たハーブを混ぜて、醤油をとろりと足らせば、最高の朝食だ。
五杯搔き込み、シェフ特製の豚汁を三杯啜った後、まだ物足りないという風に腹を擦る。
するとナガコが期待通り、「ヌカヅケでもお持ちしましょうか?」と訊いてくれた。
「そうっ! それそれ! 胡瓜と人参がちょうど食べ頃だと思うけど……ナガコが選んで来てくれる? ご飯ももう少し食べたいわ」
糠床の世話は、何故かナガコが一番上手い。
手が臭くなるのも厭わずに、毎日美味しい糠漬けをこしらえては食卓に添えてくれていた。
そんな彼女を、今、私は利用しようとしている。
ナガコはどこかを一瞥すると、「かしこまりました」と頭を下げ、素直に部屋を出ていってくれた。
────よし!
足音が遠ざかるのを確認すると、クローゼットからショールを何枚も引っ張り出し、急いで結び合わせる。
トイレに入り、棚を踏み台にして小窓に上がると、ロープもどきのそれを近くの柱にくくりつけた。
一見大人が通り抜けるのは難しそうなこの小窓。
だけど小柄でスリムなメイリーンちゃんなら、余裕で突破しちゃうんだもんね~
即席ロープをぐっと引っ張り、切れないことを確認すると、窓から外にひょいと足らした。
ちょっと長さは足りないけど、二階だしジャンプすれば大丈夫でしょう。よし、後は外に出て、これを伝って降りるだ…………ん?
胸の辺りまで窓枠の外に出たものの、何故かそこから先に進めない。
うっ、嘘よ!
さっきこっそり試してみたら、最難関のお尻まで余裕で通り抜けられたのに!
亀みたいな体勢で、ジタバタと踠く。
一体どうして? と窓枠を覗き込み、私はすぐに理解した。
────腹だ。