46 悪女は鳴門にくだを巻く
食堂へ向かっているのか、次第に濃くなるにおい。
間違いなく『ヤツ』の臭い。
逃げたい。
逃げなければ。
そう思えば思うほど、身体が硬直する。
とうとうドアは開いてしまった。
慌てて顔を背け息を止めるが、ヤツが同じ空間に居ると考えるだけで、ぶわっと鳥肌が立つ。
数メートル……数十センチ……
ワゴンでガラガラと近付いて来ては、王子、冷徹、私の前……と順に降ろされていくヤツ。
『お待たせしましたあ!』
コトリと置かれたテーブルを直視出来ず、固く目を閉じる。
「……すか?」
「……たんだ?」
王子と冷徹が話し掛けてくるけど、息を止めるのに必死で何も聞こえない。
とうとう酸欠状態になり、ブハッと息を吸い込んだ瞬間────
強烈な悪臭と共に、ヤツの姿が視界に飛び込んできた。
白いカップを満たすのは、澄んだ琥珀色のスープ。
その中に、やや黄味がかった中太麺が、とぐろを巻いている。
ワカメ、ゆで卵、長ネギ、チャーシュー、メンマ、鳴門……そんな具沢山なところまで、毎日毎日運び続けたヤツにそっくりだ。
てかさ、メンマまでは百歩譲って、何で鳴門が異世界にあるのさ。味のない、ぐるぐるしてるだけのこんなもの、ラーメン以外何に使うんだっつーの。紅白で彩りを? んなん、かまぼこで充分なんだわ!
『ラーメン』
臭いの正体に気付いた時から、ずっと避けていたヤツの名称。呟いてしまった為に、急激に気分が悪くなる。それもこれも全部鳴門のせいだ。
ぐるぐるぐる
ああ気持ち悪い。無駄に渦巻きやがって。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる
気持ちわ……
「メイリーン!」
意識を手放す寸前、鳴門には全くそぐわない、今世のそんな名前が聞こえた気がした。
◇
『餃子ラーメンチャーハン上がったよ!』
『はい!』
早くお盆に載せてテーブルに運ばないと。
そう思うのに足が重い。
下を見れば、白とピンクの地面がぐるぐると渦巻いていて、踝まですっぽりと埋まっていた。
脛……膝……踠けば踠くほど、どんどん深く呑み込まれていく。
『サツキ! モタモタしてると、鳴門の餌になっちまうよ!』
嫌……それだけは嫌だ!!
蟻地獄ならぬ鳴門地獄と闘っていると、不意に逞しい腕が伸ばされた。
立派な上腕二頭筋に腕撓骨筋。これは……!
空のお盆を放り投げ、大好きな腕にしがみつく。すると鳴門の渦は平らなかまぼこに変わり、私の足をツルッと解放してくれた。
────ハッと目を開けたそこには、高い高い天井。
コーラクの蛍光灯とは違う、シャンデリアチックな照明がぶら下がっている。
「メイリーン」
呼ばれたその名にホッとする。
声の方を向けば、コーラクでは絶対にお目にかかれない美丈夫が私を見下ろしていた。悪魔でも冷徹でも鬼でもなく、ただただ心配そうに。
温かな手で、汗ばんだ冷たい額を撫でてくれる。
「気分は? 食事中、真っ青な顔で急に倒れたんだ。アレルギーでも急性アルコール中毒でもないし、おそらく精神的なものだろうと言われたが……寝ている間ずっと酷く魘されていて。……やはりもう一度医師を!」
離れてしまいそうになる手を咄嗟に掴む。
怖い、愛しい、切ない、甘酸っぱい。
色々な感情が、鳴門みたいにぐるぐると渦巻いている。
「……ンは?」
「ん?」
優しく寄せてくれる耳に、私は勇気を出して尋ねる。
「ラーメン、どこにも居ない?」
※全国の鳴門愛好家の方、大変申し訳ありません。
サツキは今、予期せぬ再会に酷く混乱しているだけです。
日々ラーメンを彩ってくれる愛らしい鳴門には、何の罪もございません(๑◡๑)