44 悪女はやり過ごす
少しの間の後、冷徹は戸惑い気味に言う。
「けど……オニが暴走しそうになったら、どうすればいいんだ?」
「その時は私が止めてあげるわよ、今みたいに。それに、万が一止められなくてもべつにいいじゃない。夫婦なんだし」
冷徹は目を瞠り、やがて真剣な表情で口を開いた。
「それはよくない。だって、俺達は……」
あ。
その先に続く言葉が分かってしまった。
聞きたくなくて、わざと遮る。
「な~んてね。噛んででも殴ってでも止めるから大丈夫よ」
そう冗談めかして言えば、「痛いのは嫌だ」とホッとしたように笑ってくれた。
だったらもっと安心させてあげなきゃと、サツキお姉さんは大切なことを優しく伝える。
「それにね、たとえ鬼が暴走したとしても、熱くなるのは身体だけ。愛がなければ、心は静かで冷たいままなのよ」
「そう……なのか?」
「ええ。だから安心して。自分を見失ったり、冷徹でいられなくなるのは、貴方が誰かを心から愛した時だけだから。……今はどう? 私と手を繋いでいて、辛い?」
「いや、少し熱いけど……鬼が暴走するほどじゃない」
「よかった。じゃあこれから少しずつ慣れていきましょう。……私達にふさわしい、自然な距離感にね」
────『俺達は本当の夫婦じゃないから』
彼はそう言いたかったのだろう。
妻を愛してはいないけど、妻の身体にはムラムラする。ムラムラはするけど、愛していないから一線を引きたい。
純潔で純情な彼は、きっとこの狭間で闘っているのだ。
見た目は超絶美少女のメイリーン。
その中にちょっと刺激的なサツキが入っちゃって。
そりゃ冷徹も困惑するわよね。
こんなに好きになると分かっていたなら……
野宿なんかしないで、小説通りに掃除するところから始めていたのにな、と考えて首を振る。
ううん。それでもやっぱり、私は野宿したと思うわ。
だって、確かにあの時、メイリーンも感動していた。サツキと一緒に綺麗な星空を見上げて、自由な酒盛りにはしゃいで、ハイジのベッドに感動していたんだ。
メイリーンとサツキ。今世と前世。どっちの苦労も、どっちの人生も合わさったのが自分だから。
嫌われてないだけいいじゃない。
仲良しの同居人、ひょっとすると親友になれるかもしれないわ。
「……どうした?」
見上げれば、冷徹が心配そうに私を覗き込んでいる。
「どうしたって?」
「いや……何だか、大人しいから」
「……ああ。筋肉、生筋肉をね、触れないんだと思ったらがっかりしちゃって」
「なんだ。そんなことか」
「そんなことって! 二回も約束を破られているんですけど」
「……悪い。もしまたジャッジしてもらう機会があったら……」
「そうね。あまり期待しないで待ってみるわ」
とりあえず繋いだままの手を離そうとするが、却ってギュッと握られてしまう。指の間まで隙間なく絡まる熱に、私の中の鬼が反応して、心の芯が燃えそうになる。
ほんとに悔しいわね。あっちは、『少し熱い』くらいなのに。
黙り込む私に、冷徹がふと笑いながら呟く。
「そういえば、ケンペリ王子のあのワイン問題。バカみたいに簡単だったな」
「簡単って……貴方、飲んでないじゃない」
「飲まなくても色とにおいで分かった。一瞬動揺したけど」
「すごい! ……ん? じゃあ何で私にやらせたの?」
「……嬉しかったから。俺の為だろう? 前にワインの味が分からないって言ったから」
「うん」
「覚えていてくれたんだって、助けてくれたんだって、嬉しかったよ」
「……うん」
高まる熱に、もう手を離す気力もなくなってしまう。
目を閉じてやり過ごす私の頭を、冷徹は自分の肩にそっと寄せてくれた。
◇◇◇
その後、私達はなんとなくいい関係を保てている。
普通に挨拶をし、日常会話を楽しみ、おみおつけをこしらえれば美味しそうに飲んでくれる。
時々顔を赤くしたり挙動不審にはなるけれど、前みたいに避けられることはなくなったし。傍目には仲良し夫婦に見えるんじゃないかな。
あ、あと、ワイン問題のお礼だと言って、禁酒制限令を緩めてくれた。(一週間にワイン一本から三本に! やったあ!)
建国記念祭から二週間が過ぎたそんな頃、屋敷に思わぬ来客があった。