39 悪女は喧嘩を見守る
王子はひきつった顔で頷くと、ささっと走り、棚から新しいボトルを持って来る。
慣れた手付きで栓を開け、素早く空のグラスを満たしてくれた。
多分これも一杯ウン十万なんだろうけど、今はもやもやして味なんか分からない。葡萄味の水をぐびぐびと流し込み、鬱憤混じりの息をプハッと吐いた。
「……ふん。私のころが嫌いなら嫌いでもいいんだけどさっ、べつに。せーりゃくけっこんなら、もうちょっろ上手くやれっれ。あんのへっらクソなエナリーワルツの後で妻をほっぽり出しらら、本当の夫婦じゃないのがバレバレじゃないの」
しんと静まり返るバー。
ムーディ……ううん。このシーンには、もっとドロドロした音楽が合いそうね。昼ドラみたいな。
なんて考えながら、空のグラスを「ん」と突き出す。なかなかお代わりをくれない王子に苛立ち、瓶を奪い取ると、自分でどぷどぷと注いだ。
「夕べだっれさ、いくら一緒に寝るのが嫌だからっれ、気絶までするころないんじゃない? わざわざ納豆まで準備しちゃっれさ。食べ物で遊んじゃいけませんて、教わらなかったの?」
「そっ、それは!」
「あ~、いいのいいの。これが本当の、“ お前を愛するころはない ” ってやつなんだろうし。離婚後は大人しく牧場にでも行くから、あんらも公爵令嬢ろ好きにしららいいわよ」
「牧場…………ふっ。いやいや! そんなことしなっ」
「だけどさ、約束は守っれよね!」
「約束?」
「筋肉! 胸板よ! 生で触らせれくれるっれ言っらのに! エナリーワルツ、頑張っれ完璧に踊っらのに! なんっっっもご褒美がないっ」
思い出したのか、青鬼は赤鬼へと変化する。もじもじしながら、蚊の鳴くような声で答えた。
「なっ、生はちょっと……せめて服の上からなら……」
「ふん、騎士団長のくせに、約束を破るのね」
「そういう訳じゃない! ……でっ、殿下の前でそんなはしたないこと出来ないだろう!」
「じゃあ二人きりの時ならいいの? 」
「いや、それはもっとマズい」
「何でよ! やっぱり触らせる気がないんじゃない! こうなったら……!」
「ひいっ!!」
ソファーから素早く立ち上がり、飛び掛かる私をすんでの所で躱した赤鬼。
チッ。さすが騎士団長、すばしっこいわね。
じりじり睨み合っていると、王子がパンと手を叩き、軽い調子で言った。
「私の胸板でよければ、触らせて差し上げましょうか? こう見えても鍛えておりますので、きっと騎士団長にも負けませんよ?」
そんなとんでもない提案をされれば、視線は自ずと王子の胸元へ吸い寄せられてしまう。
確かに……。シャツの上からでも分かる素晴らしい大胸筋に、ごくりと唾を飲む。さすがヒーロー級の当て馬。作者め、抜かりないキャラ設定だわ。
「……本当に触っれいいの?」
「いいですよ。減るもんじゃありませんし」
にこやかにそう言い、クラヴァットに指を掛ける王子。艶かしいその様子をドキドキしながら見つめていすると、どこからか「はんっ」と乾いた笑い声がした。
見れば青黒く変化した鬼が、挑発的な目で王子を見下ろしている。口角を冷たく上げながら、真っ黒な言葉を言い放った。
「騎士団長にも負けない? ご冗談でしょう。お国の為に鍛練を積んでいる私と、お遊びで鍛えている王子殿下。見せかけだけの、そんな安っぽい筋肉と比べられることすら心外だ」
「安っぽい? ……それは聞き捨てならないな」
同じく挑発的な目で立ち上がる王子。バチッとぶつかる激しい火花に、自分の鬱憤などどこかへ吹き飛んでしまった。
なにこれ……どういう状況?
「ああ、安っぽいが気に食わないなら、“ お飾り ” はどうですか? 所詮、筋肉とは名ばかりの紛い物なのですから」
「何だと!? 私のしなやかな筋肉を馬鹿にするな! お前の筋肉こそ、ガチガチで何の魅力もないだろう!」
「ガチガチ? はっ! 中身が詰まってるからこそ硬いんだ。空っぽのくせに筋肉を語るな!」
「かっ、からっ……? もう一度言ってみろ!」
「か・ら・っ・ぽ、お・か・ざ・り、ま・が・い・もの♪ か・ら・っ・ぽ、お・か……」
「うるさい!! ガ・チ・ガ・チ、コ・チ・コ……」
筋肉論を巡り、一歩も引かない二人。
中学生みたいな喧嘩を見守りつつ、私はクニコとひたすらグラスを呷り続ける。
二本目の瓶をすっかり空にしたところで、突然、青黒鬼がこちらを向いた。
「こうなったら、私の妻に決めてもらおう。どちらの筋肉が素晴らしいか」
…………へ?