38 悪女は腹立たしい
王子が注いでくれた、最初のワインの一口目。
あまりの美味しさに言葉を失い、思わずクニコと顔を見合わせた。
「いかがですか? こちらは私の生まれた年……葡萄の当たり年に作られたケンペリなのですよ。中でも特に高品質の葡萄だけを厳選し、王宮のワインセラーで二十年以上丁寧に熟成させたものです」
「美味しい……まるで身体中が葡萄になっらみらい……ねっ、クニコ」
「はい。香りが鮮烈で……大変感動致しました。私のような者が、こんなに貴重なワインを頂いてもよろしいのでしょうか?」
下座のソファーで遠慮がちに問うクニコに、王子はにこりと笑う。
「もちろん。身分も地位も、人間の勝手な産物だ。神の前では皆平等。美味しい物の前でもね」
そう言う彼の金色の瞳は、朗らかなのに影が射して見える。それはどこか、戦争の話をした時の冷徹に似ていると感じた。
生母の身分が低い為に、苦労してきた第二王子。優雅にグラスを傾けるその奥底には、泡になりきれない鬼が沈んでいるのかもしれない。
そんなことを考えながらぐびぐびと葡萄に溺れていた時、バーのドアが開き、極上の美丈夫が現れた。
長い足をカツカツと繰り出し、こちらへやって来ると、鋭い目で王子を無遠慮に見下ろす。王子はそれを咎めることもなく、軽い調子で言った。
「思ったより早かったね」
「……巻いたので。私の断りなしに、勝手に妻を連れ出されては困ります」
「その夫に放っておかれて、一人で寂しそうにしていたから声を掛けたんだけど。礼を言われるどころか責められるなんて……心外だな」
へ? 別に寂しくなんかなかったけどと言いかけるも、男達の凄まじいオーラに圧倒されてしまう。
見つめ合う二人。その横顔の尊さに、私はほうと酒臭いため息を吐いた。
冷徹派と王子派で、人気を二分していたこの小説。当て馬に力を入れすぎる、ヒーローは一人でいいと叩かれることもあったほど。
そうね。確かにどちらも、ヒーロー級の美貌とオーラだけど……私は断然冷徹派!
読者だった頃も、こうしてリアルになった今もね。
ニマニマする私の隣に、いつの間にか腰を下ろしていた冷徹。熱い腕で急に肩を抱き寄せられ、危うく一杯ウン十万円? のグラスを落としそうになった。
ちょっ……何!?
固まっていると、王子がふっと笑いながら、妙にねっとりした声を漏らした。
「……へえ。政略結婚なのに案外上手くいっているみたいだね。あのぎこちないエナリーワルツを見た時は心配したけど」
「陛下が結んでくださったご縁なのですから、上手くいかない訳がないでしょう。ダンスではつい、妻の美しさにのぼせ上がってしまいまして。……ほんの少し風に当たりたいだけだったのに、まさか妻を拐われるとは思ってもいませんでした」
王子が差し出すグラスを無視した冷徹は、私の手をわしっと掴み、自分の口元へと引き寄せる。飲みかけのグラスからワインをこくりと飲むと、「ああ、これは素晴らしい」と妖艶に笑った。
こっ……これは…………
青鬼。一番危険な青鬼だわ!
「俺も一緒に乾杯したかったのに……置いていくなんて酷いな、“ メイリーン ” 」
……ぐふうっ!
こんなに色っぽい声で、初めて名前を呼ぶなんて……反則だわ!
催眠術にかかったみたいに、くたりと身体の力が抜ける。握り締めていたはずのグラスは、青鬼によって簡単に抜き取られてしまった。
王子は引っ込めたグラスを宙でくるりと回し、呆れたように口を開く。
「酷いのは君だろう? 妻を一人きりにするなんて……隙を見せるから公爵なんかに絡まれるんだ。令嬢はまだ、騎士団長夫人の座を諦めていないようだしね」
その言葉に、青鬼はうっと気まずそうな顔をする。
令嬢? 公爵令嬢……あっ!
そう、確か冷徹は、王命がなければその令嬢と婚約する予定だったんだわ。小説でメイリーンがバルコニーで泣いていた理由は、令嬢と冷徹の仲が親密に見えたからで。
モブすぎて忘れていたけど……そうか、当て馬女はスキンヘッドの娘だったのかと思えば、何だか余計に腹立たしい。私は青鬼の手からワイングラスを取り返すと、ウン十万を一気に空にし、テーブルにダン! と置いた。
「……王子、ドンペリおかわりっ」