32 悪女はよく知っている
『何故分かるんだ?』
こちらを見る彼の顔にはそう書かかれている。
「あ……その……クニコから教わったの。お父様がオスン国との戦で亡くなって、それから貴方が色々苦労したって……それでかなと思って」
ちょっと苦しかっただろうか。でも、レッスンでざっくりと教わったのは本当だし。
彼は特に怪しむ様子もなく、二~三度、小さく頷く。やがて震えるグラスをことりと置いて、口を開いた。
「ああ、そうだ。俺が魘されるのは、戦場で父上が殺される夢だ。……信頼していた部下に裏切られてな」
設定通りの言葉に、私は安堵する。
ぐいぐいいきたい気持ちを抑え、彼の言葉に、静かに耳を傾けた。
「副団長だったその部下は、父上の腹心の友であり、俺に剣を教えた師であり……オスン国のスパイでもあった。まんまと騙され、情報を流され……命を奪われたんだよ」
テーブルの上に置かれた彼の拳には、破裂しそうなほど血管が盛り上がっている。危ういそれにそっと手を重ねれば、少しだけ緊張が緩み、先を続けてくれた。
「父上の仇は俺が討った。……仇から教わった剣で。だけど仇は、俺が斬る瞬間、避けもせずホッとした顔をしていたんだ。『よくやった』と、俺の頭に手を伸ばしながら……。
情に厚い父上も、情を捨てきれなかったアイツも、どちらも愚かだ。……俺は自分以外誰も信じない。裏切られるくらいなら、最初から誰も信じないと誓い、騎士団長の座に就いた。兵は仲間ではなく駒だと。そう割り切り、多くの犠牲と引き換えにオスン国を滅ぼしたんだ」
『文字』で見ていたのとは全然違う。吐かれる言葉の端々にまで漂う苦しみに、胸が張り裂けそうになる。
「……罰なんだろうな。夢では父上とアイツだけでなく、敵も味方も……俺が奪った命が幾つも助けを求めていて。俺の心にも、ずっと恐ろしいオニがいるんだ」
────人生は鬼ばかり。そう分かっていても。
好きな人を苦しめる鬼ならば、豆をぶつけて追い出したいと思ってしまう。だけど、決して鬼と闘ってはいけないことを、私はよく知っているから。
「そうね……鬼が少しご機嫌ナナメなのかもしれないわね。じゃあ、沢山食べて飲んで笑っちゃいましょう。……はいっ」
味噌だれをたっぷり絡めた茄子をフォークで刺し、彼の口元へと突き出す。しばらくぼんやりしていたけれど、彼はふっと笑い、震える口でぱくりと咥えてくれた。
「……美味しいな。本当に」
「気に入ったなら、またいつでもこしらえるわよ。そうだ、納豆も東国にあるかしら」
「ナットウ?」
「発酵した大豆なんだけどね。ネバネバして、一日中蒸れたブーツで歩いた足みたいな臭いがするの」
「うえっ、そんなもの、本当に食べられるのか?」
「もちろん。慣れると美味しいんだから。鬼もご機嫌になるかもしれないわよ」
「ご機嫌? むしろ臭くて、逃げてくれたらいいのに」
「それは無理よ。前にも言ったでしょう? 鬼は、誰の心にも住んでいるんだって」
彼はやるせない表情を浮かべると、酒を一気に呷り、ふうと息を吐く。
「……少し美味しく感じてきたかも」
「あら、鬼が気に入ったのかもね。はい、どうぞ」
空になったグラスを、新しいもので満たして……そうして何度も繰り返している内に、真っ赤っ赤な赤鬼は、ついに船を漕ぎ始めた。
あらら、仕方ないわね。
私は立ち上がり、彼の傍へ行くと、逞しい肩をぽんぽんと叩いた。
「ねえ、もう部屋に戻った方がいいんじゃない? 階段降りられる?」
すると突然、泥酔しているとは思えない力で、ぐいと腰を引き寄せられた。
「わっ!」
何事かと見下ろせば、紫色の妖しい双眸が、私をとろんと見上げている。薄く開いた綺麗な唇からは、酒臭い呼気と共に、衝撃的な言葉が飛び出した。
「……一緒に寝たらダメか?」